二年東擊項籍
二年東擊項籍而還入關問故秦時上帝祠何帝也 二年、東に項籍(項羽)を撃(う)って、還(かえ)して関に入った。問うた、「故(むかし)秦の時、上帝は何帝を祠(まつる)したのか?」と。 對曰四帝有白青黃赤帝之祠 応(こた)えて曰く、「四人の帝で、白、青、黄、赤の帝の祠(ほこら)が有ります」と。 高祖曰吾聞天有五帝而有四何也...
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後四歲天下已定詔御史 後四年、天下がすでに定まり、御史に詔(みことのり)をし、 令豐謹治枌榆社常以四時春以羊彘祠之 豐に令して枌榆社を謹(つつし)んで治(おさ)めさせ、常(つね)に四時の春を以って、羊、彘(ぶた)を以ってこれを祠(まつる)させた。 令祝官立蚩尤之祠於長安長安置祠祝官女巫 祝官に令して蚩尤の祠(ほこら)を長安に立てさせ、長安には祠祝官、女巫を置かせた。 其梁巫祠天地天社天水房中堂上之屬...
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其後十八年孝文帝即位 その後十八年、漢孝文帝劉恒が即位(そくい)した。 即位十三年下詔曰今祕祝移過于下朕甚不取自今除之 即位して十三年、詔(みことのり)を下(くだ)して曰く、「今、秘祝の官が下に禍(わざわい 過=禍?)を移(まわし文)し、朕(ちん)は甚(はなは)だ取(よいとする)さない。今よりこれを除(のぞ)けよ」と。 始名山大川在諸侯諸侯祝各自奉祠天子官不領...
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魯人公孫臣上書曰始秦得水今漢受之推終始傳則漢當土土之應黃龍見 魯人の公孫臣が上書して曰く、「始め秦は水徳を得て、今、漢はこれを受けて、終始伝を推(おしはかる)すれば、漢はまさに土徳に当たり、土徳の応(きざし)は黄龍が現われます。 宜改正朔易服色色上黃是時丞相張蒼好律歷以為漢乃水之始故河決金隄其符也...
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其明年趙人新垣平以望氣見上言長安東北有神氣成五采若人冠絻焉 その明くる年、趙人の新垣平が望気(雲の様子をみて吉凶を判断する)を以って上(天子)に見(まみ)え、言った、「長安の東北に神気が有り、五彩(五色のいろどり)を成(な)し、人の冠絻(かんむり)のごとし。 或曰東北神明之舍西方神明之墓也天瑞下宜立祠上帝以合符應...
View Article其明年新垣平使人持玉杯上書闕下獻之
其明年新垣平使人持玉杯上書闕下獻之 その明くる年、新垣平は人をして玉杯(ぎょくはい)を持たせ、闕下(宮城の門の下)に上書してこれを献(けん)じさせた。 平言上曰闕下有寶玉氣來者已視之果有獻玉杯者刻曰人主延壽...
View Article明年匈奴數入邊
明年匈奴數入邊興兵守御後歲少不登 明くる年、匈奴がたびたび辺境に入り、兵を興(おこ)して守御(しゅぎょ)した。後、歳(みのり)は少なく不登(熟さない)になった。 數年而孝景即位十六年祠官各以歲時祠如故無有所興至今天子 数年して漢孝景帝劉啓が即位した。十六年、祠官が各(おのおの)歳時(さいじ)を以って故(むかし)の如(ごと)く祠(まつる)し、興(おこ)したところは無く、今の天子に至った。...
View Article後六年竇太后崩其明年徵文學之士公孫弘等
後六年竇太后崩其明年徵文學之士公孫弘等 後六年、竇太后が崩御した。その明くる年、文学の士の公孫弘らを召し寄せた。 明年今上初至雍郊見五畤後常三歲一郊 明くる年、今上(漢孝武帝劉徹)は初めて雍に至り、五畤に郊見した。後、常(つね)に三年に一度郊(五帝をまつる)した。 是時上求神君捨之上林中蹄氏觀 この時、上は神君を求め、これを上林の中の蹄氏觀(磃氏館)に置いた。 神君者長陵女子以子死見神於先後宛若...
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是時李少君亦以祠灶穀道卻老方見上上尊之 この時、李少君もまた祠灶(かまどの神をまつる)、穀道、卻老方(不老の術)を以って上(漢孝武帝劉徹)に見(まみ)え、上はこれを尊(とうと)んだ。 少君者故深澤侯舍人主方 李少君という者は、故(以前)は深沢侯の舎人で、方(方術)を主(つかさどる)していた。 匿其年及其生長常自謂七十能使物卻老...
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少君言上曰祠灶則致物致物而丹沙可化為黃金黃金成以為飲食器則益壽 李少君は上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「祠灶(かまどをまつる)すれば物(祓(ふつ)? 御祓い)を致(いた)し、物(祓(ふつ)? 御祓い)を致(いた)し、そこで、丹沙は変化して黄金と為ることができ、黄金が成(な)されて飲食器をつくるを以ってすれば、益々(ますます)寿(長命)します。 益壽而海中蓬萊僊者乃可見見之以封禪則不死黃帝是也...
View Article亳人謬忌奏祠太一方曰天神貴者太一太一佐曰五帝
亳人謬忌奏祠太一方曰天神貴者太一太一佐曰五帝 亳人の謬忌は太一(おそらくオリオン座の側のシリウス 天官書より 通説とは異なります)を祠(まつる)方術を奏(かな)で、曰く、「天神の貴い者は太一(おそらくシリウス)で、太一の補佐は曰く、五帝、と。 古者天子以春秋祭太一東南郊用太牢七日為壇開八通之鬼道...
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於是濟北王以為天子且封禪乃上書獻太山及其旁邑天子以他縣償之 ここに於いて済北王は天子(漢孝武帝劉徹)がまさに封禅をせんとすると思い、そこで、上書して太山及びその傍(かたわ)らの邑(むら)を献じ、天子(漢孝武帝劉徹)は他県を以ってこれに償(つぐな)った。 常山王有罪遷天子封其弟於真定以續先王祀而以常山為郡然後五岳皆在天子之(邦)[郡]...
View Article其後則又作柏梁銅柱承露僊人掌之屬矣
其後則又作柏梁銅柱承露僊人掌之屬矣 その後、すなわちまた、柏梁、銅柱、承露僊人掌の属(ぞく)を作った。文成死明年天子病鼎湖甚巫醫無所不致不愈 文成将軍少翁が死んだ明くる年、天子(漢孝武帝劉徹)が鼎湖で病(やまい)にかかり甚(はなは)だしく、巫醫(みこと医者)の致(まねく)さないところは無かったが、癒(い)えなかった。 游水發根言上郡有巫病而鬼神下之...
View Article其後三年有司言元宜以天瑞命不宜以一二數
其後三年有司言元宜以天瑞命不宜以一二數 その後三年、有司(役人)が元号は宜(よろ)しく天の瑞命(天から下されためでたい命令)を以ってするべきで、宜(よろ)しく一、二を以って数えるべきではないと言った。 一元曰建二元以長星曰光三元以郊得一角獸曰狩云...
View Article其春樂成侯上書言欒大
其春樂成侯上書言欒大 その春、楽成侯が上書して欒大を言った。 欒大膠東宮人故嘗與文成將軍同師已而為膠東王尚方 欒大は膠東の宮人で、故嘗(以前)文成将軍少翁と師を同じくして、已而(しばらくして)膠東王の尚方(官名)と為った。 而樂成侯姊為康王后無子康王死他姬子立為王 しこうして、楽成侯の姉が膠東康王劉寄(漢孝武帝劉徹の弟)の后(きさき)と為ったが子が無かった。...
View Article是時上方憂河決
是時上方憂河決而黃金不就乃拜大為五利將軍居月餘得四印佩天士將軍地士將軍大通將軍印 この時、上(漢孝武帝劉徹)はまさに河の決潰(けっかい)に憂(うれ)え、しこうして黄金は成就せず、そこで、欒大に拝(官をさずける)して五利将軍と為さしめた。居ること一ヶ月余りして、四つの印を得て、天士将軍、地士将軍、大通将軍の印を佩(おびた。 制詔御史昔禹疏九江決四瀆者河溢皋陸隄繇不息...
View Article其夏六月中汾陰巫錦
其夏六月中汾陰巫錦為民祠魏脽后土營旁見地如鉤狀掊視得鼎 その夏六月中、汾陰の巫錦が民のために魏脽の后土を祠(まつる)し、傍(かたわ)らに営(いとな)み、鉤(かぎ)状の如(ごと)くの地を見て、掊(たたく)して視(みる)て鼎(かなえ)を得た。 鼎大異於眾鼎文鏤無款識怪之言吏 鼎(かなえ)は多くの鼎(かなえ)より大いに異(こと)なり、文様が鏤(きざむ)され款識(かんし...
View Article黃帝作寶鼎三象天地人
黃帝作寶鼎三象天地人 黄帝は宝鼎を三つ作り、天、地、人を象(かたど)りました。 禹收九牧之金鑄九鼎 禹は九牧(九州の地方長官)の金属を収(おさ)め、九つの鼎(かなえ)を鋳造(ちゅうぞう)しました。 皆嘗亨鬺上帝鬼神 皆(みな)嘗(つねに)鬺(いけにえを煮る)を上帝、鬼神に亨(すすめる)しました。 遭聖則興鼎遷于夏商...
View Article入海求蓬萊者
入海求蓬萊者言蓬萊不遠而不能至者殆不見其氣 入海して蓬萊を求めた者は、蓬萊は遠くないと言う、しかし至ることができなかったのは殆(おこたる)してその気(雲気)を見ない。 上乃遣望氣佐候其氣云。 上(漢孝武帝劉徹)は望気(雲気をまつる)の佐を遣(つか)わし、その気を候(うかがう)させたと云(い)う。 其秋上幸雍且郊或曰五帝太一之佐也宜立太一而上親郊之...
View Article上遂郊雍至隴西西登崆峒幸甘泉
上遂郊雍至隴西西登崆峒幸甘泉 上(漢孝武帝劉徹)は遂(つい)に雍で郊(天をまつる)し、隴西に至り、西に崆峒に登(のぼ)り、甘泉に行った。 令祠官舒等具太一祠壇祠壇放薄忌太一壇壇三垓 祠官の舒らに令して太一の祠壇を具(そな)えさせ、祠壇は薄忌の太一壇に倣(なら)い、壇は三垓(三段)にした。 五帝壇環居其下各如其方黃帝西南除八通鬼道...
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