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漢八年上從東垣還過趙

漢八年上從東垣還過趙

漢八年、上(うえ 漢高祖劉邦)は東垣より還(かえ)えり、趙に立ち寄った。

貫高等乃壁人柏人要之置廁

趙相貫高らはそこで柏人(県名)で人を避(さ)けて(壁=辟、避?)、要(かなめ)を厠(かわや)に置いた。

上過欲宿心動問曰縣名為何

上(うえ 漢高祖劉邦)は立ち寄って宿(やど)を欲したが、むなさわぎがして問うた、曰く、「県名は何というのか?」と。

曰柏人柏人者

曰く、「柏人です」と。「柏人とは、

迫於人也不宿而去

人に迫(せま)る、である」と。泊(と)まらずに去(さ)った。

漢九年貫高怨家知其謀乃上變告之

漢九年、趙相貫高のかたきの家がその謀(はかりごと)を知り、そこで変事を申し上げてこれを告(つ)げた。

於是上皆并逮捕趙王貫高等

ここに置いて上(うえ)は皆(みな)併(あわ)せて趙王張敖、趙相貫高らを逮捕(たいほ)しようとした。

十餘人皆爭自剄貫高獨怒罵曰

十余人は皆(みな)自(みずか)ら首を掻き斬ろうとうったえたが、趙相貫高ただ一人怒り罵(ののし)って曰く、

誰令公為之今王實無謀而并捕王

「誰(だれ)が令(れい)して公(こう)らにこれ(自剄)を為さしめたか?今、王は実(まこと)に謀(はかりごと)をせずして、王を併(あわ)せ捕(と)らえられた。

公等皆死誰白王不反者

公(こう)らが皆(みな)死んでしまったら、王が叛(そむ)いていないことを明白(めいはく)にするのは誰がするのか」と。

乃轞車膠致與王詣長安治張敖之罪

すなわち護送車は膠(にかわ)が極(きわ)められ、王とともに長安(漢の都)に到着した。趙王張敖の罪(つみ)を取り調べるに、

上乃詔趙群臣賓客有敢從王皆族

上(うえ)はそこで趙の群臣、賓客に敢(あ)えて王に従おうとするものが有れば、皆(みな)族刑にすると詔(みことのり)をしたが、

貫高與客孟舒等十餘人皆自髡鉗

趙相貫高は賓客の孟舒ら十余人とともに、皆(みな)みずから髪(かみ)を切り首かせをはめて、

為王家奴從來貫高至對獄曰

趙王家の奴隷と為って従(したが)いに来た。趙相貫高が至り、獄吏に応(こた)えて曰く、

獨吾屬為之王實不知

「単に吾(わ)が仲間がこれを為したのであって、王(趙王張敖)は実(まこと)に知らなかったのです」と。

吏治榜笞數千刺剟身無可擊者

獄吏はむちでたたくこと数千回、刺(さ)すことするどくして、身(み)に撃(う)つべきものが無くなるまでして取り調べたが、

終不復言呂后數言張王以魯元公主故不宜有此

とうとう言(げん)を覆(くつがえ)さなかった(復=覆?)。呂后(漢高祖劉邦の后)はたびたび
趙王張敖は魯元公主(漢高祖劉邦の長女 趙王張敖の后)の故(ゆえ)を以って、このようなことを有するはよいとしないと言(げん)をした。

上怒曰使張敖據天下豈少而女乎不聽

上(うえ)は怒って曰く、「張敖(趙王張敖)をして天下をおさえるにどうしてなんじの娘を省(かえり)みるだろうか(少=省?)」と、聞き入れなかった。

廷尉以貫高事辭聞上曰

廷尉以貫高事辭聞上曰

漢廷尉が趙相貫高の事の言葉を以って申し上げた。上(うえ)曰く、

壯士誰知者以私問之

「壮士だ。誰か知る者がひそかにこれに問うを以ってせよ」と。

中大夫泄公曰臣之邑子素知之

漢中大夫泄公曰く、「わたしの邑(むら)の人で、素(もと)よりこれを知っています。

此固趙國立名義不侵為然諾者也

これまことに趙国では名分(めいぶん)が侵(おか)されずに、然諾(ぜんだく 承知する)を為す者を立てるのであります」と。

上使泄公持節問之箯輿前

上(うえ)は漢中大夫泄公をして符節を持たせて、竹で編んで作った輿(こし)の前でこれに問わせた。

仰視曰泄公邪泄公勞苦如生平驩

仰(あお)ぎ視(み)て曰く、「泄公か」と。漢中大夫泄公は苦しみをねぎらい平素(へいそ)の如(ごと)くうちとけた。

與語問張王果有計謀不

ともに語(かた)り、趙王張敖が果(は)たして計謀を有(ゆう)したのかいないのか問うた。

高曰人情寧不各愛其父母妻子乎

趙相貫高曰く、「人情(にんじょう)としてむしろその父母、妻子を愛するは格別(かくべつ)ではないでしょうか。

今吾三族皆以論死豈以王易吾親哉

今、吾(われ)の三族(父母、妻子、兄弟)が皆(みな)死罪を定められるを以ってすれば、
どうして王のためを以って吾(わ)が親族にとりかえたりするでしょうかな?

顧為王實不反獨吾等為之

王が実(まこと)に叛(そむ)いておらず、ただ吾(われ)らがこれを為したのだと為したことをかんがみられよ」と。

具道本指所以為者王不知狀

具(つぶさ)に原因、為すを以ってしたところとは王は感知していなかったと語(かた)った。

於是泄公入具以報上乃赦趙王

ここに於いて漢中大夫泄公は入り、具(つぶさ)に報告するを以ってした。上(うえ)はそこで趙王張敖を赦(ゆる)した。

上賢貫高為人能立然諾使泄公具告之

上(うえ)は趙相貫高の人と為りは然諾(ぜんだく)を立てることができて賢(かしこ)いとし、漢中大夫泄公をして具(つぶさ)にこれに告げさせた、

曰張王已出因赦貫高貫高喜曰

曰く、「張王(趙王張敖)はすでに出た」と。因(よ)りて趙相貫高を赦(ゆる)した。趙相貫高は喜んで曰く、

吾王審出乎泄公曰然

「吾(わ)が王は出ることが明らかになったのか?」と。漢中大夫泄公曰く、「然(しか)り」と。

泄公曰上多足下故赦足下

漢中大夫泄公曰く、「上(うえ)は足下(そっか)をほめ、故(ゆえ)に足下(そっか)を赦(ゆる)したのだ」と。

貫高曰所以不死一身無餘者

趙相貫高曰く、「一身に余(あま)すこと無く撃たれても死ななかった理由とは、

白張王不反也今王已出吾責已塞

張王(趙王張敖)が叛(そむ)いていないことを明白(めいはく)にするためでありました。今、王がすでに出て、吾(われ)の責任はすでに満(み)たされ、

死不恨矣且人臣有篡殺之名

死んでも恨(うら)みません。まさに人臣として篡殺(臣下が君主を殺すこと)のうわさが有れば、

何面目復事上哉縱上不殺我

何(なん)の面目(めんぼく)があって上(うえ)にふたたび仕(つか)えましょうかな。たとい上(うえ)が我(われ)を殺さなくとも、

我不愧於心乎乃仰絕骯

我(われ)は心に恥(は)じないでいられましょうか」と。すなわち仰(あお)いでのどを絶ちきり、

遂死當此之時名聞天下

遂(つい)に死んだ。この時に当たり、名は天下に聞こえた。

張敖已出以尚魯元公主故

趙王張敖はすでに出て、魯元公主(漢高祖劉邦の長女)を娶(めと)った故(ゆえ)を以って、

封為宣平侯於是上賢張王諸客以鉗奴從張王入關

封じて漢宣平侯と為した。ここに於いて上(うえ)は、首かせをした奴隷を以って張王(趙王張敖)に従って関に入った諸(もろもろ)の賓客を賢(かしこ)いとし、

無不為諸侯相郡守者

諸(もろもろ)の侯、大臣、郡守に為らない者は無かった。

及孝惠高后文帝

漢孝恵帝劉盈、漢高后呂雉、漢文帝劉恒

孝景時張王客子孫皆得為二千石

漢孝景帝劉啓時に及んで、張王(趙王張敖)の賓客の子孫(しそん)は皆(みな)二千石と為るを得た。

張敖高后六年薨

張敖高后六年薨

趙王張敖は、漢高后呂雉六年に亡くなった。

子偃為魯元王以母呂后女故

子の張偃は魯元王に為った。母の呂后(呂雉)の娘の故(ゆえ)を以って、

呂后封為魯元王元王弱兄弟少

呂后(呂雉)は封じて魯元王と為したのである。魯元王張偃は弱く、兄弟は少なく、

乃封張敖他姬子二人壽為樂昌侯

そこで、趙王張敖の他の姫の子二人に封じ、張寿は楽昌侯と為り、

侈為信都侯高后崩諸呂無道

張侈は信都侯と為った。漢高后呂雉が崩御すると、諸(もろもろ)の呂氏は無道(むどう)になり、

大臣誅之而廢魯元王及樂昌侯信諸侯

漢大臣がこれを誅(ちゅう)し、しこうして、魯元王張偃及び楽昌侯張寿、信諸侯張侈を廃(はい)した。

孝文帝即位復封故魯元王偃為南宮侯續張氏

漢孝文帝劉恒が即位すると、ふたたび前の魯元王張偃を封じて南宮侯と為し、張氏を存続させた。

太史公曰張耳陳餘世傳所稱賢者

太子公曰く、「張耳、陳余は、世が伝えるは賢人として称(たた)えるところの者で、

其賓客廝役莫非天下俊桀

その賓客、召使は、天下の俊桀(しゅんけつ)で非(あら)ざるはなく、

所居國無不取卿相者然張耳

居(きょ)するところの国で、卿相に取られなかった者は無い。然(しか)るに張耳、

陳餘始居約時相然信以死

陳余は以前つづまやかに暮らしていた時、相(あい)信(まこと)を燃(も)やすに死を以ってしたのに、

豈顧問哉及據國爭權卒相滅亡

国に拠(よ)りて権力を争い、とうとう相(あい)滅亡しあったことに及んだのを、(世間は)いったい顧(かえり)みて問(と)うだろうかな。

何鄉者相慕用之誠後相倍之戾也

どうしてさきには誠(まこと)を用(もち)いて相(あい)慕(した)いあったのに、後(のち)には、相(あい)道理にそむいて反しあったのか。

豈非以勢利交哉名譽雖高賓客雖盛

いったい権勢や利益のための交(まじ)わりを以ってしたことはなかったのだろうかな。名誉(めいよ)は高いと雖(いえど)も、賓客は盛んと雖(いえど)も、

所由殆與大伯延陵季子異矣

由(よ)るところは殆(ほとん)ど、(呉の)大伯(太伯)、 延陵の季子とは異(こと)なるのである」と。


今日で史記 張耳陳余列伝は終わりです。明日からは史記 魏豹彭越列伝に入ります。

史記 魏豹彭越列伝 始め

魏豹者故魏諸公子也

魏豹という者は、旧魏国の諸(もろもろ)の公子である。

其兄魏咎故魏時封為寧陵君

その兄の魏咎は、旧魏の時、封じられて寧陵君と為った。

秦滅魏遷咎為家人陳勝之起王也

秦が魏を滅ぼしたとき、寧陵君魏咎は召使と為った。陳勝の王に立ち上がったとき、

咎往從之陳王使魏人周市徇魏地

魏咎はこれに従って往(い)った。陳王(張楚王陳勝)は魏人の周市をつかわし魏の地を求めさせた。

魏地已下欲相與立周市為魏王

魏の地がすでに下(くだ)ると、相(あい)ともに張楚将軍周市を立てて魏王と為すことを欲した。

周市曰天下昏亂忠臣乃見

周張楚将軍周市曰く、「天下が心が乱れて正しい判断ができなくなると、忠臣がすなわち現(あらわ)れるのです。

今天下共畔秦其義必立魏王後乃可

今、天下は共(とも)に秦に叛(そむ)き、その義(ぎ)は必ず魏王の子孫を立てて、すなわち可(か)である」と。

齊趙使車各五十乘立周市為魏王

斉、趙は車をおのおの五十台つかわし、張楚将軍周市を立てて魏王と為そうとしたが、

市辭不受迎魏咎於陳

張楚将軍周市は辞(じ)して受けず、(陳王に従っている)魏咎を陳(旧楚の旧都)より迎(むか)えた。

五反陳王乃遣立咎為魏王

五たび往復して、陳王(張楚王陳勝)はすなわち魏咎を遣(つか)わし立てて魏王と為した。

章邯已破陳王乃進兵擊魏王於臨濟

秦将章邯がすでに陳王(張楚王陳勝)を破(やぶ)ると、すなわち、兵を進めて魏王魏咎を臨済(魏の都)に於いて撃(う)とうとした。

魏王乃使周市出請救於齊楚

魏王魏咎はそこで魏将周市をつかわし斉、楚に出かけさせ救援を請(こ)わせた。

齊楚遣項它田巴將兵隨市救魏

斉、楚は楚将項它、斉将田巴を遣(つか)わし兵を率(ひき)いさせて魏将周市に付き随(したが)って
魏を救援させた。

章邯遂擊破殺周市等軍圍臨濟

秦将章邯は遂(つい)に魏将周市らの軍を撃ち破(やぶ)り殺し、臨済(魏の都)を包囲した。

咎為其民約降約定咎自燒殺

魏王魏咎はその民(たみ)の為(ため)に誓約(せいやく)して降(くだ)った。誓約が定(さだ)まると魏王魏咎は自ら焼身自殺した。

魏豹亡走楚楚懷王予魏豹數千人

魏豹(魏王魏咎の弟)は楚に逃げ走った。楚懐王(義帝)熊心は魏豹に数千人を与(あた)え、

復徇魏地項羽已破秦降章邯

ふたたび魏の地を求めさせた。楚将項羽がすでに秦を破(やぶ)り、秦将章邯を降(くだ)した。

豹下魏二十餘城立豹為魏王

魏豹は魏の二十余の城邑を下(くだ)し、魏豹を立てて魏王と為した。

豹引精兵從項羽入關漢元年

魏王魏豹は精兵(せいへい)を引(ひ)いて楚将項羽に従って関に入った。漢元年、

項羽封諸侯欲有梁地

西楚覇王項羽は諸侯を封じ、梁(魏)の地を有(ゆう)することを欲し、

乃徙魏王豹於河東都平陽為西魏王

そこで、魏王魏豹を河東に移(うつ)して、平陽を都にして西魏王と為した。

漢王還定三秦渡臨晉魏王豹以國屬焉

漢王還定三秦渡臨晉魏王豹以國屬焉

漢王劉邦は還(かえ)って三秦を平定し、臨晋で(河を)渡(わた)った。(西)魏王魏豹は国を以って服属した。

遂從擊楚於彭城漢敗還至滎陽

遂(つい)に従(したが)って彭城(西楚の都)に於いて楚を撃(う)った。漢は敗(やぶ)れ、還(かえ)って栄陽(旧韓地)に至ると、

豹請歸視親病至國即絕河津畔漢

西魏王魏豹は親の病(やまい)を看病(かんびょう)しに帰ることを請(こ)うた。国に至ると、すぐに
河の船着場を絶(た)って漢に叛(そむ)いた。

漢王聞魏豹反東憂楚未及擊

漢王劉邦は西魏王魏豹が叛(そむ)いたことを聞き、まさに東に楚を憂(うれ)え、未(ま)だ撃(う)たないうちに、

謂酈生曰緩頰往說魏豹能下之

酈生(酈食其)に謂(い)った、曰く、「顔色をやわらげて往(ゆ)き西魏王魏豹を説(と)いて、これを下(くだ)すことができたら、

吾以萬戶封若酈生說豹

吾(われ)は一万戸を以ってなんじに封じよう」と。酈生(酈食其)は西魏王魏豹を説(と)いた。

豹謝曰人生一世如白駒過隙耳

西魏王魏豹は謝(しゃ)して曰く、「人生一世代の間(ま)は、若い白馬が隙間(すきま)を過(よ)ぎるが如(ごと)くのみ。

今漢王慢而侮人罵詈諸侯群臣如罵奴耳

今、漢王(劉邦)は得意(とくい)になって人を侮(あなど)り、諸侯、群臣をののしること、奴隷にどなるがごとくのみ。

非有上下禮節也吾不忍復見也

上下の礼節は有(ゆう)しておらず、吾はふたたび見(まみ)えることは我慢できないのである」と。

於是漢王遣韓信擊虜豹於河東傳詣滎陽

ここに於いて漢王劉邦は韓信を遣(つか)わして河東に於いて西魏王魏豹を撃(う)たせ虜(とりこ)にし、馬車を次(つ)いで栄陽(旧韓地)に行かせ、

以豹國為郡漢王令豹守滎陽

西魏王魏豹の国(河東の地)を以って郡と為した。漢王劉邦は西魏王魏豹に令(れい)して栄陽を守らせた。

楚圍之急周苛遂殺魏豹

楚はこれを急いで包囲すると、漢御史大夫周苛(栄陽を守っている仲間)が遂(つい)に魏豹を殺した。

彭越者昌邑人也字仲

彭越者昌邑人也字仲

彭越という者は昌邑(栄陽(旧韓地 それ以前は鄭地)の東北、碭(旧梁(魏)地)の北)の人であり、字(あざな)は仲。

常漁鉅野澤中為群盜

常(つね)に鉅野の沢中で漁(りょう)をしたり、群盗に為ったりしていた。

陳勝項梁之起少年或謂越曰

陳勝、項梁が立ち上がると、少年の或(あ)る者が彭越に謂(い)った、曰く、

諸豪桀相立畔秦仲可以來亦效之

諸(もろもろ)の豪傑(ごうけつ)がつぎつぎと立って秦に叛(そむ)き、仲(彭越)も、集まって来るを以ってまたこれをまねるべきだ」と。

彭越曰兩龍方鬬且待之

彭越曰く、「二匹の龍(りゅう)がまさに戦わんとしており、しばらくこれを待(ま)とう」と。

居歲餘澤少年相聚百餘人

一年余りがたって、(鉅野の)沢の間(あいだ)で、少年たちがつぎつぎと集まること百余人、

往從彭越曰請仲為長

往(い)って彭越に従(したが)った、曰く、「仲(彭越)が長に為ってください」と。

越謝曰臣不願與諸君

彭越は謝(しゃ)して曰く、「わたしは諸君とともにすることを願わない」と。

少年彊請乃許與期旦日日出會

少年たちは強(し)いて請(こ)い、そこで聞き入れた。ともに翌朝日の出の時に集まり、

後期者斬旦日日出十餘人后

約束に後(おく)れた者は斬ると約束した。翌朝の日の出のとき、十余人が後(おく)れた。

後者至日中於是越謝曰臣老

後(おく)れた者たちは日中(にっちゅう)に至った。ここに於いて彭越は謝(しゃ)して曰く、「わたしは年長者で、

諸君彊以為長今期而多後不可盡誅

諸君は強(し)いて長と為すを以ってした。今、約束して多くが後(おく)れ、ことごとく誅(ちゅう)するは不可(ふか)であり、

誅最後者一人令校長斬之

最も後(おく)れた者一人を誅(ちゅう)する」と。指揮長にこれを斬(き)るよう令(れい)した。

皆笑曰何至是請後不敢

皆(みな)笑って曰く、「どうしてそこまでするのですか?これからは敢(あ)えてしませんから」と。

於是越乃引一人斬之設壇祭乃令徒屬

ここに於いて彭越はすなわち一人を引っ張りこれを斬り、壇(だん)を設(もう)けて祭(まつ)り、そこで徒属に令(れい)した。

徒屬皆大驚畏越莫敢仰視

徒属は皆(みな)大いに驚(おどろ)き、彭越を畏(おそ)れ、敢(あ)えて仰(あお)ぎ視(み)るものはなし。

乃行略地收諸侯散卒得千餘人

すなわち行きながら地を略取し、諸侯の散らばった歩兵を収(おさ)め、一千余人を得た。

沛公之從碭北擊昌邑彭越助之

沛公劉邦が碭より北に進み昌邑を撃(う)ち、彭越がこれを助けた。

昌邑未下沛公引兵西

昌邑が未(ま)だ下(くだ)らないうちに、沛公劉邦は兵を引いて西へ進んだ。

彭越亦將其眾居鉅野中收魏散卒

彭越もまたその衆を率(ひき)いて鉅野の中に居(お)り、魏の散じた歩兵を収(おさ)めた。

項籍入關王諸侯還歸彭越眾萬餘人毋所屬

項籍(項羽)が関に入り、諸侯を王にし、帰還(きかん)した。彭越の衆一万余人は属するところがなかった。

漢元年秋齊王田榮畔項王

漢元年秋、斉王田栄が項王(西楚覇王項羽)に叛(そむ)いた。

(漢)乃使人賜彭越將軍印使下濟陰以擊楚

そこで、(斉は)人をつかわし彭越に将軍印を賜(たまわ)らせて、済陰を下(くだ)させて楚を撃(う)つを以ってした。

楚命蕭公角將兵擊越越大破楚軍

楚は楚将蕭公角に兵を率(ひき)いさせ彭越を撃(う)つことを命(めい)じた。彭越は楚軍を大破(たいは)した。

漢王二年春與魏王豹及諸侯東擊楚

漢王二年春、(西)魏王魏豹及び諸侯とともに東に進み楚を撃(う)ち、

彭越將其兵三萬餘人歸漢於外黃

彭越はその兵三万余人を率(ひき)いて外黄に於いて漢に帰属した。

漢王曰彭將軍收魏地得十餘城

漢王劉邦曰く、「彭將軍(彭越)は魏の地を収(おさ)めること十余りの城邑を得た。

欲急立魏後今西魏王豹亦魏王咎從弟也

急いで魏の子孫を立てることを欲する。今、西魏王魏豹もまた魏王魏咎の従弟(いとこ 或いは弟)であり、

真魏後乃拜彭越為魏相國

真(まこと)の魏の子孫だ」と。そこで彭越に官をさずけて魏の相国と為し、

擅將其兵略定梁地

その兵を率(ひき)いるを思うままにさせて、梁(魏)の地を略取して平定させた。

漢王之敗彭城解

漢王之敗彭城解而西也彭越皆復亡其所下城

漢王劉邦が彭城(楚の都 もと宋地)で敗(やぶ)れ包囲を解(と)いて西に進んだ。建成侯魏相国彭越は皆(みな)、その城邑を下(くだ)したところの逃げた者をもとにもどして、

獨將其兵北居河上漢王三年

独(ひと)りその兵を率(ひき)いて北に進み河上に居(い)た。漢王三年、

彭越常往來為漢游兵擊楚絕其後糧於梁地

建成侯魏相国彭越は常(つね)に漢の遊兵と為って行き来し、梁地に於いて楚を撃(う)ち、その背後の食糧を絶(た)った。

漢四年冬項王與漢王相距滎陽

漢四年冬、項王項羽(西楚覇王項羽)は漢王劉邦と栄陽(もと韓地)で対峙(たいじ)した。

彭越攻下睢陽外黃十七城項王聞之

建成侯魏相国彭越は睢陽(もと宋地)、外黄(もと魏地)の十七の城邑を攻(せ)め下(くだ)した。項王項羽(西楚覇王項羽)はこれを聞き、

乃使曹咎守成皋自東收彭越所下城邑

そこで、曹咎を使(つか)わして成皋(もと韓地)を守らせ、自ら東に進み建成侯魏相国彭越が下(くだ)したところの城邑を収(おさ)め、

皆復為楚越將其兵北走穀城漢五年秋

皆(みな)ふたたび楚と為した。建成侯魏相国彭越はその兵を率(ひき)いて北に穀城に逃げ走った。漢五年秋、

項王之南走陽夏彭越復下昌邑旁二十餘城

項王項羽(西楚覇王項羽)は南に陽夏に走り、建成侯魏相国彭越はふたたび昌邑の傍(かたわ)らの二十余城を下(くだ)した。

得穀十餘萬斛以給漢王食

穀物を十余万斛(こく 容量の単位)得て、漢王劉邦の食糧に給するを以ってした。

漢王敗使使召彭越并力擊楚越曰

漢王劉邦は敗(やぶ)れ、使者をつかわし建成侯魏相国彭越を召し寄せさせて力を併(あわ)せて楚を撃(う)とうとした。建成侯魏相国彭越曰く、

魏地初定尚畏楚未可去

「魏の地は定まったばかりで、尚(なお)楚を畏(おそ)れており、未(ま)だ離れるべきではありません」と。

漢王追楚為項籍所敗碧陵乃謂曰

漢王劉邦は楚を追いかけたが、碧陵で項籍(西楚覇王項羽)の敗(やぶ)られるところと為った。そこで謂(い)った、曰く、

諸侯兵不從為之柰何留侯曰

「諸侯兵は従わず、このためにはどうしたらよいか?」と。漢軍師留侯張良(留侯に封ぜられたのは漢六年正月)曰く、

齊王信之立非君王之意信亦不自堅

「斉王韓信の(斉王に)立つは、君王(漢王劉邦)の意(い)では非(あら)ず、斉王韓信もまた自らをかためず。

彭越本定梁地功多始君王以魏豹故

建成侯魏相国彭越は梁の地を本(もと)に平定し、功績が多く、以前、君王(漢王劉邦)は魏王魏豹の故(ゆえ)を以って

拜彭越為魏相國今豹死毋後且越亦欲王

建成侯魏相国彭越に官をさずけ魏相国と為しましたが、今、魏王魏豹が死んで子孫が無く、まさに建成侯魏相国彭越もまた王になることを欲さんとしており、

而君王不蚤定與此兩國約即勝楚

しこうして、君王(漢王劉邦)は早く定めず。この二つの国と約束すれば、すぐに楚に勝ちます。

睢陽以北至穀城皆以王彭相國

睢陽以北より穀城に至るまで、皆(みな)彭相國(建成侯魏相国彭越)を王にするを以ってし、

從陳以東傅海與齊王信齊王信家在楚

陳以東より海につくまで、斉王韓信に与えます。斉王韓信の家は楚に在(あ)り、

此其意欲復得故邑君王能出捐此地許二人

これ、その意はふたたびふるさとの邑を得ることを欲しています。君王(漢王劉邦)はこの地を出して与えると二人に約束することができれば、

二人今可致即不能事未可知也

二人は今、招(まね)くことができます。すなわちできなければ、事(こと)はどうなるかわかりません」と。

於是漢王乃發使使彭越如留侯策使者至

ここに於いて漢王劉邦はすなわち使者を発して、建成侯魏相国彭越をして漢軍師留侯張良の策(さく)の如(ごと)くさせた。漢使者が至り、

彭越乃悉引兵會垓下遂破楚

建成侯魏相国彭越はそこでことごとく兵を引いて垓下に会し、遂(つい)に楚を破り、

(五年)項籍已死春立彭越為梁王都定陶

功籍(西楚覇王項羽)はすでに死んだ。漢六年春、建成侯魏相国彭越を立てて梁王と為し、定陶を都(みやこ)とした。

六年朝陳九年十年皆來朝長安

六年朝陳九年十年皆來朝長安

漢六年、陳(楚の旧都 諸侯を陳に会した)に朝した。漢九年、十年とも皆(みな)長安に朝しに来た。

十年秋陳豨反代地高帝自往擊

漢十年秋、趙相国陳豨が代の地で叛(そむ)いた。漢高帝劉邦が自ら往(い)って撃(う)とうと、

至邯鄲徵兵梁王梁王稱病

(趙の)邯鄲に至り、梁王彭越に兵を召し寄せさせた。梁王彭越は病(やまい)と称(しょう)して、

使將將兵詣邯鄲高帝怒

梁将軍をつかわし兵を率(ひき)いさせて邯鄲に詣(もう)でさせた。漢高帝劉邦は怒(おこ)り、

使人讓梁王梁王恐欲自往謝

人をつかわし梁王彭越をしかり責めた。梁王彭越は恐れ、自ら往(い)って謝(しゃ)することを欲した。

其將扈輒曰王始不往

その(梁)将軍扈輒曰く、「王(梁王彭越)ははじめは往(ゆ)かず、

見讓而往往則為禽矣不如遂發兵反

しかり責められて往(ゆ)くのは、往(ゆ)けば禽囚(きんしゅう)と為るでしょう。遂(つい)に兵を発して叛(そむ)くにこしたことはありません」と。

梁王不聽稱病梁王怒其太仆欲斬之

梁王彭越は聴き入れず、病(やまい)と称(しょう)した。梁王彭越がその太僕(官名)を怒り、これを斬ることを欲した。

太仆亡走漢告梁王與扈輒謀反

梁太僕は漢に逃走し、梁王彭越と梁将扈輒が謀反(むほん)を起こそうとしていると告(つ)げた。

於是上使使掩梁王梁王不覺

ここに於いて上(うえ)は使者をつかわし梁王彭越をとらえさせた。梁王彭越は気がつかず、

捕梁王囚之雒陽有司治反形己具

梁王彭越を捕(とら)え、これを雒陽に繋(つな)いだ。有司(役人)が叛(そむ)いた形跡を取り調べ、すでに(己=已?)具(つぶさ)に取り調べられ、

請論如法上赦以為庶人傳處蜀青衣

法の如(ごと)く罪を定めることを請(こ)うた。上(うえ)は赦(ゆる)し庶人に為すを以ってし、馬車を次(つ)いで蜀(地方名)の青衣に住まわせることにした。

西至鄭逢呂后從長安來欲之雒陽

西に進み鄭に至ると、漢呂后(劉邦の后)が長安より来て雒陽に行こうと欲しているのに出逢った。

道見彭王彭王為呂后泣涕自言無罪

梁王彭越を見て語った。梁王彭越は漢呂后(劉邦の后)に涙(なみだ)を流して泣き、自ら罪が無いことを言い、

願處故昌邑呂后許諾與俱東至雒陽

ふるさとの昌邑に住むことを願った。漢呂后(劉邦の后)は許諾(きょだく)し、ともに東へ進み雒陽に至った。

呂后白上曰彭王壯士今徙之蜀

漢呂后(劉邦の后)は上(うえ)に告げて曰く、「彭王(梁王彭越)は壮士です。今、これを蜀に移せば、

此自遺患不如遂誅之妾謹與俱來

これ、自(みずか)ら患(うれ)いを遺(のこ)します。遂(つい)にはこれを誅(ちゅう)するにこしたことはありません。わたしが謹(つつし)んでともに連れて来ました」と。

於是呂后乃令其舍人彭越復謀反

ここに於いて漢呂后(劉邦の后)はすなわちその舎人に彭越がふたたび謀反をはかっていると告発させた。

廷尉王恬開奏請族之上乃可

漢廷尉王恬開はこれに族刑を請(こ)うを奏上した。上(うえ)はすなわちよいとし、

遂夷越宗族國除

遂(つい)に彭越の一族をたいらげ、国(梁国)は除(のぞ)かれた。

太史公曰魏豹彭越雖故賤然已席卷千里

太史公曰く、「魏豹、彭越は以前は身分が低かったと雖(いえど)も、然(しか)るに千里を席巻(せっけん)し終え、

南面稱孤喋血乘勝日有聞矣

南面して孤(王侯の自称)を称(しょう)した。血をすすって誓(ちか)い勝ちに乗(じょう)じて、
日に日に聞こえを有(ゆう)した。

懷畔逆之意及敗不死而虜囚

反逆の意(い)を懐(いだ)き、敗(やぶ)れるに及んで、死なずして虜囚(りょしゅう)となり、

身被刑戮何哉中材已上且羞其行

身(み)みずから刑戮(けいりく)を被(こうむ)ったのはどうしてだろうかな。中くらいの才能以上の
者ならばまさにその行いを羞(は)じるだろう、

況王者乎彼無異故智略絕人獨患無身耳

況(いわん)や王者ならばなおのことではないか。彼らには特別な理由は無かった、智略(ちりゃく)が人よりすぐれ、単に身(み)が無くなることを患(うれ)えただけである。

得攝尺寸之柄其雲蒸龍變

少しの権力を摂(と)れば、その雲(くも)が蒸(む)されて龍(りゅう)が変生(へんせい)
されることができ、

欲有所會其度以故幽囚而不辭云

その器量(きりょう)を実現できるところ有るを欲したからで、幽囚(ゆうしゅう 牢屋に押し込める)をことさらにしても辞(じ)さずを以ってしたと云(い)う」と。

今日で史記 魏豹彭越列伝は終わりです。明日からは史記 黥布列伝に入ります。

史記 黥布列伝 始め

黥布者六人也姓英氏

黥布という者は、六(楚の地名)の人で、姓名は英氏。

秦時為布衣少年有客相之曰

秦の時代に庶民に為った。少年のとき、これの人相を見た客が有り、曰く、

當刑而王及壯坐法黥

「まさに刑されて王となるべし」と。壮年になる及んで、法に連座して黥刑(いれずみの刑)に処された。

布欣然笑曰人相我當刑而王

英布(黥布)は欣然(きんぜん)とにこにこと喜んで笑って曰く、「人が我(われ)の相(そう)を見てまさに刑されて王となりべしと。

幾是乎人有聞者共俳笑之

ほとんどこれのことだろうか?」と。人の聞く者が有り、共(とも)にたわむれてこれを笑った。

布已論輸麗山麗山之徒數十萬人

英布(黥布)はすでに罪を定められて麗山に送られた。麗山の徒刑者(労役に服させる刑)は数十万人で、

布皆與其徒長豪桀交通

英布(黥布)は皆(みな)その徒刑者長、豪傑とよしみを通じた。

乃率其曹偶亡之江中為群盜

そこでその仲間を率(ひき)いて、江(川名)の中に逃げて群盗(ぐんとう)と為った。

陳勝之起也布乃見番君

陳勝が立ちあがると、英布(黥布)はそこで番君吳芮に見(まみ)え、

與其眾叛秦聚兵數千人

その衆とともに秦に叛(そむ)き、兵を数千人集めた。

番君以其女妻之章邯之滅陳勝

番君以其女妻之章邯之滅陳勝

番君吳芮はその娘を以ってこれに娶(めと)らせた。秦将章邯が張楚王陳勝を滅(ほろ)ぼし、

破呂臣軍布乃引兵北擊秦左右校

呂臣軍を破(やぶ)った。英布(黥布)はそこで兵を引いて北に進み、秦の左右の校尉を撃(う)ち、

破之清波引兵而東

これを清波で破(やぶ)り、兵を引いて東へ進んだ。

聞項梁定江東會稽涉江而西

楚将項梁が江東の会稽を平定したと聞き、江を渉(わた)りて西へ進んだ。

陳嬰以項氏世為楚將乃以兵屬項梁

陳嬰は項氏が代々楚将軍と為っているのを以って、そこで兵を以って楚将項梁に属した。

渡淮南英布蒲將軍亦以兵屬項梁

淮南を渡(わた)り、英布(黥布)、蒲將軍もまた兵を以って楚将項梁に属した。

項梁涉淮而西擊景駒秦嘉等布常冠軍

楚将項梁は淮を渉(わた)りて西に進み、景駒、秦嘉らを撃(う)ち、英布(黥布)は常(つね)に軍に冠(かん)した。

項梁至薛聞陳王定死迺立楚懷王

楚将項梁は薛に至り、陳王(陳勝)が確かに死んだと聞き、すなわち楚懐王熊心を立てた。
 
項梁號為武信君英布為當陽君

楚将項梁は号して武信君と為り、英布(黥布)は号して当陽君と為った。

項梁敗死定陶懷王徙都彭城

項梁が敗(やぶ)れて定陶で死に、楚懐王熊心は都を(盱台から)彭城に移(うつ)した。

諸將英布亦皆保聚彭城

諸将、当陽君英布(黥布)もまた皆(みな)彭城に集まって守った。

當是時秦急圍趙趙數使人請救

ちょうとこの時、秦は急いで趙を包囲し、趙はたびたび人をつかわして救援を請(こ)うた。

懷王使宋義為上將范曾為末將

楚懐王熊心は宋義をして楚上将と為さしめ、范曾をして楚末将と為さしめ、

項籍為次將英在蒲將軍皆為將軍

長安侯(魯公)項籍(項羽)をして楚次将と為さしめ、当陽君英布(黥布)、蒲將軍をしてふたりとも楚将軍になさしめた。

悉屬宋義北救趙及項籍殺宋義於河上

ことごとく楚上将宋義に属して、趙を救援しに北へ進んだ。楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)が楚上将宋義を河上に於いて殺し、

懷王因立籍為上將軍諸將皆屬項籍

楚懐王熊心は 因(よ)りて楚次将長安侯(魯公)項籍(項羽)を立てて楚上将軍と為し、諸将は皆(みな)楚上将魯公項籍(項羽)に属した。

項籍使布先渡河擊秦布數有利

楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は楚将当陽君英布(黥布)をして先(さき)に河を渡らせて秦を撃(う)たせた。楚将当陽君英布(黥布)はたびたび有利となり、

籍迺悉引兵涉河從之遂破秦軍降章邯等

楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)はすなわちことごとく兵を引いて河を渉(わた)り、これに従い、遂(つい)に秦軍を破(やぶ)り秦将章邯らを降(くだ)した。

楚兵常勝功冠諸侯

楚兵は常(つね)に勝ち、功績は諸侯に冠(かん)した。

諸侯兵皆以服屬楚者以布數以少敗眾也

諸侯兵が皆(みな)、楚に服属(ふくぞく)するを以ってしたのは、楚将当陽君英布(黥布)がたびたび
少数の兵を以って大勢の兵を敗(やぶ)るを以ってしたからである。

項籍之引兵西至新安又使布等夜擊阬章邯秦卒二十餘萬人

楚上将長安侯(魯公)項籍(項羽)は兵を引いて西に進み、新安に至った。また、楚将当陽君英布(黥布)をして夜に撃(う)たせしめ秦将章邯の秦の歩兵二十余万人を穴埋めにした。

至關不得入又使布等先從道破關下軍遂得入至咸陽

関に至り、入ることを得(え)ず、また楚将当陽君英布(黥布)らをして先(さき)に間道(かんどう ぬけみち)より関の下(もと)の軍を破(やぶ)らせ、遂(つい)に(関に)入るを得て、咸陽(秦の都)に至った。

布常為軍鋒項王封諸將立布為九江王都

楚将当陽君英布(黥布)は常(つね)に軍の先鋒(せんぽう)と為った。項王(西楚覇王項羽)は諸将を
封じ、楚将当陽君英布(黥布)を立てて九江王と為し、六を都(みやこ)とした。

漢元年四月諸侯皆罷戲下各就國

漢元年四月、諸侯は皆旗を下(お)ろして休み、各(おのおの)は国に就(つ)いた。

項氏立懷王為義帝徙都長沙

項氏(項梁)が立てた楚懐王熊心は楚義帝と為り、都(みやこ)を長沙に移(うつ)した。

乃陰令九江王布等行擊之其八月

そこで、ひそかに九江王英布(黥布)らに令(れい)してこれを撃(う)たせに行かせた。その(漢元年)八月、

布使將擊義帝追殺之郴縣

九江王英布(黥布)は将軍をして楚義帝熊心を撃(う)たせ、追いかけてこれを郴県で殺させた。

漢二年齊王田榮畔楚

漢二年齊王田榮畔楚項王往擊齊

漢二年、斉王田栄は楚に叛(そむ)き、項王(西楚覇王項羽)は往(い)って斉を撃(う)とうとし、

徵兵九江九江王布稱病不往

兵を九江で徴集(ちょうしゅう)しようとしたが、九江王英布(黥布)は病(やまい)を称して往(ゆ)かず、

遣將將數千人行漢之敗楚彭城

将軍を遣(つか)わして数千人を率(ひき)いて行かせた。漢の楚の彭城で敗(やぶ)るに、

布又稱病不佐楚項王由此怨布

九江王英布(黥布)はまた病(やまい)を称して楚を補佐しなかった。項王(西楚覇王項羽)はこれに由(よ)り九江王英布(黥布)を怨(うら)んだ。

數使使者誚讓召布布愈恐不敢往

たびたび使者をつかわしとがめしからせ九江王英布(黥布)を召(め)し寄せさせた。九江王英布(黥布)は愈々(いよいよ)恐れ、敢(あ)えて往(ゆ)かなかった。

項王方北憂齊趙西患漢

項王(西楚覇王項羽)はまさに北に斉、趙を憂(うれ)え、西に漢を患(うれ)え、

所與者獨九江王又多布材

ともにするところの者は一人九江王英布(黥布)のみで、また九江王英布(黥布)の才能を多(た)とし、

欲親用之以故未擊

親しくこれを用いることを欲し、ことさらに未(ま)だ撃(う)たずを以ってした。

漢三年漢王擊楚大戰彭城

漢三年、漢王劉邦は楚を撃(う)ちに大いに彭城で戦ったが、

不利出梁地至虞謂左右曰

不利(ふり)で、梁の地を出て虞に至り、左右の者に謂(い)った、曰く、

如彼等者無足與計天下事

「彼らの如(ごと)くの者はともに天下の事を計(はか)るには足(た)らない」と。

謁者隨何進曰不審陛下所謂

漢謁者(官名)の隨何が進み出て曰く、「陛下(へいか)が謂(い)われるところを審(つまび)らかにしません」と。

漢王曰孰能為我使淮南

漢王劉邦曰く、「誰か我(わ)が為(ため)に淮南に使(つか)いできるだろうか。

令之發兵倍楚留項王於齊數月

これに兵を発して楚に叛(そむ)かせしめ、項王(西楚覇王項羽)を斉に於いて数ヶ月留(とど)めさせれば、

我之取天下可以百全隨何曰

我(われ)の天下を取るは百回を以ってしても全(すべ)てできるだろう」と。漢謁者隨何曰く、

臣請使之乃與二十人俱

「わたしは、これにつかわすことを請(こ)う」と。そこで二十人とともにつれだって、

使淮南至因太宰主之三日不得見

淮南につかわした。至ると、九江太宰(官名)がこれを迎(むか)え、三日間、(王に)見(まみ)えることを得ず。

隨何因說太宰曰王之不見何

漢謁者隨何は因(よ)りて九江太宰に説(と)いた、曰く、「王(九江王英布(黥布))のわたしに見(まみ)えずは、

必以楚為彊以漢為弱此臣之所以為使

きっと楚を以って強いと為し、漢を以って弱いと為しているからでしょう。これが、わたしの使者と為った理由です。

使何得見言之而是邪是大王所欲聞也

わたしをして見(まみ)えるを得さしめ、これを言って是(ぜ)とすれば、これ、大王(九江王英布(黥布))が聞き入れることを欲するところであります。

言之而非邪使何等二十人伏斧質淮南市

これを言って非(ひ)とすれば、わたしら二十人をして淮南の市で処刑台に伏(ふ)さしめ、

以明王倍漢而與楚也

王(九江王英布(黥布))が漢に背(そむ)いて楚とともにすることを明(あき)らかにするを以ってしてください」と。

太宰乃言之王王見之

九江太宰はそこでこれを九江王英布(黥布)に言い、九江王英布(黥布)はこれに見(まみ)えた。

隨何曰漢王使臣敬進書大王御者

隨何曰漢王使臣敬進書大王御者

漢謁隨何曰く、「漢王(劉邦)はわたしをつかわしてつつしんで書状を大王(九江王英布(黥布))御大に進めたのは、

竊怪大王與楚何親也淮南王曰

ひそかに大王(九江王英布(黥布)が、楚とどうして親しいのか不思議に思っていたからです」と。淮南王(九江王英布(黥布))曰く、

寡人北鄉而臣事之隨何曰

「わたしは北面してこれ(西楚覇王項羽)に家臣として仕(つか)えている」と。漢謁隨何曰く、

「大王與項王俱列為諸侯北鄉而臣事之

「大王(九江王英布(黥布))は、項王(西楚覇王項羽)とともに諸侯として列(れっ)し、北面してこれに臣事(しんじ)するは、

必以楚為彊可以託國也項王伐齊

きっと楚を以って強く、国を託(たく)すを以ってするべきだと思っているからでしょう。項王(西楚覇王項羽)は斉を討(う)ちに、

身負板筑以為士卒先

身(み)みずから板筑(へいに用いる板と土を打つきね)を背負(せお)い、士卒のてびきと為るを以ってし、

大王宜悉淮南之眾身自將之

大王(九江王英布(黥布))は宜(よろ)しく淮南の衆をありったけだして、身(み)みずからこれを率(ひき)い、

為楚軍前鋒今乃發四千人以助楚

楚軍の前鋒(さきがけ)と為るべきでしたが、今、すなわち四千人を発して楚を助けるを以ってしました。

夫北面而臣事人者固若是乎

それ、北面して人(ひと)に家臣として仕(つか)えるのは、固(もと)よりこのごとくでありましょうか。

夫漢王戰於彭城項王未出齊也

それ、漢王(劉邦)が彭城(西楚の都)に於いて戦うは、項王(西楚覇王項羽)が未(ま)だ斉を出ていなうちで、

大王宜騷淮南之兵渡淮日夜會戰彭城下

大王(九江王英布(黥布))は宜(よろ)しく淮南の兵を騒(さわ)がせて淮(川名)を渡らせ、日夜(にちや)彭城の下(もと)で会戦(かいせん)するべきでしたが、

大王撫萬人之眾無一人渡淮者

大王(九江王英布(黥布))は一万人の衆を撫(な)でやすんじ、一人として淮を渡る者が無かったのは、

垂拱而觀其孰勝夫託國於人者

腕組みしてなにもせずして、そのどちらが勝つかを観(み)たからでしょう。それ、国を人に託(たく)すのは、

固若是乎大王提空名以鄉楚而欲厚自託

固(もと)よりこのごとくでありましょうか。 大王(九江王英布(黥布))は空虚(きゅうきょ)な名目(めいもく)を提(さ)げて、楚に北面し、厚(あつ)く自ら託(たく)すことを欲するは、

臣竊為大王不取也

わたしはひそかに大王(九江王英布(黥布))の為に得策としないのであります。

然而大王不背楚者以漢為弱也

然(しか)しながら、大王(九江王英布(黥布)) が楚に背(そむ)かないのは、漢を以って弱いと思っているからでしょう。

夫楚兵雖彊天下負之以不義之名

それ、楚兵は強いと雖(いえど)も、天下がこれに不義の聞こえを以って負(お)わせたのは、

以其背盟約而殺義帝也

その盟約に背(そむ)き、そして楚義帝熊心を殺すを以ってしたからであります。

然而楚王恃戰勝自彊漢王收諸侯

然(しか)しながら、楚王(西楚覇王項羽)は戦勝にたのんで自らを強めましたが、漢王劉邦は諸侯を収(おさ)め、

還守成皋滎陽下蜀漢之粟

還(かえ)って成皋、栄陽を守るに、蜀、漢の粟(あわ)を下(お)ろし、

深溝壁壘分卒守徼乘塞楚人還兵

堀(ほり)、壁塁(へきるい とりで)を深くして、歩兵を分(わ)けて塞(とりで)の上に乗って
うかがい守らせました。楚人が兵を還(かえ)すは、

以梁地深入敵國八九百里

間(あいだ)に梁の地を以って、深く敵国(てきこく)に入るは八、九百里(一里150m換算で約120km~135km)で、

欲戰則不得攻城則力不能

戦うことを欲すれば、得られず、城邑を攻(せ)めれば、力は不能(ふのう)で、

老弱轉糧千里之外楚兵至滎陽成皋

老弱(老いた者、弱い者)が食糧を千里の外(そと)に運ばなければなりません。楚兵が栄陽、成皋に至ると、

漢堅守而不動進則不得攻退則不得解

漢は堅(かた)く守って動かず、進めば攻(せ)めるを得(え)ず、退(しりぞ)けば包囲を解(と)くを得(え)ず、

故曰楚兵不足恃也使楚勝漢

故(ゆえ)に曰く、楚兵はたのむに足りません、と。もし、楚が漢に勝てば、

則諸侯自危懼而相救夫楚之彊

すなわち諸侯は自(みずから)を危(あや)ぶみ懼(おそ)れて相(あい)救(すく)いあうでしょう。それ、楚の強は、

適足以致天下之兵耳故楚不如漢

天下の兵を招(まね)き寄せるを以ってして足(た)るに適(かな)うのであって、それのみであります。故(ゆえ)に楚が漢に及(およ)ばずは、

其勢易見也今大王不與萬全之漢而自託於危亡之楚

その情勢は予見(よけん)し易(やす)いです。今、大王(九江王英布(黥布))は万全(ばんぜん)の漢に与(くみ)せずして、自らを危亡の楚に託(たく)すのは、

臣竊為大王惑之臣非以淮南之兵足以亡楚也

わたしはひそかに大王(九江王英布(黥布))の為(ため)に惑(まど)うのです。わたしは淮南の兵が楚を亡(ほろ)ぼすを以ってするに足(た)ると思っているのではありません。

夫大王發兵而倍楚項王必留留數月

それ、大王(九江王英布(黥布))が兵を発して楚に背(そむ)けば、項王(西楚覇王項羽)は必ず(斉に)留(とど)まり、数ヶ月留(とど)まれば、

漢之取天下可以萬全臣請與大王提劍而歸漢

漢の天下を取るは万全(ばんぜん)を以ってすることができるでしょう。わたしは大王(九江王英布(黥布))が剣(つるぎ)を提(さ)げて漢に帰属するに関与することを請(こ)う。

漢王必裂地而封大王又況淮南

漢王劉邦は必ず地を裂(さ)いて大王(九江王英布(黥布))に封じ、また、況(いわん)や、淮南はなおのことであり、

淮南必大王有也故漢王敬使使臣進愚計

淮南は必ず大王(九江王英布(黥布))が有(ゆう)することでしょう。故(ゆえ)に漢王劉邦はつつしんで使者のわたしをつかわし愚計(ぐけい 謙遜の言葉)を進めたのです。

願大王之留意也淮南王曰

願わくは大王(九江王英布(黥布))には、御意に留(とど)めください」と。淮南王(九江王英布(黥布))曰く、

請奉命陰許畔楚與漢未敢泄也

「天命を奉(たてまつ)らせてください」と。ひそかに楚に叛(そむ)いて漢に与(くみ)することを聴きいれ、敢(あ)えて洩(も)らさなかった。

楚使者在方急責英布發兵

楚使者在方急責英布發兵

楚使者が在(あ)り、まさにはげしく九江王英布(黥布)に兵を発するよう求めた。

舍傳舍隨何直入坐楚使者上坐

伝舎(下等の宿舎)に泊(と)まらせた。漢謁者隨何は真っしぐらに入り、楚使者の上座(かみざ)に坐(すわ)った。

曰九江王已歸漢楚何以得發兵

曰く、「九江王(英布(黥布))はすでに漢に帰属し、楚がどうして兵を発させ得るを以ってするのか?」

布愕然楚使者起何因說布曰

九江王英布(黥布)は、愕然(がくぜん)と驚(おどろ)いた。楚使者は立ち上がった。漢謁者隨何は因(よ)りて九江王英布(黥布)を説(と)いた、曰く、

事已搆可遂殺楚使者無使歸

「事(こと)はすでにひきおこされ、遂(つい)には楚使者を殺すべきで、帰させてはならない、

而疾走漢并力布曰如使者教

そして漢に疾走(しっそう)して力を併(あわ)せるのです」と。九江王英布(黥布)曰く、「使者の教(おし)えの如(ごと)く、

因起兵而擊之耳於是殺使者

兵を起(お)こすことに因(よ)りてこれを撃(う)つのみ」と。ここに於いて楚使者を殺した。

因起兵而攻楚楚使項聲龍且攻淮南

兵を起(お)こすことに因(よ)りて楚を攻(せ)めた。楚は楚将項声、楚将龍且をつかわし淮南を攻(せ)めさせた。

項王留而攻下邑數月龍且擊淮南

項王(西楚覇王項羽)は留(とど)まって下邑(梁の地)を攻(せ)めた。数ヶ月して、楚将龍且が淮南を撃(う)ち、

破布軍布欲引兵走漢

九江王英布(黥布)軍を破(やぶ)った。九江王英布(黥布)は兵を引いて漢に逃走しようと欲し、

恐楚王殺之故行與何俱歸漢

楚王(西楚覇王項羽)がこれを殺すことを恐(おそ)れ、故(ゆえ)に漢謁者隨何とつれだって抜け道を行き漢に帰属した。

淮南王至上方踞床洗召布入見

淮南王(九江王英布(黥布))が至ると、上(漢王劉邦)はまさに床にあぐらをかいて足を水で洗わんとしており、九江王英布(黥布)を召し寄せた。入り見(み)て、

布(甚)大怒悔來欲自殺

九江王英布(黥布)は大いに怒り、来たことを悔(く)やみ、自殺を欲した。

出就舍帳御飲食從官如漢王居

退出して宿舎に就(つ)くと、帳(とばり)、御飲食、従官(じゅうかん)は漢王劉邦の住まいの如(ごと)くで、

布又大喜過望於是乃使人入九江

九江王英布(黥布)はまた身にあまる眺(なが)めに大いに喜んだ。ここに於いてすなわち人をつかわし九江に入(はい)らせた。

楚已使項伯收九江兵盡殺布妻子

楚はすでに項伯をして九江兵を収(おさ)め、ことごとく九江王英布(黥布)の妻子を殺した。

布使者頗得故人幸臣將眾數千人歸漢

九江王英布(黥布)の使者は頗(すこぶ)る故人(知り合い)、幸臣を得て、衆数千人を率(ひき)いて漢に帰属させた。

漢益分布兵而與俱北收兵至成皋

漢はいよいよ九江王英布(黥布)の兵を分(わ)けてともにつれだって北に進み、兵を収(おさ)めて成皋に至った。

四年七月立布為淮南王與擊項籍

漢四年七月、九江王英布(黥布)を立てて淮南王と為し、ともに項籍(西楚覇王項羽)を撃(う)った。

漢五年布使人入九江得數縣

漢五年、淮南王英布(黥布)は人をつかわして九江に入らせ、数県を得た。

六年布與劉賈入九江誘大司馬周殷

漢六年、淮南王英布(黥布)は漢将劉賈とともに九江に入り、楚大司馬周殷を誘(さそ)い、

周殷反楚遂舉九江兵與漢擊楚破之垓下

楚大司馬周殷は楚に叛(そむ)いて、遂(つい)に九江兵を挙(あ)げて漢とともに楚を撃(う)ち、これを垓下に破(やぶ)った。

項籍死天下定上置酒

項籍死天下定上置酒

西楚覇王項籍(項羽)が死に、天下は平定され、上(漢高帝劉邦)は酒宴を設けた。

上折隨何之功謂何為腐儒

上(漢高帝劉邦)は、漢謁者隨何の手柄(てがら)を判断し、彼は腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)だと思う、

為天下安用腐儒隨何跪曰

天下の為(ため)にどうして腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)を用いようか、と謂(い)った。漢謁者隨何は跪(ひざまず)いて曰く、

夫陛下引兵攻彭城楚王未去齊也

「それ、陛下が兵を引いて彭城(西楚の都)を攻(せ)めた時、楚王(項羽)は未(ま)だ斉を去(さ)っていないうちで、

陛下發步卒五萬人騎五千

陛下が歩兵五万人、騎兵五千人を発して、

能以取淮南乎上曰不能

淮南を取るを以ってすることができましたか?」と。上(漢王劉邦)曰く、「できなかった」と。

隨何曰陛下使何與二十人使淮南

漢謁者隨何曰く、「陛下はわたしと二十人をつかわし淮南に使(つか)いさせ、

至如陛下之意是何之功賢於步卒五萬人騎五千也

陛下の意(い)の如(ごと)くに至りました。これ、わたしの手柄(てがら)は、歩兵五万人、騎兵五千人よりもまさっているのであります。

然而陛下謂何腐儒為天下安用腐儒何也

然(しか)しながら、陛下はわたしが腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)で天下の為(ため)にどうして腐(くさ)れ儒者(じゅしゃ)を用いようかと謂(い)ったのは、どうしてですか?」と。

上曰吾方圖子之功

上(漢高帝劉邦)曰く、「吾(われ)はまさになんじの手柄(てがら)を図(はか)らんとしよう」と。

乃以隨何為護軍中尉布遂剖符為淮南王

すなわち、漢謁者隨何を以って護軍中尉と為した。九江王英布(黥布)は遂(つい)に剖符(ほうふ 臣下の任命や、爵位を与えるときなどの証拠として行う)され、淮南王と為った。

 
都六九江廬江衡山豫章郡皆屬布

六を都(みやこ)にして、九江、廬江、衡山、豫章郡は皆(みな)、淮南王英布(黥布)に属(ぞく)した。

七年朝陳八年朝雒陽九年朝長安

漢七年、陳に朝した。漢八年、雒陽に朝した。漢九年、長安に朝した。

十一年高后誅淮陰侯布因心恐

漢十一年、漢高后(劉邦の后)が淮陰侯韓信を誅(ちゅう)し、淮南王英布(黥布)は因(よ)りて心から恐(おそ)れた。

 
夏漢誅梁王彭越醢之盛其醢遍賜諸侯

漢十一年夏、漢は梁王彭越を誅(ちゅう)して、これをひしおにして、そのひしおを神前の供え物として遍(あまね)く諸侯に賜(たま)わった。

至淮南淮南王方獵見醢因大恐

(ひしおが)淮南に至り、淮南王英布(黥布)はまさに猟(りょう)をしているときで、ひしおを見て、因(よ)りて大いに恐れ、

陰令人部聚兵候伺旁郡警急

ひそかに人に令(れい)して 兵を集めて区分させ、傍(かたわ)らの郡をうかがわせ、急な変事に備(そな)えさせた。

 

布所幸姬疾請就醫

今日二度目の投稿になります。

布所幸姬疾請就醫醫家與中大夫賁赫對門

淮南王英布(黥布)が寵愛するところの姫(ひめ)が病(やまい)にかかり、医者におもむくことを請(こ)うた。医者の家は淮南中大夫賁赫の家と門(もん)を向かい合わせ、

姬數如醫家賁赫自以為侍中乃厚餽遺

姫がたびたび医者の家に行ったので、淮南中大夫賁赫は自(みずか)ら中(なか)で侍(はべ)ろうと思い、そこで厚く贈り物をして

從姬飲醫家姬侍王從容語次譽赫長者也

姫に従い医者の家で飲んだ。姫が王に侍(じ)したとき、それとなく話しがつづき、淮南中大夫賁赫は長(た)けた者だと誉(ほ)めた。

王怒曰汝安從知之具說狀

淮南王英布(黥布)は怒って曰く、「なんじはどこからこれを知ったのか?」と。具(つぶさ)に状況を説明した。

王疑其與亂赫恐稱病王愈怒欲捕赫

淮南王英布(黥布)はそのともに乱(みだ)れたことを疑(うたが)った。淮南中大夫賁赫は恐れ、病(やまい)を称(しょう)した。淮南王英布(黥布)はいよいよ怒(おこ)り、淮南中大夫賁赫を捕(と)らえようと欲した。

赫言變事乘傳詣長安布使人追不及

淮南中大夫賁赫は変事を言いに、伝車に乗って長安(漢の都)に詣(もう)でた。淮南王英布(黥布)は人をつかわして追いかけたが、追いつかなかった。

赫至上變言布謀反有端可先未發誅也

淮南中大夫賁赫が至り、変事を申し上げ、淮南王英布(黥布)の謀反(むほん)には誅(ちゅう)を発されないうちに先(さき)んずるべきだというきざしが有ると言った。

上讀其書語蕭相國相國曰

上はその書状を読み、蕭何相国に語った。蕭何相国曰く、

布不宜有此恐仇怨妄誣之

「英布がこのようなことをするはずがありません。恐(おそ)らく仇(かたき)が怨(うら)んで、これをでたらめにそしったのでしょう。

請擊赫使人微驗淮南王

賁赫を繋(つな)ぎ、人をつかわしひそかに淮南王を調べさせることを請(こ)う」と。

淮南王布見赫以罪亡上變

淮南王布見赫以罪亡上變

淮南王英布(黥布)は淮南中大夫賁赫が罪を以って逃げたのをまのあたりにして、変事を申し上げ 

固已疑其言國陰事漢使又來

いうまでもなくすでにその国の陰事を言ったと疑(うたが)っていた。漢使者がまた来て、

頗有所驗遂族赫家發兵反

頗(すこぶ)る調べるところ有り、遂(つい)に淮南中大夫賁赫の家を族刑にし、兵を発して叛(そむ)いた。

反書聞上乃赦賁赫以為將軍

報告書が申しあげられ、上(漢皇帝劉邦)はそこで淮南中大夫賁赫を赦(ゆる)し、漢将軍と為すを以ってした。

上召諸將問曰布反為之柰何

上(漢高帝劉邦)は諸(もろもろ)の将軍を召(め)しよせて問(と)うた、曰く、「英布(黥布)が叛(そむ)いたが、この為(ため)にどうしたらよいだろうか?」と。

皆曰發兵擊之阬豎子耳

皆(みな)曰く、「兵を発してこれを撃(う)ち、小僧(こぞう)を穴埋めにするのみ。 

何能為乎汝陰侯滕公召故楚令尹問之

何を為すことができようか」と。汝陰侯滕公は以前の楚の令尹(官名)を召し寄せこれを問(と)うた。

令尹曰是故當反滕公曰

元楚令尹曰く、「これはきっと謀反(むほん)に当たるでしょう」と。 汝陰侯滕公曰く、

上裂地而王之疏爵而貴之南面而

「上(漢高帝劉邦)は地を裂(さ)いてこれを爵位を分けて王にし、これを南面させて貴(とうと)ばせて、

立萬乘之主其反何也

万乗の主(あるじ)に立てたのに、その叛(そむ)くはどうしてなのだろうか?」と。

令尹曰往年殺彭越前年殺韓信

元楚令尹曰く、「先年に梁王彭越を殺し、前年に淮陰侯韓信を殺し、

此三人者同功一體之人也

この三人の者は、同じ手柄、同類の人であり、

自疑禍及身故反耳

自(みずか)ら禍(わざわい)が身(み)に及ぶことを疑(うたが)い、故(ゆえ)に叛(そむ)いただけです。

滕公言之上曰臣客故楚令尹薛公者

汝陰侯滕公はこれを上(漢高帝劉邦)に言った、曰く、「わたしは元楚令尹の薛公という者を食客にしており

其人有籌筴之計可問上乃召見問薛公

その人は画策(かくさく)の計を有(ゆう)し、問(と)うべきです」と。上(漢高帝劉邦)はそこで元楚令尹の薛公を召して見(まみ)え問(と)うた。

薛公對曰布反不足怪也使布出於上計

元楚令尹の薛公は応(こた)えて曰く、「英布の謀反(むほん)は怪(あや)しむに足りません。もし英布が上計を出すとすれば、

山東非漢之有也出於中計

山東は漢の所有ではなくなります。もし中計を出すとすれば、

勝敗之數未可知也出於下計

勝敗(しょうはい)の道理はまだ知ることができません。もし下計を出すとすれば

陛下安枕而臥矣上曰何謂上計

陛下(へいか)は枕(まくら)して横になるを安(やす)んずるでしょう」と。上(漢高帝劉邦)曰く、「上計とはどういうことか?」と。

令尹對曰東取吳西取楚

元楚令尹薛公は応えて曰く、「東に呉を取り、西に楚を取り、

并齊取魯傳檄燕趙固守其所

斉を併せて魯を取り、燕、趙にふれぶみを伝え、固くその所を守らせれば、

山東非漢之有也何謂中計

山東は漢の所有ではなくなるのです」と。「中計とはどういうことか?」と。

東取吳西取楚并韓取魏據敖庾之粟

「東に呉を取り、西に楚を取り、韓を併せて魏を取り、敖庾の粟(あわ)に拠(よ)り、

塞成皋之口勝敗之數未可知也

成皋(地名)の口(くち)を塞(ふさ)ぎ、勝敗(しょうはい)の道理はまだ知ることができません。

何謂下計東取吳西取下蔡

「下計とはどういうことか?」と。「東に呉を取り、西に下蔡を取り、

歸重於越身歸長沙陛下安枕而臥

越(えつ)を重(おも)んじて帰属し 身(み)みずから長沙に帰属すれば、 陛下は枕(まくら)して横になるを安(やす)んじ、

漢無事矣上曰是計將安出

漢は無事(ぶじ)です」と。上(漢高帝劉邦)曰く、「ここに計はまさにいずこを出さんとするのか?」と。

令尹對曰出下計上曰

元楚令尹薛公は応(こた)えて曰く、「下計を出すでしょう」と。上(漢高帝劉邦)曰く、

何謂廢上中計而出下計令尹曰

「上、中の計を廃(はい)して下計を出すはどういうことか?」と。元楚令尹薛公曰く、

布故麗山之徒也自致萬乘之主此皆為身

「英布(黥布)は以前は麗山の徒刑者でしたが、自ら万乗(ばんじょう)の主(あるじ)を極(きわ)めました。これ、皆(みな)自身の為(ため)で、

不顧後為百姓萬世慮者也故曰出下計

後(のち)を顧(かえり)みて 百姓、万世(ばんせい)の為(ため)に慮(おもんばか)ることをしない者でありますから、故(ゆえ)に下計を出すといったのです」と。

上曰善封薛公千戶

上(漢高帝劉邦)曰く、「よろしい」と。元楚令尹薛公に一千戸を封じた。

乃立皇子長為淮南王上遂發兵自將東擊布

そこで皇帝の子の劉長を立てて淮南王と為すことにし、上(漢高帝劉邦)は遂(つい)に兵を発して自(みずか)ら率(ひき)いて東に淮南王英布(黥布)を撃った。

布之初反謂其將曰

布之初反謂其將曰

淮南王英布(黥布)の叛(そむ)いたばかりのとき、その将軍に謂(い)った、曰く、

上老矣厭兵必不能來使諸將

「上(漢高帝劉邦)は老(お)いて戦いを厭(いと)い、必ず来ることはできないだろう。諸(もろもろ)の将軍をつかわしても、

諸將獨患淮陰彭越今皆已死餘不足畏也

諸(もろもろ)の将軍はただ、淮陰侯韓信、梁王彭越を患(うれ)えただけで、今ふたりともすでに死んでしまい、他(ほか)の者は畏(おそ)れるに足(た)りない」と。

故遂反果如薛公籌之東擊荊

故(ゆえ)に遂(つい)に叛(そむ)いた。果(は)たして元楚令尹の薛公のはかりごとの如(ごと)く、東に荊を撃(う)ち、

荊王劉賈走死富陵盡劫其兵

荊王劉賈は逃走して富陵で死んだ。ことごとくその兵を強奪(ごうだつ)して、

渡淮擊楚楚發兵與戰徐僮為三軍

淮を渡(わた)り楚を撃った。楚は兵を発してともに徐、僮間に戦い、三軍をつくって、

欲以相救為奇或說楚將曰

相(あい)救(すく)いあうを以ってするに奇計を為(な)そうと欲した。或(あ)る者が楚将軍に説(と)いた曰く、

布善用兵民素畏之且兵法

「英布(黥布)は用兵(ようへい)にすぐれ、民(たみ)は素(もと)よりこれを畏(おそ)れています。且(か)つ兵法(ひょうほう)では、

諸侯戰其地為散地今別為三彼敗吾一軍

諸侯がその地で戦えば、(諸侯は)権勢(けんせい)の無い立場と為(な)る、と。今、別(わ)けて三つの軍をつくり、彼が吾(わ)が一軍を敗(やぶ)れば、

餘皆走安能相救不聽

残りの軍は皆(みな)逃げ走り、どうして相(あい)救(すく)うことができましょうか」と。(楚将は)聞き入れなかった。

布果破其一軍其二軍散走

淮南王英布(黥布)は果たしてその一軍を破(やぶ)り、その二軍は散じて逃げ走った。

遂西與上兵遇蘄西會甀

遂(つい)に西へ進み、上(漢高帝劉邦)の兵と蘄の西の会甀で遭遇(そうぐう)した。

布兵精甚上乃壁庸城望布軍置陳如項籍軍

淮南王英布(黥布)の兵は精鋭ぞろいで、上(漢高帝劉邦)はそこで庸城で防御し、淮南王英布(黥布)軍が項籍(項羽)軍の如く並べ置かれているのを望(のぞ)み見て、

上惡之與布相望見遙謂布曰

上(漢高帝劉邦)はこれを憎(にく)んだ。淮南王英布(黥布)と互いに望(のぞ)み見て、遙(はる)か向こうの淮南王英布(黥布)に謂(い)った、曰く、

何苦而反布曰欲為帝耳

「何を苦しんで叛(そむ)いたのか」と。曰く淮南王英布(黥布)、「皇帝に為ることを欲しただけだ」と。

上怒罵之遂大戰布軍敗走渡淮

上(漢高帝劉邦)はこれを怒(おこ)り罵(ののし)り、遂に大いに戦った。淮南王英布(黥布)軍は敗走し、淮を渡って、

數止戰不利與百餘人走江南

たびたび戦いを止(と)めた。、不利(ふり)になり、百余人とともに江南に逃げ走った。

布故與番君婚以故長沙哀王使人紿布

淮南王英布(黥布)は以前、番君吳芮と縁組をした(番君吳芮の娘を娶った)ので、故(ゆえ)を以ってして、長沙哀王呉回(番君吳芮の孫)は人をつかわして淮南王英布(黥布)をあざむかせ、
  
偽與亡誘走越故信而隨之番陽

偽(いつわ)ってともに逃げ、越(えつ)に走ろうと誘(さそ)った。故(ゆえ)に信じ、番陽について行った。

番陽人殺布茲鄉民田舍遂滅黥布

番陽人が 淮南王英布(黥布)を茲鄉(村名)の民(たみ)のいなか家で殺して、遂(つい)に黥布(淮南王英布)を滅(ほろ)ぼした。

立皇子長為淮南王封賁赫為期思侯

皇帝の子の劉長を立てて淮南王と為(な)し、漢将軍賁赫(もと淮南中大夫賁赫)を封じて期思侯と為した。

諸將率多以功封者

諸(もろもろ)の将軍の率(ひき)いて、功を以って封ぜられた者は多かった。

太史公曰英布者其先豈春秋所見楚滅英六皋陶之後哉

太史公曰く、「英布(黥布)とは、その先祖(せんぞ)はなんと春秋に見られるところの、楚が英、六を滅ぼしたとあり、皋陶(人名)の子孫かな?

身被刑法何其拔興之暴也

身(み)みずから刑法を被(こうむ)りながら、なんとそのきわだって盛んになることの速かったことか。

項氏之所阬殺人以千萬數而布常為首虐

項氏の人を殺して穴埋めにするところは千、万を以って数(かぞ)えたが、英布(黥布)は常(つね)に首虐(しゅぎゃく 悪人のかしら)と為った。

功冠諸侯用此得王亦不免於身為世大僇

功績は諸侯に冠(かん)し、これによって王になるを得たが、また、身(み)みずからに於いて世(よ)の大いなるはずかしめと為るを免(まぬか)れなかった。

禍之興自愛姬殖妒媢生患竟以滅國!

禍(わざわい)の寵愛する姫(ひめ)より興(おこ)って増殖(ぞうしょく)するは、ねたみが患(うれ)いを生(う)み、とうとう国を滅(ほろ)ぼすを以ってした」と。

今日で史記 黥布列伝は終わりです。明日からは史記 淮陰侯列伝に入ります。

史記 淮陰侯列伝 始め

淮陰侯韓信者淮陰人也始為布衣時

淮陰侯韓信という者は、淮陰の人である。以前、官位の無かった時、

貧無行不得推擇為吏又不能治生商賈

貧(まず)しくみもちが無く、推選(すいせん)を得て役人に為れず、また、商売をして生活をととのえることもできず、

常從人寄食飲人多厭之者

常(つね)に人から飲食をたよって、人はこれを厭(いと)う者が多かった。

常數從其下鄉南昌亭長寄食數月

常(つね)にたびたびその下郷の南昌亭長から食事をたより、数か月して、

亭長妻患之乃晨炊蓐食食時信往

南昌亭長の妻がこれを患(うれ)え、そこで朝早くごはんごしらえをして、朝早くねどこの中で朝食をすませた。食事時に韓信が往(ゆ)くと、

不為具食信亦知其意怒竟絕去

食事を用意することをしなかった。韓信もまた、その意(い)を知り、怒ってとうとう絶交して去った。

信釣於城下諸母漂有一母見信饑

韓信が城下に於いて釣(つ)りをしていたとき、諸(もろもろ)の年配の女性たちが、古いわたを水にさらしており、一人の年配女性で韓信の餓(う)えているのを見た者が有り、

飯信竟漂數十日信喜謂漂母曰

韓信に食べさせること、水に古いわたをさらし終えるまで数十日。韓信は喜んで、古いわたを水にさらしている年配の女性に曰く、

吾必有以重報母母怒曰

「吾(われ)は必ずおかあさんに厚く報(むく)いるを以ってすることが有るでしょう」と。年配の女性は怒って曰く、

大丈夫不能自食吾哀王孫而進食豈望報乎

「大きな一人前の男子が自ら食することができないので、吾(われ)は王孫(貴族の若い子弟)を哀(あわ)れんで食事を進めたので、どうして返礼を望みましょうか」と。

淮陰屠中少年有侮信者曰

淮陰の屠殺業の少年で韓信を侮(あなど)る者が有り、曰く、

若雖長大好帶刀劍中情怯耳

「なんじは背が高くて大きく、刀剣(とうけん)を帯(お)びることを好んでいるが、心情は怯(おび)えているだけだろう」と。

眾辱之曰信能死刺我

これを多くの人の前で辱(はずかし)めようと曰く、「おまえが殺すことができれば、我(われ)を刺(さ)せ。

不能死出我袴下於是信孰視之

殺すことができなければ、我(われ)の袴(はかま)の下をくぐれ」と。ここに於いて韓信はこれを熟視(じゅくし)して、

俛出袴下蒲伏一市人皆笑信以為怯

ふして袴(はかま)の下をよつんばいになってくぐった。一様(いちよう)に市の人々は皆(みな) 韓信を笑い、臆病(おくびょう)者だと思った。

及項梁渡淮信杖劍從之

及項梁渡淮信杖劍從之

楚将項梁が淮を渡(わた)るに及んで、韓信は剣を杖(つえ)にしてこれに従い、

居戲下無所知名項梁敗

旗下に居(い)たが、名を知られなかった。楚将項梁が敗(やぶ)れ、

又屬項羽羽以為郎中

また楚将項羽に属(ぞく)し、楚将項羽は楚郎中と為すを以ってした。

數以策干項羽羽不用漢王之入蜀

たびたび楚将項羽に策謀(さくぼう)を以ってしたが、楚将項羽は用(もち)いなかった。漢王劉邦が蜀に入り、

信亡楚歸漢未得知名為連敖

楚郎中韓信は楚を逃げて漢に帰属したが、未(ま)だ名を知られ得ないうちに連敖(接待係)と為った。

坐法當斬其輩十三人皆已斬

法に問(と)われ、斬刑に当たり、その輩(ともがら)十三人が皆(みな)すでに斬られ、

次至信信乃仰視適見滕公曰

次に漢連敖韓信に至り、漢連敖韓信はそこで、仰(あお)ぎ視(み)ると、たまたま漢太僕滕公夏侯嬰を見て、曰く、

上不欲就天下乎何為斬壯士

「上(うえ)は天下を就(つ)きしたがえることを欲しないのか?何の為(ため)に壮士を斬るのか」と。

滕公奇其言壯其貌釋而不斬

漢太僕滕公夏侯嬰はその言をすぐれているとし、その容貌を立派だとし、釈放(しゃくほう)して斬らなかった。

與語大說之言於上

ともに語(かた)り、大いにこれを悦(よろこ)び、上(うえ)に於いて言上(ごんじょう)した。

上拜以為治粟都尉上未之奇也

上(うえ)は官をさずけて治粟都尉と為したが、上(うえ)は未(ま)だすばらしいとしなかったのである。

信數與蕭何語何奇之

漢治粟都尉韓信は漢丞相蕭何とともに語(かた)り、漢丞相蕭何はこれをすぐれているとした。

至南鄭諸將行道亡者數十人

至南鄭諸將行道亡者數十人

南鄭に至り、(漢の)諸将は行きながら道々(みちみち)で逃亡した者は数十人。

信度何等已數言上上不我用即亡

漢治粟都尉韓信は漢丞相蕭何らがすでにたびたび言上したが、上(漢王劉邦)は我(われ)を用(もち)いないと考え、すなわち逃げた。

何聞信亡不及以聞自追之

漢丞相蕭何は漢治粟都尉韓信が逃げたことを聞き、申し上げるを以ってするに及(およ)ばずに、自(みずか)らこれを追(お)った。

人有言上曰丞相何亡

人の言上するものが有り曰く、「丞相(蕭何)が逃げました」と。

上大怒如失左右手居一二日

上(漢王劉邦)は、左右の手(て)を失ったが如(ごと)く、大いに怒った。一、二日たって、

何來謁上上且怒且喜罵何曰

漢丞相蕭何が来て上(漢王劉邦)に謁見(えっけん)し、上(漢王劉邦)は怒りながら一方では喜び、
漢丞相蕭何を罵(ののし)って曰く、

若亡何也何曰

「なんじが逃げたのは、どうしてなのか?」と。漢丞相蕭何曰く、

臣不敢亡也臣追亡者上曰

「わたしは決して逃げたのではなく、わたしは逃げた者を追(お)いかけたのです」と。
上(漢王劉邦)曰く、

若所追者誰何曰韓信也

「なんじが追いかけた所の者は誰なのか?」と。曰く、「韓信であります」と。

上復罵曰諸將亡者以十數

上(漢王劉邦)はふたたび罵(ののし)って曰く、「諸将の逃げた者は十を以って数えたが、

公無所追追信詐也

おぬしが追いかけた所の者は無かった。韓信を追いかけたというのは偽(いつわ)りだろう」と。

何曰諸將易得耳至如信者

漢丞相蕭何曰く、「諸将は簡単に得られて、それのみであります。韓信に如(ごと)くの者に至っては、

國士無雙王必欲長王漢中無所事信

名士(めいし)で二人といません。王(漢王劉邦)が必ず長く漢中で王でいることを欲するなら、韓信を仕(つか)えさせるところはありません。

必欲爭天下非信無所與計事者

かならず天下を争うことを欲するなら、韓信でなければ、ともに事(こと)を計(はか)るところの者はおりません。

顧王策安所決耳王曰

王(漢王劉邦)の計画が、決するところはいずこであるかをかんがみるのみ」と。漢王劉邦曰く、

吾亦欲東耳安能郁郁久居此乎

「吾(われ)はまた東に進むことを欲するのみ。どうして郁々(いくいく)と長(なが)くここ(漢中)に居(お)ることができようか」と。
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