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上愈益貴弘湯弘湯深心疾黯

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上愈益貴弘湯弘湯深心疾黯

上(漢孝武帝劉徹)は愈々(いよいよ)益々(ますます)、漢丞相公孫弘、漢廷尉張湯を貴(とうと)び、漢丞相公孫弘、漢廷尉張湯は漢主爵都尉汲黯を深く心ににくんでおり、

唯天子亦不說也欲誅之以事

天子といえどもまた悦(よろこ)ばなかったのであり、これを誅するに事(こと)を以ってしようと欲した。

弘為丞相乃言上曰右內史界部中多貴人宗室

公孫弘が丞相に為って、すなわち上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「右內史界部中には貴人、宗室が多く、

難治非素重臣不能任請徙黯為右內史

治めることが難(むずか)しく、素(もと)より重臣で非(あら)ざれば、任(まか)せることができません。汲黯を移(うつ)して右内史と為さしめることを請(こ)う」と。

為右內史數歲官事不廢

右内史と為って数年、官の仕事は廃(はい)されなかった。

大將軍青既益尊姊為皇后然黯與亢禮

漢大将軍衛青がすでにますます尊ばれ、姉(衛子夫)が皇后に為ったが、然(しか)るに漢右内史汲黯は対等の礼をとった。

人或說黯曰自天子欲群臣下大將軍

人の或(あ)るものが漢右内史汲黯に説いた、曰く、「天子が群臣に大将軍に下(くだ)ることを欲してより、

大將軍尊重益貴君不可以不拜黯曰

大将軍は尊重されて益々(ますます)貴(とうと)ばれています。君は拝礼(はいれい)せずを以ってするべきではありません」と。漢右内史汲黯曰く、

夫以大將軍有揖客反不重邪

「それ、大将軍を以ってして揖(両手を胸の前で組み合わせておじぎをすること 対等の礼)する客が有れば、反(かえ)って重んじられないのか?」と。

大將軍聞愈賢黯數請問國家朝廷所疑遇黯過於平生

漢大将軍衛青は聞き、愈々(いよいよ)漢右内史汲黯を賢明だとし、たびたび国家、朝廷の疑わしいところを問うことを請(こ)い、漢右内史汲黯を遇(ぐう)するは平生(へいぜい)よりまさっていた。

淮南王謀反憚黯曰

淮南王劉安が謀反(むほん)し、漢右内史汲黯を憚(はばか)って曰く、

好直諫守節死義難惑以非

「直諌を好み、節操を守り義(ぎ)に死し、不正を以って惑(まど)わすことは難(むずか)しい。

至如說丞相弘如發蒙振落耳

丞相公孫弘を説くが如(ごと)くに至っては、物のおおいを取り去り、落ち葉を振(ふ)るい落とすが如(ごと)くたやすいだけだが」と。

天子既數征匈奴有功黯之言益不用

天子(漢孝武帝劉徹)はすでにたびたび匈奴を征伐して功が有り、漢右内史汲黯の言(げん)は益々(ますます)用いられなくなっていった。

始黯列為九卿而公孫弘張湯為小吏

以前、汲黯が九卿に列したとき、しこうして、公孫弘、張湯は小役人に為った。

及弘湯稍益貴與黯同位黯又非毀弘湯等

公孫弘、張湯がしだいに益々(ますます)貴(とうと)ばれてゆき、汲黯と同位になるに及んで、汲黯もまた公孫弘、張湯らをそしった。

已而弘至丞相封為侯湯至御史大夫

しばらくして公孫弘が丞相に至り、封じられて侯に為り、張湯は御史大夫に至り、

故黯時丞相史皆與黯同列或尊用過之

故(ゆえ)に汲黯はこの時、丞相、御史大夫は皆(みな)、漢右内史汲黯と同列で、或(あ)るいは尊用されてこれを越(こ)えるようになり、

黯褊心不能無少望見上前言曰

漢右内史汲黯は心がせまくなり、わずかな怨(うら)みも無くすことができず、上(漢孝武帝劉徹)に見(まみ)えて、前に進み出て言った、曰く、

陛下用群臣如積薪耳后來者居上

「陛下の群臣を用いるは薪(まき)を積(つ)むようなものであるだけで、後から来た者が上(うえ)に居(お)ります」と。

上默然有黯罷上曰

上(漢孝武帝劉徹)は黙然(もくぜん)とだまりこんだ。しばらくして漢右内史汲黯が退出すると、上(漢孝武帝劉徹)は曰く、

人果不可以無學觀黯之言也日益甚

「人は果(は)たして無学(むがく)を以ってするべきではない。汲黯の言(げん)を観(み)ると、日に日に益々(ますます)甚(はなは)だしくなってきている」と。

居無何匈奴渾邪王率眾

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居無何匈奴渾邪王率眾來降漢發車二萬乘

いくばくもたたないうちに、匈奴の渾邪王が衆を率(ひき)いて降服(こうふく)に来た。漢は車二万台を発そうとした。

縣官無錢從民貰馬民或匿馬馬不具

県官は民より馬を貰(もら)う銭が無かった。民の或(あ)るものは馬を匿(かくま)い、馬はそろわなかった。

上怒欲斬長安令黯曰

上(漢孝武帝劉徹)は怒り、長安令を斬ろうと欲した。漢右内史汲黯曰く、

長安令無罪獨斬黯民乃肯出馬

「長安令は無罪です、ただわたしを斬るのみ、民はそこで馬を出すことを承知するでしょう。

且匈奴畔其主而降漢漢徐以縣次傳之

まさに匈奴はその主(あるじ)に叛(そむ)いて漢に降(くだ)らんとして、漢は徐行して、県を以ってこれを送り次(つ)ごうとしていますが、

何至令天下騷動罷獘中國而以事夷狄之人乎

どうして天下に騒動さしめ、中国を疲弊(ひへい)さしめて、夷狄の人に事するを以ってするに至るのでしょうか」と。

上默然及渾邪至賈人與市者坐當死者五百餘人

上(漢孝武帝劉徹)は黙然(もくぜん)と黙(だま)りこんだ。渾邪王が至るに及んで、
商人の市(いち)にあずかった者で死罪に当たると罪に問われた者は五百人。

黯請見高門曰夫匈奴攻當路塞

漢右内史汲黯は間(ま)を請うて、高門(身分の高い人の家)に見(まみ)えて、曰く、「それ、匈奴は要路のとりでを攻(せ)め、

絕和親中國興兵誅之死傷者不可勝計

和親(わしん)を絶(た)ったので、中国は兵を興(おこ)してこれを誅しましたが、死傷者はかぞえきれず、

而費以巨萬百數臣愚以為陛下得胡人

しこうして巨万百数を以って費(つい)やしました。わたしは愚かですが、陛下の為(ため)に胡人を得たら、

皆以為奴婢以賜從軍死事者家;所鹵獲,因予之

皆(みな)奴婢(ぬひ)と為すを以って、従軍して事に死した者の家に賜(たまわ)るを以ってし、

捕虜するところは因(よ)りてこれにあたえ、

以謝天下之苦塞百姓之心

天下の苦労に謝(しゃ)するを以って、百姓の心を満たすことを以ってします。

今縱不能渾邪率數萬之眾來降

今たとえできなくても、渾邪王が数万の衆を率いて来降すれば、

虛府庫賞賜發良民侍養譬若奉驕子

府庫をからにして賞賜し、良民を発して養(やしな)いに侍(はべ)らせれば、たとえると驕子(おごりたかぶった子)を奉(たてまつ)るようなものです。

愚民安知市買長安中物而文吏繩以為闌出財物于邊關乎

愚民は長安中の物を買って市(いち)すれば、文吏が、みだりに財物を辺境の関に持ち出すを以って縄(なわ)にかけることをどうして知りましょうか。

陛下縱不能得匈奴之資以謝天下又以微文殺無知者五百餘人

陛下がたとえ匈奴の天下に謝(しゃ)するを以ってするに資(し)することをでき得ないとしても、また些細な法文を以って無知者五百人を殺せば、

是所謂庇其葉而傷其枝者也臣竊為陛下不取也

これ所謂(いわゆる)、その葉をいたわって、その枝を傷つける、というものであります。わたしはひそかに陛下の為(ため)によくないとおもいます」と。

上默然不許曰吾久不聞汲黯之言今又復妄發矣

上(漢孝武帝劉徹)は黙然(もくぜん)と黙(だま)りこんで、聞き入れず、曰く、「吾(われ)は久しく汲黯の言(げん)を聞かなかったが、今またふたたび妄発(もうはつ 考えなしにでたらめに発する)した」と。

後數月黯坐小法會赦免官於是黯隱於田園

数ヶ月後、漢右内史汲黯は小さな法規に罪を問われ、時に赦(ゆる)されて官を免ぜられた。ここに於いて汲黯は田園に隠居した。

居數年會更五銖錢

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居數年會更五銖錢民多盜鑄錢楚地尤甚

居ること数年して、このとき、五銖銭を改(あらた)め、民の多くが鋳銭を盗み、楚の地が尤(もっと)も甚(はなは)だしかった。

上以為淮陽楚地之郊乃召拜黯為淮陽太守

上は淮陽の為に楚地の郊(天地の祭り)を以ってし、そこで汲黯を召し寄せて官をさずけ淮陽太守と為さしめようとした。

黯伏謝不受印詔數彊予然後奉詔

汲黯は伏(ふ)して謝(しゃ)して印を受けなかったが、詔(みことのり)がたびたび強(し)いてあたえられ、然る後、詔(みことのり)を奉(たてまつ)った。

詔召見黯黯為上泣曰臣自以為填溝壑

詔(みことのり)して汲黯を召し寄せて見(まみ)えたとき、汲黯は上(漢孝武帝劉徹)の為(ため)に泣いて曰く、「わたしは溝(みぞ)堀(ほり)にうずまろうと思ってより、

不復見陛下不意陛下復收用之

ふたたび陛下に見(まみ)えませんでしたが、思いがけなく、陛下がふたたびこれを収(おさ)め用(もち)いられようとなさっていますが、

臣常有狗馬病力不能任郡事臣願為中郎

わたしは常(つね)に犬馬病が有り、力は郡事に任(まか)せることはできません。わたしは願わくは中郎に為り、

出入禁闥補過拾遺臣之願也

禁闥(宮中の小門)に出入りして、拾遺(官名)に過(あやま)ちを補(おぎな)うことがわたしの願いであります」と。

上曰君薄淮陽邪吾今召君矣

上(漢孝武帝劉徹)曰く、「君は淮陽をいやしめるのか?吾(われ)は今に君を召し寄せる。

顧淮陽吏民不相得吾徒得君之重臥而治之

顧(かえり)みて淮陽の吏民は互いにうまくゆかず、吾(われ)はただ君の威重を得るだけで、横になってこれを治(おさ)めよ」と。

黯既辭行過大行李息曰

淮陽太守汲黯が既(すで)に辞(じ)して行き、漢大行李息に立ちよって、曰く、

黯棄居郡不得與朝廷議也

「わたしは郡に棄(す)ておかれ、朝廷の議にあずかることができませんでした。

然御史大夫張湯智足以拒諫詐足以飾非

然(しか)るに御史大夫張湯の智恵は諌(いさ)めを拒(こば)むを以ってするに足(た)り、偽(いつわ)りは不正を飾るを以ってするに足(た)り、

務巧佞之語辯數之辭非肯正為天下言專阿主意

おもねりの話しを巧(たく)みにして、責めしかる言葉で言い争うことに務(つと)め、正を願って天下の為(ため)に言(げん)するのではなく、専(もっぱ)ら主(あるじ)の意に阿(おもね)っています。

主意所不欲因而毀之主意所欲因而譽之

主(あるじ)の意の欲さないところは、因(よ)りてこれをそしり、主(あるじ)の意の欲するところは、因(よ)りてこれを誉(ほ)めます。

好興事舞文法內懷詐以御主心外挾賊吏以為威重

事(こと)を興(おこ)して、法文を乱用することを好(この)み、内(うち)に偽(いつわ)りを懐(いだ)いて主(あるじ)の心を御(ぎょ)するを以ってし、外(そと)に賊吏をかかえて威重と為さしめるを以ってしています。

公列九卿不早言之公與之俱受其僇矣

公は九卿に列し、はやくこれを言上しないと、公はこれとともにそのはずかしめを受けるでしょう」と。

息畏湯終不敢言黯居郡如故治淮陽政清

漢大行李息は漢御史大夫張湯を畏(おそ)れ、終いまで敢(あ)えて言上しなかった。淮陽太守汲黯は
郡に居(きょ)して以前の治(ち)の如(ごと)くし、淮陽の政治は清らかになった。

後張湯果敗上聞黯與息言抵息罪

後に、漢御史大夫張湯が果(は)たして廃(はい)されたとき、上(漢孝武帝劉徹)は淮陽太守汲黯と漢大行李息の言(げん)を聞き、漢大行李息を罪にあてた。

令黯以諸侯相秩居淮陽七歲而卒

汲黯に諸侯相の秩禄(ちつろく)を以って淮陽に住まわせ、七年にして亡くなった。

卒後上以黯故官其弟汲仁至九卿

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卒後上以黯故官其弟汲仁至九卿

亡くなった後、上(漢孝武帝劉徹)は汲黯の故(ゆえ)を以って、その弟の汲仁を官にして九卿に至らしめ、

子汲偃至諸侯相

子の汲偃を諸侯相に至らしめた。

黯姑姊子司馬安亦少與黯為太子洗馬

汲黯の伯母(おば)の子の司馬安もまた幼いとき、汲黯とともに太子の洗馬と為った。

安文深巧善宦官四至九卿以河南太守卒

司馬安の法文は深く、仕官を巧(たく)みに善くし、四度官をさずかって九卿に至り、河南太守を以って亡くなった。

昆弟以安故同時至二千石者十人

兄弟は司馬安の故(ゆえ)を以って、同時に二千石に至った者は十人だった。

濮陽段宏始事蓋侯信信任宏宏亦再至九卿

濮陽の段宏は以前、蓋侯王信(王仲の子 王太后の兄弟)に仕(つか)えたとき、蓋侯王信は段宏を任子(にんし)して、段宏もまた二度九卿に至った。

然衛人仕者皆嚴憚汲黯出其下

然(しか)るに衛人(濮陽は衛に在る 汲黯は濮陽人)の仕(つか)える者は皆(みな)汲黯をうやまい憚(はばか)ったので、その下(もと)で出世したのである。

鄭當時者字莊陳人也

鄭当時という者は字(あざな)は荘で、陳の人である。

其先鄭君嘗為項籍將籍死已而屬漢

その先祖の鄭君は嘗(かつ)て項籍の将軍と為り、項籍が死んで、しばらくして漢に属(ぞく)した。

高祖令諸故項籍臣名籍鄭君獨不奉詔

漢高祖劉邦は諸(もろもろ)の以前の項籍の臣下の名籍(戸籍)を令し、鄭君は一人詔(みことのり)を奉(たてまつら)ず、

詔盡拜名籍者為大夫而逐鄭君鄭君死孝文時

詔(みことのり)してことごとく名籍者に官をさずけて大夫と為さしめたが、しこうして鄭君をしりぞけた。鄭君は漢孝文帝劉恒の時に死んだ。

鄭莊以任俠自喜脫張羽於緦聲聞梁楚之

鄭荘(鄭当時)は任侠(おとこだて)を以って自らを喜び、張羽を牢獄(緦=縲?)より脱出させ、名声は梁、楚の間(あいだ)に聞こえた。

孝景時為太子舍人

漢孝景帝劉啓の時、太子の舎人と為った。

每五日洗沐常置驛馬安諸郊存諸故人

五日ごとに休暇をとり、常(つね)に駅次の馬を置き、諸(もろもろ)の郊(天地の祭り)を安んじ、
諸(もろもろ)の旧友をたずね、

請謝賓客夜以繼日至其明旦常恐不遍

賓客に挨拶をしに、夜も昼を継(つ)ぐを以ってし、その明くる朝に至り、常(つね)に遍(あまね)くしないことを恐(おそ)れた。

莊好黃老之言其慕長者如恐不見

漢太子舎人鄭荘(鄭当時)は黄老の言(げん)を好(この)み、その長者を現(あらわ)れないのを恐れるが如(ごと)く慕(した)った。

年少官薄然其游知交皆其大父行天下有名之士也

年若く、官になって浅く、然るにその遊び交わるは皆(みな)祖父と同輩で、天下の有名な士であった。

武帝立莊稍遷為魯中尉濟南太守江都相至九卿為右內史

漢孝武帝劉徹が立つと、鄭荘(鄭当時)は魯中尉、済南太守、江都相としてだんだんと遷(うつ)り、右内史として九卿に至った。

以武安侯魏其時議貶秩為事遷為大農令

武安侯田蚡(王太后の異父弟)、魏其侯竇嬰(漢孝文帝劉恒の后(きさき)の従兄(いとこ)の子)を以って時に議(ぎ)し、秩禄(ちつろく)を貶(おとし)めて事と為り、遷(うつ)って大農令と為った。

莊為太史誡門下

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莊為太史誡門下客至無貴賤無留門者

漢大農令鄭荘は太史と為って、門下(もんか)に誡(いまし)めた。「客が至ったら、貴賎(きせん)無く、門に留(とど)まる者が無いように」と。

執賓主之禮以其貴下人

賓主の礼を執(と)り、その高い身分を以って人にへりくだった。

莊廉又不治其產業仰奉賜以給諸公

漢太史鄭荘は欲がなく、また、その産業を治(おさ)めず、賜わりものを仰(あお)ぎ奉(たてまつ)り、諸(もろもろ)の公に給(きゅう)するを以ってした。

然其餽遺人不過算器食

然(しか)るに人に贈り物をするは、食器を数(かぞ)えるに過(す)ぎなかった。

每朝候上之說未嘗不言天下之長者

朝するごとに、上(漢孝武帝劉徹)の間(ま)をうかがい、説くは未(いま)だ嘗(かつ)て、天下の長者を言わないことはなかった。

其推轂士及官屬丞史誠有味其言之也常引以為賢於己

その士及び官を推薦して丞相、御史大夫に属させるは、誠(まこと)にそのこれを言うは味(あじ)が有り、常(つね)に引用するに、己(おのれ)より賢(かしこ)いと為すを以ってした。

未嘗名吏與官屬言若恐傷之

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未嘗名吏與官屬言若恐傷之

未(いま)だ嘗(かつ)て役人をいましめた(名(めい)=命(めい)?)ことがなく、官属とともに言って、これを傷つけることを恐れるがごとくした。

聞人之善言進之上唯恐後

人の善言を聞くと、これを上(漢孝武帝劉徹)に進めて、唯(ただ)後(おく)れることを恐れるのみ。

山東士諸公以此翕然稱鄭莊

山東の士、諸(もろもろ)の公はこれを以って翕然(きゅうぜん)と集まって漢大農令鄭荘を称(たた)えた。

鄭莊使視決河自請治行五日

漢大農令鄭荘は河の決壊を視(み)させ、自ら、五日間治めに行くことを請(こ)うた。

上曰吾聞鄭莊行千里不齎糧

上(漢孝武帝劉徹)曰く、「吾(われ)は聞く、鄭荘が行っても、千里は食糧をもたらさない、と。

請治行者何也然鄭莊在朝

治行を請うはどうしてなのか?」と。然(しか)るに漢太史鄭荘は朝廷に在(あ)って、

常趨和承意不敢甚引當否

常(つね)に小走りして、意(い)に和(わ)して承(うけたまわ)り、敢(あ)えて当否(とうひ)を甚(はなは)だしく引かなかった。

及晚節漢征匈奴招四夷

晩年(ばんねん)に及んで、漢が匈奴を征伐し、四方の異民族を招(まね)いた。

天下費多財用益匱

天下は費(ついや)すこと多く、財用(資本)はますますとぼしくなっていった。

莊任人賓客為大農僦人多逋負

漢大農令鄭荘が任子(にんし)した人の賓客が大農僦人と為り、滞納(たいのう)している税が多かった。

司馬安為淮陽太守發其事

司馬安が淮陽太守と為って、その事を発(あば)き、

莊以此陷罪贖為庶人

漢大農令鄭荘はこれを以って罪に陥(おとしい)れられ、罪を購(あがな)って庶人と為った。

頃之守長史

しばらくして守長史となった。

上以為老以莊為汝南太守

上(漢孝武帝劉徹)は老いていると為すを以って、鄭荘を以って汝南太守と為さしめた。

數歲以官卒

数年して官を以って亡くなった。

鄭莊汲黯始列為九卿廉內行修

鄭荘、汲黯は以前、九卿に列したとき、行いが清く、内(うち)にみぞぎを行った。

此兩人中廢家貧賓客益落

これ二人が途中で廃されると、家は貧しくなって、賓客は益々(ますます)落ちぶれた。

及居郡卒後家無餘貲財

郡に居するに及んで、亡くなった後に、家には残った貲財(しざい たから)は無かった。

莊兄弟子孫以莊故至二千石六七人焉

鄭荘の兄弟、子孫は鄭荘の故(ゆえ)を以って、二千石に至ったものが六、七人いた。

太史公曰夫以汲鄭之賢

太史公曰く、「それ、汲黯、鄭荘の賢(かしこ)さを以って、

有勢則賓客十倍無勢則否況眾人乎

勢いが有れば、賓客は十倍に、勢いが無くなればそうではなくなった、況(いわん)や衆人においてはなおさらのことだ。

下邽翟公有言始翟公為廷尉賓客闐門

下邽の翟公に言(げん)が有る、以前、翟公が廷尉に為ったとき、賓客が門に満ちた。

及廢門外可設雀羅

廃されるに及んで、門の外には雀(すずめ)の網(あみ)を設(もう)けることができた。

翟公復為廷尉賓客欲往翟公乃人署其門曰

翟公がふたたび廷尉に為ると、賓客が往くことを欲し、翟公はそこで人にその門に記させて曰く、

一死一生乃知交情

『一死一生して、すなわち交情を知る。

一貧一富乃知交態

一貧一富して、すなわち交態を知る。

一貴一賤交情乃見

一貴一賤して、交情がすなわち現(あらわ)れる』と。

汲鄭亦云悲夫

汲黯、鄭荘(鄭当時)もまたしかじかである。悲(かな)しいかな」と。

今日で史記 汲鄭列伝は終わりです。明日からは史記 儒林列伝に入ります。

史記 儒林列伝 始め

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太史公曰余讀功令至於廣學官之路未嘗不廢書而嘆也

太史公曰く、「わたしは功令を読み、学官の路(みち)をきたえて功(こう)する(広(こう)=功(こう?)に至ると、未(いま)だ嘗(かつ)て書物を閉じて嘆息(たんそく)しないことはなかった。

曰嗟乎夫周室衰而關雎作幽微而禮樂壞

曰く、「ああ、それ周室は衰(おとろ)えて関雎(かんしょ 詩経の最初の詩 周の文王ときさきの夫婦の徳を表したもの)が弱まり(作(さく)=削(さく)?)、周幽王姫宮涅、周王姫胡の時に衰退し礼楽が壊(こわ)れ、

諸侯恣行政由彊國故孔子閔王路廢而邪道興

諸侯は勝手きままに行い、政治は強国に由(よ)った。故(ゆえ)に孔子は、王の路(みち)が廃されて邪道(じゃどう)が興(おこ)ったことをうれえて、

於是論次詩書修起禮樂

ここに於いて詩経、書経を順次(じゅんじ)論(ろん)じ、礼経、楽経を起こし修(おさ)めた。

適齊聞韶三月不知肉味

斉におもむき韶(舜帝が作ったといわれる音楽の名)を聞き、三ヶ月間、肉の味(あじ)をわすれた。

自衛返魯然後樂正雅頌各得其所

衛から魯に返(かえ)り、然(しか)る後に音楽は正され雅(宮廷の格調正しい歌)、頌(祖先をたたえる歌)はおのおのそのところを得た。

世以混濁莫能用是以仲尼干七十餘君無所遇

世の中が混濁(こんだく)するを以って用いられることができず、ここに、仲尼(孔子)を以って七十余りの君に待遇されるところ無く、

曰茍有用我者期月而已矣

曰く、いやしくも我(われ)を用いる者が有れば、丸一年のみあればよい、と。

西狩獲麟曰吾道窮矣

西に狩(か)りして麒麟(きりん)を獲(と)ったとき、曰く、吾(われ)の道(君に用いられること)はゆきづまった、と。

故因史記作春秋以當王法

故(ゆえ)に歴史書に因(よ)りて春秋経を作り、王法に当(あ)てるを以ってし、

其辭微而指博後世學者多錄焉

その言葉は奥深くしておもむきは広く、後世の学者の多くが書き写(うつ)した。

自孔子卒後七十子之徒散游諸侯

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自孔子卒後七十子之徒散游諸侯

孔子が亡くなってより後、七十人の弟子の仲間は諸侯を巡(めぐ)りに散(ち)った。

大者為師傅卿相小者友教士大夫或隱而不見

大者は師、傅、卿、相と為り、小者は士、大夫に教え友となり、或(ある)ものは、隠棲して現(あらわ)れなかった。

故子路居衛子張居陳澹臺子羽居楚

故(ゆえ)に子路は衛に居し、子張は陳に居し、澹臺子羽は楚に居し、

子夏居西河子貢終於齊

子夏は西河に居し、子貢は斉で一生を終えた。

如田子方段干木吳起禽滑釐之屬

田子方、段干木、呉起、禽滑釐の仲間の如(ごと)くは、

皆受業於子夏之倫為王者師

皆(みな)子夏と同類で学問をさずかり、王者の師と為った。

是時獨魏文侯好學

この時、ただ魏文侯魏斯だけが学問を好んだ。

后陵遲以至于始皇天下并爭於戰國

後、だんだとおとろえてゆき、秦始皇帝に至るを以ってして、天下は戦国に於いて並び争った。

懦術既絀焉然齊魯之學者獨不廢也

儒術はすでにしりぞけられ、然るに斉、魯の間では、学者がただ廃さないだけであった。

於威宣之際孟子荀卿之列

斉威王田因斉、斉宣王田辟彊のあいだに於いて、孟子、荀卿の仲間が、

咸遵夫子之業而潤色之以學顯於當世

あまねく孔子の学問にのっとって、これを潤色(じゅんしょく)し、学ぶを以って当世に於いて顕(あきら)かにした。

及至秦之季世焚詩書阬術士六藝從此缺焉

秦の末世に至るに及んで、詩、書を焼き、儒術士を穴埋めにし、六芸(六経?)はこれよりすたれた。

陳涉之王也而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王

陳渉が王になると、しこうして、魯の諸(もろもろ)の儒者は孔子の礼器を持って、陳王(張楚王陳渉)に帰属(きぞく)しに往(い)った。

於是孔甲為陳涉博士卒與涉俱死

ここに於いて孔甲は陳渉の博士と為り、とうとう陳渉とともに死んだ。

陳涉起匹夫驅瓦合適戍旬月以王楚

陳渉は匹夫(ひっぷ)より身を起こし、駆(か)けて国境警備におもむいた人々を瓦(かわら)のように合(あ)わせ、十ヶ月で楚で王になるを以ってした。

不滿半歲竟滅亡其事至微淺

半年も満たないうちにとうとう滅亡し、その事は微浅に至ったが、

然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者何也

然(しか)るに官位身分の高い先生の仲間が孔子の礼器を背負(せお)って身を委(ゆだ)ねて臣下に為りに往(い)ったのは、どうしてなのか?

以秦焚其業積怨而發憤于陳王也

秦がその学問を焼くを以ってして、怨みを積(つ)んで陳王(張楚王陳渉)のもとで発憤(はっぷん)したのである。

及高皇帝誅項籍

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及高皇帝誅項籍舉兵圍魯

漢高皇帝劉邦が項籍(項羽)を誅(ちゅう)するに及んで、兵を挙げ魯を包囲したとき、

魯中諸儒尚講誦習禮樂弦歌之音不絕

魯中のもろもろの儒者は尚(なお)礼楽を繰り返しそらんじて講(こう)じており、弦歌の音は絶(た)えておらず、

豈非聖人之遺化好禮樂之國哉

どうして(魯は)聖人の残した教化で、礼楽を好む国で非(あら)ざるかな。

故孔子在陳曰歸與歸與

故(ゆえ)に孔子は陳に在(あ)って曰く、「帰ろうか、帰ろうか、

吾黨之小子狂簡斐然成章不知所以裁之

吾(われ)のなかまの弟子たちは理想が高すぎて、斐然(ひぜん)と立派に文章を成(な)すが、これを裁(さば)くを以ってするところを知らない」と。

夫齊魯之於文學自古以來其天性也

それ、斉、魯の間は文学に於いて、古(いにしえ)より以来、その天性(てんせい)でなのである。

故漢興然後諸儒始得修其經藝

故(ゆえ)漢が興(おこ)り、然(しか)る後、諸(もろもろ)の儒者はその経芸を修(おさ)めることができ始(はじ)め、

講習大射鄉飲之禮

大射、郷飲の礼をくりかえし講(こう)じたのである。

叔孫通作漢禮儀因為太常

叔孫通は漢の礼儀を作り、因(よ)りて太常と為った。

諸生弟子共定者咸為選首於是喟然嘆興於學

諸(もろもろ)の弟子の儒学者がともに定め、あまねく頭(かしら)に選ばれ、ここに於いて喟然(きぜん)とためいきをついて学問が盛んになったことを称賛(しょうさん)した。

然尚有干戈平定四海亦未暇遑庠序之事也

然(しか)るに尚(なお)四海を平定する戦いが有り、また、未(ま)だ学校の事をするいとまがなかったのである。

孝惠呂后時公卿皆武力有功之臣

漢孝恵帝劉盈、呂后(漢高后呂雉)の時、公卿は皆(みな)武力で功の有った臣下で、

孝文時頗徵用然孝文帝本好刑名之言

漢孝文帝劉恒の時、頗(すこぶ)る徴用(ちょうよう)されて、然(しか)るに漢孝文帝劉恒はもともと刑名(形名)の言(げん)を好んでいた。

及至孝景不任儒者而竇太后又好黃老之術

漢孝景帝劉啓に至り、儒術に任(まか)せなかったのは、しこうして、竇太后もまた黄老の術を好んでいたからで、

故諸博士具官待問未有進者

故(ゆえ)に諸(もろもろ)の博士は官職を具(つぶ)さにして問いを待(ま)ったが、未(いま)だ進み出る者はいなかったのである。

及今上即位趙綰王臧之屬明儒學

今上(漢孝武帝劉徹)が即位するに及んで、趙綰、王臧の仲間が儒学を明らかにし、

而上亦鄉之於是招方正賢良文學之士

しこうして、上(漢孝武帝劉徹)もまたこれに向かい、ここに於いて方正(ほうせい)賢良(けんりょう)の文学の士が招(まね)かれた。

自是之后言詩於魯則申培公

これの後より、魯に於いて詩を言えば、申培公、

於齊則轅固生於燕則韓太傅

斉に於いて言えば轅固先生、燕に於いて言えば、韓太傅。

言尚書自濟南伏生言禮自魯高堂生

尚書を言えば自(おの)ずから、済南の伏先生、礼を言えば自(おの)ずから魯の高堂先生。

言易自菑川田生

易(えき)を言えば、自(おの)ずから、菑川の田先生。

言春秋於齊魯自胡毋生於趙自董仲舒

斉、魯に於いて春秋を言えば自(おの)ずから胡毋先生、趙に於いては自(おの)ずから董仲舒。

及竇太后崩武安侯田蚡為丞相

竇太后が崩ずるに及んで、武安侯田蚡が漢丞相に為り、

絀黃老刑名百家之言

黄老、刑名、百家の言をしりぞけ、

延文學儒者數百人

文学の儒者数百人を延(の)べた。

而公孫弘以春秋白衣為天子三公封以平津侯

しこうして公孫弘は春秋を学ぶ平民を以って、天子の三公と為り、封ぜられるに平津侯を以ってした。

天下之學士靡然鄉風矣

天下の学士は靡然(びぜん)と風に向かってなびき従(したが)ったのである。

公孫弘為學官

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公孫弘為學官悼道之郁滯乃請曰

公孫弘は学官に為って、(学官の)道の郁(文化が盛んなさま)が滞(とどこお)っていることを悼(いた)み、そこで請(こ)うて曰く、

丞相御史言制曰蓋聞導民以禮風之以樂

「丞相、御史は言う、(天子が)制して曰く、思うに民を導(みちび)くに礼を以ってし、これを教化するに音楽を以ってすると聞く。

婚姻者居屋之大倫也今禮廢樂崩朕甚愍焉

婚姻とは、家をおく大倫(たいりん)である。今に礼が廃され、音楽が崩壊すれば、朕は甚(はなは)だうれえるのである。

故詳延天下方正博聞之士咸登諸朝

故(ゆえ)に天下の方正(ほうせい)博聞の士をことごとく延(の)べて、あまねく諸(もろもろ)の朝廷に登(のぼ)らせよ。

其令禮官勸學講議洽聞興禮以為天下先

その礼官に学問を勧(すす)めさせ、洽聞(こうぶん 見聞が広く知識が多いこと)を講義(こうぎ)して礼を興(おこ)し、天下のさきがけと為るを以ってせよ。

太常議與博士弟子崇鄉里之化以廣賢材焉

太常は議(ぎ)して、弟子の博士とともに、郷里の教化を崇(あが)め、賢明な人材を広めるを以ってせよ、と。

謹與太常臧博士平等議曰聞三代之道

謹(つつし)んで太常臧、博士平らとともに議して曰く、三代(夏、殷、周)の(学官の)道を聞くに、

鄉里有教夏曰校殷曰序周曰庠

郷里には教化が有り、夏では校といい、殷では序といい、周では庠といったと。

其勸善也顯之朝廷其懲惡也加之刑罰

その善(ぜん)を勧(すす)めるは、これを朝廷で顕(あきら)かにし、その悪を懲(こ)らしめるは、これに刑罰を加えた。

故教化之行也建首善自京師始由內及外

故(ゆえ)に教化の行いは、善(ぜん)をはじめに建て、京師(都)より始(はじ)め、内(うち)由(よ)り外(そと)に及ぶのである。

今陛下昭至開大明配天地本人倫

今、陛下は至徳を昭(あきら)かにし、大明を開き、天地を支配し、人倫(じんりん)を基礎にし、

勸學修禮崇化賢以風四方太平之原也

学問を勧(すす)め、礼を修(おさ)め、教化を崇(あが)め、賢材をみがき、四方の太平の原に教化するを以ってするのである。

古者政教未洽不備其禮請因舊官而興焉

古(いにしえ)の政教は未(ま)だすみずみまで行きわたっておらず、その礼は備(そな)わっておらず、旧官に因(よ)りて興(おこ)して、

為博士官置弟子五十人復其身

博士の官として弟子五十人を置き、その身(み)を復(ふく)することを請(こ)う。

太常擇民年十八已上儀狀端正者補博士弟子

太常は民の十八歳以上の礼儀の作法の端正(たんせい)な者を択(えら)んで、弟子の博士に補(おぎな)う。

郡國縣道邑有好文學敬長上肅政教

郡国の県のみちみちの邑には、文学を好み、長上を敬(うやま)い、政教をおごそかにし、

順鄉里出入不悖所聞者令相長丞上屬所二千石

郷里にならって、出入りが聞こえるところに悖(もと)らない者が有れば、相長、丞に令して、二千石の所の仲間を上(あ)がらせ、

二千石謹察可者當與計偕詣太常得受業如弟子

二千石は謹(つつし)んで、できる者を見分けて、まさにともに計(はか)らんとして、太常に詣(もう)でさせ、弟子に及んで学業をさずかるを得さしめる。

一歲皆輒試能通一藝以上補文學掌故缺

一年して皆(みな)ことごとく、一芸以上に通じることができるかを試(ため)され、
文学の掌故(礼楽の規則や慣例を扱った役)の欠員を補(おぎな)う。

其高弟可以為郎中者太常籍奏

その高弟(こうてい)の郎中と為るを以ってすることができる者は、太常が記(しる)して奏(かな)でる。

即有秀才異等輒以名聞

すなわち、秀才ですぐれたたぐいが有れば、ことごとく名を以って申し上げられる。

其不事學若下材及不能通一藝輒罷之

その才能の無いもののごとく学問につかえず、及び一芸に通じることができなかった者はことごとくこれをしりぞけ、

而請諸不稱者罰

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而請諸不稱者罰臣謹案詔書律令下者

しこうして、諸(もろもろ)の称(かな)わなかった者の罰を請うのです。わたしは謹(つつし)んで、詔(みことのり)を案(あん)じて、律令を書いて下(くだ)すものは、

明天人分際通古今之義文章爾雅

天人の分際(ぶんざい)を明らかにし、古今(ここん)の義を通(かよ)わせ、文章は正しく美しく、

訓辭深厚恩施甚美小吏淺聞

訓辞(くんじ)は深く厚(あつ)く、恩施は甚(はなは)だ美しいものです。わたしは浅聞(せんぶん)で、

不能究宣無以明布諭下

宣布をきわめることができず、明布を以って諭(さと)し下(くだ)すことはありませんが、

治禮次治掌故以文學禮義為官遷留滯

礼の順次を治(おさ)め、掌故(しきたり)を治(おさ)め、文学、礼義を以って官をつくり、留滯(りゅうたい)を遷(うつ)ししりぞけます。

請選擇其秩比二百石以上及吏百石通一藝以上

その秩禄が二百石以上に比(ひ)する者、及び百石の役人で一芸以上に通じる者を選択(せんたく)して、

補左右內史大行卒史比百石已下補郡太守卒史

左右内史、大行卒史に補(おぎな)い、百石以下に比(ひ)する者は、郡太守の卒史に補(おぎな)い、

皆各二人邊郡一人

皆(みな)おのおの二人づつで、辺境の郡は一人補(おぎな)うことを請(こ)う。

先用誦多者若不足乃擇掌故補中二千石屬

先(さき)んじて用いられてほめたたえられた者は、もし不足すれば、すなわち掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)を択(えら)んで、中二千石の属(ぞく)に補(おぎな)い、

文學掌故補郡屬備員

文學、掌故を択(えら)んで郡属の備員に補(おぎな)います。

請著功令佗如律令制曰可

功令を著(あらわ)して、律令の如(ごと)くに加えることを請(こ)う』と。制して曰く、『よろしい』と。

自此以來則公卿大夫士吏斌斌多文學之士矣

これより以来(いらい)、すなわち公卿、大夫、士、吏は斌斌(ひんひん)と調和して文学の士を多(た)としたのだ」と。

申公者魯人也

申公という者は魯の人である。

高祖過魯申公以弟子從師入見高祖于魯南宮

漢高祖劉邦が魯に立寄ったとき、申公は弟子を以って師(先生)に従(したが)い、漢高祖劉邦に魯南宮において入見した。

呂太后時申公游學長安與劉郢同師

呂太后の時、申公は長安に遊学し、劉郢と同じ師(先生)に学んだ。

已而郢為楚王令申公傅其太子戊

しばらくして劉郢が楚王に為り、申公に令(れい)してその太子劉戊を教育させた。

戊不好學疾申公及王郢卒戊立為楚王胥靡申公

楚太子劉戊は学問を好まず、申公をにくんだ。楚王劉郢が亡くなるに及んで、楚太子劉戊が立って楚王に為り、申公を胥靡(しょび 何もしないこと)した。

申公恥之歸魯退居家教終身不出門

申公はこれを恥(は)じ、魯に帰り、隠居して教え、身を終えるまで門を出ず、

復謝絕賓客獨王命召之乃往

賓客を謝絶(しゃぜつ)してかえし、ただ王命がこれを召せばすなわち往(ゆ)くのみであった。

弟子自遠方至受業者百餘人

弟子の遠方(えんぽう)より学業をさずかりに至った者は百余人。

申公獨以詩經為訓以教無傳(疑)疑者則闕不傳

申公はただ詩経を以って訓(くん)じ教えるを以ってし、うたがわしいものは伝えること無く、疑わしい者はすなわち除(のぞ)いて伝えなかった。

蘭陵王臧既受詩以事孝景帝為太子少傅免去

蘭陵の王臧がすでに詩経をまなび、漢孝景帝劉啓に仕(つか)えるを以って太子少傅と為ったが、免ぜられて去った。

今上初即位臧乃上書宿衛上

今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりの時、王臧はそこで宿衛上で上書し、

累遷一歲中為郎中令

遷(うつ)り進んで、一年以内に郎中令い為った。

及代趙綰亦嘗受詩申公綰為御史大夫

趙綰もまた嘗(かつ)て申公に詩経を学んだことがあり、代(か)えるに及んで、趙綰は御史大夫に為った。

綰臧請天子欲立明堂以朝諸侯

漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧は天子に、明堂を立てて諸侯に朝させるを以ってすることを欲して、請(こ)うた。

不能就其事乃言師申公

その事に就(つ)くことができず、そこで、師(先生)の申公を言った。

於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は使者をつかわし、束帛(そくはく たばねた絹の進物)に璧(へき)を加え、安車(老人、女子用のすわって乗る車)の四頭立て馬車で申公を迎(むか)えさせた。

弟子二人乘軺傳從

弟子二人が軺車(ようしゃ 小さい車)の伝車に乗り継いで従(したが)った。

至見天子天子問治亂之事

至り、天子(漢孝武帝劉徹)に見(まみ)えた。天子(漢孝武帝劉徹)は治乱の事を問うた。

申公時已八十餘老對曰

申公は時にすでに八十余歳で老(お)いており、応(こた)えて曰く、

為治者不在多言顧力行何如耳

「治(ち)を為す者は多言に在(あ)らず、力行の何如(いかん)を顧(かえり)みるのみ」と。

是時天子方好文詞見申公對默然

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまさに文詞を好(この)んでおり、申公の応(こた)えを見て、黙然(もくぜん)とだまりこんだ。

然已招致則以為太中大夫舍魯邸議明堂事

然(しか)るにすでに招致(しょうち)して、すなわち太中大夫と為すを以って、魯邸に住まわせて、
明堂の事を議(ぎ)させた。

太皇竇太后好老子言不說儒術

太皇竇太后(武帝の祖母)は老子の言を好み、儒術をよろこばなかった。

得趙綰王臧之過以讓上上因廢明堂事

漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧の過(あやま)ちを得て、上(漢孝武帝劉徹)に責め叱るを以ってし、
上(漢孝武帝劉徹)は因(よ)りて明堂の事を廃止した。

盡下趙綰王臧吏後皆自殺

ことごとく漢御史大夫趙綰、漢郎中令王臧を役人に下(くだ)して、後に皆(みな)自殺した。

申公亦疾免以歸數年卒

漢太中大夫申公もまたにくまれ免(めん)ぜられて帰るを以ってし、数年して亡くなった。

弟子為博士者十餘人孔安國至臨淮太守

弟子の博士と為った者は十余人、孔安国は臨淮太守に至り、

周霸至膠西內史夏至城陽內史

周霸は膠西内史に至り、夏は城陽内史に至り、

碭魯賜至東海太守蘭陵繆生至長沙內史

碭魯は東海太守に至るを賜(たま)わり、蘭陵の繆生は長沙内史に至り、

徐偃為膠西中尉鄒人闕門慶忌為膠東內史

徐偃は膠西中尉に為り、鄒人の闕門の慶忌は膠東内史に為った。

其治官民皆有廉節稱其好學

その官、民を治(おさ)めるは皆(みな)廉節が有り、その好学を称(たた)えられた。

學官弟子行雖不備而至於大夫郎中掌故以百數

学官の弟子は行いが備(そな)わっていないと雖(いえど)も、しこうして大夫、郎中、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)に至るものは百を以って数えた。

言詩雖殊多本於申公

詩経を言うに異なると雖(いえど)も、多くが申公を本(もと)にした。

清河王太傅轅固生者齊人也

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清河王太傅轅固生者齊人也

清河王の太傅の轅固先生という者は、斉の人である。

以治詩孝景時為博士

詩を治(おさ)めるを以って、漢孝景帝劉啓の時に博士と為った。

與黃生爭論景帝前黃生曰

黄先生と漢孝景帝劉啓の前で論争(ろんそう)した。黄先生曰く、

湯武非受命乃弒也轅固生曰

「殷湯王、周武王は天命をさずかったのでは非(あら)ず、すなわち弒(目上の者を殺す)したのである」と。轅固先生曰く、

不然夫桀紂虐亂天下之心皆歸湯武

「そうではありません。それ、夏桀王、殷紂王が虐乱(ぎゃくらん)で、天下の心は皆(みな)殷湯王、周武王に帰属したのであり、

湯武與天下之心而誅桀紂桀紂之民不為之使而歸湯武

殷湯王、周武王は天下の心とともにして夏桀王、殷紂王を誅(ちゅう)し、夏桀王、殷紂王の民(たみ)はこれの為(ため)に使われずして、殷湯王、周武王に帰属したのです。

湯武不得已而立非受命為何

殷湯王、周武王はやむを得ずして立ったのであって、天命をさずかったのでは非(あら)ずとどうして為すのか?」と。

黃生曰冠雖敝必加於首

黄先生曰く、「冠(かんむり)がぼろぼろになったと雖(いえど)も、必ず頭にほどこされ、

履雖新必關於足何者上下之分也

履(くつ)が新しいと雖(いえど)も、必ず足ですり減らします。何となれば、上下の分(ぶ)なのであります。

今桀紂雖失道然君上也

今、夏桀王、殷紂王が道(みち)を失ったと雖(いえど)も、然るに君上なのであり、

湯武雖聖臣下也

殷湯王、周武王は聖人であると雖(いえど)も、臣下(しんか)なのであります。

夫主有失行臣下不能正言匡過以尊天子

それ、主(あるじ)が行いを失うことが有ったとき、臣下が、言を正しくして過ちをただし、天子を尊ぶを以ってすることができず、

反因過而誅之代立踐南面非弒而何也

かえって過(あやま)ちに因(よ)りてこれを誅(ちゅう)し、代わって立って南向きに位につくは、弒(目上の者を殺す)したのでは非(あら)ざるして何なのでありましょうか?」と。

轅固生曰必若所云是高帝代秦即天子之位非邪

轅固先生曰く、「必ず云(い)うところのごとくであれば、ここに高帝(劉邦)が秦に代わって天子の位についたのは、不正で非(あら)ざるのか?」と。

於是景帝曰食肉不食馬肝不為不知味

ここに於いて漢孝景帝劉啓曰く、「肉を食して、馬の肝(きも)を食べないように、為さなければ味(あじ)を知ることはない。

言學者無言湯武受命不為愚遂罷

学者に言う、殷湯王、周武王の受命を言うことが無ければ、愚(おろ)かには為らない」と。遂(つい)に退出した。

是後學者莫敢明受命放殺者

この後、学者は敢(あ)えて受命、放殺(君主を追い出したり殺したりすること)を明らかにする者はなかった。

竇太后好老子書召轅固生問老子書

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竇太后好老子書召轅固生問老子書

は老子の書を好み、轅固先生を召して老子の書を問うた。

固曰此是家人言耳太后怒曰

先生曰く、「これは一般庶民の言であるだけです」と。竇太后は怒って曰く、

安得司空城旦書乎乃使固入圈刺豕

「いずこに司空の城旦(刑罰名)の書は得られるのか?」と。そこで轅固先生をして檻(おり)に入らせてぶたを刺(さ)させようとした。

景帝知太后怒而固直言無罪乃假固利兵

漢孝景帝劉啓は竇太后が怒ったが、轅固の直言は無罪であると知って、そこで轅固にするどい兵器を貸(か)した。

下圈刺豕正中其心一刺豕應手而倒

檻(おり)に下(お)りてぶたを刺すと、その心臓に正しく中(あた)り、一刺で、ぶたは手並みに応じて倒(たお)れた。

太后默然無以復罪罷之居頃之

竇太后は黙然(もくぜん)とだまりこみ、ふたたび罪するを以ってすることは無く、これを中止した。居ることしばらくして、

景帝以固為廉直拜為清河王太傅久之病免

漢孝景帝劉啓は轅固を以って廉直(れんちょく)だと思い、官をさずけて清河王太傅と為さしめた。しばらくして、病(やまい)にかかり免(めん)ぜられた。

今上初即位復以賢良徵固

今上(漢孝武帝劉徹)が即位したばかりのとき、ふたたび賢良を以って轅固を取り立てた。

諸諛儒多疾毀固曰固老罷歸之

諸(もろもろ)のへつらう儒者の多くが轅固をにくみそしり、曰く、「轅固は老いた」と、これをやめさせて帰らせようとした。

時固已九十餘矣固之徵也

時に轅固はすでに九十余歳で、轅固は徴召に行ったのである。

薛人公孫弘亦徵側目而視固

薛人の公孫弘もまた徴召され、目をそばだてて轅固を視(み)た。

固曰公孫子務正學以言無曲學以阿世

轅固曰く、「公孫氏は、学問を正(ただ)して言を以ってすることに務(つと)め、学問を曲(ま)げて世(よ)におもねるを以ってすること無かれ」と。

自是之後齊言詩皆本轅固生也

これの後より、斉は言う、詩はみな(みな)轅固先生を本(もと)にするのであると。

諸齊人以詩顯貴皆固之弟子也

諸(もろもろ)の詩を以って出世した斉の人は、皆(みな)轅固の弟子なのである。

韓生者燕人也

韓先生という者は燕の人である。

孝文帝時為博士景帝時為常山王太傅

漢孝文帝劉恒の時に博士と為り、漢孝景帝劉啓の時に常山王太傅と為った。

韓生推詩之意而為內外傳數萬言

韓先生は詩の意味をおしはかり、しこうして、内外伝の数万言を作った。

其語頗與齊魯殊然其歸一也

その話しは頗(すこぶ)る、斉と魯の間(あいだ)の殊(すぐれていること)に与(あずか)り、然(しか)るにその一(いつ)に帰(き)しているのである。

淮南賁生受之自是之後

淮南の賁先生はこれを学んだ。これの後より、

而燕趙言詩者由韓生

しこうして、燕と趙の間(あいだ)で詩を言う者は韓先生に由(よ)った。

韓生孫商為今上博士

韓先生の孫の韓商は今上(漢孝武帝劉徹)の博士に為った。

伏生者濟南人也

伏先生という者は済南の人である。

故為秦博士孝文帝時欲求能治尚書者天下無有

以前、秦の博士と為った。漢孝文帝劉恒の時、尚書を治(おさ)めることができる者を求めようと天下の有無(うむ)欲し、

乃聞伏生能治欲召之

そこで、伏先生が治めることができると聞き、これを召し寄せることを欲した。

是時伏生年九十餘老不能行

この時、伏先生の年齢は九十余りで老いており、行くことができず、

於是乃詔太常使掌故晁錯往受之

ここに於いてすなわち、漢太常に詔(みことのり)して、掌故(礼楽の規則や慣例をあつかった役)の晁錯をつかわし、これを学びに往(ゆ)かせた。

秦時焚書伏生壁藏之

秦の時、書を焼き、伏先生はこれを壁(かべ)の中にしまいこんでいた。

其後兵大起流亡漢定伏生求其書

その後、戦いが大いに起こり、さすらって、漢が定まると、伏先生はその書を求(もと)め、

亡數十篇獨得二十九篇即以教于齊魯之

数十篇を亡(な)くし、ただ二十九編のみを得て、すなわち、斉と魯の間(あいだ)で教えるを以ってした。

學者由是頗能言尚書

学者はこれに由(よ)り、頗(すこぶ)る尚書を言うことができるようになり、

諸山東大師無不涉尚書以教矣

諸(もろもろ)の山東の大先生は、尚書を広く見聞せずに教えるを以ってすることは無くなった。

伏生教濟南張生及歐陽生歐陽生教千乘兒

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伏生教濟南張生及歐陽生歐陽生教千乘兒

伏先生は済南の張先生及び歐陽先生に教え、歐陽先生は千乗の兒に教えた。

兒既通尚書以文學應郡舉詣博士受業受業孔安國

兒がすでに尚書に通じ、文学を以って郡の推挙に応じ、博士の授業に詣(もう)で、孔安国に学業を授(さず)かった。

兒貧無資用常為弟子都養及時時行傭賃以給衣食

兒は貧(まず)しく、入用な金品が無く、常に弟子たちの都養に為り、及び、時々合間にやとわれ仕事を行い、衣食を給(きゅう)するを以ってした。

行常帶經止息則誦習之以試第次補廷尉史

行いは常(つね)に経(きょう)を帯(お)びて、休息すればこれをくりかえし読んでおぼえた。試験の第次(だいじ)を以って、廷尉史(刑罰をあつかった官吏)に任用した。

是時張湯方鄉學以為奏讞掾以古法議決疑大獄而愛幸

この時、漢廷尉張湯はまさに学問に向わんとし、罪の判定を奏(かな)でる属官と為すを以って、古(いにしえ)の法を以って大獄の疑いを議決し、漢廷尉史兒をかわいがり愛(め)でた。

為人溫良有廉智自持而善著書

漢廷尉史兒の人と為りは温良(おんりょう)で、廉智が有り、みずからをつかさどり、しこうして、
善く書を著(あらわ)し、

書奏敏於文口不能發明也

書が奏(かな)でられると、文に於いてすばやかったが、口でははっきりと言葉を発することができなかった。

湯以為長者數稱譽之

漢廷尉張湯は長者だと思い、たびたびこれを誉(ほ)め称(たた)えた。

及湯為御史大夫以兒為掾薦之天子

漢廷尉張湯が漢御史大夫に為るに及んで、漢廷尉史兒を以って属官と為し、天子(漢孝武帝劉徹)に推薦(すいせん)した。

天子見問說之張湯死后六年兒位至御史大夫

天子(漢孝武帝劉徹)は問いに見(まみ)え、これをよろこんだ。漢御史大夫張湯の死後六年で、兒の地位は漢御史大夫に至った。

九年而以官卒在三公位以和良承意從容得久然無有所匡諫

九年にして、官を以って亡くなった。兒は三公の地位に在(あ)って、和(わ)を以って意(い)を良く承(うけたまわ)り、従容(しょうよう)として久(ひさ)しくするを得たが、然(しか)るに諌(いさ)め匡(ただ)すところを有することは無かったので、

於官官屬易之不為盡力張生亦為博士

官、官属に於いてこれをあなどり、力を尽くすことを為さなかった。済南の張先生もまた博士と為った。

而伏生孫以治尚書徵不能明也

しこうして、伏先生の孫は尚書を治めるを以って徴召されたが、出世することはできなかった。

自此之後魯周霸孔安國雒陽賈嘉頗能言尚書事

これの後より、魯の周霸、孔安國、雒陽の賈嘉が頗(すこぶ)る尚書の事を言うことができた。

孔氏有古文尚書而安國以今文讀之因以起其家

孔氏は古(いにしえ)の文字の尚書を有(ゆう)し、しこうして孔安国は今(いま)の文字を以ってこれを読み、因(よ)りてその家門を起こすを以ってした。

逸書得十餘篇蓋尚書滋多於是矣

逸書(いつしょ)の十余篇を得て、思うに尚書はこれよりさらに多くなった。

諸學者多言禮而魯高堂生最本

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諸學者多言禮而魯高堂生最本

諸(もろもろ)の学者の多くが礼(れい)を言い、しこうして、魯の高堂先生が最も本(もと)である。

禮固自孔子時而其經不具及至秦焚書

礼は固(もと)より孔子のときより、しこうして、その経(きょう)は具(そな)わっておらず、秦の焚書(ふんしょ)に至って、

書散亡益多於今獨有士禮高堂生能言之

書は散亡(さんぼう)することますます多く、今に於いては、ただ士礼が有るのみで、高堂先生がこれを言うことができた。

而魯徐生善為容孝文帝時徐生以容為禮官大夫

しこうして、魯の徐先生が作法(さほう)を為すに善(よ)くした。漢孝文帝劉恒の時、徐先生は作法を以って礼官大夫と為った。

傳子至孫延徐襄襄其天姿善為容不能通禮經

子に伝(つた)え、孫(まご)の徐延、徐襄に至った。徐襄は、そのうまれつきの性質が作法を為すに善(よ)くしたが、礼経に通じることはできなかった。

延頗能未善也襄以容為漢禮官大夫至廣陵內史

徐延は頗(すこぶ)るできたが、未(ま)だうまくはなかったのである。徐襄は作法を以って漢礼官大夫と為り、広陵内史に至った。

延及徐氏弟子公戶滿意桓生單次皆嘗為漢禮官大夫

徐延及び、徐氏の弟子の公戸満意、桓先生、単次は皆(みな)嘗(かつ)て漢礼官大夫と為った。

而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守

しこうして瑕丘の蕭奮が礼を以って淮陽太守と為った。

是後能言禮為容者由徐氏焉

この後、礼を言うことができて作法を為すことができる者は、徐氏に由(よ)るのである。

自魯商瞿受易孔子孔子卒商瞿傳易六世

魯の商瞿が孔子に易(えき)を学んでより、孔子が亡くなり、商瞿が易(えき)を六世代人に伝えた。

至齊人田何字子莊而漢興

斉人の田何、字(あざな)は子荘に至りて、漢が興(おこ)った。

田何傳東武人王同子仲子仲傳菑川人楊何

田何は東武人の王同子仲に伝え、王同子仲は菑川人の楊何に伝えた。

何以易元光元年徵官至中大夫

楊何は易(えき)を以って、元光元年に徴召され、官は中大夫に至った。

齊人即墨成以易至城陽相

斉人の即墨成が易(えき)を以って城陽相に至った。

廣川人孟但以易為太子門大夫

廣川人の孟但は易(えき)を以って太子門大夫と為った。

魯人周霸莒人衡胡臨菑人主父偃皆以易至二千石

魯人の周霸,莒人の衡胡,臨菑人の主父偃は皆(みな)易(えき)を以って二千石に至った。

然要言易者本於楊何之家

然(しか)るに易(えき)を要言(ようげん)する者は楊何の家門を本(もと)にするのである。

董仲舒廣川人也

董仲舒は広川の人である。

以治春秋孝景時為博士

春秋を治(おさ)めるを以って、漢孝景帝劉啓の時に博士と為った。

下帷講誦弟子傳以久次相受業或莫見其面

帷(とばり)を下(さ)げて、声を出して読んで講(こう)じ、弟子は伝えるに、久次(長い間同じ官のままで昇進しないこと)を以って授業の輔佐をしても、或(あ)るものはその顔も見たことがないと。

蓋三年董仲舒不觀於舍園其精如此

思うに三年、董仲舒は官舎の園(その)もながめず、その熱心さはこの如(ごと)くであった。

進退容止非禮不行學士皆師尊之

進退(しんたい)の容止(ようし 身のこなし)は礼が行われないことは非(あら)ず、学士は皆(みな)これをならい尊んだ。

今上即位為江都相

今上(漢孝武帝劉徹)が即位して、江都相と為った。

以春秋災異之變推陰陽所以錯行

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以春秋災異之變推陰陽所以錯行

春秋経の天災地異の変事を以って、陰(いん)、陽(よう)が錯行(四季の移り変わりのように、かわるがわるまわっていくこと)する所以(ゆえん)を推測(すいそく)した。

故求雨閉諸陽縱諸陰其止雨反是

故(ゆえ)に雨を求めるときは、諸(もろもろ)の陽(よう)を閉(と)じて、諸(もろもろ)の陰(いん)を自由にさせた。その雨を止(や)ませるときは、これを反対にすると。

行之一國未嘗不得所欲

これを国中(江都)で行い、未(いま)だ嘗(かつ)て欲するところを得ないことはなかった。

中廢為中大夫居舍著災異之記

廃されるに中(あた)り漢中大夫に為った。官舎に居(きょ)して、天災地異の記を著(あらわ)した。

是時遼東高廟災主父偃疾之取其書奏之天子

この時、遼東の高廟(高祖廟)が火事になった。主父偃がこれをにくみ、その書を取ってこれを天子(漢孝武帝劉徹)に奏(かな)でた。

天子召諸生示其書有刺譏

天子(漢孝武帝劉徹)は諸(もろもろ)の先生を召し寄せてその書を示(しめ)すと、そしりが有った。

董仲舒弟子呂步舒不知其師書以為下愚

漢中大夫董仲舒の弟子の呂步舒がその師匠(ししょう)の書だとは知らず、下愚(かぐ 非常に愚かなもの)と為すを以ってした。

於是下董仲舒吏當死詔赦之

ここに於いて漢中大夫董仲舒を役人に下(くだ)し、死罪に罪を問われ、詔(みことのり)してこれを赦(ゆる)した。

於是董仲舒竟不敢復言災異

ここに於いて、董仲舒はとうとう敢(あ)えて、ふたたび天災地異を言うことはなかった。

董仲舒為人廉直

董仲舒の人と為りは廉直(れんちょく)だった。

是時方外攘四夷公孫弘治春秋不如董仲舒

この時、まさに外(そと)では四夷を追い払わんとしており、公孫弘の春秋経を治(おさ)めるは董仲舒に及(およ)ばなかったが、

而弘希世用事位至公卿

しこうして公孫弘は迎合(げいごう)して事に用いられ(政治をもっぱらにし)たので、位は公卿に至っていた。

董仲舒以弘為從諛

董仲舒は公孫弘を以って思うままにおもねりこびる者だと思った。

弘疾之乃言上曰獨董仲舒可使相繆西王

公孫弘はこれをにくみ、そこで上(漢孝武帝劉徹)に言った、曰く、「ただ、董仲舒は繆西王を輔佐させるべきです」と。

膠西王素聞董仲舒有行亦善待之

膠西王は素(もと)より董仲舒に行いが有ることを聞いており、また善(よ)くこれを待遇しようとした。

董仲舒恐久獲罪疾免居家

董仲舒は、しばらくして罪を獲(え)ることを恐れ、病を理由に免ぜられて隠居(いんきょ)した。

至卒終不治產業以修學著書為事

亡くなるに至り、身を終えるまで産業を治(おさ)めず、学問を修(おさ)めて書を著(あらわ)すことを仕事とした。

故漢興至于五世之唯董仲舒名為明於春秋其傳公羊氏也

故(ゆえ)に漢が興(おこ)って五代目に至る間(あいだ)は、唯(ただ)董仲舒の名だけが春秋経に於いて明らかに為り、その公羊氏を伝(つた)えたのである。

胡毋生齊人也

胡毋先生は斉の人である。

孝景時為博士以老歸教授

漢孝景帝劉啓の時に博士に為り、老(お)いるを以って帰り、教え授(さず)けた。

齊之言春秋者多受胡毋生公孫弘亦頗受焉

斉の春秋経を言う者の多くは胡毋先生に学び、公孫弘もまた頗(すこぶ)る授(さず)かったのである。

瑕丘江生為穀梁春秋

瑕丘の江先生は穀梁春秋を(明らかに?)為した。

自公孫弘得用嘗集比其義卒用董仲舒

公孫弘が用いられるを得てより、嘗(かつ)てその義(ぎ)を比(くら)べ集めたことがあり、とうとう董仲舒を用いた。

仲舒弟子遂者蘭陵褚大廣川殷忠溫呂步舒

董仲舒の弟子の成し遂(と)げた者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、溫の呂步舒である。

褚大至梁相步舒至長史持節使決淮南獄

褚大は梁相に至り、呂步舒は長史に至り、使者の旗(はた)を以って淮南の裁判を断罪(だんざい)させた。

於諸侯擅專斷不報以春秋之義正之天子皆以為是

諸侯に於いて思うままに自分の独断で決め、報告をしなかったが、春秋の義(ぎ)を以ってこれを正(ただ)したので、天子(漢孝武帝劉徹)は皆(みな)正しいと為すを以ってした。

弟子通者至於命大夫為郎謁者掌故者以百數

弟子の通(つう)じた者は、命大夫に至り、郎、謁者、掌故に為った者は百を以って数えた。

而董仲舒子及孫皆以學至大官

しこうして 董仲舒の子、及び孫(まご)は皆(みな)学問を以って大官に至った。

今日で史記 儒林列伝は終わりです。明日からは史記 酷吏列伝に入ります。

史記 酷吏列伝 始め

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孔子曰導之以政齊之以刑民免而無恥

孔子曰く、「これを導(みちび)くに政令を以ってし、これをととのえるに刑を以ってすれば、民は免(まぬか)れて恥じることは無い。

導之以齊之以禮有恥且格

これを導(みちび)くに、徳を以ってし、これをととのえるに礼(れい)を以ってすれば、恥じることを有(ゆう)し、まさに行いをたださんとする」と。

老氏稱上不是以有

老氏は称(とな)える、「最上の徳は、得(え)ることを(徳(とく)=得(とく)?)しない、だから徳が有る。

下不失是以無法令滋章盜賊多有

下徳は、得ることを(徳(とく)=得(とく)?)失わないようにする、だから徳が無い。法令がますます章(あきら)かになれば、盗賊も多くなる」と。

太史公曰信哉是言也法令者治之具而非制治清濁之源也

太史公曰く、「信(まこと)かな、この言は。法令とはこれを治(おさ)める道具で、しこうして、
清濁(せいだく)を治(おさ)め制(せい)する源(みなもと)では非(あら)ざるなり。

昔天下之網嘗密矣然姦偽萌起其極也上下相遁至於不振

昔、天下の網(あみ)は嘗(かつ)て細(こま)かく、然(しか)るに不正偽(いつわ)りはめばえ起(お)こり、その極(きわ)みには、上下が相(あい)のがれて、不振(ふしん)に至った。

當是之時吏治若救火揚沸非武健嚴酷惡能勝其任而愉快乎

まさにこの時、役人の治(ち)は、煮え湯をくんで火事を消すがごとくで、いさましくつよくきびしくむごくなければ、どうしてその任務に勝(まさ)って愉快にしていられただろうか。

言道者溺其職矣

道徳を言う者はその職務に堪(た)えなかったのである。

故曰聽訟吾猶人也必也使無訟乎

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故曰聽訟吾猶人也必也使無訟乎

故(ゆえ)に曰く、「訴訟(そしょう)を聴(き)くは、吾(われ)は猶(なお)人と同じである。
同じではないのは、訴訟を無くさしめることだろうか」と。

下士聞道大笑之非虛言也

「下士は道(みち)を聞いて、これを大いに笑う」と。おおげさな言葉では非(あら)ざるなり。

漢興破觚而為圜斲雕而為樸

漢が興(おこ)り、かどをこわして丸く為し、おのをして木刀に為し、

網漏於吞舟之魚而吏治烝烝不至於姦黎民艾安

網(あみ)は吞舟之魚(船を呑んでしまうほどの大魚)をも漏(も)らし、しこうして役人の治(ち)は烝烝(じょうじょう)と盛んになり、不正に至らず、庶民は治(おさ)まり安んじた。

由是觀之在彼不在此

これに由(よ)り、彼(か)に在(あ)って、此(こ)れにないのをみきわめるのである。

高后時酷吏獨有侯封刻轢宗室侵辱功臣

漢高后呂雉の時、酷吏(こくり 厳格でむごい役人)にひとり侯封(人名)が有り、宗室(そうしつ)をきざみふみにじり、功臣(こうしん)を侵(おか)し辱(はずかし)めた。

呂氏已敗遂(禽)[夷]侯封之家

呂氏がすでに敗(やぶ)れ、遂(つい)に侯封の家をたいらげた。

孝景時晁錯以刻深頗用術輔其資

漢孝景帝劉啓の時、晁錯はきびしく深く頗(すこぶ)る術を用(もち)いるを以って、その資本をささえようとした。

而七國之亂發怒於錯錯卒以被戮

しこうして、七国の乱になり、晁錯に怒りを発し、晁錯はとうとう戮(りく)刑を被(こうむ)った。

其后有郅都寧成之屬

その後、郅都(人名)、寧成(人名)の仲間が有る。

郅都者楊人也

郅都という者は、楊の人である。

以郎事孝文帝孝景時都為中郎將

郎(官名)を以って漢孝文帝劉恒に仕(つか)えた。漢孝景帝劉啓の時、郅都は中郎将と為った。

敢直諫面折大臣於朝

敢(あ)えて直々(じきじき)に諌(いさ)め、朝廷(政治をとる場所)に於いて大臣たちを面と向って指摘(してき)した。

嘗從入上林賈姬如廁野彘卒入廁

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嘗從入上林賈姬如廁野彘卒入廁

嘗(かつ)て上林に入るに従い、賈姫が厠(かわや)にいき、野生の大ぶたがにわかに厠(かわや)に入った。

上目都都不行上欲自持兵救賈姬都伏上前曰

上(漢孝景帝劉啓)は漢中郎将郅都に目くばせしたが、漢中郎将郅都は行かなかった。上(漢孝景帝劉啓)は自ら武器を持って賈姫を救うことを欲したが、漢中郎将郅都は上(漢孝景帝劉啓)の前に伏(ふ)して曰く、

亡一姬復一姬進天下所少寧賈姬等乎

「一人の姫を亡くせば、また一人の姫が進められます。天下の安寧(あんねい)を欠(か)くところは賈姫らですか?

陛下縱自輕柰宗廟太后何上還彘亦去

陛下が思うままに自らを軽んずれば、宗廟(そうびょう)、太后はどうしますか?」と。上(漢孝景帝劉啓)は還(かえ)り、大ぶたもまた去った。

太后聞之賜都金百斤由此重郅都

竇太后はこれを聞いて、漢中郎将郅都に金百斤を賜(たまわ)り、これに由(よ)り、漢中郎将郅都を重(おも)んじた。

濟南瞯氏宗人三百餘家豪猾

済南の瞯氏の一族の人々は三百余家で、強くわるがしこく、

二千石莫能制於是景帝乃拜都為濟南太守

二千石で制することができるものはおらず、ここに於いて漢孝景帝劉啓はそこで漢中郎将郅都に官をさずけて、済南太守と為らしめた。

至則族瞯氏首惡餘皆股栗

至るとただちに瞯氏の悪人の頭(かしら)を族刑にし、残った者は皆(みな)ひどく恐れた。

居歲餘郡中不拾遺旁十餘郡守畏都如大府

居ること一年余り、郡中は落し物も拾(ひろ)わなくなった。傍(かたわ)らの十余りの郡守たちは済南太守郅都を大府の如(ごと)く畏(おそ)れた。

都為人勇有氣力公廉不發私書

済南太守郅都の人と為りは勇ましく、気力が有り、公正で清廉(せいれん)で、私的な手紙は開けず、

問遺無所受請寄無所聽

贈り物を問えば、受け取るところ無く、たよるを請(こ)えば、聞き入れるところ無かった。

常自稱曰已倍親而仕

常(つね)に自ら称(とな)えて曰く、「すでに親族にそむいて仕(つか)え、

身固當奉職死節官下終不顧妻子矣

身(み)は固(もと)よりまさに官職を奉(たてまつ)るべきで、官の下(もと)に節操を守って死に、
終いまで妻子を顧(かえり)みず」と。

郅都遷為中尉丞相條侯至貴倨也而都揖丞相

済南太守郅都は遷(うつ)されて中尉と為った。漢丞相條侯周亞夫が地位が高くなりおごるに至っても、
しこうして漢中尉郅都は漢丞相條侯周亞夫に両腕を前にくんでおじぎをした。

是時民樸畏罪自重而都獨先嚴酷

この時、民はすなおで罪を畏(おそ)れて自重(じちょう)し、しこうして漢中尉郅都はひとり先んじて厳酷(げんこく)で、

致行法不避貴戚列侯宗室見都側目而視號曰蒼鷹

法を行うことをきわめて、貴戚(きせき)を避(さ)けず、列侯、宗室は漢中尉郅都をみると、目をそばだてて視(み)た。号して曰く、「白い鷹(たか) 情け知らずの役人のたとえ)」と。

臨江王徵詣中尉府對簿

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臨江王徵詣中尉府對簿臨江王欲得刀筆為書謝上

臨江王劉栄が召されて中尉府に詣(もう)で、帳簿に応(こた)えた。臨江王劉栄は刀(書き誤りを削るための小刀)、筆(ふで)を得て、上に謝(あやま)る書状をかきたいと欲した。

而都禁吏不予魏其侯使人以與臨江王

しこうして、漢中尉郅都は役人に与(あた)えないよう禁じた。魏其侯竇嬰が人をつかわし、ひそかに臨江王劉栄に与(あた)えるを以ってした。

臨江王既為書謝上因自殺

臨江王劉栄はすでに上(漢孝景帝劉啓)に謝(あやま)る書状を書くと、因(よ)りて自殺した。

竇太后聞之怒以危法中都都免歸家

竇太后(劉栄の祖母)はこれを聞き、怒り、法をはげしくするを以って漢中尉郅都に中(あ)て、漢中尉郅都は免ぜられて家に帰った。

孝景帝乃使使持節拜都為鴈門太守

漢孝景帝劉啓はそこで使者をつかわし、旗を持たせて郅都に官をさずけ鴈門太守と為さしめた。

而便道之官得以便宜從事

しこうして、道に習熟(しゅうじゅく)している官が、便宜(べんぎ)を以って従事(じゅうじ)するを得た。

匈奴素聞郅都節居邊為引兵去竟郅都死不近鴈門

匈奴は素(もと)より、辺境に居(い)て鴈門太守郅都の旗を聞き、兵を引いて去り、とうとう郅都が死ぬまで鴈門に近づかなかった。

匈奴至為偶人象郅都令騎馳射莫能中見憚如此

匈奴はきわまり、鴈門太守郅都を象(かたど)った木の人形を作って、騎兵に令して馳(は)せて射(い)させたが中(あ)てることのできる者はなく、見ると憚(はばか)るはこの如(ごと)くであった。

匈奴患之竇太后乃竟中都以漢法

匈奴はこれを患(うれ)えた。竇太后はすなわちとうとう鴈門太守郅都を漢法を以って中(あ)てた。

景帝曰都忠臣欲釋之

漢孝景帝劉啓曰く、「郅都は忠臣です」と。これをゆるすことを欲した。

竇太后曰臨江王獨非忠臣邪於是遂斬郅都

竇太后曰く、「臨江王はどうして忠臣では非(あら)ざるか」と。ここに於いて遂(つい)に鴈門太守郅都を斬った。

寧成者穰人也以郎謁者事景帝

寧成という者は穰人である。郎謁者を以って漢孝景帝劉啓に仕(つか)えた。

好氣為人小吏必陵其長吏

気を好(この)み、人と為りがとるに足らない役人であれば、必ずその長吏をあなどり、

為人上操下如束溼薪

人と為りが立派であれば、湿(しめ)った薪(まき)を束(たば)ねるが如(ごと)く下(した)に手繰(たぐ)った。

滑賊任威稍遷至濟南都尉而郅都為守

すらすらと威(い)に任(まか)せておびやかした。次第に遷(うつ)されて済南都尉に至り、しこうして郅都は済南太守に為った。

始前數都尉皆步入府因吏謁守如縣令其畏郅都如此

以前は前(さき)の幾人かの都尉は皆(みな)歩いて府に入り、因(よ)りて役人は太守に県令の如(ごと)くとりつぎ、その済南太守郅都を畏(おそ)れるはこの如(ごと)くであった。

及成往直陵都出其上

済南都尉寧成が往(ゆ)くに及んで、直(じか)に済南太守郅都にのぼってその上に出た。

都素聞其聲於是善遇與結驩

済南太守郅都は素(もと)よりその評判を聞いており、ここに於いて善遇(ぜんぐう)し、ともに歓(よろこ)びを結(むす)んだ。

久之郅都死后長安左右宗室多暴犯法

しばらくして、郅都が死ぬと、後に長安の左右、宗室の多くがたちまち法を犯(おか)した。

於是上召寧成為中尉其治效郅都

ここに於いて上(漢孝景帝劉啓)は寧成を召し寄せて中尉に為さしめた。その治(ち)は郅都をまねたが、

其廉弗如然宗室豪桀皆人人惴恐

その廉潔(れんけつ)さが及ばず、然(しか)るに、宗室、豪傑は皆(みな)人々はびくびくと恐れた。
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