其明年新垣平使人持玉杯上書闕下獻之
その明くる年、新垣平は人をして玉杯(ぎょくはい)を持たせ、闕下(宮城の門の下)に上書してこれを献(けん)じさせた。
平言上曰闕下有寶玉氣來者已視之果有獻玉杯者刻曰人主延壽
新垣平は上(漢孝文帝劉恒)に言った、曰く、「闕下(宮城の門の下)に宝玉(ほうぎょく)の気の来たものがあります」と。すでにこれを視(み)ると、果(は)たして玉杯(ぎょくはい)を献(けん)ずる者が有った。(文字が)刻(きざ)んであり、曰く、「人主延寿(延命)」と。
平又言臣候日再中居頃之日卻復中
新垣平はまた言った、「わたしは日(太陽)が再中(二つの昼間(中(ちゅう)=昼(ちゅう)?))することを候(うかがう)しました。(おそらく日食のこと)」と。居ることしばらくして、日(太陽)が却(しりぞく)してふたたび昼間(中(ちゅう)=昼(ちゅう)?)になった。
於是始更以十七年為元年令天下大酺
ここに於いて十七年を以って改め元年と為して始め、天下に大酺(大酒宴)を令(れい)した。
平言曰周鼎亡在泗水中今河溢通泗臣望東北汾陰直有金寶氣意周鼎其出乎
新垣平は言った、曰く、「周の鼎(かなえ)は亡くなって泗水の中に在(あ)ります。今、河は溢(あふ)れて泗水に通じ、わたしが東北の汾陰を望みましたら、まさに金宝の気が有り、意(い)は周の鼎(かなえ)のその出ることでしょうか。
兆見不迎則不至於是上使使治廟汾陰南臨河欲祠出周鼎
兆(きざ)しが現われて迎(むか)えなければ、至りません」と。ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)は使者をつかわして 汾陰南で廟を治(おさ)めさせ、河に臨ませて、祠(まつる)して周の鼎(かなえ)を出そうと欲した。
人有上書告新垣平所言氣神事皆詐也下平吏治誅夷新垣平
人の上書するものが有り、新垣平の言ったところの気、神の事は皆(みな)詐(いつわり)であると告げた。新垣平を役人の治(取調べ)に下(くだ)して、新垣平を誅(ちゅう)し夷(ほろぼす)した。
自是之後文帝怠於改正朔服色神明之事而渭陽長門五帝使祠官領以時致禮不往焉
これよりの後、漢孝文帝劉恒は改正朔(こよみを改めること)服色、神明の事に於いて怠(おこた)り、しこうして、渭陽、長門の五帝は祠官をして領(おさめる)するに時を以って礼を致させて、往(ゆ)かなかったのである。
その明くる年、新垣平は人をして玉杯(ぎょくはい)を持たせ、闕下(宮城の門の下)に上書してこれを献(けん)じさせた。
平言上曰闕下有寶玉氣來者已視之果有獻玉杯者刻曰人主延壽
新垣平は上(漢孝文帝劉恒)に言った、曰く、「闕下(宮城の門の下)に宝玉(ほうぎょく)の気の来たものがあります」と。すでにこれを視(み)ると、果(は)たして玉杯(ぎょくはい)を献(けん)ずる者が有った。(文字が)刻(きざ)んであり、曰く、「人主延寿(延命)」と。
平又言臣候日再中居頃之日卻復中
新垣平はまた言った、「わたしは日(太陽)が再中(二つの昼間(中(ちゅう)=昼(ちゅう)?))することを候(うかがう)しました。(おそらく日食のこと)」と。居ることしばらくして、日(太陽)が却(しりぞく)してふたたび昼間(中(ちゅう)=昼(ちゅう)?)になった。
於是始更以十七年為元年令天下大酺
ここに於いて十七年を以って改め元年と為して始め、天下に大酺(大酒宴)を令(れい)した。
平言曰周鼎亡在泗水中今河溢通泗臣望東北汾陰直有金寶氣意周鼎其出乎
新垣平は言った、曰く、「周の鼎(かなえ)は亡くなって泗水の中に在(あ)ります。今、河は溢(あふ)れて泗水に通じ、わたしが東北の汾陰を望みましたら、まさに金宝の気が有り、意(い)は周の鼎(かなえ)のその出ることでしょうか。
兆見不迎則不至於是上使使治廟汾陰南臨河欲祠出周鼎
兆(きざ)しが現われて迎(むか)えなければ、至りません」と。ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)は使者をつかわして 汾陰南で廟を治(おさ)めさせ、河に臨ませて、祠(まつる)して周の鼎(かなえ)を出そうと欲した。
人有上書告新垣平所言氣神事皆詐也下平吏治誅夷新垣平
人の上書するものが有り、新垣平の言ったところの気、神の事は皆(みな)詐(いつわり)であると告げた。新垣平を役人の治(取調べ)に下(くだ)して、新垣平を誅(ちゅう)し夷(ほろぼす)した。
自是之後文帝怠於改正朔服色神明之事而渭陽長門五帝使祠官領以時致禮不往焉
これよりの後、漢孝文帝劉恒は改正朔(こよみを改めること)服色、神明の事に於いて怠(おこた)り、しこうして、渭陽、長門の五帝は祠官をして領(おさめる)するに時を以って礼を致させて、往(ゆ)かなかったのである。