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毅對曰以臣不能得先主之意則

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毅對曰以臣不能得先主之意則

秦上卿蒙毅は応(こた)えて曰く、「わたしが先の主(あるじ 秦始皇帝)の意(い)を得ることができなかったのを以ってすれば、

臣少宦順幸沒世可謂知意矣

わたしは宮づかえを欠(か)き、幸(宗族に罪が及ばないことの幸い)に従(したが)って世(よ)に没(ぼっ)していたので、(わたしは先主の)意(い)を知っていたと謂(い)うべきや。

以臣不知太子之能則太子獨從周旋天下

わたしが太子の才能を知らなかったのを以ってすれば、太子がただ一人天下を周旋するに従(したが)って、

去諸公子絕遠

諸(もろもろ)の公子を非常に遠くに去(さ)らせたのは、

臣無所疑矣夫先主之舉用太子

わたしには疑(うたが)われるところはありません。それ、先(さき)の主(秦始皇帝)の太子を推挙して用いることは、

數年之積也臣乃何言之敢諫

数年(すうねん)の心組(こころぐ)みでありました。わたしはそこでどうして敢(あ)えて諌(いさ)めることを言いましょうか。

何慮之敢謀非敢飾辭以避死也

どうして敢(あ)えて謀(はか)ることを慮(おもんばか)りましょうか。
敢(あ)えて辞(じ)を飾って、死を避(さ)けるを以ってするのでは非(あら)ざるなり。

為羞累先主之名願大夫為慮焉

先主(秦始皇帝)のきこえを損(そこ)なうことを羞(は)ずる為(ため)で、願わくは大夫(御史曲宮)にはご配慮(はいりょ)為(な)され、

使臣得死情實且夫順成全者

わたしをして死の情実(じょうじつ)を得(え)さしめてください。まさにそれ、順じて全(まっと)うを成(な)すのは、

道之所貴也刑殺者

道(みち)の貴(とうと)ぶところであり、刑(けい)して殺すのは、

道之所卒也

道(みち)の押さえ止(とど)めひかえる(卒=即または節?)ところであります。

昔者秦穆公殺三良而死

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昔者秦穆公殺三良而死

むかし、秦穆公嬴任好(または秦繆公とも)三人の良臣にして死をして殺し(殉死させ)、

罪百里奚而非其罪也

百里奚にしてその罪に非(あら)ざるを罪(つみ)したので、

故立號曰繆

故(ゆえ)に号を立てて曰く、繆(あやまり、まちがい)と。

昭襄王殺武安君白起楚平王殺伍奢

秦昭襄王赢稷は秦武安君白起を殺した。楚平王熊居は楚太傅伍奢(伍子胥の父)を殺しました。

吳王夫差殺伍子胥此四君者

呉王夫差(姫夫差)は伍子胥を殺しました。この四人の君主とは、

皆為大失而天下非之以其君為不明

皆(みな)大損失を為して、天下はこれをそしり、その君主を以って賢明ではないと為し、

以是籍於諸侯故曰用道治者不殺無罪

これを以って諸侯に言いはやされました。故(ゆえ)に曰く、道を用(もち)いて治めるものは罪無き者を殺さず、

而罰不加於無辜唯大夫留心

しこうして罰(ばつ)は罪無き者に於いて加(くわ)えず、と。ただ大夫(秦御史曲宮)には心に留(とど)められよ」と。

使者知胡亥之意不聽蒙毅之言遂殺之

使者(秦御史曲宮)は秦二世皇帝赢胡亥の意(い)を知っていたので、秦上卿蒙毅の言を聴き入れず、遂(つい)にこれを殺した。

二世又遣使者之陽周令蒙恬曰

秦二世皇帝赢胡亥はまた使者をつかわし陽周に行かせ、秦内史将軍蒙恬に令(れい)して曰く、

君之過多矣而卿弟毅有大罪

「君の過(あやま)ちは多く、しこうして卿である弟の秦上卿蒙毅には大罪(たいざい)が有り、

法及內史恬曰自吾先人

法は内史(秦内史蒙恬)に及(およ)ぶ」と。秦内史将軍蒙恬曰く、「吾(われ)の先人(せんじん)より、

及至子孫積功信於秦三世矣

子孫に至るに及んで、功績、信用を秦の三代に於いて積(つ)んできました。

今臣將兵三十餘萬身雖囚系

今、わたしは兵三十余万人を率(ひき)いて、身(み)は囚(とら)われつながれていると雖(いえど)も、

其勢足以倍畔然自知必死而守義者

その勢(いきお)いは叛(そむ)くを以ってするに足(た)りますが、然(しか)るに自(みずか)ら
必ず死ぬことを知りながら義(ぎ)を守(まも)るのは、

不敢辱先人之教以不忘先主也

敢(あ)えて先人(せんじん)の教えを辱(はずかし)めず、先代の君主を忘(わす)れずを以ってするからです。

昔周成王初立

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昔周成王初立未離襁緥周公旦負王以朝

昔、周成王姫誦が立って初めのとき、襁緥(むつき ねんねこ)から離れないうちに、周公旦(姫旦)は王を背負(せお)って政治をとるを以ってし、

卒定天下及成王有病甚殆

とうとう天下を平定しました。周成王姫誦が病(やまい)が甚(はなは)だあぶないときが有るに及んで、

公旦自揃其爪以沈於河曰

周公姫旦は自(みずか)らその爪(つめ)をきって、河に於いて沈(しず)めるを以ってし、曰く、

王未有識是旦執事有罪殃

『王はまだ知恵(ちえ)がなく、ここにわたしが事(こと)を執(と)っています。罪(つみ)、とがめが有れば、

旦受其不祥乃書而藏之記府

わたしがその不祥(ふしょう)を受(う)けます』と。そこで、書いてこれを記府(記録庫)にしまいました。

可謂信矣及王能治國有賊臣言

誠実(せいじつ)と謂(い)うべきや。周成王姫誦が国を治(おさ)めることができるに及(およ)んで、賊臣(ぞくしん)がいて言いました、

周公旦欲為亂久矣王若不備

『周公旦は乱を為そうと欲すること久(ひさ)しいです。王が、もしも備(そな)えなければ、

必有大事王乃大怒

必ず大事(だいじ)が有るでしょう』と。周成王姫誦はすなわち大いに怒(おこ)り、

周公旦走而奔於楚成王觀於記府

周公姫旦はいそいで楚に逃(に)げました。周成王姫誦は記録庫に於いて観(み)て、

得周公旦沈書乃流涕曰

周公姫旦の沈書(鎮書)を得(え)て、すなわち涙(なみだ)を流して曰く、

孰謂周公旦欲為亂乎

『だれが周公旦が乱を為そうと欲していると謂(い)ったのか』と。

殺言之者而反周公旦

これを言った者を殺して周公姫旦を返(かえ)らせました。

故周書曰必參而伍之

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故(ゆえ)に周書曰く、必ず参(三卿)にして伍(五大夫)に審議せよ、と。

今恬之宗世無二心而事卒如此

今、わたしの宗族は代々、二心(ふたごころ)無くして仕(つか)えてきましたが、にわかにこの如(ごと)くは、

是必孽臣逆亂內陵之道也

これ、必ず悪い家臣がそむき乱れ、内(うち)に道において凌(しの)いでいるからです。

夫成王失而復振則卒昌桀殺關龍逢

それ、周成王姫誦は失敗しながらふたたび救われ、すなわちついに栄(さか)えました。夏帝夏后桀が関龍逢を殺し

紂殺王子比干而不悔身死則國亡

殷帝子辛(紂王)が殷王子の子比干を殺しながら悔(く)やまず、身(み)は死してすなわち国は亡(ほろ)びました。

臣故曰過可振而諫可覺也察於參伍

わたしは故(ゆえ)に曰く、過(あやま)ちは救(すく)うことができて諌(いさ)めは悟(さと)らせることができるのであると。三卿五大夫に於いてつまびらかにするは、

上聖之法也凡臣之言非以求免於咎也

上聖の法であります。凡(およ)そ、わたしの言(げん)は、咎(とが)を免(まぬか)れることを求めるを以ってするのでは非(あら)ざるなり。

將以諫而死願陛下為萬民思從道也

まさに諌(いさ)めるを以ってして死なんとし、願わくは陛下には万民の為(ため)に思い道(みち)に従(したが)ってください」と。

使者曰臣受詔行法於將軍

秦使者曰く、「わたしは詔(みことのり)をさずかって刑罰を将軍に於いて行(おこな)い、

不敢以將軍言聞於上也蒙恬喟然太息曰

敢(あ)えて将軍(蒙恬)の言(げん)を以って上(うえ)に於いて申し上げることはしません」と。秦内史将軍蒙恬は喟然(きぜん)とため息をついて曰く、

我何罪於天無過而死乎

「我(われ)は何(なに)を天(てん)に於いて罪(つみ)したのか。過(あやま)ち無くして死するのか?」と。

良久徐曰恬罪固當死矣起臨洮屬之遼東

しばらくたって、おもむろに曰く、「わたしの罪(つみ)はきっと死罪に当(あ)たるのだ。
臨洮(地名)にはじまり遼東(地名)に連(つら)ね、

城塹萬餘里此其中不能無絕地脈哉

築いたり掘(ほ)ったりすること一万余里。これ、その中途では地脈(ちみゃく)を絶(た)ちきらずにはできなかったであろうかな。

此乃恬之罪也乃吞藥自殺

これがすなわちわたしの罪(つみ)なのである」と。そこで毒薬を呑(の)んで自殺した。

太史公曰吾適北邊自直道歸

太史公曰く、「吾(われ)は北の辺境におもむき、直道より帰った。

行觀蒙恬所為秦筑長城亭障塹山堙谷

行って蒙恬が秦の為(ため)に築いたところの長城、亭障(高楼のあるとりで)を観(み)た。山を掘り谷(たに)をうめ、

通直道固輕百姓力矣夫秦之初滅諸侯

直道を通(つう)じるは、まことに百姓の労役を軽(かろ)んじていた。それ、秦の諸侯を滅ぼした初めのときは、

天下之心未定痍傷者未瘳而恬為名將

天下の心(こころ)は未(ま)ま定まらないうちで、負傷者は未(ま)だなおらないうちで、しこうして、蒙恬は名将として、

不以此時彊諫振百姓之急養老存孤

この時を以って強く諌(いさ)めず、百姓の急(きゅう)を救(すく)わず、老人を養(やしな)わず、戦争孤児を存(ながら)えさせず

務修眾庶之和而阿意興功此其兄弟遇誅

多くの民の和(わ)を修めることに務(つと)めなかった。しこうして、意(い)に阿(おもね)って
功績を興(おこ)した。ここにその兄弟が誅(ちゅう)に遇(あ)わされたのは、

不亦宜乎何乃罪地脈哉

なんともっともなことではないか。どうして、すなわち地脈に罪(つみ)したであろうかな」と。

今日で史記 蒙恬列伝は終わりです。明日からは史記 張耳陳余列伝に入ります。

史記 張耳陳余列伝 始め

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張耳者大梁人也其少時及魏公子毋忌為客

張耳という者は、大梁(魏の都)の人である。その青年時、魏公子の魏毋忌(魏無忌)が食客と為すに及(およ)んだ。

張耳嘗亡命游外黃外黃富人女甚美

張耳は嘗(かつ)て名をかくして外黄(魏の領地)に遊説したことがあった。外黄(魏の領地)の富豪の人の娘は甚(はなは)だ美しく、

嫁庸奴亡其夫去抵父客

凡庸(ぼんよう)な人に嫁(とつ)ぎ、その夫(おっと)を亡(な)くし、去(さ)って父親の賓客に至った。

父客素知張耳乃謂女曰

父の賓客は素(もと)より張耳を知っていたので、そこで娘に謂(い)った、曰く、

必欲求賢夫從張耳

「賢(かしこ)い夫(おっと)を求めて、張耳に従(したが)うことをかたく欲する」と。

女聽乃卒為請決嫁之張耳

娘は聞き入れた。そこで、とうとう離縁を請(こ)うを為し、これを張耳に嫁(とつ)がせた。

張耳是時脫身游女家厚奉給張耳

張耳はちょうどこの時、身(み)をのがれて遊説しており、娘の家は張耳に厚(あつ)く奉給(ほうきゅう)した。

張耳以故致千里客乃宦魏為外黃令

張耳は、故(ゆえ)に千里客(はるばる遠方から来た客)をまねくを以ってし、すなわち、魏に仕官(しかん)して外黄令と為った。

名由此益賢陳餘者亦大梁人也

名声はこれに由(よ)り賢(かしこ)さを益(ま)した。陳余という者もまた大梁(魏の都)の人である。

好儒術數游趙苦陘

儒教の学術を好(この)み、たびたび趙の苦陘(地名)に遊説した。

富人公乘氏以其女妻之

富豪人の公乗氏がその娘を以ってこれにめとらせたのは、

亦知陳餘非庸人也

また陳余の凡人(ぼんじん)ではないことを知ったからである。

餘年少父事張耳兩人相與為刎頸交

陳余は年若く、張耳に父のように仕(つか)え、両人は相(あい)ともに刎頚(ふんけい)の交(まじ)わりを為した。

秦之滅大梁也

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秦之滅大梁也張耳家外黃

秦の大梁(魏の都)を滅(ほろ)ぼしたときは、魏外黄令張耳は外黄に家を構(かま)えていた。

高祖為布衣時嘗數從張耳游

漢高祖(劉邦)が官位がなかった時、たびたび魏外黄令張耳に従って遊説し、

客數月秦滅魏數歲

客すること数ヶ月。秦が魏を滅(ほろ)ぼして数年、

已聞此兩人魏之名士也

すでにこの両人(張耳、陳余)は魏の名士であると聞き、

購求有得張耳千金陳餘五百金

賞金をかけて探し求め、張耳を得る者が有ったら千金、陳余には五百金を懸けた。

張耳陳餘乃變名姓俱之陳

張耳、陳余はそこで姓名を変(か)え、ともに陳(楚の都 寿春の前の都)へ行った。

為里監門以自食兩人相對

(陳の)里の門番(もんばん)と為って自(みずか)ら暮らしを立てた。両人(張耳、陳余)は相(あい)向かいあった。

里吏嘗有過笞陳餘陳餘欲起

里の役人が嘗(かつ)て過(あやま)ちがあって陳余をむち打ったことがあった。陳余は起きあがろうと欲したが、

張耳躡之使受笞

張耳はこれを踏(ふ)みつけて、むちを受けさせた。

吏去張耳乃引陳餘之桑下而數之曰

役人が去ると、張耳はすなわち陳余を引いて桑下にいきてこれをなじった、曰く、

始吾與公言何如今見小辱而欲死一吏乎

「以前、吾(われ)はおぬしとどのような如(ごと)くを言ったか?今、小さな辱(はずかし)めの目にあって、たった一人の役人に死を欲するのか?」と。

陳餘然之秦詔書購求兩人

陳余はその通りだと思った。秦は文書で詔(みことのり)して、賞金を懸けて両人(張耳、陳余)を探し求めた。

兩人亦反用門者以令里中

両人(張耳、陳余)もまた門番にもどって里中(さとじゅう)に令(れい)するを以ってした。

陳涉起蘄至入陳兵數萬

陳涉(陳勝)が蘄(地名)に起(お)こり、陳(楚の都だったところ)に至って入り、兵は数万人。

張耳陳餘上謁陳涉

張耳、陳余は陳涉(陳勝)に謁見(えっけん)を申し出た。

涉及左右生平數聞張耳陳餘賢

陳涉(陳勝)および左右の者は平素(へいそ)たびたび張耳、陳余の賢さを聞いており、

未嘗見見即大喜

未(いま)だ嘗(かつ)て見(まみ)えたことがなく、見(まみ)えてすなわち大いに喜んだ。

陳中豪傑父老乃說陳涉曰

陳(楚の都だったところ)中(ちんじゅう)の豪傑(ごうけつ)、父老(村里のおもだった年寄り)がそこで陳涉に説(と)いた曰く、

將軍身被堅執銳率士卒以誅暴秦

「将軍(陳勝)は身(み)みずから鎧(よろい)を被(かぶ)りきっさきを執(と)って、士卒を率(ひき)い荒々しい秦を誅(ちゅう)するを以ってするは、

復立楚社稷存亡繼絕功宜為王

ふたたび楚の社稷(しゃしょく)を立て、亡(ほろ)びたのを存(ながら)えさせ、後継の絶えるを継(つ)いで、功徳は宜(よろ)しく王と為るべきです。

且夫監臨天下諸將不為王不可

まさにそれ、天下の諸(もろもろ)の将軍に臨(のぞ)んで監督するは、王と為らずは不可であり、

願將軍立為楚王也陳涉問此兩人

願わくは、将軍(陳勝)は立って楚王と為ってください」と。陳涉(陳勝)はこれを両人(張耳、陳余)に問(と)うた。

兩人對曰夫秦為無道破人國家

両人(張耳、陳余)は応(こた)えて曰く、「それ、秦が無道(むどう)を為すは、人の国家を破(やぶ)り、

滅人社稷絕人後世罷百姓之力

人の社稷(しゃしょく)を滅(ほろ)ぼし、人の後継ぎを絶(た)やし、百姓の労役で疲(つか)れさせ、

盡百姓之財將軍瞋目張膽

百姓の財(ざい)を尽(つ)きさせました。将軍(陳勝)は目を怒(いか)らせて気力を張(は)って、

出萬死不顧一生之計為天下除殘也

万死(ばんし)にのぞんで、一生(いっしょう)の計(万死に一生を得る計(はか)りごと)を顧(かえり)みず、天下の為(ため)に悪者を除(のぞ)くのであります。

今始至陳而王之示天下私

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今始至陳而王之示天下私

今、陳(楚の都だったところ 寿春の前)に至ったばかりにして王になるのは天下に私心(ししん)を示(しめ)します。

願將軍毋王急引兵而西

願わくは将軍(陳勝)は王になることなく、急(いそ)いで兵を引いて西へ進み、

遣人立六國後自為樹黨

人を遣(つか)わし六国の後継(こうけい)を立てさせ、自(みずから)は党(とう)の樹立(じゅりつ)を為してください。

為秦益敵也敵多則力分

秦の為(ため)には敵(てき)をますます増やすのです。敵(てき)が多ければ、力(ちから)は分散(ぶんさん)します。

與眾則兵彊如此野無交兵

衆(しゅう)にあずかれば兵力は強まり、この如(ごと)くして、野には戦いを交(まじ)えることが無くなり、

縣無守城誅暴秦據咸陽以令諸侯

県には城壁を守ることが無くなり、荒々しい秦を誅(ちゅう)して咸陽(秦の都)を拠点(きょてん)にして諸侯に令(れい)するを以ってするのです。

諸侯亡而得立以服之

諸侯は亡(ほろ)びたのに立つを得(え)て、徳(とく)を以って(陳勝に)服(ふく)することでしょう。

如此則帝業成矣今獨王陳

この如(ごと)くすれば、帝業は成就(じょうじゅ)します。今、単(たん)に陳(楚の都だったところ)で王となるだけならば、

恐天下解也陳涉不聽遂立為王

恐(おそ)らく天下は離(はな)れてゆくのであります」と。陳涉(陳勝)は聴き入れず、遂(つい)に立って王(おう)と為った。

陳餘乃復說陳王曰大王舉梁

陳余はそこでふたたび陳王(陳勝 陳=楚の都だったところ)に説(と)いて曰く、「大王(陳勝)は梁(魏)、

楚而西務在入關未及收河北也

楚の兵を挙(あ)げ用(もち)いて西へ進み、関(せき 秦の関)に入って在(ざい)するに務(つと)められておりますが、未(ま)だ(関に)及(およ)ばないうちに河北を収(おさ)めるのであります。

臣嘗游趙知其豪桀及地形

わたしは嘗(かつ)て趙に遊説(ゆうぜい)したことがあり、その豪傑(ごうけつ)および地形を知っています。

願請奇兵北略趙地

願わくは奇兵(奇計をもって的中に攻め込む軍隊)を請(こ)い北に進んで趙の地を奪(うば)わせてください」と。

於是陳王以故所善陳人武臣為將軍

ここに於いて陳王陳勝は、古い仲が良いとするところの陳人の武臣を以って将軍と為し、

邵騷為護軍以張耳陳餘為左右校尉

(同じく古い仲の)邵騷を護軍と為し、張耳、陳余を以って左右の校尉と為し、

予卒三千人北略趙地

歩兵三千人を与(あた)えて北に趙の地を略奪(りゃくだつ)させた。

武臣等從白馬渡河至諸縣

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武臣等從白馬渡河至諸縣

陳(張楚)将軍武臣らは白馬(地名)より河を渡(わた)り、諸(もろもろ)の県に至(いた)り、

說其豪桀曰秦為亂政虐刑以殘賊天下

その豪傑(ごうけつ)に説(と)いた、曰く、「秦は乱れた政治、残虐な刑罰を為し、天下をいためつけ傷つけるを以ってすること、

數十年矣北有長城之役南有五嶺之戍

数十年や。北に長城の夫役(ふえき)を有(ゆう)し、南に五嶺の国境警備を有(ゆう)し、

外內騷動百姓罷敝頭會箕斂

外も内も騒(さわ)がしく動いて、百姓はひどくつかれきり、頭かずを数(かぞ)えて箕(み)ですくうように多く税を取って、

以供軍費財匱力盡民不聊生

軍費に供(きょう)するを以ってし、財(ざい)はとぼしく力は尽(つ)きて、民(たみ)は生きるをたのしめず、

重之以苛法峻刑使天下父子不相安

重(おも)んずること法をむごくし刑をきびしくするを以ってして、天下の父子をして相(あい)安(やす)んじあえず。

陳王奮臂為天下倡始王楚之地

陳王(陳勝)は腕(かいな)を奮(ふる)って天下の為(ため)に始(はじ)めにとなえ、楚の地で王になり、

方二千里莫不響應家自為怒

二千里四方は饗応(きょうおう)せずはなく、家々は自(おの)ずから怒(いか)りを為し、

人自為鬬各報其怨而攻其讎

人々は自(おの)ずから闘(たたか)いを為し、おのおのはその怨(うら)みに報(むく)いてその仇(あだ)を攻(せ)めようと、

縣殺其令丞郡殺其守尉

県ではその令(官名)、丞(官名)を殺し、郡ではその守(官名)、尉(官名)を殺している。

今已張大楚王陳使吳廣

今、すでに大いなる楚を広げ、陳(かつての楚の都)で王になり、呉広(人名)、

周文將卒百萬西擊秦於此時而不成封侯之業者

周文(人名)をして歩兵百万人を率(ひき)いさせて西へ秦を撃たせようとしているが、このような時に於いてして、封侯(封じられた諸侯)の業を成(な)さずは、

非人豪也諸君試相與計之

人の豪士では非(あら)ざるなり。諸君は相(あい)ともにこれを計(はか)ることを試(こころ)みよ。

夫天下同心而苦秦久矣因天下之力而攻無道之君

それ、天下は心を同じくして秦に苦しむこと久(ひさ)しい。天下の力に因(よ)りて無道(むどう)の君主を攻(せ)め、

報父兄之怨而成割地有土之業此士之一時也

父兄の怨(うら)みに報(むく)いて地を割(さ)き領土を有(ゆう)する業を成(な)すは、これ、士のまたとない良い機会である」と。

豪桀皆然其言乃行收兵得數萬人

豪傑(ごうけつ)は皆(みな)その言(げん)をその通りだと思った。そこで行きながら兵を収(おさ)め、数万人を得(え)て、

號武臣為武信君下趙十城餘皆城守莫肯下

陳(張楚)将軍武臣を号して武信君と為した。趙の十の城邑を下(くだ)し、他(ほか)は皆(みな)城に立てこもって守(まも)り下(くだ)ることをよしとしなかった。

乃引兵東北擊范陽

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乃引兵東北擊范陽范陽人蒯通說范陽令曰

そこで、兵を引いて東北に范陽を撃(う)とうとした。范陽人の蒯通が范陽令に説(と)いた、曰く、

竊聞公之將死故弔雖然賀公得通而生

「ひそかに聞くに公(こう)のまさに死なんとすると。故(ゆえ)にあわれみます。
然(しか)りと雖(いえど)も、公(こう)がわたしを得(え)て生きることができるのをよろこびます」と。

范陽令曰何以弔之對曰

范陽令曰く、「どうしてこれをあわれむを以ってするのか?」と。応(こた)えて曰く、

秦法重足下為范陽令十年矣殺人之父

「秦の法律は重(おも)く、足下は范陽令と為って十年、人の父を殺し、

孤人之子斷人之足黥人之首不可勝數

人の子を孤児にし、人の足を断(た)ち、人の頭に刺青(いれずみ)をするは、数えあげることができません。

然而慈父孝子莫敢倳刃公之腹中者畏秦法耳

然(しか)しながら、慈父、孝行な息子は敢(あ)えて刃(やいば)で公(こう)の腹(はら)の中を刺(さ)さなかったのは、秦の法律を畏(おそ)れただけです。

今天下大亂秦法不施

今、天下は大いに乱(みだ)れ、秦の法律は実施(じっし)されず、

然則慈父孝子且倳刃公之腹中以成其名

然(しか)らば、慈父、孝行息子はまさに刃(やいば)を公の腹の中に刺さんとし、その名を成すを以ってすることでしょう。

此臣之所以弔公也今諸侯畔秦矣

これが、わたしの公(こう)をあわれむ理由であります。今、諸侯が秦に叛(そむ)き、

武信君兵且至而君堅守范陽少年皆爭殺君

陳(張楚)武信君武臣の兵がまさに至らんとすれば、しこうして、君(范陽令)は范陽を堅(かた)く守(まも)り、少年は皆(みな)争って君(范陽令)を殺し、

下武信君君急遣臣見武信君

陳(張楚)武信君武臣に下(くだ)ることでしょう。君(范陽令)は急いでわたしを遣(つか)わし陳(張楚)武信君武臣に見(まみ)えさせてください。

可轉禍為福在今矣

禍(わざわい)を転(てん)じて福(ふく)と為すことができるのは、今に在(あ)るのです」と。

范陽令乃使蒯通見武信君曰

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范陽令乃使蒯通見武信君曰

范陽令はそこで蒯通をして陳(張楚)武信君武臣に見(まみ)えさせて、曰く、

足下必將戰勝然後略地攻得然後下城

足下は必ずまさに戦勝して然(しか)る後に地を略取し、攻め得て然(しか)る後城邑を下(くだ)さんとしていますが、

臣竊以為過矣誠聽臣之計

わたしはひそかに過(あやま)ちだと思います。誠(まこと)にわたしの計(はか)りごとを聴き入れれば、

可不攻而降城不戰而略地

攻めずに城邑を降(くだ)し、戦わずに地を略取することができ、

傳檄而千里定可乎

ふれぶみを伝えれば千里(せんり)が平定されますが、よろしいですか?」と。

武信君曰何謂也

陳(張楚)武信君武臣曰く、「どういうことを謂(い)ったのか?」と。

蒯通曰今范陽令宜整頓其士卒以守戰者也

蒯通曰く、「今、范陽令がまさにその士卒を整頓(せいとん)して守る戦いを以ってせんとするのは、

怯而畏死貪而重富貴故欲先天下降

死に怯(おび)えて畏(おそ)れ、富貴を貪(むさぼ)って尊(とうと)ぶ故(ゆえ)に天下に先(さき)んじて降(くだ)ることを欲していますが、

畏君以為秦所置吏誅殺如前十城也

君(武信君)が秦が置いたところの役人と為すを以って、前の十の城邑の如(ごと)く誅殺されることを畏(おそ)れているからです。

然今范陽少年亦方殺其令自以城距君

然(しか)るに今、范陽の少年たちもまたまさにその令を殺さんとしており、自(みずか)ら城邑を以って君(武信君)を遠ざけるでしょう。

君何不齎臣侯印拜范陽令

君(武信君)はどうしてわたしに侯印を持って行かせ、范陽令に官をさずけないのですか。

范陽令則以城下君少年亦不敢殺其令

范陽令はすぐに城邑を以って君(武信君)に下(くだ)り、少年たちもまた敢(あ)えてその令を殺さないでしょう。

令范陽令乘朱輪華轂使驅馳燕趙郊

范陽令に令して朱塗りの車輪(しゃりん)に華(はな)の形の轂(こしき 車輪の軸を受けるところ)
の馬車に乗(の)せ、燕、趙の町はずれを(ふれぶみをかかげて)駆(か)け馳(は)せさせるのです。

燕趙郊見之皆曰此范陽令先下者也

燕、趙の町外れはこれを見て、皆(みな)曰く、この范陽令は先んじて下(くだ)った者であると。

即喜矣燕趙城可毋戰而降也

すなわち喜(よろこ)び、燕、趙の城邑は戦わずに降(くだ)ることをよしとするのです。

此臣之所謂傳檄而千里定者也

これがわたしの、ふれぶみを伝えて千里(せんり)を定めると謂(い)ったところのものであります」と。

武信君從其計因使蒯通賜范陽令侯印

陳(張楚)武信君武臣はその計(はか)りごとに従(したが)い、蒯通をつかわすに因(よ)りて、范陽令に侯印を賜(たまわ)らせた。

趙地聞之不戰以城下者三十餘城

趙の地はこれを聞き、戦わずに城邑を以って下(くだ)る者は三十余城であった。

至邯鄲張耳陳餘聞

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至邯鄲張耳陳餘聞周章軍入關

邯鄲(かつての趙の都)にいたると、陳(張楚)左校尉張耳、陳(張楚)右校尉陳余は、陳(張楚)将軍周章(周文)の軍が関に入り、

至戲卻又聞諸將為陳王徇地

戲に至って退却したと聞いた。また、諸(もろもろ)の将軍が陳(張楚)王陳勝のために土地を求めても、

多以讒毀得罪誅怨陳王不其筴不以為將而以為校尉

多くが謗(そし)りきずつけるを以って罪を得て誅(ちゅう)された聞いた。陳(張楚)王陳勝がそのはかりごとをせず、将軍と為すを以ってせずにして校尉と為すを以ってしたことを怨(うら)んだ。

乃說武臣曰陳王起蘄至陳而王

そこで陳(張楚)武信君武臣に説(と)いた、曰く、「陳(張楚)王陳勝は蘄(地名)で立ち上がり、陳(かつての楚の都)に至って王になりましたが、

非必立六國後將軍今以三千人下趙數十城

必ずしも六国(楚(張楚)以外の六国?韓、趙、魏、越、斉、燕)の後継を立てるのではありません。将軍は今、三千人を以って趙の数十の城邑を下(くだ)しましたが、

獨介居河北不王無以填之

独(ひと)り孤立して河北に居(きょ)し、王とならなければ、これをしずめるを以ってすることはありません。

且陳王聽讒還報恐不脫於禍

且(か)つ陳(張楚)王陳勝は讒言(ざんげん)を聴(き)き、報告に還(かえ)っても、恐(おそ)らく禍(わざわい)から脱(ぬ)け出られないでしょう。

又不如立其兄弟不即立趙後

また、その兄弟を立てるにこしたことはなく、そうでなければ、趙の子孫を立てて即(つ)けるでしょう。

將軍毋失時時不容息

将軍(武臣)は好機を失(うしな)うことなかれ、時間は息(いき)を容(い)れることはありません」と。

武臣乃聽之遂立為趙王

陳(張楚)武信君武臣はすなわちこれを聴き入れ、遂(つい)に立って趙王と為った。

以陳餘為大將軍張耳為右丞相邵騷為左丞相

陳(張楚)右校尉陳余を以って趙大将軍と為し、陳(張楚)左校尉張耳を以って趙右丞相と為し、陳(張楚)護軍邵騷を以って趙左丞相と為した。

使人報陳王陳王大怒欲盡族武臣等家

人をして陳(張楚)王陳勝に報告させた。陳(張楚)王陳勝は大いに怒り、ことごとく趙王武臣らの家族を族刑(一族を罰する刑)にしようと欲し、

而發兵擊趙陳王相國房君諫曰

そして兵を発して趙を撃(う)とうと欲した。陳(張楚)王陳勝の相国の房君(蔡賜)が諌(いさ)めて曰く、

秦未亡而誅武臣等家此又生一秦也

「秦が未(ま)だ亡(ほろ)びないうちにして趙王武臣らの家族を誅(ちゅう)するは、これ、また一(ひと)つの秦を生(う)んでしまいます。

不如因而賀之使急引兵西擊秦

因(よ)りてこれを賀(が)し、急いで兵を引いて西へ秦を撃(う)たせしめるにこしたことはありません」と。

陳王然之從其計徙系武臣等家宮中

陳(張楚)王陳勝はその通りだと思い、その計(はか)りごとに従(したが)った。趙王武臣らの家族を宮中に移(うつ)して繋(つな)ぎ、

封張耳子敖為成都君

趙右丞相張耳の子の張敖に封じて張楚成都君と為した。

陳王使使者賀趙

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今日二回目の投稿になります。

陳王使使者賀趙令趣發兵西入關

陳(張楚)王陳勝は使者をつかわして趙を祝賀させ、兵を発して西へ関に入るよう促(うなが)した。

張耳陳餘說武臣曰王王趙

趙右丞相張耳、趙大将軍陳余は趙王武臣に説(と)いた曰く、「王が趙で王になるは、

非楚意特以計賀王楚已滅秦

楚の意(い)では非(あら)ず、ただ計(はか)りごとを以って王を祝賀しているだけです。楚が秦を滅ぼし終えたら、

必加兵於趙願王毋西兵北徇燕代

必ず戦いを趙に加(くわ)えることでしょう。願わくは王は西に戦うことなかれ。北に燕、代、を求め、

南收河內以自廣趙南據大河北有燕代

南に河内を収(おさ)めて自らを広(ひろ)げるを以ってするのです。趙が南に大河に拠(よ)り、北に燕、代を有(ゆう)すれば、

楚雖勝秦必不敢制趙

楚が秦に勝ったとしても、必ず敢(あ)えて趙を制(せい)することはないでしょう」と。

趙王以為然因不西兵而使韓廣略燕

趙王武臣はその通りだと思い、因(よ)りて兵を西に進めず、しこうして韓広をして燕を略取させ、

李良略常山張黡略上黨

李良をして常山を略取させ、張黡をして上党を略取させた。

韓廣至燕燕人因立廣為燕王

趙将軍韓広が燕に至(いた)ると、燕人は因(よ)りて趙将軍韓広を立てて燕王と為した。

趙王乃與張耳陳餘北略地燕界

趙王武臣はそこで趙右丞相張耳、趙大将軍陳余とともに北に進み燕の境界で地を略取した。

趙王出為燕軍所得燕將囚之

趙王武臣がこっそりと外出したとき、燕軍の得(え)るところと為った。燕の将軍はこれを囚(とら)え、

欲與分趙地半乃歸王使者往

ともに趙の地を半分に分けたら、そこで趙王武臣を帰そうと欲した。趙使者が往(い)くと、

燕輒殺之以求地張耳陳餘患之

燕はそのたびごとにこれを殺し土地を求めるを以ってした。趙右丞相張耳、趙大将軍陳余はこれを患(うれ)えた。

有廝養卒謝其舍中曰吾為公說燕

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有廝養卒謝其舍中曰吾為公說燕

召使の養卒(役職名)がおり、その兵舎の中に謝(しゃ)して曰く、「吾(われ)は公(こう)たちの為に燕を説(と)き、

與趙王載歸舍中皆笑曰

趙王(趙王武臣)とともに馬車に載(の)せて帰しましょう」と。兵舎の中の者は皆(みな)笑って曰く、

使者往十餘輩輒死若何以能得王

「使者が行くこと十余回つづいたが、ことごとく死んだ。なんじが何ものを以って王(趙王武臣)を得ることができようか」と。

乃走燕壁燕將見之問燕將曰

そこで燕の塞(とりで)に走った。燕将軍がこれを見て、燕将軍に問(と)うた、曰く、

知臣何欲燕將曰若欲得趙王耳

「わたしが何を欲しているか知っていますか?」と。燕将軍曰く、「なんじは趙王(趙王武臣)を得ることを欲しているだけだ」と。

曰君知張耳陳餘何如人也

曰く、「君は張耳、陳余はどのような人物が知っていますか?」と。

燕將曰賢人也曰

燕将軍曰く、「賢人(けんじん)なり」と。曰く、

知其志何欲曰欲得其王耳

「その志(こころざし)は何を欲しているか知っていますか?」と。曰く、「その王(趙王武臣)を得ることを欲しているだけだ」と。

趙養卒乃笑曰君未知此兩人所欲也

趙の養卒はそこで笑って曰く、「君は未(ま)だこの二人の欲するところを知っていません。

夫武臣張耳陳餘杖馬箠下趙數十城

それ、武臣、張耳、陳余は馬のむちを杖(つえ)にして趙の数十の城邑を下(くだ)し、

此亦各欲南面而王豈欲為卿相終己邪

これ、また各(おのおの)は南面して王になることを欲しており、どうして卿相に為って己(おのれ)を
終えることを欲するでしょうか。

夫臣與主豈可同日而道哉顧其勢初定

それ、臣下と君主はどうして同じ立場で語(かた)ることができましょうかな。思うにその勢いが定まったばかりで、

未敢參分而王且以少長先立武臣為王

未(ま)だ敢(あ)えて三分して王にならないのです。まさに少し長ずるを以って先(さき)に武臣を立てて王と為し、

以持趙心今趙地已服此兩人亦欲分趙而王

趙の心をにぎるを以ってしたのです。今、趙の地はすでに服し、この二人もまた趙を分けて王になることを欲していますが、

時未可耳今君乃囚趙王

時機が未(ま)だよくないだけです。今、君はすなわち趙王武臣を囚(とら)え、

此兩人名為求趙王實欲燕殺之

この二人は名目は趙王武臣を求めようとしていますが、実質は燕がこれ(趙王武臣)を殺すことを欲しています。

此兩人分趙自立夫以一趙尚易燕

この二人が趙を分けて自ら立てば、それ、一つの趙を以ってしても尚(なお)燕をあなどっているのに、

況以兩賢王左提右挈而責殺王之罪

況(いわん)や、二人の賢(かしこ)い王を以ってたがいに手を引き合って助け、しこうして、王を殺した罪を責(せ)めれば、

滅燕易矣燕將以為然

燕を滅(ほろ)ぼすのは容易(ようい)です」と。燕将軍はその通りだと思い、

乃歸趙王養卒為御而歸

そこで趙王武臣を帰し、趙養卒は御者(ぎょしゃ)と為って帰った。

李良已定常山

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李良已定常山還報趙王復使良略太原

趙将李良がすでに常山を平定し、還(かえ)り報告した。趙王武臣はふたたび李良をして太原を略取させた。

至石邑秦兵塞井陘未能前

石邑に至り、秦兵が井陘を塞(ふさ)ぎ、未(ま)だ前に進むことができないうちに、

秦將詐稱二世使人遺李良書不封

秦将軍が偽(いつわ)って秦二世皇帝と称(しょう)して人をして趙将李良に封をしていない書状を送らせた。

曰良嘗事我得顯幸

曰く、「李良は嘗(かつ)て我(われ)に仕(つか)え、顕(あきら)かなる幸(お気に入り)を得ていた。

良誠能反趙為秦赦良罪貴良

李良が誠(まこと)に秦の為(ため)に趙にそむくことができれば、李良の罪を赦(ゆる)し、李良を高い身分にする」と。

良得書疑不信乃還之邯鄲益請兵

趙将李良は書状を得ると、疑い信じなかった。そこで還(かえ)って邯鄲(趙の都)に行き、ますます兵を請(こ)おうとした。

未至道逢趙王姊出飲

まだ(邯鄲に)至らないうちに、道で趙王武臣の姉が外出して飲んだのに出逢った。

從百餘騎李良望見以為王

百余りの騎兵を従(したが)えていた。李良は遠くから望(のぞ)み見て、趙王武臣だと思い、

伏謁道旁王姊醉不知其將使騎謝李良

道の傍(かたわ)らに伏(ふ)して申し上げた。趙王武臣の姉は酔(よ)っていて、その将軍と知らず、
騎兵をして趙将李良に謝(しゃ)した。

李良素貴起慚其從官從官有一人曰

趙将李良はもともと地位が高く、起き上がって、その(趙将李良の)従官(じゅうかん)に恥ずかしく思った。従官の有る者が一人、曰く、

天下畔秦能者先立

「天下は秦に叛(そむ)き、才能のある者は先んじて立っています。

且趙王素出將軍下今女兒乃不為將軍下車

まさに趙王武臣はもともとは将軍(李良)の下(した)から出た者で、今、おなごがすなわち、将軍の為(ため)に馬車を下(お)りませんでした。

請追殺之李良已得秦書固欲反趙

追いかけてこれを殺させてください」と。趙将李良はすでに秦の書状を得ており、固(もと)より趙にそむこうと欲していたが、

未決因此怒遣人追殺王姊道中

未(ま)だ決めないうちに、このように怒(おこ)るに因(よ)りて、人を遣(つか)わして追いかけさせ趙王武臣の姉を道中で殺した。

乃遂將其兵襲邯鄲邯鄲不知竟殺武臣邵騷

そこで、遂(つい)にその兵を率(ひき)いて邯鄲(趙の都)を襲(おそ)った。邯鄲(趙の都)は知らず、とうとう趙王武臣、趙左丞相邵騷を殺した。

趙人多為張耳陳餘耳目者

趙人は趙右丞相張耳、趙大将軍陳余の為(ため)に、耳、目となる者が多く、

以故得脫出收其兵得數萬人客有說張耳曰

脱出をかたく得るを以ってした。その兵を収(おさ)め、数万人を得た。食客の有る者が趙右丞相張耳に説(と)いた、曰く、

兩君羈旅而欲附趙難獨立趙後

「両君(趙王武臣、趙左丞相邵騷)は旅(たび)して趙を附(つ)けることを欲したが難(むずか)しかった。単に旧趙の子孫(しそん)を立てていれば、

扶以義可就功乃求得趙歇

助け支(ささ)えるに義(ぎ)を以ってし、功(こう)に就(つ)くことができただろうに」と。
そこで趙歇(旧趙国の王(趙氏)の子孫)を得ることを求め、

立為趙王居信都李良進兵擊陳餘

立てて趙王と為し、信都に居(きょ)した。趙将李良は兵を進め、趙大将軍陳余を撃(う)ったが、

陳餘敗李良李良走歸章邯

趙大将軍陳余は趙将李良を破(やぶ)り、趙将李良は秦将章邯に走り帰属(きぞく)した。

章邯引兵至邯鄲皆徙其民河內

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章邯引兵至邯鄲皆徙其民河內

秦将章邯は兵を引いて邯鄲に至ると、皆(みな)その民(たみ)を河内に移(うつ)し、

夷其城郭張耳與趙王歇走入鉅鹿城

その城郭(じょうかく)を滅(ほろ)ぼした。趙右丞相張耳は趙王趙歇とともに逃走し鉅鹿城に入った。

王離圍之陳餘北收常山兵

秦将王離がこれを包囲(ほうい)した。趙大将軍陳余は北に常山の兵を収(おさ)め、

得數萬人軍鉅鹿北

数万人を得て、鉅鹿の北に軍営をしいた。

章邯軍鉅鹿南棘原筑甬道屬河

秦将章邯は鉅鹿の南の棘原に軍営をしき、甬道(兵糧を運んだ道)を河に並(なら)んで築(きず)き、

餉王離王離兵食多急攻鉅鹿

(鉅鹿城を包囲している)秦将王離に食糧を送り届けた。秦将王離の兵はたくさん食べて、急いで鉅鹿を攻(せ)めようとした。

鉅鹿城中食盡兵少張耳數使人召前陳餘

鉅鹿城の中は食糧が尽(つ)き、兵は少なく、趙右丞相張耳はたびたび人をつかわし趙大将軍陳余を前進させて召しよせさせたが、

陳餘自度兵少不敵秦不敢前

趙大将軍陳余はみずからを兵が少なく秦には敵(かな)わないとはかり、敢(あ)えて前進しなかった。

數月張耳大怒怨陳餘使張黶

数ヶ月して、趙右丞相張耳は大いに怒り、趙大将軍陳余を怨(うら)み、張黶、

陳澤往讓陳餘曰始吾與公為刎頸交

陳沢をつかわして趙大将軍陳余に往(い)かせしかり責めさせた、曰く、「以前、吾(われ)は公(こう)とともに刎頸(ふんけい)の交(まじ)わり(生死をともにする親交)を為した。

今王與耳旦暮且死而公擁兵數萬

今、王(趙王趙歇)はわたしとともに今にもまさに死なんとしているのに、公(こう)は兵を数万人かかえて、

不肯相救安在其相為死茍必信

相(あい)救(すく)うことをよしとしないのなら、どこにその相(あい)為(ため)に死することが在(あ)るだろうか。かりそめにも必ず信じ、

胡不赴秦軍俱死且有十一二相全

どうして秦軍に赴(おもむ)いてともに死なないのか?且(か)つ十に一、二の確率で相(あい)全(まっと)うすることを有(ゆう)するのだ」と。

陳餘曰吾度前終不能救趙徒盡亡軍

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陳餘曰吾度前終不能救趙徒盡亡軍

趙大将軍陳余曰く、「吾(われ)は前進しても終いまで趙を救うことはできず、無駄に軍を滅ぼし尽(つ)くすだけであると考える。

且餘所以不俱死欲為趙王張君報秦

且(か)つ、わたしがともに死なないことを以ってするところとは、趙王、張君の為(ため)に秦に報(むく)いることを欲しているからだ。

今必俱死如以肉委餓虎何益

今、必ずともに死ぬは、肉を以って餓(う)えた虎(とら)に委(ゆだ)ねるようなもので、どうして
益(えき)になりましょうか」と。

張黶陳澤曰事已急

張黶、陳沢曰く、「事(こと)はすでにさしせまっており、

要以俱死立信安知後慮

要(よう)はともに死んで信(しん)を立(た)てるを以ってすることで、どこに後(のち)の慮(おもんばか)りを知る必要があろうか」と。

陳餘曰吾死顧以為無益

趙大将軍陳余曰く、「吾(われ)の死は顧(かえり)みて無益(むえき)と為すを以ってするだろう。

必如公言乃使五千人令張黶

どうしてもというなら公(こう)の言の如(ごと)くしよう」と。そこで五千人をつかわし、張黶、

陳澤先嘗秦軍至皆沒

陳沢に令(れい)して先(さき)に秦軍に試みさせたが、皆(みな)死ぬに至った。

當是時燕齊楚聞趙急皆來救

ちょうどこの時、燕、斉、楚が趙の急(さしせまった状況)を聞き、皆(みな)救援に来た。

張敖亦北收代兵得萬餘人

(もと陳(張楚)成都君)楚成都君張敖(張耳の子)もまた北に進み、代(地方名)の兵を収(おさ)め、一万余人を得て、

來皆壁餘旁未敢擊秦

来たが、皆(みな)、趙大将軍陳余の傍(かたわ)らで塁壁を築き、未(ま)だ敢(あ)えて秦を撃(う)たないうちに、

項羽兵數絕章邯甬道王離軍乏食

楚上将軍項羽の兵がたびたび秦将章邯の甬道を絶ち、秦将王離軍は食糧に乏(とぼ)しくなり、

項羽悉引兵渡河遂破章邯

楚上将軍項羽はことごとく兵を引き、河を渡(わた)り、遂(つい)に秦将章邯を破(やぶ)った。

章邯引兵解諸侯軍乃敢擊圍鉅鹿秦軍

秦将章邯は兵を引いて解(と)いたので、(救援の)諸侯軍はそこで敢(あ)えて鉅鹿を包囲している秦軍を撃(う)ち、

遂虜王離涉自殺

遂(つい)に秦将王離をいけどりにした。秦将涉間は自殺した。

卒存鉅鹿者楚力也

とうとう鉅鹿城を存(ながら)えさせたのは、楚の力なり。

於是趙王歇張耳乃得出鉅鹿謝諸侯

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於是趙王歇張耳乃得出鉅鹿謝諸侯

ここに於いて趙王趙歇、趙丞相張耳はすなわち鉅鹿を出ることを得て、諸侯に謝(しゃ)した。

張耳與陳餘相見責讓陳餘以不肯救趙

趙丞相張耳は趙大将軍陳余とともに相(あい)見(まみ)え、趙大将軍陳余が趙を救うことをよしとせずを以ってしたことを責(せ)めしかった。

及問張黶陳澤所在陳餘怒曰

張黶、陳沢の所在(しょざい)を問(と)うに及(およ)ぶと、趙大将軍陳余は怒(おこ)って曰く、

張黶陳澤以必死責臣

「張黶、陳沢は必死にわたしを責(せ)めるを以ってしたので、

臣使將五千人先嘗秦軍皆沒不出

わたしは五千人を率(ひき)いさせて、先(さき)に秦軍に試(ため)させましたが、皆(みな)死んで現われませんでした」と。

張耳不信以為殺之數問陳餘

趙丞相張耳は信じず、これを殺したと思い、たびたび趙大将軍陳余を問(と)うた。

陳餘怒曰不意君之望臣深也

趙大将軍陳余は怒(おこ)って曰く、「君のわたしへのうらみが深いとは思わなかった。

豈以臣為重去將哉乃脫解印綬

どうしてわたしを以って将軍職を去(さ)ることをはばかると思うのかな?」と。そこで印綬(いんじゅ)を解(と)いてはずし、

推予張耳張耳亦愕不受

推(お)し進めて趙丞相張耳に与(あた)えた。趙丞相張耳もまたびっくりして受け取らなかった。

陳餘起如廁客有說張耳曰

趙大将軍陳余が立ち上がって厠(かわや)に行った。食客の有るものが趙丞相張耳を説(と)いて曰く、

臣聞天與不取反受其咎

「わたしは聞きます、天(てん)が与えて受け取らないのは、かえってその咎(とが)を受ける、と。

今陳將軍與君印君不受反天不祥

今、陳将軍(陳余)が君に印を与(あた)え、君は受け取らずは、天(てん)にそむき不祥(ふしょう)です。

急取之張耳乃佩其印收其麾下

急いでこれを受け取ってください」と。趙丞相張耳はそこでその(大将軍の)印を佩(お)びて、その麾下(大将に直接指揮される兵)を収(おさ)めようとした。

而陳餘還亦望張耳不讓遂趨出

しこうして、趙大将軍陳余が(厠から)還(かえ)ると、また趙丞相張耳の譲(ゆず)らないのを怨(うら)み、遂(つい)にすみやかに退出した。

張耳遂收其兵陳餘獨與麾下所善數百人之河上澤中漁獵

趙丞相張耳は遂(つい)にその兵を収(おさ)めた。陳余はただ麾下(きか)の仲が善いところの数百人とともに河のほとりの沢中に行き漁猟した(魚をとったり狩りをしたりした)。

由此陳餘張耳遂有卻

これに由(よ)り、陳余、張耳は遂(つい)に仲たがいを有(ゆう)した。

趙王歇復居信都

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趙王歇復居信都張耳從項羽諸侯入關

趙王趙歇はまた信都に住んだ。趙丞相張耳は楚上将軍項羽と諸侯に従って関に入った。

漢元年二月項羽立諸侯王張耳雅游

漢元年二月、西楚覇王項羽は諸侯、王を立て、趙丞相張耳はよく人とつきあい、

人多為之言項羽亦素數聞張耳賢

人の多くがこの言(げん)を為し、西楚覇王項羽もまた素(もと)よりたびたび趙丞相張耳の賢さを聞いており、

乃分趙立張耳為常山王治信都信都更名襄國

そこで趙を分けて趙丞相張耳を立てて(趙地の)常山王と為し、信都で治(おさ)めさせた。信都は名を襄国と改(あらた)めた。

陳餘客多說項羽曰陳餘張耳一體有功於趙

陳余の食客の多くが西楚覇王項羽に説(と)いた曰く、「陳余、張耳一体で趙に於いて功が有ったのです」と。

項羽以陳餘不從入關聞其在南皮

西楚覇王項羽は陳余が入関に従わなかったことを以ってして、その南皮に在(あ)るを聞き、

即以南皮旁三縣以封之而徙趙王歇王代

すぐに南皮の傍(かたわ)らの三つの県(河間の趙の地)を以ってこれに封ずるを以ってし、しこうして、趙王趙歇を移(うつ)して代(趙地)で王にした。

張耳之國陳餘愈益怒曰

(趙地の)常山王張耳の国で、(趙地の)成安君陳余はいよいよますます怒(おこ)り曰く、

張耳與餘功等也今張耳王

「張耳とわたしは功績が等(ひと)しいのに、今、張耳は王で、

餘獨侯此項羽不平

わたしは侯で、これ、項羽は公平ではない」と。

及齊王田榮畔楚陳餘乃使夏說說田榮曰

斉王田栄が楚に叛(そむ)くに及んで、(趙地の)成安君陳余はすなわち夏説をつかわし斉王田栄に説いた、曰く、

項羽為天下宰不平盡王諸將善地

「(西楚覇王)項羽が天下の為につかさどるは公平ではなく、ことごとく諸(もろもろ)の将軍を善い土地で王にして、

徙故王王惡地今趙王乃居代

古い王を移(うつ)して悪い土地で王にさせ、今、趙王(趙歇)はすなわち代(趙地)に住んでいます。

願王假臣兵請以南皮為捍蔽

願わくは、王(斉王田栄)はわたしに兵を貸して、南皮を以ってふせぎ守らせてください」と。

田榮欲樹黨於趙以反楚乃遣兵從陳餘

斉王田栄は趙に於いて党を立て、楚に叛(そむ)くを以ってすることを欲し、そこで斉兵を遣(つか)わして(趙地の)成安君陳余に従(したが)わせた。

陳餘因悉三縣兵襲常山王張耳

(趙地の)成安君陳余は三県の兵をありったけ出すに因(よ)りて(趙地の)常山王張耳を襲(おそ)った。

張耳敗走念諸侯無可歸者曰

(趙地の)常山王張耳は敗走(はいそう)し、諸侯の帰属するべき者が無いのを思い、曰く、

漢王與我有舊故而項羽又彊

「漢王(劉邦)は我(われ)と昔なじみで有り、しこうして項羽もまた強く、

立我我欲之楚甘公曰

我(われ)を立てた。我(われ)は楚に行くことを欲する」と。甘公曰く、

漢王之入關五星聚東井東井者

「漢王(劉邦)の入関したとき、五星(水星・金星・火星・木星・土星)が東井にあつまりました。
東井とは、

秦分也先至必霸楚雖彊後必屬漢

秦の分野であります。先んじて至(いた)った者が必ず制覇(せいは)するでしょう。楚は強いと雖(いえど)も、後(おく)れたので必ず漢に属(ぞく)することでしょう」と。

故耳走漢漢王亦還定三秦方圍章邯廢丘

故(ゆえ)に張耳は漢に逃走した。漢王(劉邦)もまた三秦を平定しに還(かえ)り、まさに雍王章邯(旧秦将)を廃丘に包囲(ほうい)せんとした。

張耳謁漢王漢王厚遇之

張耳は漢王(劉邦)に謁見(えっけん)し、漢王(劉邦)は厚(あつ)くこれを待遇(たいぐう)した。

陳餘已敗張耳皆復收趙地

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陳餘已敗張耳皆復收趙地

(趙地の)成安君陳余がすでに(趙地の)常山王張耳を破(やぶ)り、皆(みな)趙の地を収(おさ)めてもとに戻(もど)し、

迎趙王於代復為趙王

趙王趙歇を(趙地の)代より迎(むか)え、ふたたび趙王と為した。

趙王陳餘立以為代王

趙王趙歇は(趙地の)成安君陳余を恩(おん)に思い、立てて代王と為すを以ってしたが、

陳餘為趙王弱國初定不之國

(趙地の)成安君陳余は趙王趙歇は国が定まったばかりで弱いと思い、国(代)に行かず、

留傅趙王而使夏說以相國守代

留(とど)まって趙王趙歇に傅(かしず)いた。しこうして、夏説をして相国(官名)を以って代を守(まも)らせた。

漢二年東擊楚使使告趙欲與俱

漢二年、(漢が)東に楚を撃(う)ち、使者をして趙に告げさせ、ともにすることを欲した。

陳餘曰漢殺張耳乃從

趙傅陳余曰く、「漢が張耳を殺せばすなわち従(したが)う」と。

於是漢王求人類張耳者斬之

ここに於いて漢王劉邦は人(ひと)の張耳に似ている者を求めこれを斬(き)り、

持其頭遺陳餘陳餘乃遣兵助漢

その頭を持って趙傅陳余に送った。趙傅陳余はそこで兵を遣(つか)わし漢を助けた。

漢之敗於彭城西陳餘亦復覺張耳不死即背漢

漢の(楚の)彭城西に於いて負(ま)けたとき、趙傅陳余もまた張耳が死んでいないと気がつき、即(すなわ)ち漢に背(そむ)いた。

漢三年韓信已定魏地

漢三年、漢将韓信がすでに魏の地を平定し、

遣張耳與韓信擊破趙井陘斬陳餘泜水上

張耳を遣(つか)わし漢将韓信とともに趙の井陘を撃(う)ち破(やぶ)らせ、趙傅陳余を泜水のほとりで斬(き)った。

追殺趙王歇襄國漢立張耳為趙王

追って趙王趙歇を襄国(旧名信都 趙の都)で殺した。漢は張耳を立てて趙王と為した。

漢五年張耳薨謚為景王

漢五年、趙王張耳が亡くなり、おくり名を趙景王と為した。

子敖嗣立為趙王高祖長女魯元公主為趙王敖后

(趙景王張耳の)子の張敖が継(つ)いで立って趙王に為った。漢高祖劉邦の長女の魯元公主が趙王張敖の后(きさき)に為った。

漢七年高祖從平城過趙

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漢七年高祖從平城過趙

漢七年、漢高祖劉邦は平城から趙に立ち寄り、

趙王朝夕袒韛蔽自上食禮甚卑

趙王張敖は朝と夕方、袒(左の肩の衣をぬぐ礼式)して、ひざかけ(まえだれ)をして(韛蔽(蔽(ひざの前をおおうもの)、韠=ひざかけ より韛=韠?)自(みずか)ら食事を上(のぼ)らせ、礼(れい)は甚(はなは)だへりくだり、

有子婿禮高祖箕踞詈甚慢易之

子の婿(むこ)の礼をした。漢高祖劉邦はあぐらをかいてすわり、罵(ののし)り、甚(はなは)だこれをばかにした。

趙相貫高、趙午等年六十餘,故張耳客也。

趙相の貫高、趙午らは年(とし)六十余才で、以前の張耳の食客である。

生平為氣乃怒曰吾王孱王也

ふだんから気概(きがい)を為し、すなわち怒り曰く、「吾(わ)が王は弱虫な王だ」と。

說王曰夫天下豪桀并起能者先立

趙王張敖に説(と)いた曰く、「それ、天下の豪傑(ごうけつ)が並び起(お)こり、才能のある者が先んじて立ちました。

今王事高祖甚恭而高祖無禮請為王殺之

今、王(趙王張敖)は漢高祖(劉邦)に仕(つか)えるは甚(はなは)だ恭(うやうや)しくしながら、
漢高祖(劉邦)は無礼(ぶれい)でした。王(趙王張敖)の為(ため)にこれ(漢高祖劉邦)を殺させてください」と。

張敖齧其指出血曰君何言之誤

趙王張敖はその指(ゆび)を噛(か)みきって血を出し、曰く、「君はどうして誤(あやま)ったことを言うのか。

且先人亡國高祖得復國流子孫

まさに先人(張耳)が国を亡(ほろ)ぼした時、漢高祖(劉邦)を頼(たよ)って復国し得たので、恩(おん)は子孫にも流れ、

秋豪皆高祖力也願君無復出口

ごく微に至る(秋豪=秋毫?)まで皆(みな)漢高祖(劉邦)の力なり。願わくは、君はふたたび口(くち)に出すことなかれ」と。

貫高趙午等十餘人皆相謂曰乃吾等非也

貫高、趙午ら十余人は皆(みな)互いに謂(い)いあい、曰く、「すなわち吾(われ)らがあやまっているのであり、

吾王長者不倍且吾等義不辱

吾(わ)が王は長(た)けた者で、恩(おん)にそむかない。まさに吾(われ)らは辱(はずかし)められないことを義(ぎ)とせんとする。

今怨高祖辱我王故欲殺之何乃汙王為乎

今、漢高祖(劉邦)が我(わ)が王を辱(はずかし)めたことを怨(うら)み、故(ゆえ)にこれを殺すことを欲してどうしてすなわち王の思いを汚(けが)すことになろうか。

令事成歸王事敗獨身坐耳

事(こと)を令(れい)して成功すれば、王に帰(き)し、事(こと)を令して失敗すればただ身(み)みずから罪に問われるのみ」と。
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