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入海求蓬萊者

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入海求蓬萊者言蓬萊不遠而不能至者殆不見其氣

入海して蓬萊を求めた者は、蓬萊は遠くないと言う、しかし至ることができなかったのは殆(おこたる)してその気(雲気)を見ない。

上乃遣望氣佐候其氣云。

上(漢孝武帝劉徹)は望気(雲気をまつる)の佐を遣(つか)わし、その気を候(うかがう)させたと云(い)う。

其秋上幸雍且郊或曰五帝太一之佐也宜立太一而上親郊之

その秋、上(漢孝武帝劉徹)は雍に行き、まさに郊(天をまつる)さんとした。或(あ)るものが曰く、「五帝は太一の補佐であり、宜(よろ)しく太一を立てて上がみずからこれを郊(天をまつる)するべきです」と。

上疑未定齊人公孫卿曰今年得寶鼎其冬辛巳朔旦冬至與黃帝時等

上(漢孝武帝劉徹)は疑(まよって決めることができない)い、未(ま)だ定まらなかった。斉人の公孫卿が曰く、「今年は宝鼎を得て、この冬は辛巳の朔旦(ついたち)の冬至で、黄帝の時と等(同じ)しいです」と。

卿有札書曰黃帝得寶鼎宛朐問於鬼臾區

公孫卿には札書が有り、曰く、「黄帝は宝鼎を宛朐で得て、鬼臾区に問いました。

鬼臾區對曰[黃]帝得寶鼎神策是歲己酉朔旦冬至得天之紀終而復始

鬼臾区は応(こた)えて曰く、帝は宝鼎、神策を得て、この歳の己酉の朔旦冬至に天の紀が終いにしてまた始まることを得ました、と。

於是黃帝迎日推策後率二十歲復朔旦冬至凡二十推三百八十年黃帝僊登于天

ここに於いて黄帝は日を迎(おしはかる)えて推策(すいさく)すると、後(のち)率(おおよそ)二十年でまた朔旦冬至になりました。凡(およ)そ二十回推(移り変わる)して、三百八十年、黄帝は僊(軽く舞うさま)して天に登(のぼ)りました」と。

卿因所忠欲奏之所忠視其書不經疑其妄書謝曰寶鼎事已決矣尚何以為卿因嬖人奏之

公孫卿は(武帝の)忠するところの者に因(よ)りてこれを奏上することを欲した。(武帝の)忠するところの者はこの書は経(書物)ではないことを視(み)てその妄書ではないかと疑い、謝して曰く、「宝鼎の事はすでに決まっているのであり、尚(なお)何ものを以って為そうか」と。公孫卿は嬖人(へいじん)に因(よ)りてこれを奏上した。

上大說乃召問卿對曰受此書申公申公已死

上(漢孝武帝劉徹)は大いに悦び、そこで公孫卿を召し寄せて問うた。応(こた)えて曰く、「この書(札書)を授けたのは申公で、申公はすでに死にました」と。

上曰申公何人也卿曰申公齊人

上(漢孝武帝劉徹)が曰く、「申公は何人か?」と。公孫卿が曰く、「申公は斉人です。

與安期生通受黃帝言無書獨有此鼎書

安期生と通(かよ)わせ、黄帝の言を授かりましたが、書物は無く、ただひとつこの鼎(札?)の書が有るだけです。

曰漢興復當黃帝之時曰漢之聖者在高祖之孫且曾孫也

曰く、漢が興(おこ)ってまた黄帝の時に当たる、と。曰く、漢の聖者は高祖の孫、且(か)つ曾孫(ひまご)に在(あ)るのであり、

寶鼎出而與神通封禪封禪七十二王唯黃帝得上泰山封

宝鼎が出たら神と通じ、封禅をする。封禅をした七十二の王で、唯(ただ)黄帝のみが泰山に上(のぼ)って封することができたのだ、と。

申公曰漢主亦當上封上封能僊登天矣黃帝時萬諸侯而神靈之封居七千

申公は曰く、『漢の主(あるじ)もまた上(のぼ)って封ずるに当たり、上(のぼ)って封ずれは天(てん)に僊(軽く舞うさま)して登(のぼ)るだろう。黄帝の時の万(よろず)の諸侯にして神霊の封君は七千居(い)た。

天下名山八而三在蠻夷五在中國

天下の名山は八つで、しこうして、三つが蛮夷に在(あ)り、五つが中国に在(あ)る。

中國華山首山太室泰山東萊此五山黃帝之所常游與神會

中国は華山、首山、太室、泰山、東萊でこれらの五山は黄帝が常に巡るところで神と会した。

黃帝且戰且學僊患百姓非其道者乃斷斬非鬼神者

黄帝はまさに戦い、まさに仙を学んだ。百姓のその道に非(あら)ざる者を患(うれ)え、すなわち鬼神を非(そしる)する者を断斬した。

百餘歲然後得與神通黃帝郊雍上帝宿三月

百余年して然(しか)る後、神と通ずることができた。黄帝は雍に上帝を郊(天をまつる)し、三ヶ月宿(やど)した。

鬼臾區號大鴻死葬雍故鴻冢是也

鬼臾区は大鴻と号して、死んで雍に葬(ほうむ)り、故(ゆえ)に鴻冢がこれである。

其後黃帝接萬靈明廷明廷者甘泉也所謂寒門者谷口也

その後、黄帝は万(よろず)の霊に明廷で接した。明廷とは甘泉である。所謂(いわゆる)寒門とは谷口である。

黃帝采首山銅鑄鼎於荊山下鼎既成有龍垂胡髯下迎黃帝

黄帝は首山の銅を採(と)り、鼎(かなえ)を荊山の下(もと)で鋳造した。鼎(かなえ)がすでに成ると、顎鬚(あごひげ)を垂(た)らした龍が有り、下(お)りて黄帝を迎(むか)えた。

黃帝上騎群臣後宮從上者七十餘人龍乃上去

黄帝は上(うえ)にまたがり、群臣、後宮の従(したが)って龍に上(あ)がったものが七十余人、龍はそこで上(のぼ)り去った。

餘小臣不得上乃悉持龍髯龍髯拔墮墮黃帝之弓

残った小臣は上(あ)がることを得ず、そこでことごとく龍の髯(ひげ)を持ち、龍の髯(ひげ)が抜(ぬ)けて堕(お)ち、黄帝の弓を堕(お)とした。

百姓仰望黃帝既上天乃抱其弓與胡髯號故後世因名其處曰鼎湖其弓曰烏號

百姓は黄帝がすでに天に上ったのを仰(あお)ぎ望み、そこで、その弓と顎鬚(あごひげ)を抱(かか)えて号泣した。故(ゆえ)に後世、因(ちな)んでその処(ところ)を命名し、曰く、鼎湖、と、その弓は曰く、烏號、と』」と。

於是天子曰嗟乎吾誠得如黃帝吾視去妻子如脫屣耳乃拜卿為郎東使候神於太室

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「ああ、吾(われ)が誠(まこと)に黄帝の如(ごと)くができれば、吾(われ)は妻子と去ることなど屣(ぞうり)を脱(ぬ)ぐが如(ごと)く視(あしらう)るのみ」と。そこで、公孫卿に拝(官をさずける)して郎と為さしめ、東に使(つか)いして太室山に於いて神を候(うかがう)させた。

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