其冬公孫卿候神河南
其冬公孫卿候神河南言見僊人跡緱氏城上有物如雉往來城上 その冬、公孫卿は河南に神を候(うかがう)し、仙人の跡(あと)を緱氏城の上で見て、物の雉(きじ)の如(ごと)くが有って城の上を往来(おうらい)していたと言った。 天子親幸緱氏城視跡問卿得毋效文成五利乎 天子(漢孝武帝劉徹)はみずから緱氏城に跡(あと)を視(み)に行った。公孫卿に問うた、「文成将軍、五利将軍を效(まねる)することなく得たのか?」と。...
View Article其來年冬
其來年冬上議曰古者先振兵澤旅然後封禪 その来年の冬、上(漢孝武帝劉徹)は議(ぎ)して曰く、「古(いにしえ)は、先に兵を振(ととのえる)って旅(戦い)を止め(沢=釈)、然(しか)る後、封禅をしました」と。 乃遂北巡朔方勒兵十餘萬還祭黃帝冢橋山釋兵須如 そこで、遂(つい)に北に朔方を巡り、兵十余万を勒(とりしまる)し、還(か)えって黄帝冢を橋山で祭り、兵を須如で釈(解く)した。...
View Article上遂東巡海上
上遂東巡海上行禮祠八神 上(漢孝武帝劉徹)は遂(つい)に東に海上を巡り、行きながら八神(天主、地主、兵主、陰主、陽主、月主、日主、四時主)を礼祠した。 齊人之上疏言神怪奇方者以萬數然無驗者 斉人の神怪奇の方術を言って上奏する者は万を以って数えたが、然(しか)るに修験者は無かった。 乃益發船令言海中神山者數千人求蓬萊神人...
View Article江淮一茅三脊
江淮一茅三脊為神藉五色土益雜封 江(川名)、淮(川名)の間の一本に三つの筋(すじ)がある茅(かや)で神の敷物(しきもの)をつくった。五色の土が封(盛り土)に加えられ混(ま)ぜられた。 縱遠方奇獸蜚禽及白雉諸物頗以加禮...
View Article天子既已封泰山
天子既已封泰山無風雨災而方士更言蓬萊諸神若將可得 天子(漢孝武帝劉徹)がすでに泰山で封じたとき、風雨、災(わざわい)が無く、しこうして方士が更(こもごもに)に蓬萊の諸神はまさに得られんとするがごとく言った。 於是上欣然庶幾遇之乃復東至海上望冀遇蓬萊焉...
View Article是時既滅兩越
是時既滅兩越越人勇之乃言越人俗鬼而其祠皆見鬼數有效 この時、すでに二つの越を滅ぼし、越人の勇之がすなわち言った、「越人は鬼神に俗(ならう)し、しこうしてその祠(まつり)は皆(みな)鬼神に見(まみ)え、たびたび効(ききめ さずける)が有ります。 昔東甌王敬鬼壽百六十歲後世怠慢故衰秏...
View Article其明年上郊雍通回中道巡之
其明年上郊雍通回中道巡之春至鳴澤從西河歸 その明くる年、上(漢孝武帝劉徹)は雍に郊(天をまつる)し、回中道を通し、これを巡った。春、鳴沢に至り、西河から帰った。 其明年冬上巡南郡至江陵而東 その明くる年の冬、上(漢孝武帝劉徹)は南郡を巡り、江陵に至って東に進んだ。...
View Article十一月乙酉柏梁災
十一月乙酉柏梁災十二月甲午朔上親禪高里祠后土 十一月の乙酉の日、柏梁が火災になった。十二月の甲午の朔日(ついたち)に、上(漢孝武帝劉徹)はみずから高里に禅をし、后土を祠(まつる)した。 臨勃海將以望祀蓬萊之屬冀至殊廷焉 勃海に臨(のぞ)んで、まさに蓬萊の属を望祀するを以ってせんとし、殊廷に至ることを冀(こいねが)った。 上還以柏梁災故朝受計甘泉...
View Article夏漢改歷以正月為歲首
夏漢改歷以正月為歲首而色上黃官名更印章以五字為太初元年 夏、漢は歴(こよみ)を改め、正月を以って歳首(年の初め)と為した。しこうして、色は黄色を上(とうとぶ)し、官名は印章を更(あらためる)して五字を以ってし、太初元年と為した。 是歲西伐大宛蝗大起丁夫人雒陽虞初等以方祠詛匈奴大宛焉...
View Article公玊帶曰黃帝時
公玊帶曰黃帝時雖封泰山然風后封巨岐伯令黃帝封東泰山禪凡山合符然後不死焉 公玊帯曰く、「黄帝の時に泰山に封をしたと雖(いえど)も、然(しか)るに、風后、封巨、岐伯は黄帝に令して東泰山で封をさせ、凡山で禅をさせ、符を合わさせました。然(しか)る後に不死になったのです」と。 天子既令設祠具至東泰山[東]泰山卑小不稱其聲乃令祠官禮之而不封禪焉...
View Article史記 河渠書 始め
夏書曰禹抑洪水十三年過家不入門陸行載車水行載舟泥行蹈毳山行即橋 夏書曰く、禹は洪水(こうずい)を抑(おさ)えること十三年、家に立ち寄っても門に入らず、陸行きは車に載(の)り、水行(川行)きは舟に載(の)り、泥(ぬかるみ)行きは、毳(泥道を走るためのそり)を蹈(ふ)み、山行きは橋(登山用のはきもの)を即(くっつく)した。 以別九州隨山浚川任土作貢通九道陂九澤度九山...
View Article北載之高地
北載之高地過降水至于大陸播為九河同為逆河 北にこれを高地に載(はじめる)し、降水を過ぎて、大陸に至り、播(まきひろげる わかれる)して九河をつくり、同(あつめる)して逆河をつくり、 入于勃海九川既疏九澤既灑諸夏艾安功施于三代 勃海に入れた。九川はすでに疏(わかれる)し、九沢はすでに灑(水をまく)し、諸夏(中国)は艾安(がいあん...
View Article西門豹引漳水溉鄴以富魏之河內
西門豹引漳水溉鄴以富魏之河內 西門豹は漳水を引いて鄴を灌漑(かんがい)し、魏の河内を富ませるを以ってした。 而韓聞秦之好興事欲罷之毋令東伐乃使水工鄭國說秦 しこうして韓は、秦が興事(工事?)を好むと聞き、これを罷(つかれる)させて東伐をさせないことを欲し、そこで、水工の鄭国をつかわしひそかに秦に説(と)かせた。 令鑿水自中山西邸瓠口為渠并北山東注洛三百餘里欲以溉田...
View Article漢興三十九年
漢興三十九年孝文時河決酸棗東潰金隄於是東郡大興卒塞之 漢が興って三十九年、漢孝文帝劉恒の時、河が酸棗で決壊し、東に金隄を潰(つぶ)し、ここに於いて東郡は大いに卒(兵)を興(おこ)してこれを塞(ふさ)いだ。 其後四十有餘年今天子元光之中而河決於瓠子東南注鉅野通於淮泗 その後四十と余年、今の天子の元光年間の中、しこうして、河が瓠子で決壊し、東南に鉅野に注(そそ)ぎ、淮、泗に通じた。...
View Article是時鄭當時為大農
是時鄭當時為大農言曰異時關東漕粟從渭中上度六月而罷 この時、鄭当時が大農に為り、言った曰く、「異時(他日)関東は、粟(あわ)を渭の中流の上から漕(舟で物を運ぶ)ぎ、度(はかる)に六ヶ月して罷(終わる)し、 而漕水道九百餘里時有難處 そして水道を漕(こ)ぐは九百余里(一里150m換算で約135km余り)、ときどき難処(なんしょ)が有ります。 引渭穿渠起長安并南山下至河三百餘里徑易漕度可令三月罷...
View Article其後人有上書
其後人有上書欲通褒斜道及漕事下御史大夫張湯 その後、人の有るものが上書して、褒斜道を通すこと及び漕事を欲し、御史大夫張湯に下(くだ)した。 湯問其事因言抵蜀從故道故道多阪回遠 漢御史大夫張湯はその事を問うた、因(よ)りて曰く、「蜀に抵(至る)するは故道(古い道)からで、故道(古い道)は阪(さか)が多く、回り遠いです。 今穿褒斜道少阪近四百里而褒水通沔斜水通渭皆可以行船漕...
View Article其後莊熊羆言
其後莊熊羆言臨晉民願穿洛以溉重泉以東萬餘頃故鹵地誠得水可令畝十石 その後、荘熊羆が言った、「臨晋の民は、洛を穿(うが)つに重泉以東の一万余頃の故鹵地(もともとの塩を含んだ地)を灌漑(かんがい)を以ってすることを願っています。誠(まこと)に水を得れば、一畝(うね)に十石収穫させることができるでしょう」と。 於是為發卒萬餘人穿渠自徵引洛水至商顏山下...
View Article天子既臨河決悼功之不成乃作歌
天子既臨河決悼功之不成乃作歌曰 天子(漢孝武帝劉徹)はすでに河の決壊に臨(のぞ)むと、功(工事)の成就(じょうじゅ)せずを悼(いた)み、そこで歌を作って曰く、 瓠子決兮將柰何皓皓旰旰兮閭殫為河 「瓠子の決潰(けっかい)はまさに如何(いかん)とす。皓皓旰旰(こうこうかんかん)と光かがやくは、閭(村里)が殫(ことごとく)河と為ったのだ。 殫為河兮地不得寧功無已時兮吾山平...
View Article一曰河湯湯兮激潺湲北渡污兮浚流難
一曰河湯湯兮激潺湲北渡污兮浚流難 一(いち)に曰く、「河は湯湯(しょうしょう)と水がごうごうと流れ、激(はげ)しく潺湲(せんかん 水の流れるさま)する。北に污(土を掘る)して渡し、浚流(流れをくみとる)は難(むずかしい)し。 搴長茭兮沈美玉河伯許兮薪不屬 長茭(長い葭(あし...
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