十一月辛巳朔旦冬至昧爽天字始郊拜太一
十一月の辛巳の日の朔旦冬至、昧爽(明け方)、天子は始めるに太一(おそらくシリウス)を拝(おが)み効(天をまつる)した。(天文に詳しくないのでよくわかりませんが、経度的(日本とは異なるので)早朝にシリウスが東の空に見えるのは日本では九月頃なので西安では10月頃だと思われます。日本の十一月の早朝には南方に見られるので、西安では12月頃の早朝に南方に見えるかと思われます?ですので、冬至の早朝に拝む方角は南方?)
朝朝日夕夕月則揖而見太一如雍郊禮
朝は朝日、夕方は夕月にすなわち揖(両手を胸の前で組み合わせておじぎすること)し、しこうして、太一に見(まみ)えるに雍の郊礼の如(ごと)くした。
其贊饗曰天始以寶鼎神策授皇帝朔而又朔終而復始皇帝敬拜見焉
その神を祭るを讃(たた)えて曰く、「天は始めるに宝鼎、神策を以って皇帝に授(さず)け、朔(一日)にしてまた朔(一日)、終わりてまた始まり、皇帝は敬(うやま)い拝(はい)して見(まみ)える」と。
而衣上黃其祠列火滿壇壇旁亨炊具有司云祠上有光焉
しこうして衣(ころも)は黄色を上(とうとぶ)した。その祠(まつる)は火を列(ならべる)して壇に満(み)たし、壇の傍(かたわ)らには、炊(た)いた具(ごちそう)を亨(献上する)した。有司(役人)が云(い)った、「祠(ほこら)の上に光が有ります」と。
公卿言皇帝始郊見太一云陽有司奉瑄玉嘉牲薦饗
公卿が言った、「皇帝は始めるに太一を雲陽で郊見(天の神に見えてまつる)し、有司(役人)が瑄玉(天を祭るとき用いる大きさ六寸の璧)、嘉牲(立派ないけにえ)を奉(たてまつ)り饗(おそなえ)に薦(すす)めました。
是夜有美光及晝黃氣上屬天
その夜、美しい光が有って、昼間のごとくになり(及=如?)、黄色の気が上(のぼ)って天に属(つらなる)しました」と。
太史公祠官舒等曰神靈之休祐福兆祥宜因此地光域立太畤壇以明應
太史公、祠官の舒らは曰く、「神霊は祐福(さいわい 福)、兆祥(めでたいしるし)を効(さずける 休=効?)し、宜(よろ)しくこの地の光域に因(よ)りて太畤壇を立て、明応を以ってするべきであります」と。
令太祝領秋及臘祠三歲天子一郊見
太祝に令して、秋及び臘(陰暦十二月)の間の祠(まつり)を領(つかさどる)させ、三年に天子が一度郊見した。
其秋為伐南越告禱太一
その秋、南越を討(う)つことを思い、太一に告禱(祈り告げる)した。
以牡荊畫幡日月北斗登龍以象太一三星為太一鋒命曰靈旗
牡荊(ニンジンボク)を以って幡(はた)に、日(太陽)、月、北斗七星、登り龍を画(か)き、太一(おそらくシリウス 通説とは異なります)の三星(おそらくオリオン座の三星 天官書によれば三公、または子供たち。 孝武本紀では天一(天官書によればおそらく北極星 通説とは異なります)となっていますが、おそらく太一の方だと思います)を象(かたど)るを以って太一の鋒(先鋒(せんぽう))と為し、命名して曰く、霊旗、と。
為兵禱則太史奉以指所伐國而五利將軍使不敢入海之泰山祠
兵(戦い)の禱(いのり)を為して、すなわち太史が(幡を)奉(たてまつ)り、討(う)つところの国を指(さ)すを以ってした。しこうして五利将軍欒大には敢(あ)えて入海させず、泰山の祠(ほこら)に行かせた。
上使人隨驗實毋所見五利妄言見其師其方盡多不讎上乃誅五利
上(漢孝武帝劉徹)は人をして験(調べる)に隨(ついていく)させると、実は見(まみ)えたところはなかった。五利将軍欒大はその師に見(まみ)えたと妄言(もうげん)し、その方術は尽きて、多くが讎(応答する)さなかった。上(漢孝武帝劉徹)はそこで五利将軍欒大を誅(ちゅう)した。
十一月の辛巳の日の朔旦冬至、昧爽(明け方)、天子は始めるに太一(おそらくシリウス)を拝(おが)み効(天をまつる)した。(天文に詳しくないのでよくわかりませんが、経度的(日本とは異なるので)早朝にシリウスが東の空に見えるのは日本では九月頃なので西安では10月頃だと思われます。日本の十一月の早朝には南方に見られるので、西安では12月頃の早朝に南方に見えるかと思われます?ですので、冬至の早朝に拝む方角は南方?)
朝朝日夕夕月則揖而見太一如雍郊禮
朝は朝日、夕方は夕月にすなわち揖(両手を胸の前で組み合わせておじぎすること)し、しこうして、太一に見(まみ)えるに雍の郊礼の如(ごと)くした。
其贊饗曰天始以寶鼎神策授皇帝朔而又朔終而復始皇帝敬拜見焉
その神を祭るを讃(たた)えて曰く、「天は始めるに宝鼎、神策を以って皇帝に授(さず)け、朔(一日)にしてまた朔(一日)、終わりてまた始まり、皇帝は敬(うやま)い拝(はい)して見(まみ)える」と。
而衣上黃其祠列火滿壇壇旁亨炊具有司云祠上有光焉
しこうして衣(ころも)は黄色を上(とうとぶ)した。その祠(まつる)は火を列(ならべる)して壇に満(み)たし、壇の傍(かたわ)らには、炊(た)いた具(ごちそう)を亨(献上する)した。有司(役人)が云(い)った、「祠(ほこら)の上に光が有ります」と。
公卿言皇帝始郊見太一云陽有司奉瑄玉嘉牲薦饗
公卿が言った、「皇帝は始めるに太一を雲陽で郊見(天の神に見えてまつる)し、有司(役人)が瑄玉(天を祭るとき用いる大きさ六寸の璧)、嘉牲(立派ないけにえ)を奉(たてまつ)り饗(おそなえ)に薦(すす)めました。
是夜有美光及晝黃氣上屬天
その夜、美しい光が有って、昼間のごとくになり(及=如?)、黄色の気が上(のぼ)って天に属(つらなる)しました」と。
太史公祠官舒等曰神靈之休祐福兆祥宜因此地光域立太畤壇以明應
太史公、祠官の舒らは曰く、「神霊は祐福(さいわい 福)、兆祥(めでたいしるし)を効(さずける 休=効?)し、宜(よろ)しくこの地の光域に因(よ)りて太畤壇を立て、明応を以ってするべきであります」と。
令太祝領秋及臘祠三歲天子一郊見
太祝に令して、秋及び臘(陰暦十二月)の間の祠(まつり)を領(つかさどる)させ、三年に天子が一度郊見した。
其秋為伐南越告禱太一
その秋、南越を討(う)つことを思い、太一に告禱(祈り告げる)した。
以牡荊畫幡日月北斗登龍以象太一三星為太一鋒命曰靈旗
牡荊(ニンジンボク)を以って幡(はた)に、日(太陽)、月、北斗七星、登り龍を画(か)き、太一(おそらくシリウス 通説とは異なります)の三星(おそらくオリオン座の三星 天官書によれば三公、または子供たち。 孝武本紀では天一(天官書によればおそらく北極星 通説とは異なります)となっていますが、おそらく太一の方だと思います)を象(かたど)るを以って太一の鋒(先鋒(せんぽう))と為し、命名して曰く、霊旗、と。
為兵禱則太史奉以指所伐國而五利將軍使不敢入海之泰山祠
兵(戦い)の禱(いのり)を為して、すなわち太史が(幡を)奉(たてまつ)り、討(う)つところの国を指(さ)すを以ってした。しこうして五利将軍欒大には敢(あ)えて入海させず、泰山の祠(ほこら)に行かせた。
上使人隨驗實毋所見五利妄言見其師其方盡多不讎上乃誅五利
上(漢孝武帝劉徹)は人をして験(調べる)に隨(ついていく)させると、実は見(まみ)えたところはなかった。五利将軍欒大はその師に見(まみ)えたと妄言(もうげん)し、その方術は尽きて、多くが讎(応答する)さなかった。上(漢孝武帝劉徹)はそこで五利将軍欒大を誅(ちゅう)した。