十一月乙酉柏梁災十二月甲午朔上親禪高里祠后土
十一月の乙酉の日、柏梁が火災になった。十二月の甲午の朔日(ついたち)に、上(漢孝武帝劉徹)はみずから高里に禅をし、后土を祠(まつる)した。
臨勃海將以望祀蓬萊之屬冀至殊廷焉
勃海に臨(のぞ)んで、まさに蓬萊の属を望祀するを以ってせんとし、殊廷に至ることを冀(こいねが)った。
上還以柏梁災故朝受計甘泉
上(漢孝武帝劉徹)は還(かえ)り、柏梁の火災の故(ゆえ)を以って、甘泉で朝(ちょう)し計をさずかった。
公孫卿曰黃帝就青靈臺十二日燒黃帝乃治明廷明廷甘泉也
公孫卿曰く、「黄帝は青霊台に就(つ)いて、二日で(青霊台が)焼け、黄帝はそこで明廷を治(おさ)めました。明廷は甘泉です」と。
方士多言古帝王有都甘泉者其後天子又朝諸侯甘泉甘泉作諸侯邸
方士(ほうし)の多くが言った、古(いにしえ)の帝王には甘泉に都した者が有ります、と。その後、天子(漢孝武帝劉徹)はまた甘泉で諸侯に朝(ちょう)し、甘泉には諸侯の屋敷を作った。
勇之乃曰越俗有火災復起屋必以大用勝服之
勇之がそこで曰く、「越の俗(ぞく)は火災が有ると、ふたたび家を必ずより大きく建てて、これ(災)に勝ち服させるようにします」と。
於是作建章宮度為千門萬戶前殿度高未央
ここに於いて建章宮を作り、千門万戸の多くの家々をつくる広さであり、前殿の広さ高さは未央宮規模であった。
其東則鳳闕高二十餘丈其西則唐中數十里虎圈
その東はすなわち鳳闕(宮城)で、高さ二十余丈(じょう)である。その西はすなわち唐中で数十里の虎(とら)の檻(おり)の規模で、
其北治大池漸臺高二十餘丈命曰太液池中有蓬萊方丈瀛洲壺梁象海中神山龜魚之屬
その北は大池を治め、漸台の高さは二十余丈(じょう)、命名して曰く、太液池、と。中に蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁があり、海中の神山、亀(かめ)、魚の属を象(かたど)った。
其南有玉堂璧門大鳥之屬乃立神明臺井幹樓度五十丈輦道相屬焉
その南は玉堂、璧門、大鳥の属が有り、神明台、井幹楼を建て、広さは五十余丈(じょう)で、輦道(天子の車の通る道)が相(あい)属(つらなる)した。
十一月の乙酉の日、柏梁が火災になった。十二月の甲午の朔日(ついたち)に、上(漢孝武帝劉徹)はみずから高里に禅をし、后土を祠(まつる)した。
臨勃海將以望祀蓬萊之屬冀至殊廷焉
勃海に臨(のぞ)んで、まさに蓬萊の属を望祀するを以ってせんとし、殊廷に至ることを冀(こいねが)った。
上還以柏梁災故朝受計甘泉
上(漢孝武帝劉徹)は還(かえ)り、柏梁の火災の故(ゆえ)を以って、甘泉で朝(ちょう)し計をさずかった。
公孫卿曰黃帝就青靈臺十二日燒黃帝乃治明廷明廷甘泉也
公孫卿曰く、「黄帝は青霊台に就(つ)いて、二日で(青霊台が)焼け、黄帝はそこで明廷を治(おさ)めました。明廷は甘泉です」と。
方士多言古帝王有都甘泉者其後天子又朝諸侯甘泉甘泉作諸侯邸
方士(ほうし)の多くが言った、古(いにしえ)の帝王には甘泉に都した者が有ります、と。その後、天子(漢孝武帝劉徹)はまた甘泉で諸侯に朝(ちょう)し、甘泉には諸侯の屋敷を作った。
勇之乃曰越俗有火災復起屋必以大用勝服之
勇之がそこで曰く、「越の俗(ぞく)は火災が有ると、ふたたび家を必ずより大きく建てて、これ(災)に勝ち服させるようにします」と。
於是作建章宮度為千門萬戶前殿度高未央
ここに於いて建章宮を作り、千門万戸の多くの家々をつくる広さであり、前殿の広さ高さは未央宮規模であった。
其東則鳳闕高二十餘丈其西則唐中數十里虎圈
その東はすなわち鳳闕(宮城)で、高さ二十余丈(じょう)である。その西はすなわち唐中で数十里の虎(とら)の檻(おり)の規模で、
其北治大池漸臺高二十餘丈命曰太液池中有蓬萊方丈瀛洲壺梁象海中神山龜魚之屬
その北は大池を治め、漸台の高さは二十余丈(じょう)、命名して曰く、太液池、と。中に蓬萊、方丈、瀛洲、壺梁があり、海中の神山、亀(かめ)、魚の属を象(かたど)った。
其南有玉堂璧門大鳥之屬乃立神明臺井幹樓度五十丈輦道相屬焉
その南は玉堂、璧門、大鳥の属が有り、神明台、井幹楼を建て、広さは五十余丈(じょう)で、輦道(天子の車の通る道)が相(あい)属(つらなる)した。