公玊帶曰黃帝時雖封泰山然風后封巨岐伯令黃帝封東泰山禪凡山合符然後不死焉
公玊帯曰く、「黄帝の時に泰山に封をしたと雖(いえど)も、然(しか)るに、風后、封巨、岐伯は黄帝に令して東泰山で封をさせ、凡山で禅をさせ、符を合わさせました。然(しか)る後に不死になったのです」と。
天子既令設祠具至東泰山[東]泰山卑小不稱其聲乃令祠官禮之而不封禪焉
天子(漢孝武帝劉徹)がまもなく祠具(まつりのごちそう)を設(もう)けさせ、東泰山に至ると、東泰山は卑小(低く小さい)で、その声(名声)に称(かなう)さず、そこで祠官に令してこれに礼させ、しこうして封禅はしなかったのである。
其後令帶奉祠候神物夏遂還泰山修五年之禮如前而加以禪祠石閭
その後、公玊帯に令して祠(まつり)を奉(たてまつ)らせ神物を候(うかがう)させた。夏、遂(つい)に泰山に還(かえ)り、五年の礼を前の如(ごと)く修め、しこうして加えるに禅を以って石閭を祠(まつる)した。
石閭者在泰山下阯南方方士多言此僊人之閭也故上親禪焉
石閭とは、泰山下の阯(ふもとまたは中洲)の南方に在り、方士の多くが、これが仙人の閭(村里の門)であると言い、故(ゆえ)に上(漢孝武帝劉徹)はみずから禅をしたのである。
其後五年復至泰山修封還過祭恒山
その後五年、ふたたび泰山に至り封を修めた。還(かえ)って恒山に立ち寄って祭った。
今天子所興祠太一后土三年親郊祠建漢家封禪五年一修封
今、天子が興(おこ)したところの祠(まつり)の太一、后土は三年にみずから郊祠(天の神をまつる)し、漢家の封禅を建てるは、五年に一度、封を修めた。
薄忌太一及三一冥羊馬行赤星五舒之祠官以歲時致禮
薄誘忌(人名)の太一、及び三一の神、冥羊、馬行、赤星は五(五人?)の舒の祠官が歳時を以って礼を致(いた)した。
凡六祠,皆太祝領之至如八神諸神明年凡山他名祠行過則祠行去則已
凡(およ)そ六つの祠(まつり)は皆(みな)太祝(祝官の長)がこれを領(おさめる)した。八神、諸神の如(ごと)くに至っては、明くる年、凡山、他の名祠(名ある祠(ほこら))で、行きながら立ち寄れば祠(まつる)し、行きながら去(離れている)れば、已(止める)した。
方士所興祠各自主其人終則已祠官不主他祠皆如其故
方士が興(おこ)したところの祠(まつり)は、各(おのおの)が自ら主(つかさどる)し、その人が終われば已(やめる)し、祠官は主(つかさどる)さない。他の祠(まつり)は皆(みな)その故(以前)の如(ごと)くした。
今上封禪其後十二歲而還遍於五岳四瀆矣
今、上(漢孝武帝劉徹)が封禅をして、その後十二年にして還(かえ)り、五つの岳(高い山)、四つの瀆(大川)を遍(あまね)くした。
而方士之候祠神人入海求蓬萊終無有驗
しこうして、方士の神人を候祠(うかがいまつる)し、入海して蓬萊を求めるは、終いまで驗(ききめ)を有することが無かった。
而公孫卿之候神者猶以大人之跡為解無有效
しこうして、公孫卿が神を候(うかがう)するのは、猶(なお)、大きな人間の足跡を以って解(解釈をする)を為し、効(ききめ)を有することは無かった。
天子益怠厭方士之怪迂語矣然羈縻不絕冀遇其真
天子(漢孝武帝劉徹)は益々(ますます)方士の怪迂語(でたらめで信用できない話)を怠厭(あなどりいとう)したが、然(しか)るに羈縻(たづな)は絶(た)たず、その真(まこと)に遇(あ)うことを冀(こいねが)った。
自此之後方士言神祠者彌眾然其效可睹矣
これよりの後、方士の神、祠(まつり)を言う者は、彌(いよいよ)眾(多い)したが、然(しか)るにその効(ききめ)は可睹(はかるべし)である。
太史公曰余從巡祭天地諸神名山川而封禪焉
太史公曰く、「余(わたし)は、天地、諸神、名山川を巡祭(めぐり祭る)し、そして封禅にも従(したが)った。
入壽宮侍祠神語究觀方士祠官之意於是退而論次自古以來用事於鬼神者具見其表裏
寿宮に入って祠神語(神君の言葉)に侍(はべ)り、方士、祠官の意(い)を究観(つきつめて観る)し、ここに於いて退(しりぞ)いて、古(いにしえ)より以来、鬼神に事を用いた者を論次(順序だてて論ずる)し、その表(おもて)と裏(うら)を具(つぶさ)に見た。
後有君子得以覽焉
後に君子が有れば、覧(みる)するを以ってすることができるだろう。
若至俎豆珪幣之詳獻酬之禮則有司存
俎豆(供物)珪幣(たからもの)の詳細、献酬(さかずきのやりとりをすること)の儀礼に至るがごとくは、すなわち有司(役人)が存(保存する 存続する)するのである」と。
今日で史記 封禅書は終わりです。明日からは史記 河渠書に入ります。
公玊帯曰く、「黄帝の時に泰山に封をしたと雖(いえど)も、然(しか)るに、風后、封巨、岐伯は黄帝に令して東泰山で封をさせ、凡山で禅をさせ、符を合わさせました。然(しか)る後に不死になったのです」と。
天子既令設祠具至東泰山[東]泰山卑小不稱其聲乃令祠官禮之而不封禪焉
天子(漢孝武帝劉徹)がまもなく祠具(まつりのごちそう)を設(もう)けさせ、東泰山に至ると、東泰山は卑小(低く小さい)で、その声(名声)に称(かなう)さず、そこで祠官に令してこれに礼させ、しこうして封禅はしなかったのである。
其後令帶奉祠候神物夏遂還泰山修五年之禮如前而加以禪祠石閭
その後、公玊帯に令して祠(まつり)を奉(たてまつ)らせ神物を候(うかがう)させた。夏、遂(つい)に泰山に還(かえ)り、五年の礼を前の如(ごと)く修め、しこうして加えるに禅を以って石閭を祠(まつる)した。
石閭者在泰山下阯南方方士多言此僊人之閭也故上親禪焉
石閭とは、泰山下の阯(ふもとまたは中洲)の南方に在り、方士の多くが、これが仙人の閭(村里の門)であると言い、故(ゆえ)に上(漢孝武帝劉徹)はみずから禅をしたのである。
其後五年復至泰山修封還過祭恒山
その後五年、ふたたび泰山に至り封を修めた。還(かえ)って恒山に立ち寄って祭った。
今天子所興祠太一后土三年親郊祠建漢家封禪五年一修封
今、天子が興(おこ)したところの祠(まつり)の太一、后土は三年にみずから郊祠(天の神をまつる)し、漢家の封禅を建てるは、五年に一度、封を修めた。
薄忌太一及三一冥羊馬行赤星五舒之祠官以歲時致禮
薄誘忌(人名)の太一、及び三一の神、冥羊、馬行、赤星は五(五人?)の舒の祠官が歳時を以って礼を致(いた)した。
凡六祠,皆太祝領之至如八神諸神明年凡山他名祠行過則祠行去則已
凡(およ)そ六つの祠(まつり)は皆(みな)太祝(祝官の長)がこれを領(おさめる)した。八神、諸神の如(ごと)くに至っては、明くる年、凡山、他の名祠(名ある祠(ほこら))で、行きながら立ち寄れば祠(まつる)し、行きながら去(離れている)れば、已(止める)した。
方士所興祠各自主其人終則已祠官不主他祠皆如其故
方士が興(おこ)したところの祠(まつり)は、各(おのおの)が自ら主(つかさどる)し、その人が終われば已(やめる)し、祠官は主(つかさどる)さない。他の祠(まつり)は皆(みな)その故(以前)の如(ごと)くした。
今上封禪其後十二歲而還遍於五岳四瀆矣
今、上(漢孝武帝劉徹)が封禅をして、その後十二年にして還(かえ)り、五つの岳(高い山)、四つの瀆(大川)を遍(あまね)くした。
而方士之候祠神人入海求蓬萊終無有驗
しこうして、方士の神人を候祠(うかがいまつる)し、入海して蓬萊を求めるは、終いまで驗(ききめ)を有することが無かった。
而公孫卿之候神者猶以大人之跡為解無有效
しこうして、公孫卿が神を候(うかがう)するのは、猶(なお)、大きな人間の足跡を以って解(解釈をする)を為し、効(ききめ)を有することは無かった。
天子益怠厭方士之怪迂語矣然羈縻不絕冀遇其真
天子(漢孝武帝劉徹)は益々(ますます)方士の怪迂語(でたらめで信用できない話)を怠厭(あなどりいとう)したが、然(しか)るに羈縻(たづな)は絶(た)たず、その真(まこと)に遇(あ)うことを冀(こいねが)った。
自此之後方士言神祠者彌眾然其效可睹矣
これよりの後、方士の神、祠(まつり)を言う者は、彌(いよいよ)眾(多い)したが、然(しか)るにその効(ききめ)は可睹(はかるべし)である。
太史公曰余從巡祭天地諸神名山川而封禪焉
太史公曰く、「余(わたし)は、天地、諸神、名山川を巡祭(めぐり祭る)し、そして封禅にも従(したが)った。
入壽宮侍祠神語究觀方士祠官之意於是退而論次自古以來用事於鬼神者具見其表裏
寿宮に入って祠神語(神君の言葉)に侍(はべ)り、方士、祠官の意(い)を究観(つきつめて観る)し、ここに於いて退(しりぞ)いて、古(いにしえ)より以来、鬼神に事を用いた者を論次(順序だてて論ずる)し、その表(おもて)と裏(うら)を具(つぶさ)に見た。
後有君子得以覽焉
後に君子が有れば、覧(みる)するを以ってすることができるだろう。
若至俎豆珪幣之詳獻酬之禮則有司存
俎豆(供物)珪幣(たからもの)の詳細、献酬(さかずきのやりとりをすること)の儀礼に至るがごとくは、すなわち有司(役人)が存(保存する 存続する)するのである」と。
今日で史記 封禅書は終わりです。明日からは史記 河渠書に入ります。