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其明年上郊雍通回中道巡之

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其明年上郊雍通回中道巡之春至鳴澤從西河歸

その明くる年、上(漢孝武帝劉徹)は雍に郊(天をまつる)し、回中道を通し、これを巡った。春、鳴沢に至り、西河から帰った。

其明年冬上巡南郡至江陵而東

その明くる年の冬、上(漢孝武帝劉徹)は南郡を巡り、江陵に至って東に進んだ。

登禮灊之天柱山號曰南岳浮江自尋陽出樅陽過彭蠡禮其名山川

灊の天柱山に登礼し、号して曰く、南岳、と。江に浮(船を浮かべる)き、尋陽より樅陽に出て彭蠡に過(たちよる)ぎて、その名山川に礼した。

北至瑯邪并海上四月中至奉高修封焉

北に瑯邪に至り海上に并(ならぶ)した。四月中、奉高に至り封を修めたのである。

初天子封泰山泰山東北阯古時有明堂處處險不敞

初めて、天子が泰山に封じたとき、泰山の東北の阯(ふもと 或いは中洲)は古(いにしえ)時に明堂があった処(ところ)で、処(ところ)は険(けわ)しく敞(ひろびろとしたさま)していなかった。

上欲治明堂奉高旁,未曉其制度。

上(漢孝武帝劉徹)は明堂を奉高の傍(かたわ)らに治(おさ)めることを欲したが、未(ま)だその制度を曉(知る)さなかった。

濟南人公玊帶上黃帝時明堂圖

済南人の公玊帶が黄帝の時の明堂の図を上(たてまつる)した。

明堂圖中有一殿四面無壁以茅蓋通水圜宮垣為複道

明堂の図の中心に一つの殿が有り、四面には壁(かべ)が無く、茅(かや)を以って蓋(おお)い、水を通し、宮殿の垣(かき)を円(めぐらす)して、複道をつくり、

上有樓從西南入命曰昆侖天子從之入以拜祠上帝焉

上には楼が有り西南から入り、命名して曰く、昆侖、と。天子はこれより入り、上帝に拜祠するを以ってするのである。

於是上令奉高作明堂汶上如帶圖

ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は奉高に令して明堂を汶の上に作らせ公玊帶の図の如(ごと)くさせた。

及五年修封則祠太一五帝於明堂上坐令高皇帝祠坐對之

五年に及んで封を修(おさ)め、すなわち太一(おそらくシリウス 通説とは異なります)、五帝を明堂の上座(かみざ)に祠(まつる)し、高皇帝(劉邦)をこれに対面して座(ざ)して祠(まつる)させた。

祠后土於下房以二十太牢天子從昆侖道入始拜明堂如郊禮

后土(=後土 カノープス?)を下の房(部屋)に祠(まつる)し、二十種類の太牢(牛、羊、豚の三種がそろったごちそう)を以ってした。天子は昆侖道から入り、始めるに明堂に拝(おがみ)し、郊礼の如(ごと)くした。

禮畢燎堂下而上又上泰山自有祕祠其巔

礼が畢(終わる)すると、堂の下で燎(火をたいて天をまつる)した。しこうして上(漢孝武帝劉徹)はまた泰山に上(のぼ)り、自らその巔(いただき)で秘祠をした。

而泰山下祠五帝各如其方黃帝并赤帝而有司侍祠焉

しこうして、泰山の下は五帝を祠(まつる)し、各(おのおの)その方角の如(ごと)くした。黄帝は赤帝に并(並ぶ)し、しこうして有司(役人)が祠(まつり)に侍(はべ)ったのである。

山上舉火下悉應之

山上で火を挙(あ)げると、下はことごとくこれに応(こた)えた。

其後二歲十一月甲子朔旦冬至推歷者以本統

その後二年、十一月の甲子の日の朔旦(ついたち)の冬至は、歴(天の運行)を推(お)しはかったもので本統(もとのはじめ)を以ってした。

天子親至泰山以十一月甲子朔旦冬至日祠上帝明堂毋修封禪

天子はみずから泰山に至り、十一月朔旦冬至の日を以って明堂に上帝を祠(まつる)し、封禅を修めることはなかった。

其贊饗曰天授皇帝太元神策周而復始皇帝敬拜太一

その神を祭るを讃(たた)えて曰く、「天は皇帝に太元の神策を贈(おく)り(増(ぞう)=贈(ぞう)?)授(さず)け、周(あまねく)してまた始める。皇帝は太一を敬拝(うやまいおがむ)する」と。

東至海上考入海及方士求神者莫驗然益遣冀遇之

東に海上に至り、入海及び方士の神を求めた者を考え、験(ききめ)した者はなかったが、然(しか)るに益々(ますます)遣(つか)わし、これに遇うことを冀(こいねがう)した。

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