漢興三十九年孝文時河決酸棗東潰金隄於是東郡大興卒塞之
漢が興って三十九年、漢孝文帝劉恒の時、河が酸棗で決壊し、東に金隄を潰(つぶ)し、ここに於いて東郡は大いに卒(兵)を興(おこ)してこれを塞(ふさ)いだ。
其後四十有餘年今天子元光之中而河決於瓠子東南注鉅野通於淮泗
その後四十と余年、今の天子の元光年間の中、しこうして、河が瓠子で決壊し、東南に鉅野に注(そそ)ぎ、淮、泗に通じた。
於是天子使汲黯鄭當時興人徒塞之輒復壞是時武安侯田蚡為丞相
ここに於いて天子は汲黯、鄭当時をつかわし、人徒を興(おこ)してこれを塞(ふさ)がせたが、輒(そのたびごとに)また壊れた。この時、武安侯田蚡が漢丞相と為り、
其奉邑食鄃鄃居河北河決而南則鄃無水菑邑收多
その邑食の鄃を奉(たてまつ)った。鄃は河の北に居(お)り、河が決壊したのは南ですなわち鄃は水菑(水害)が無く、邑の収穫は多かった。
蚡言於上曰江河之決皆天事未易以人力為彊塞塞之未必應天
漢丞相武安侯田蚡が上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「江河の決壊は皆(みな)天の事です。未(ま)だ人力(じんりき)を以って強い塞(堤)をつくるのは易(簡単)ではありません。これを塞(ふさ)ぐに未(ま)だ必(きっと)天に応(こた)えていないからでしょう」と。
而望氣用數者亦以為然於是天子久之不事復塞也
しこうして望気(雲気を望み(まつる)吉凶をうらなう)の数(うらない)を用いる者が亦(おおいに)然(しか)りと為すを以ってした。ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はこれを久(待つ)しくして復塞(堤をもとに復する)に事さなかったのである。
漢が興って三十九年、漢孝文帝劉恒の時、河が酸棗で決壊し、東に金隄を潰(つぶ)し、ここに於いて東郡は大いに卒(兵)を興(おこ)してこれを塞(ふさ)いだ。
其後四十有餘年今天子元光之中而河決於瓠子東南注鉅野通於淮泗
その後四十と余年、今の天子の元光年間の中、しこうして、河が瓠子で決壊し、東南に鉅野に注(そそ)ぎ、淮、泗に通じた。
於是天子使汲黯鄭當時興人徒塞之輒復壞是時武安侯田蚡為丞相
ここに於いて天子は汲黯、鄭当時をつかわし、人徒を興(おこ)してこれを塞(ふさ)がせたが、輒(そのたびごとに)また壊れた。この時、武安侯田蚡が漢丞相と為り、
其奉邑食鄃鄃居河北河決而南則鄃無水菑邑收多
その邑食の鄃を奉(たてまつ)った。鄃は河の北に居(お)り、河が決壊したのは南ですなわち鄃は水菑(水害)が無く、邑の収穫は多かった。
蚡言於上曰江河之決皆天事未易以人力為彊塞塞之未必應天
漢丞相武安侯田蚡が上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「江河の決壊は皆(みな)天の事です。未(ま)だ人力(じんりき)を以って強い塞(堤)をつくるのは易(簡単)ではありません。これを塞(ふさ)ぐに未(ま)だ必(きっと)天に応(こた)えていないからでしょう」と。
而望氣用數者亦以為然於是天子久之不事復塞也
しこうして望気(雲気を望み(まつる)吉凶をうらなう)の数(うらない)を用いる者が亦(おおいに)然(しか)りと為すを以ってした。ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はこれを久(待つ)しくして復塞(堤をもとに復する)に事さなかったのである。