天子既已封泰山無風雨災而方士更言蓬萊諸神若將可得
天子(漢孝武帝劉徹)がすでに泰山で封じたとき、風雨、災(わざわい)が無く、しこうして方士が更(こもごもに)に蓬萊の諸神はまさに得られんとするがごとく言った。
於是上欣然庶幾遇之乃復東至海上望冀遇蓬萊焉
ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は欣然(きんぜん)とよろこび、これに遇(あ)うことを庶幾(こいねがう)した。そこでまた東に海上に至って望(まつる)み、蓬萊に遇(あ)うことを冀(こいねがう)したのである。
奉車子侯暴病一日死上乃遂去并海上北至碣石巡自遼西歷北邊至九原
奉車子侯がにわかに病(やまい)にかかり、一日で死んだ。上(漢孝武帝劉徹)はそこで遂(つい)に去(さ)り、海上に沿(そ)って北へ進み碣石に至った。遼西より巡(めぐ)り北辺を経(へ)て九原に至った。
五月反至甘泉有司言寶鼎出為元鼎以今年為元封元年
五月、甘泉に返(かえ)り至った。役人が言った、「宝鼎が出た年は元鼎と為したので、今年を以って元封元年と為しましょう」と。
其秋有星茀于東井後十餘日有星茀于三能
その秋、彗星(すいせい)が東井(プロキオン ふたご座のあたり)にあらわれた。十余日の後、彗星(すいせい)が三能(北斗七星のあたり)にあらわれた。
望氣王朔言候獨見填星出如瓜食頃復入焉
望気(雲気を望(まつる)み吉凶をうらなう)の王朔が言った、「候(うかがう)するにただ填星(土星)が瓜(うり)の如(ごと)くを出しているだけと見(予想する)ます、食頃(わずかの時間)でまた入れるでしょう」と。
有司皆曰陛下建漢家封禪天其報星雲
有司(役人)は皆(みな)曰く、「陛下が漢家の封禅を建てたので、天がその徳星に雲(くも 彗星の尾)を報(恩返し)いたのです」と。
其來年冬郊雍五帝還拜祝祠太一
その来年の冬、雍の五帝を郊(天をまつる)した。還(かえ)って、太一(泰一)を拝(おが)み祝祠した。
贊饗曰星昭衍厥維休祥
饗(神を祭ること)を讃(たた)えて曰く、「徳星が昭衍(あきらかにひろがる)し、厥維(それ)、祥(さいわい)を効(さずける 休=効?)したのです。
壽星仍出淵耀光明信星昭見皇帝敬拜太祝之享
寿星(釈天によれば角亢也とあります。スピカ?)は仍(そのうえ)出(い)で、淵(深く)と光明を耀(かがや)かせる。信星 (アンタレス? 信=心?)が昭(あきら)かに現(あら)われ、皇帝は太祝(祝官の長)の享(祭る)を敬(うやま)い拝(はい)する」と。
其春公孫卿言見神人東萊山若云欲見天子
その春、公孫卿は言った、神人に東萊山で見(まみ)え、ごとく云(い)いました、天子に見えることを欲する、と、と。
天子於是幸緱氏城拜卿為中大夫
天子(漢孝武帝劉徹)はここに於いて緱氏城に幸(行く)し、公孫卿に拝(官をさずける)して中大夫と為さしめた。
遂至東萊宿留之數日無所見見大人跡云
遂(つい)に東萊に至り、これに宿し留(とど)まること数日、見(まみ)えるところは無く、大きな人間の足跡を見たと云(い)う。
復遣方士求神怪采芝藥以千數是歲旱
ふたたび方士を遣(つか)わし、神怪を求めさせ、芝の薬を採らせるは千を以って数えた。この年、旱(日照り)になった。
於是天子既出無名乃禱萬里沙過祠泰山
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はすでに出(い)でて名(功績)が無く、そこで、万里沙で禱(まつる)し、泰山にたちよって祠(まつる)した。
還至瓠子自臨塞決河留二日沈祠而去
還(かえ)り瓠子に至り、自ら決潰した河を塞(ふさ)ぐに臨(のぞ)み、留まること二日、(河に)沈祠して去った。
使二卿將卒塞決河徙二渠復禹之故跡焉
二人の卿、将軍をしてとうとう決潰した河を塞(ふさ)ぎ、二つの渠(みぞ)に徙(うつす)し、夏禹王の故跡(古い跡)を復旧したのである。
天子(漢孝武帝劉徹)がすでに泰山で封じたとき、風雨、災(わざわい)が無く、しこうして方士が更(こもごもに)に蓬萊の諸神はまさに得られんとするがごとく言った。
於是上欣然庶幾遇之乃復東至海上望冀遇蓬萊焉
ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は欣然(きんぜん)とよろこび、これに遇(あ)うことを庶幾(こいねがう)した。そこでまた東に海上に至って望(まつる)み、蓬萊に遇(あ)うことを冀(こいねがう)したのである。
奉車子侯暴病一日死上乃遂去并海上北至碣石巡自遼西歷北邊至九原
奉車子侯がにわかに病(やまい)にかかり、一日で死んだ。上(漢孝武帝劉徹)はそこで遂(つい)に去(さ)り、海上に沿(そ)って北へ進み碣石に至った。遼西より巡(めぐ)り北辺を経(へ)て九原に至った。
五月反至甘泉有司言寶鼎出為元鼎以今年為元封元年
五月、甘泉に返(かえ)り至った。役人が言った、「宝鼎が出た年は元鼎と為したので、今年を以って元封元年と為しましょう」と。
其秋有星茀于東井後十餘日有星茀于三能
その秋、彗星(すいせい)が東井(プロキオン ふたご座のあたり)にあらわれた。十余日の後、彗星(すいせい)が三能(北斗七星のあたり)にあらわれた。
望氣王朔言候獨見填星出如瓜食頃復入焉
望気(雲気を望(まつる)み吉凶をうらなう)の王朔が言った、「候(うかがう)するにただ填星(土星)が瓜(うり)の如(ごと)くを出しているだけと見(予想する)ます、食頃(わずかの時間)でまた入れるでしょう」と。
有司皆曰陛下建漢家封禪天其報星雲
有司(役人)は皆(みな)曰く、「陛下が漢家の封禅を建てたので、天がその徳星に雲(くも 彗星の尾)を報(恩返し)いたのです」と。
其來年冬郊雍五帝還拜祝祠太一
その来年の冬、雍の五帝を郊(天をまつる)した。還(かえ)って、太一(泰一)を拝(おが)み祝祠した。
贊饗曰星昭衍厥維休祥
饗(神を祭ること)を讃(たた)えて曰く、「徳星が昭衍(あきらかにひろがる)し、厥維(それ)、祥(さいわい)を効(さずける 休=効?)したのです。
壽星仍出淵耀光明信星昭見皇帝敬拜太祝之享
寿星(釈天によれば角亢也とあります。スピカ?)は仍(そのうえ)出(い)で、淵(深く)と光明を耀(かがや)かせる。信星 (アンタレス? 信=心?)が昭(あきら)かに現(あら)われ、皇帝は太祝(祝官の長)の享(祭る)を敬(うやま)い拝(はい)する」と。
其春公孫卿言見神人東萊山若云欲見天子
その春、公孫卿は言った、神人に東萊山で見(まみ)え、ごとく云(い)いました、天子に見えることを欲する、と、と。
天子於是幸緱氏城拜卿為中大夫
天子(漢孝武帝劉徹)はここに於いて緱氏城に幸(行く)し、公孫卿に拝(官をさずける)して中大夫と為さしめた。
遂至東萊宿留之數日無所見見大人跡云
遂(つい)に東萊に至り、これに宿し留(とど)まること数日、見(まみ)えるところは無く、大きな人間の足跡を見たと云(い)う。
復遣方士求神怪采芝藥以千數是歲旱
ふたたび方士を遣(つか)わし、神怪を求めさせ、芝の薬を採らせるは千を以って数えた。この年、旱(日照り)になった。
於是天子既出無名乃禱萬里沙過祠泰山
ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はすでに出(い)でて名(功績)が無く、そこで、万里沙で禱(まつる)し、泰山にたちよって祠(まつる)した。
還至瓠子自臨塞決河留二日沈祠而去
還(かえ)り瓠子に至り、自ら決潰した河を塞(ふさ)ぐに臨(のぞ)み、留まること二日、(河に)沈祠して去った。
使二卿將卒塞決河徙二渠復禹之故跡焉
二人の卿、将軍をしてとうとう決潰した河を塞(ふさ)ぎ、二つの渠(みぞ)に徙(うつす)し、夏禹王の故跡(古い跡)を復旧したのである。