其後人有上書欲通褒斜道及漕事下御史大夫張湯
その後、人の有るものが上書して、褒斜道を通すこと及び漕事を欲し、御史大夫張湯に下(くだ)した。
湯問其事因言抵蜀從故道故道多阪回遠
漢御史大夫張湯はその事を問うた、因(よ)りて曰く、「蜀に抵(至る)するは故道(古い道)からで、故道(古い道)は阪(さか)が多く、回り遠いです。
今穿褒斜道少阪近四百里而褒水通沔斜水通渭皆可以行船漕
今、褒斜道を穿(うが)って、阪(さか)を少なくすれば、四百里(一里150m換算で約60km)近くなります。しこうして褒水は沔に通し、斜水は渭に通せば、皆(みな)船で行くを以って漕(船で物を運ぶ)することができるでしょう。
漕從南陽上沔入褒褒之絕水至斜百餘里以車轉從斜下下渭
漕(船で物を運ぶ)は南陽上の沔から褒に入り、褒の絶水(川を絶つ)は斜に至り、間(あいだ)の百余里(一里150m換算で約15km余り)は、車を以って転(ころがす)し、斜の下から渭に下(くだ)ります。
如此漢中之穀可致山東從沔無限便於砥柱之漕
この如(ごと)くすれば、漢中の穀物は致(まねく)すことができ、山東は沔からは限(きわみ さかい)が無く、砥柱の漕(運送)より便利です。
且褒斜材木竹箭之饒擬於巴蜀
且(か)つ、褒、斜の材木、竹箭の饒(豊かさ)は、巴、蜀に擬(ならぶ)します」と。
天子以為然拜湯子卬為漢中守發數萬人作褒斜道五百餘里
天子(漢孝武帝劉徹)は然りと思い、漢御史大夫張湯の子の張卬に拝(官をさずける)して漢中守と為さしめ、数万人を発して、褒斜道五百余里(一里150m換算で約75km余り)を作らせた。
道果便近而水湍石不可漕
道は果(は)たして便利で近かったが、しこうして水は石に湍(水がさかまき流れる)し、漕(船で物を運ぶ)することができなかった。
その後、人の有るものが上書して、褒斜道を通すこと及び漕事を欲し、御史大夫張湯に下(くだ)した。
湯問其事因言抵蜀從故道故道多阪回遠
漢御史大夫張湯はその事を問うた、因(よ)りて曰く、「蜀に抵(至る)するは故道(古い道)からで、故道(古い道)は阪(さか)が多く、回り遠いです。
今穿褒斜道少阪近四百里而褒水通沔斜水通渭皆可以行船漕
今、褒斜道を穿(うが)って、阪(さか)を少なくすれば、四百里(一里150m換算で約60km)近くなります。しこうして褒水は沔に通し、斜水は渭に通せば、皆(みな)船で行くを以って漕(船で物を運ぶ)することができるでしょう。
漕從南陽上沔入褒褒之絕水至斜百餘里以車轉從斜下下渭
漕(船で物を運ぶ)は南陽上の沔から褒に入り、褒の絶水(川を絶つ)は斜に至り、間(あいだ)の百余里(一里150m換算で約15km余り)は、車を以って転(ころがす)し、斜の下から渭に下(くだ)ります。
如此漢中之穀可致山東從沔無限便於砥柱之漕
この如(ごと)くすれば、漢中の穀物は致(まねく)すことができ、山東は沔からは限(きわみ さかい)が無く、砥柱の漕(運送)より便利です。
且褒斜材木竹箭之饒擬於巴蜀
且(か)つ、褒、斜の材木、竹箭の饒(豊かさ)は、巴、蜀に擬(ならぶ)します」と。
天子以為然拜湯子卬為漢中守發數萬人作褒斜道五百餘里
天子(漢孝武帝劉徹)は然りと思い、漢御史大夫張湯の子の張卬に拝(官をさずける)して漢中守と為さしめ、数万人を発して、褒斜道五百余里(一里150m換算で約75km余り)を作らせた。
道果便近而水湍石不可漕
道は果(は)たして便利で近かったが、しこうして水は石に湍(水がさかまき流れる)し、漕(船で物を運ぶ)することができなかった。