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武帝即位徙為內史

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武帝即位徙為內史

漢孝武帝劉徹が即位すると、移されて内史と為った。

外戚多毀成之短抵罪髡鉗

外戚の多くが漢内史寧成の短所をそしり、罪にふれて髡鉗(罪人の髪をそり首かせをはめる)に処された。

是時九卿罪死即死少被刑而成極刑

この時、九卿は大罪に罪を問われればすなわち死に、刑を被(こうむ)ることは少なく、しこうして、漢内史寧成は刑を極(きわ)め、

自以為不復收於是解脫詐刻傳出關歸家

自らふたたび収(おさ)まらないと思い、ここに於いて(かせを)解(と)いて脱(だっ)し、偽(いつわ)って、伝車を苛刻(かこく)にして関を出て家に帰った。

稱曰仕不至二千石賈不至千萬安可比人乎

称(とな)えて曰く、「仕(つか)えて二千石に至らなければ、商売して千万に至らなくても、どうして人につきしたがうべきだろうか」と。

乃貰貸買陂田千餘頃假貧民役使數千家

そこで、かけでかりて斜面の田を一千余頃(頃は面積の単位)買い、貧民に貸しあたえ、数千家を使って働かせた。

數年會赦致產數千金為任俠

数年して、恩赦(おんしゃ)に会した。財産は数千金にきわまり、任侠(にんきょう)と為って、

持吏長短出從數十騎其使民威重於郡守

役人に長い武器(弓矢など)、短い武器(刀剣など)を持たせ、数十騎を従えて出た。その民をして、威(い)は郡守よりも重んぜられた。

周陽由者其父趙兼

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周陽由者其父趙兼以淮南王舅父侯周陽故因姓周陽氏

周陽由という者はその父は趙兼で淮南王の舅父(母の兄弟 おじ)を以って周陽で侯になり、故(ゆえ)に因(よ)りて姓は周陽氏である。

由以宗家任為郎事孝文及景帝

周陽由は宗家を以って任子(にんし)されて郎(官名)に為り、漢孝文帝劉恒及び漢孝景帝劉啓に仕(つか)えた。

景帝時由為郡守武帝即位吏治尚循謹甚

漢孝景帝劉啓の時、周陽由は郡守に為った。漢孝武帝劉徹が即位したとき、役人の治(ち)は尚(なお)まもり謹(つつし)むこと甚(はなは)だで、

然由居二千石中最為暴酷驕恣

然(しか)るに、周陽由は二千石の中に居(い)て、最も荒々しく酷(むご)く驕(おご)り思うままであった。

所愛者撓法活之所憎者曲法誅滅之

愛するところの者は法を撓(たわ)めてもこれを活(い)かし、憎むところの者は法を曲げてもこれを誅滅(ちゅうめつ)した。

所居郡必夷其豪為守視都尉如令

居(お)るところの郡では、必ずその豪傑をたいらげた。郡守に為れば、都尉を県令の如(ごと)く視(み)て、

為都尉必陵太守奪之治

都尉に為れば、必ず太守(郡守)をあなどり、これの治(ち)を奪(うば)った。

與汲黯俱為忮司馬安之文惡

汲黯とともに、司馬安(汲黯の伯母の子)の法文をうらんでそしり、

俱在二千石列同車未嘗敢均茵伏

ともに二千石の列(れつ)に在(あ)って、車を同じくしても未(いま)だ嘗(かつ)て車の敷物を平らにならして伏(ふ)せたことは無かった。

由后為河東都尉時與其守勝屠公爭權相告言罪

周陽由は後に河東都尉に為り、時にその郡守勝屠公と権力を争い、互いに罪を言い告げた。

勝屠公當抵罪義不受刑自殺而由棄市

河東郡守勝屠公は罪にふれるに当たり、義(ぎ)は刑を受けず、自殺し、しこうし河東都尉周陽由は棄市の刑に処せられた。

自寧成周陽由之后事益多

寧成より、周陽由の後、事(こと)は益々(ますます)多くなり、

民巧法大抵吏之治類多成由等矣

民(たみ)は法をいつわり、大抵(たいてい)役人の治(ち)の類(たぐい)は寧成、周陽由を多(た)とした。

趙禹者斄人以佐史補中都官

趙禹という者は斄の人である。佐史を以って中都官を補(おぎな)い、

用廉為令史事太尉亞夫

廉潔(れんけつ)を用いられて令史と為り、漢太尉周亞夫に仕(つか)えた。

亞夫為丞相禹為丞相史

漢太尉周亞夫が丞相に為ると、漢令史趙禹は丞相史と為り、

府中皆稱其廉平然亞夫弗任曰

丞相府の中の皆(みな)はその廉平さを称(たた)えた。然(しか)るに漢丞相周亞夫は任(まか)せず、曰く、

極知禹無害然文深不可以居大府

「趙禹が無害であることは極(きわ)めてよく知っているが、然(しか)るに法文が深く、大府に居(い)るべきではない」と。

今上時禹以刀筆吏積勞稍遷為御史

今上(漢孝武帝劉徹)の時、趙禹は刀筆の役人(文字を書き写すだけの役人)を以って苦労を積(つ)み、次第に遷(うつ)されて御史に為った。

上以為能至太中大夫

上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、太中大夫に至らしめた。

與張湯論定諸律令作見知吏傳得相監司

張湯と諸(もろもろ)の律令を論定(ろんてい)し、「見知」を作り、役人は発布して監司(州、郡を観察する官)を輔佐するを得た。

用法益刻蓋自此始

法を用いて益々きびしくなるは、思うにここより始まったのであろう。

張湯者杜人也

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張湯者杜人也

張湯という者は杜の人である。

其父為長安丞出湯為兒守舍

その父は長安丞と為り、出かけたとき、張湯は家で子守をした。

還而鼠盜肉其父怒笞湯

還(かえ)って鼠(ねずみ)が肉を盗んでいたので、その父は怒り、張湯をむちうった。

湯掘窟得盜鼠及餘肉劾鼠掠治

張湯はほら穴を掘(ほ)って、盗んだ鼠、及び残った肉を得て、鼠をむちうって(掠治(りゃくち)=掠笞(りゃくち)?)苦しめて、

傳爰書訊鞫論報并取鼠與肉具獄磔堂下

爰書(えんしょ 確定裁判の判決書)をわたし、罪を調べたずねて報告(爰書は裁判の書類を交換して調べたことから)を論(ろん)じ、合わせて、鼠(ねずみ)と肉を取って、裁判を具(つぶさ)にして、堂の下に磔(はりつけ)にした。

其父見之視其文辭如老獄吏大驚遂使書獄

その父はこれを見て、その文辞(ぶんじ)が、老練な獄吏の如(ごと)くであると視(み)て、大いに驚き、遂(つい)に罪状を書かせるようにした。

父死后湯為長安吏久之

父の死後、張湯は長安吏に為り、これを久しくした。

周陽侯始為諸卿時嘗系長安湯傾身為之

周陽侯由は以前、諸(もろもろ)の卿に為っていた時、嘗(かつ)て長安につながれ、張湯が身を傾(かたむ)けてこれの為(ため)にした。

及出為侯大與湯交遍見湯貴人

出て侯に為るに及んで、大いに張湯と交(まじ)わり、遍(あまね)く張湯が貴人であると見た。

湯給事內史為寧成掾以湯為無害

張湯は事を内史に給(たま)わり、寧成を属官と為し、張湯を以って無害と為し、

言大府調為茂陵尉治方中

大府に言って、選ばれて茂陵尉と為さしめ、法を治(おさ)めて中(あ)てた。

武安侯為丞相徵湯為史時薦言之天子

武安侯田蚡が丞相に為ると、張湯を召して史と為さしめ、この時、これを天子(漢孝武帝劉徹)に薦言(せんげん)し、

補御史使案事

御史に補(おぎな)い、事(こと)を案(あん)じさせた。

治陳皇后蠱獄深竟黨與

陳皇后の蠱(まじないをして人を殺す)の獄事を取り調べ、深くして党与(組を作っている仲間)をきわめた。

於是上以為能稍遷至太中大夫

ここに於いて上(漢孝武帝劉徹は能力があると思い、次第に遷(うつ)して太中大夫に至らしめた。

與趙禹共定諸律令務在深文拘守職之吏

趙禹と諸(もろもろ)の律令を共定し、深い法文に在(あ)ることに務(つと)め、守職の役人に拘(かか)わった。

已而趙禹遷為中尉徙為少府而張湯為廷尉

しばらくして、趙禹が遷(うつ)されて中尉と為り、移って少府と為り、しこうして、張湯は廷尉と為り、

兩人交驩而兄事禹禹為人廉倨

両人はよろこんで交(まじ)わり、しこうして漢少府趙禹に兄のように仕(つか)えた。漢少府趙禹の人と為りは廉潔(れんけつ)でまっすぐだった。

為吏以來舍毋食客

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為吏以來舍毋食客

役人に為って以来、家には食客はいなかった。

公卿相造請禹禹終不報謝

公卿はつぎつぎとやってきて、漢少府趙禹に請(こ)うたが、漢少府趙禹は終(しま)いまで報(むく)いききいれることはなかった。

務在絕知友賓客之請孤立行一意而已

親しい友人、賓客の請(こ)いを絶(た)つことに在(あ)るを務(つと)め、孤立(こりつ)して
意を一(いつ)にして行いて、それのみであった。

見文法輒取亦不覆案求官屬陰罪

法文を見て、ことごとく取り上げて、また取調べを覆(くつがえ)さず、官属のかくれた罪(つみ)を求めた。

湯為人多詐舞智以御人

張湯の人と為りは偽(いつわ)りが多く、智恵をめぐらせて人を御(ぎょ)するを以ってした。

始為小吏乾沒與長安富賈田甲魚翁叔之屬交私

以前、小役人に為ったとき、乾沒(かんぼつ 幸運によって利益を得ること)し、長安の富商田甲、魚翁叔らの仲間と私的に交(まじ)わった。

及列九卿收接天下名士大夫

九卿に列するに及んで、天下の名士、名大夫を収(おさ)めてもてなし、

己心內雖不合然陽浮慕之

おのれの心が内心(ないしん)合わずと雖(いえど)も、然(しか)るに陽気に浮かれてこれを慕(した)った。

是時上方鄉文學湯決大獄欲傅古義

この時、上(漢孝武帝劉徹)はまさに文学に向かわんとし、漢廷尉張湯は大獄を判決し、古(いにしえ)の義(ぎ)を教えみちびくことを欲し、

乃請博士弟子治尚書春秋補廷尉史亭疑法

すなわち尚書、春秋を治(おさ)めた弟子の博士を、廷尉史に補(おぎな)うことを請(こ)い、疑わしい法をととのえ、

奏讞疑事必豫先為上分別其原上所是

疑わしい事を明らかにして奏(かな)で、必ず予(あらかじ)め先んじて、上(漢孝武帝劉徹)の為(ため)にその源を分別し、上(漢孝武帝劉徹)が是(ぜ)としたところは、

受而著讞決法廷尉令揚主之明

さずかって、讞決法廷尉令を著(あらわ)し、主(あるじ)の明(めい)を揚(あ)げた。

奏事即譴湯應謝鄉上意所便必引正監掾史賢者

事を奏(かな)ですなわちとがめられれば、漢廷尉張湯が応(こた)えて謝(あやま)り、上(漢孝武帝劉徹)の意の便(べん)するところに向って、必ず正監、掾史の賢者(けんじゃ)を引(き)きあいにして、

曰固為臣議如上責臣臣弗用愚抵於此

曰く、「もとよりわたしの為(ため)に議(ぎ)して、上の如(ごと)く、わたしを責めましたが、わたしは用いず、愚(おろ)かにもここにふれたのです」と。

罪常釋(聞)[]即奏事上善之曰

罪は常(つね)にゆるされた。しばらくしてすなわち事を奏(かな)で、上(漢孝武帝劉徹)がこれを善しとすると曰く、

臣非知為此奏乃正監掾史某為之

「わたしはこの奏上を為すことを知らず、すなわち、正監、掾史の某(なにがし)がこれをつくりました」と。

其欲薦吏揚人之善蔽人之過如此

その、役人を薦(すす)めるを欲し、人の善を揚(あ)げて、人の過(あやま)ちを蔽(おお)うはこの如(ごと)くした。

所治即上意所欲罪予監史深禍者

治(おさ)めるところはすなわち、上(漢孝武帝劉徹)の意が罪を欲するところは、監史の禍(わざわい)を深くする者をあたえ、

即上意所欲釋與監史輕平者

すなわち、上(漢孝武帝劉徹)の意がゆるすことを欲するところは、監史のおだやかで軽くする者を与(あた)えた。

所治即豪必舞文巧詆

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所治即豪必舞文巧詆

取り調べるところはすなわち豪傑で、必ず法文を乱用して、巧(たく)みにそしり、

即下戶羸弱時口言雖文致法上財察

すなわち貧しく羸弱(るいじゃく かよわいさま)は、ときどき言葉を口にして、条文では法にかけると雖(いえど)も、上(漢孝武帝劉徹)が裁(さば)いてあきらかにしてください、と。

於是往往釋湯所言湯至於大吏內行修也

ここに於いて往々(おうおう)にして漢廷尉張湯の言ったところをゆるした。漢廷尉張湯は大役人に至ると、ひそかに修禊(しゅうけい みそぎ)を行ったのである。

通賓客飲食於故人子弟為吏及貧昆弟調護之尤厚

賓客にまじわり飲食した。友人の子弟を役人に為し、貧しい兄弟に及んでは、これを護(まも)りかばうは尤(もっと)も厚(あつ)くした。

其造請諸公不避寒暑

その諸(もろもろ)の公に請(こ)いに至るは、寒い暑いを避(さ)けなかった。

是以湯雖文深意忌不專平然得此聲譽

ここに張湯を以って法文が深いと雖(いえど)も、意(い)は平らかにすることを専(もっぱ)らにしないことを忌(い)みきらい、然(しか)るにこの名誉(めいよ)を得た。

而刻深吏多為爪牙用者依於文學之士

しこうして、(法文を)深く刻(きざ)む役人は爪(つめ)牙(きば)を為して用いる者が多く、文学の士をたのみにした。

丞相弘數稱其美及治淮南衡山江都反獄皆窮根本

漢丞相公孫弘はたびたびその美を称(たた)えた。淮南、衡山、江都の謀反の獄事を取り調べるに及んで、皆(みな)根本を窮(きわ)めた。

嚴助及伍被上欲釋之

厳助及び伍被は、上(漢孝武帝劉徹)はこれをゆるすことを欲した。

湯爭曰伍被本畫反謀而助親幸出入禁闥爪牙臣

漢廷尉張湯は言い争って、曰く、「伍被は反謀を画(かく)した本(もと)で、しこうして、親(した)しみかわいがられている者を助け、禁闥(宮中の小門)の爪牙の臣を出入りさせ、

乃交私諸侯如此弗誅後不可治於是上可論之

私的に諸侯に交(まじ)わるはこの如(ごと)くで、誅(ちゅう)さなければ、後(のち)に治(おさ)めることができません」と。ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)はこれに論告することをよいとした。

其治獄所排大臣自為功多此類

その獄事を取り調べて、排(はい)したところの大臣は、自ら功を為そうとした者で、多くがこの類(たぐい)であった。

於是湯益尊任遷為御史大夫

ここに於いて漢廷尉張湯は益々(ますます)専任(せんにん)され、遷(うつ)されて御史大夫と為った。

會渾邪等降漢大興兵伐匈奴

渾邪王らの投降に会(かい)し、漢は大いに兵を興(おこ)して匈奴を討(う)った。

山東水旱貧民流徙皆仰給縣官縣官空虛

山東は洪水(こうずい)、旱魃(かんばつ)で、貧民が流れ移り、皆(みな)県官に給を仰(あお)いだが、県官は空っぽでなにもなかった。

於是丞上指請造白金及五銖錢

ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)の旨(むね)を受け、白金及び五銖銭を造(つく)り、

籠天下鹽鐵排富商大賈出告緡令

天下の塩、鉄をまとめ、富商の買占めを排(はい)すは、告緡令を出し、

鉏豪彊并兼之家舞文巧詆以輔法

豪強の併(あわ)せ兼(か)ねる家をのぞくは、法文を乱用して巧(たく)みにそしり、法をよりどころとするを以ってするを請(こ)うた。

湯每朝奏事語國家用日晏天子忘食

漢御史大夫張湯は朝するごとに事(こと)を奏上し、国家の用を語ると、日が暮れても、天子(漢孝武帝劉徹)は食事を忘れるほどだった。

丞相取充位天下事皆決於湯

漢丞相公孫弘は充位(じゅうい ただその位に居るだけで責任を尽くさないこと)を取り、天下の事は皆(みな)漢御史大夫張湯に於いて決められた。

百姓不安其生騷動縣官所興未獲其利

百姓はその生活に安んじず、騒動(そうどう)し、県官の興(おこ)すところは、未(ま)だその利(り)を獲(え)ず、

姦吏并侵漁於是痛繩以罪

不正な役人はもっぱら侵漁(しんぎょ 片端から他人のものをうばいとる)し、ここに於いて縄(なわ)をはげしくして罪に処するを以ってした。

則自公卿以下至於庶人咸指湯

すなわち、公卿以下より、庶人に至るまで、あまねく漢御史大夫張湯を責めとがめた。

湯嘗病天子至自視病其隆貴如此

漢御史大夫張湯が嘗(かつ)て病にかかったとき、天子(漢孝武帝劉徹)は自ら病を視(み)に至り、
その隆貴(りゅうき 身分がたいへんたっといこと)はこの如(ごと)くであった。

匈奴來請和親群臣議上前

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匈奴來請和親群臣議上前

匈奴が和親(わしん)を請(こ)いに来た。群臣は上(漢孝武帝劉徹)の前で議(ぎ)した。

博士狄山曰和親便

博士狄山曰く、「和親は都合がよいです」と。

上問其便山曰兵者凶器未易數動

上(漢孝武帝劉徹)はその便(べん)を問うた、博士狄山曰く、「武器とは凶器(きょうき)で、未(ま)だたびたび動かし易(やす)くはありません。

高帝欲伐匈奴大困平城乃遂結和親

高帝(劉邦)は匈奴を討(う)つことを欲し、平城で大いに困(こま)り、そこで、遂(つい)に和親(わしん)を結びました。

孝惠高后時天下安樂

漢孝恵、高后の時、天下は安楽(あんらく)になりました。

及孝文帝欲事匈奴北邊蕭然苦兵矣

孝文帝が事を匈奴に欲し、北辺(ほくへん)は粛然(しゅくぜん)とたちまち戦いに苦しみました。

孝景時吳楚七國反景帝往來兩宮寒心者數月

孝景の時、呉楚七国が反乱し、景帝が二つの宮殿の間を行き来して、ぞっとしたのは数ヶ月。

吳楚已破竟景帝不言兵天下富實

呉、楚がすでに破(やぶ)れると、とうとう景帝は戦いを言わず、天下は富んで満たされました。

今自陛下舉兵擊匈奴中國以空虛邊民大困貧

今、陛下が兵を挙げて匈奴を撃ってより、中国は空っぽになって、辺境の民は大いに貧しさに困っています。

由此觀之不如和親上問湯湯曰

これに由(よ)りこれを観るに、和親(わしん)するにこしたことはありません」と。上(漢孝武帝劉徹)は漢御史大夫張湯に問うた、漢御史大夫張湯曰く、

此愚儒無知狄山曰

「これは愚かな儒者で理解していないのです」と。博士狄山曰く、

臣固愚忠若御史大夫湯乃詐忠

「わたしはもとより愚忠ですが、御史大夫湯のごとくはすなわち詐忠であります。

若湯之治淮南江都以深文痛詆諸侯

湯の淮南、江都を取り調べたがごとくは、法文を深くするを以ってひどくそしり、

別疏骨肉使蕃臣不自安臣固知湯之為詐忠

身内をばらばらに別れさせ、藩臣をして自らを安んじさせませんでした。わたしは固(もと)より湯が詐忠と為っていることを知っています」と。

於是上作色曰吾使生居一郡能無使虜入盜乎

ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は色(いろ)をなして曰く、「吾(われ)が先生をして一郡にすまわせれば、虜(匈奴)をして盗みに入らせないようにできるか?」と。

曰不能曰居一縣對曰不能

(博士狄山)曰く、「できません」と。曰く、「一県にすむのはどうだ?」と。(博士狄山)曰く、
「できません」と。

復曰居一障山自度辯窮且下吏曰能

ふたたび曰く、「一つの障壁(とりで)の間ではどうだ?」と。博士狄山は自らをはかり、弁(べん)が窮(きゅう)すれば、まさに役人に下(くだ)されんとすると思い、曰く、「できます」と。

於是上遣山乘鄣至月餘匈奴斬山頭而去

ここに於いて上(漢孝武帝劉徹は博士狄山を遣(つか)わし、障壁(とりで)を治めさせた。至って一ヶ月余り、匈奴は博士狄山の頭を斬って、去った。

自是以後群臣震慴

これより以後、群臣は震(ふる)えあがっておそれた。

湯之客田甲雖賈人有賢操

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湯之客田甲雖賈人有賢操

漢御史大夫張湯の客の田甲は商人と雖(いえど)も、賢く節操が有った。

始湯為小吏時與錢通及湯為大吏

以前張湯が小役人に為っていた時、銭を与えて通じ、張湯が大役人に為るに及んで、

甲所以責湯行義過失亦有烈士風

田甲の張湯の行儀、過失を責めしかるを以ってするところは、また烈士の風格が有った。

湯為御史大夫七歲敗

張湯が御史大夫に為って七年、敗(やぶ)れた。

河東人李文嘗與湯有卻已而為御史中丞

河東の人の李文は嘗(かつ)て張湯と仲たがいが有り、しばらくして御史中丞に為り、

恚數從中文書事有可以傷湯者不能為地

腹をたてて、文書中の事から、張湯を傷つけることができる者があるかを数えたてたが、下地と為すことはできなかった。

湯有所愛史魯謁居知湯不平使人上蜚變告文姦事

漢御史大夫張湯にはかわいがるところの史の魯謁居がおり、漢御史大夫張湯が不平であることを知って、
人をして急な変事を上げさせ、李文の不正事を告(つ)げさせた。

事下湯湯治論殺文而湯心知謁居為之

事は漢御史大夫張湯に下(くだ)され、張湯は取り調べて李文を死刑に論告した。しこうして張湯の心は魯謁居が自分の為にしたことを知っていた。

上問曰言變事縱跡安起湯詳驚曰

上(漢孝武帝劉徹)が問うて曰く、「変事を言った縦跡(しょうせき 足あと)はいずこから起こったのか?」と。漢御史大夫張湯は偽(いつわ)って驚き曰く、

此殆文故人怨之謁居病臥閭里主人

「これはおそらく李文の友人がこれを怨んだのでしょう」と。魯謁居が病にかかり村里の主人のところで療養した。

湯自往視疾為謁居摩足

漢御史大夫張湯は病を視に往き、魯謁居の為(ため)に足を摩(さす)った。

趙國以冶鑄為業王數訟鐵官事湯常排趙王

趙国は冶鑄(やちゅう 金属をふきわけること)を以ってなりわいと為し、趙王はたびたび鉄官の事を訴えたが、漢御史大夫張湯はいつも趙王をおしはらった。

趙王求湯陰事謁居嘗案趙王趙王怨之并上書告

趙王は漢御史大夫張湯の陰事(いんじ)を求めた。魯謁居が嘗(かつ)て趙王を取り調べたことがあり、趙王はこれを怨んで併(あわ)せて上書して告げた、

湯大臣也史謁居有病湯至為摩足疑與為大姦

「湯は大臣であるのに、史の謁居が病にかかったとき、湯は至って足を摩(さす)ってやりました。ともに大姦を為すのではないかと疑われます」と。

事下廷尉謁居病死事連其弟弟系導官

事は廷尉に下された。魯謁居は病死し、事はその弟に連(つら)なって、弟は導官につながれた。

湯亦治他囚導官見謁居弟欲陰為之而詳不省

張湯もまた他(ほか)の囚人を導官で取り調べ、魯謁居の弟を見て、ひそかにこれのためにしようと欲したが、省(かえり)みないふりをした。

謁居弟弗知怨湯使人上書告湯與謁居謀共變告李文

魯謁居の弟は知らず、張湯を怨み、人をつかわし上書して張湯が魯謁居と謀(はか)り、ともに変事をたてまつり李文を告発したのだと告(つ)げさせた。

事下減宣宣嘗與湯有卻及得此事窮竟其事未奏也

事は減宣に下された。減宣は嘗(かつ)て張湯と仲たがいが有り、この事を得るに及んで、その事を突き詰めたが、未(ま)だ奏上しなかったのである。

會人有盜發孝文園瘞錢丞相青翟朝與湯約俱謝

ちょうどそのとき、孝文園の瘞錢(えいせん)を発(あば)いた盗人が有り、漢丞相青翟が朝したとき、漢御史大夫張湯とともに謝することを約した。

至前湯念獨丞相以四時行園當謝湯無與也不謝

前に至ると、漢御史大夫張湯は、ただ丞相だけが四季を以って園に行くのみで、謝(あやま)るに当(あ)たり、自分は関係がないと考え、謝(あやま)らなかった。

丞相謝上使御史案其事

漢丞相青翟が謝(あやま)ると、上(漢孝武帝劉徹)は御史をしてその事を取り調べさせた。

湯欲致其文丞相見知丞相患之

漢御史大夫はその法文を丞相の「見知」にかけようと欲し、漢丞相青翟はこれを患(うれ)えた。

三長史皆害湯欲陷之

三人の長史は皆(みな)、漢御史大夫張湯を憎み、これを陥(おとしい)れることを欲した。

始長史朱買臣會稽人也

以前、長史の朱買臣は、会稽の人であるが、

讀春秋莊助使人言買臣

春秋を読んでおり、荘助は人をして朱買臣を言わせ、

買臣以楚辭與助俱幸侍中為太中大夫用事

朱買臣は楚辞(そじ)を以って荘助とともにかわいがられ、中に侍(はべ)り、太中大夫と為り、
事に用いられた。

而湯乃為小吏跪伏使買臣等前

しこうして張湯はすなわち小役人と為って、跪(ひざまず)いて伏(ふ)して漢太中大夫朱買臣らをして前にしていた。

已而湯為廷尉治淮南獄排擠莊助買臣固心望

しばらくして張湯は廷尉と為り、淮南の獄事を取り調べ、莊助を排擠(はいせい 人をおしのけること)したので、漢太中大夫朱買臣は固(かた)く心から怨んだ。

及湯為御史大夫買臣以會稽守為主爵都尉列於九卿

張湯が御史大夫に為るに及んで、朱買臣は会稽守を以って主爵都尉に為り、九卿に列した。

數年坐法廢守長史見湯

数年して、法に罪をとわれて廃されたが、長史をもちこたえ、漢御史大夫張湯に見(まみ)えたとき、

湯坐床上丞史遇買臣弗為禮

漢御史大夫張湯は寝床の上に座(すわ)り、朱買臣を丞史の待遇にして礼を為さなかった。

買臣楚士深怨常欲死之

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買臣楚士深怨常欲死之

朱買臣は楚の士で、深く怨み、常(つね)にこれを殺そうと欲していた。

王朝,齊人也。以術至右內史。

王朝は斉の人である。術を以って右内史に至った。

邊通學長短剛暴彊人也官再至濟南相。

辺通は長い武器、短い武器を学び、剛暴強人であり、官は二度、済南相に至った。

故皆居湯右已而失官守長史詘體於湯

故(ゆえ)に皆(みな)張湯の右に居(い)て、しばらくして官を失ったとき、長史をもちこたえて、
漢御史大夫張湯に身体(からだ)を屈していた。

湯數行丞相事知此三長史素貴常淩折之

漢御史大夫張湯はたびたび丞相の事を行って、この三人の長史は素(もと)は地位が高かったことを知り、
常(つね)にあなどり屈服させていた。

以故三長史合謀曰始湯約與君謝已而賣君

故(ゆえ)を以って三人の長史は合謀して曰く、「以前、湯は君(丞相)と謝することを約したのに、しばらくして君(丞相)をうらぎった。

今欲劾君以宗廟事此欲代君耳吾知湯陰事

今、君(丞相)を宗廟の事を以って弾劾(だんがい)しようと欲するは、これ君(丞相)に代わろうと欲しているだけだ。吾(われ)らは湯の陰事を知っている」と。

使吏捕案湯左田信等曰湯且欲奏請

役人をつかわし漢御史大夫張湯の輔佐の田信らを捕(と)らえて取り調べ、曰く、「湯がまさに奏請(そうせい 天子に上奏しておさしずを仰ぐ)せんと欲し、

信輒先知之居物致富與湯分之及他姦事

わたしはことごとく先んじてこれを知って、物をたくわえて富(とみ)をなしとげ、湯とともにこれを分けた」と。他(ほか)の不正事にも及んで、

事辭頗聞上問湯曰吾所為賈人輒先知之

事の話しは頗(すこぶ)る聞こえた。上(漢孝武帝劉徹)は漢御史大夫張湯を問うた、曰く、「吾(われ)が為したところは、商人がことごとく先んじてこれを知り、

益居其物是類有以吾謀告之者

ますますその物をたくわえ、この類(たぐい)は吾(われ)の謀(はかりごと)を以ってこれを告(つ)げた者が有るのだ」と。

湯不謝湯又詳驚曰固宜有

漢御史大夫張湯は謝(あやま)らず、漢御史大夫張湯はまた驚いたふりをして曰く、「きっと宜しく有ったのでしょう」と。

減宣亦奏謁居等事

減宣もまた魯謁居らの事を奏上した。

天子果以湯懷詐面欺使使八輩簿責湯

天子(漢孝武帝劉徹)は果(は)たして、張湯を以って偽って顔で欺(あざむ)いたと考え、使者八輩をつかわして張湯を簿責(ぼせき 書類を証拠として問い責めること)させた。

湯具自道無此不服於是上使趙禹責湯

張湯は自らの道は無比(比べるものがない)であると具(つぶさ)にして、みとめなかった。ここに於いて上(漢孝武帝劉徹)は趙禹をして張湯を責めさせた。

禹至讓湯曰君何不知分也

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禹至讓湯曰君何不知分也

趙禹が至ると、張湯をしかりせめて曰く、「君はどうして分(ぶ)を知らないのか。

君所治夷滅者幾何人矣

君が取り調べたところの夷滅した者は幾人か?

今人言君皆有狀天子重致君獄

今、人の君を言うは皆(みな)書状が有り、天子は君を獄にかけることを惜(お)しみ、

欲令君自為計何多以對簿為

君に令して自らを計(はか)るようにと欲し、どうして帳簿に応(こた)えるを以ってすることを多(た)とするだろうか」と。

湯乃為書謝曰湯無尺寸功起刀筆吏

張湯はそこで書状をかいて謝(しゃ)して曰く、「わたしは尺寸の功もなく、刀筆の吏より身をおこし、

陛下幸致為三公無以塞責

陛下の寵愛は三公に為すにきわまりましたが、職責を満たすを以ってすることはありませんでした。

然謀陷湯罪者三長史也遂自殺

然(しか)るに、わたしを罪に陥(おとしい)れようと謀(はか)った者は、三人の長史であります」と。遂(つい)に自殺した。

湯死家產直不過五百金皆所得奉賜無他業

張湯が死んで、家の財産はただ五百金に過ぎず、皆(みな)賜(たま)わりものを奉(たてまつ)って得たところのもので、他の仕事のものは無かった。

昆弟諸子欲厚葬湯湯母曰

兄弟、諸(もろもろ)の子が張湯を厚く葬(ほうむ)ろうと欲したが、張湯の母が曰く、

湯為天子大臣被汙惡言而死何厚葬乎

「湯は天子の大臣と為って、汚れた悪言を被(こうむ)って死んだので、どうして厚く葬(ほうむ)るのですか」と。

載以牛車有棺無槨天子聞之曰

牛車(ぎっしゃ)を以って載(の)せ、棺は有ったが槨は無かった。天子はこれを聞いて曰く、

非此母不能生此子乃盡案誅三長史

「この母で非(あら)ざれば、この子を生むことはできない」と。そこでことごとく三人の長史を取り調べて(ちゅう)した。

丞相青翟自殺出田信

漢丞相青翟は自殺した。田信を出した。

上惜湯稍遷其子安世

上(漢孝武帝劉徹)は張湯を惜(お)しんだ。その子の張安世を次第に昇進させた。

趙禹中廢已而為廷尉

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趙禹中廢已而為廷尉

趙禹は途中で廃されたが、しばらくして廷尉に為った。

始條侯以為禹賊深弗任

以前、漢丞相條侯周亞夫は趙禹は罪にあてることが深く、任(まか)せられないと思った。

及禹為少府比九卿

趙禹が少府に為るに及んで、九卿に並んだ。

禹酷急至晚節事益多吏務為嚴峻

漢少府趙禹ははなはだきびしく、晩年に至って、事(こと)はますます多くなり、役人は務(つと)めて厳峻(げんしゅん)に為った。

而禹治加緩而名為平

しこうして、漢少府趙禹の取調べは緩(ゆる)みを加え、しこうして聞こえは穏(おだ)やかに為った。

王溫舒等后起治酷於禹

王溫舒らが後の起こり、取調べは漢少府趙禹より厳酷(げんこく)にした。

禹以老徙為燕相

漢少府趙禹は老(お)いを以って、移されて燕相と為った。

數歲亂悖有罪免歸

数年して、乱れそむき罪を有(ゆう)し、免ぜられて帰った。

後湯十餘年以壽卒于家

張湯の十余年後に、天寿を以って家で亡くなった。

義縱者河東人也

義縱という者は、河東の人である。

為少年時嘗與張次公俱攻剽為群盜

少年に為った時、嘗(かつ)て、張次公とともに攻(せ)めおどして群盗と為った。

縱有姊姁以醫幸王太后

義縱には姉の姁が有り、医を以って王太后(武帝の母)にかわいがられた。

王太后問有子兄弟為官者乎

王太后が問うた、「なんじの兄弟の官と為す者は有るのか?」と。

姊曰有弟無行不可

姉曰く、「弟が有りますが、行いが無く、なれません」と。

太后乃告上拜義姁弟縱為中郎補上黨郡中令

王太后はそこで上(漢孝武帝劉徹)に告げて、義姁の弟の義縦に官をさずけて中郎と為し、上党郡中令に補(おぎな)った。

治敢行少蘊藉縣無逋事舉為第一

取調べは敢(あ)えて蘊藉(うんしゃ 心が広くておだやか)を少なくして行い、懸(か)けるは保留する事は無く、挙(あ)げるは第一にした。

遷為長陵及長安令直法行治不避貴戚

遷(うつ)して長陵及長安令と為さしめ、法の通りに取り調べを行い、貴戚(貴族の親類)を避(さ)けなかった。

以捕案太后外孫修成君子仲上以為能遷為河內都尉

王太后の外孫の修成君(王太后の前夫金氏との娘 漢武帝の異父姉)の子の仲を捕(と)らえ取り調べるを以ってして、上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、遷(うつ)して河内都尉と為さしめた。

至則族滅其豪穰氏之屬河內道不拾遺

至ってすぐにその豪族の穰氏の仲間を族滅(ぞくめつ)し、河内の道では落し物も拾(ひろ)わなくなった。

而張次公亦為郎以勇悍從軍

しこうして張次公もまた郎と為って、勇悍(ゆうかん)さを以って従軍(じゅうぐん)した。

敢深入有功為岸頭侯

敢(あ)えて深く入り、手柄(てがら)が有り、岸頭侯と為った。

寧成家居上欲以為郡守

寧成が家に住んでいたとき、上(漢孝武帝劉徹)は郡守と為すことを欲した。

御史大夫弘曰臣居山東為小吏時

漢御史大夫公孫弘曰く、「わたしが山東に居(い)て小役人だった時、

寧成為濟南都尉其治如狼牧羊成不可使治民

寧成は済南都尉と為っていて、その取り調べは狼(おおかみ)が羊(ひつじ)を飼っているようでした。
寧成は民を取り調べさせるべきではありません」と。

上乃拜成為關都尉歲餘關東吏隸郡國出入關者

上(漢孝武帝劉徹)はそこで寧成に官をさずけて関都尉と為さしめた。一年余りして、関東の役人は、郡国の関に出入りする者を調べた。

號曰寧見乳虎無值寧成之怒

うわさに曰く、「寧成が乳虎(にゅうこ 子持ちの虎 おそろしいもののたとえ)に出会っても、寧成の怒りには値(あたい)しない」と。

義縱自河內遷為南陽太守聞寧成家居南陽

義縦は河内都尉から遷(うつ)されて南陽太守と為り、寧成が南陽に住んでいると聞き、

及縱至關寧成側行送迎然縱氣盛弗為禮

南陽太守義縦が関に至ると、関都尉寧成が側行して送迎(そうげい)したが、然(しか)るに南陽太守義縦の気が盛んで、礼を為さなかった。

至郡遂案寧氏盡破碎其家

南陽郡に至ると、遂(つい)に寧氏を取り調べ、ことごとくその家を破り砕(くだ)いた。

成坐有罪及孔暴之屬皆奔亡南陽吏民重足一跡

関都尉寧成は罪を問われ有罪になり、孔、暴の属は皆(みな)逃げ走り、南陽の吏民は足を重(かさ)ねて足跡(あしあと)を一(いつ)にしておびえた。

而平氏朱彊杜衍杜周為縱牙爪之吏任用遷為廷史

しこうして平氏の朱彊、杜衍の杜周が南陽太守義縦の牙爪の役人と為って、任用されて、遷(うつ)して廷史と為さしめた。

軍數出定襄定襄吏民亂敗於是徙縱為定襄太守

軍はたびたび定襄に出て、定襄の吏民は乱れ敗(やぶ)れ、ここに老いて南陽太守義縦を移して定襄太守と為さしめた。

縱至掩定襄獄中重罪輕系二百餘人

定襄太守義縦が至ると、定襄の獄中の重罪者、軽い罪でつながれている者二百余人、

及賓客昆弟私入相視亦二百餘人

及び賓客、兄弟のひそかに入って互いにに視(み)た者もまた二百余人を網をかぶせるようにしてつかまえ、

縱一捕鞠曰為死罪解脫

定襄太守義縦は一(いつ)に捕らえて取り調べ、曰く、「死罪と為して解き放(はな)せよ」と。

是日皆報殺四百餘人

この日、皆(みな)四百余人を裁(さば)き殺した。

其后郡中不寒而栗猾民佐吏為治

その後、定襄郡中は寒くなくても震(ふる)え、悪賢い民は役人を取り調べの為に補佐した。

是時趙禹張湯以深刻為九卿矣

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是時趙禹張湯以深刻為九卿矣然其治尚

この時、趙禹、張湯が(法文を)深くきびしくするを以って九卿と為り、然(しか)るにその治(ち)は尚(なお)寛容(かんよう)で、

輔法而行而縱以鷹擊毛摯為治

法をよりどころとして行い、しこうして定襄太守義縦は鷹擊毛摯(ようげきもうし たかが羽ばたきして獲物をとらえること)を以って治(ち)を為した。

后會五銖錢白金起民為姦京師尤甚

後、このとき五銖錢、白金が起こり、民は不正を為し、京師(都)が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、

乃以縱為右內史王溫舒為中尉

そこで、定襄太守義縦を以って右内史と為し、王溫舒を以って中尉と為さしめた。

溫舒至惡其所為不先言縱縱必以氣淩之敗壞其功

漢中尉王溫舒は悪をきわめ、その為すところは先んじて漢右内史義縦に言わず、漢右内史義縦は必ず気を以ってこれを凌(しの)ぎ、その功を敗(やぶ)り壊(こわ)した。

其治所誅殺甚多然取為小治姦益不勝直指始出矣

その治(ち)は、誅殺するところは甚(はなは)だ多く、然(しか)るにとるにたらない治(ち)を為すを取って、不正はますますおさえられず、直指が出始めた。

吏之治以斬殺縛束為務閻奉以惡用矣縱廉其治放郅都

役人の治(ち)は、斬殺、縛束を以って務(つと)めと為し、村里は奉(たてまつ)るに悪を以って用いた。漢右内史義縦は廉潔(れんけつ)で、その治(ち)は郅都(人名)を模倣(もほう)した。

上幸鼎湖病久已而卒起幸甘泉道多不治

上(漢孝武帝劉徹)は鼎湖に行き、病にかかって久しく、しばらくしてにわかに起き上がって甘泉に行き、道の多くがととのっていなかった。

上怒曰縱以我為不復行此道乎嗛之

上(漢孝武帝劉徹)は怒って曰く、「義縦は我(われ)がこの道をいくことがふたたびないと思ったのか?」と、これをうらんだ。

至冬楊可方受告緡縱以為此亂民部吏捕其為可使者

冬に至り、揚可がまさに告緡令を授(さず)けんとし、漢右内史義縦はこれが民を乱すと思い、役人を配置してその楊可の使者と為った者を捕(と)らえた。

天子聞使杜式治以為廢格沮事棄縱市後一歲張湯亦死

天子(漢孝武帝劉徹)は聞いて、杜式をつかわし取調べさせ、格令(かくれい)を廃(はい)して事(こと)をはばんだと為すを以って、義縦を棄市罪に処した。一年後、張湯もまた死んだ。

王溫舒者陽陵人也少時椎埋為姦

王温舒という者は、陽陵の人である。少年時に椎埋(ついまい うちころして埋めること)して不正をしていた。

已而試補縣亭長數廢

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已而試補縣亭長數廢為吏以治獄至廷史

しばらくして県の亭長の試補(見習い)となって、たびたび廃(はい)された。役人に為って、獄事を取り調べ、廷史に至った。

事張湯遷為御史督盜賊殺傷甚多稍遷至廣平都尉

張湯に仕(つか)え、遷(うつ)されて御史と為った。盗賊を見張り、殺傷は甚(はなは)だ多く、次第に遷(うつ)されて広平都尉に至った。

擇郡中豪敢任吏十餘人以為爪牙皆把其陰重罪

郡中の豪強を択(えら)んで、敢(あ)えて役人に任ずること十余人、爪牙と為さしめるを以って、皆(みな)その陰(かげ)の重罪(じゅうざい)を把握(はあく)し、

而縱使督盜賊快其意所欲得

しこうしてゆるして盗賊を見張らせ、そのつかまえたいと欲するところの意を快(こころよ)くすれば、

此人雖有百罪弗法即有避因其事夷之亦滅宗

この人に百の罪が有ると雖(いえど)も法にかけず、すなわち避(さ)けることが有れば、その事に因(よ)りてこれを滅ぼし、また一族を滅ぼした。

以其故齊趙之郊盜賊不敢近廣平廣平聲為道不拾遺

その故(ゆえ)を以って、斉、趙の町外れの盗賊は敢(あ)えて広平に近づかず、広平の評判は道で落し物を拾わないとうわさされた。

上聞遷為河內太守

上(漢孝武帝劉徹)は聞いて、遷(うつ)して河内太守と為さしめた。

素居廣平時皆知河內豪姦之家及往九月而至

素(もと)より広平に住んでいた時から、河内の豪姦の家を皆(みな)知っており、河内に往くに及んで、九月にして至った。

令郡具私馬五十匹為驛自河內至長安

郡に令(れい)して、私馬五十頭を用意させ、駅次にさせて河内より長安に至った。

部吏如居廣平時方略捕郡中豪猾郡中豪猾相連坐千餘家

広平に居(い)た時の方略(ほうりゃく)の如(ごと)く、役人を部分けして、河内郡中の豪猾を捕(と)らえた。郡中の豪猾者はつぎつぎと連座(れんざ)すること一千余家だった。

上書請大者至族小者乃死家盡沒入償臧

上書して、大者は族刑に至り、小者はすなわち死刑で、家はことごとく賞金、賄賂(わいろ)を没収(ぼっしゅう)することを請(こ)うた。

奏行不過二三日得可事論報至流血十餘里

奏上の行いをして二、三日を過ぎず、事(こと)すべきを得た。報(罪人をさばくこと)を論じ、流血に至るは十余里におよんだ。

河內皆怪其奏以為神速

河内はその奏上を皆(みな)怪(あや)しみ、神のように速(はや)いと思った。

盡十二月郡中毋聲毋敢夜行野無犬吠之盜

十二月終わり、郡中に声無く、敢(あ)えて夜行はなく、野には犬吠(いぬぼ)えの盗賊が無くなった。

其頗不得失之旁郡國

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其頗不得失之旁郡國黎來會春溫舒頓足嘆曰

その頗(すこぶ)るつかまえられずに、傍(かたわ)らの郡国に失(うしな)い、犂(すき)で耕す時期が来て(黎(れい)=犂(れい)?)、時に春になり、河内太守王温舒はじだんだを踏んで嘆息(たんそく)して曰く、

嗟乎令冬月益展一月足吾事矣

「ああ、冬月に一月(ひとつき)増やし延(の)ばせれば、吾(われ)の事業は足(た)るのだが」と。

其好殺伐行威不愛人如此

その殺伐(さつばつ)を好(この)み、威(い)を行って人を愛さずは、この如(ごと)くであった。

天子聞之以為能遷為中尉

天子(漢孝武帝劉徹)はこれを聞いて、能力があると思い、(河内太守王温舒を)遷(うつ)して中尉と為さしめた。

其治復放河內徙諸名禍猾吏與從事

(漢中尉王温舒の)その治(ち)はふたたび河内を模倣(もほう)して、諸(もろもろ)の悪賢さで名高い役人を移してともに従事(じゅうじ)させた。

河內則楊皆麻戊關中楊贛成信等

河内はすなわち楊皆、麻戊で、関中は楊贛、成信らであった。

義縱為內史憚未敢恣治

義縦は内史に為っており、(漢中尉王温舒は)憚(はばか)って未(ま)だ敢(あ)えて治(ち)を思うままにしなかった。

及縱死張湯敗後徙為廷尉而尹齊為中尉

義縦が死に、張湯が敗(やぶ)れた後(のち)に及んで、(漢中尉王温舒は)移されて廷尉と為り、しこうして、尹斉が中尉に為った。

尹齊者東郡茌平人

尹斉という者は東郡の茌平の人である。

以刀筆稍遷至御史事張湯張湯數稱以為廉武

刀筆吏を以って次第に遷(うつ)されて御史に至った。張湯に仕(つか)えた。張湯はたびたび称(たた)え、廉平で武人あると思った。

使督盜賊所斬伐不避貴戚

盗賊の見張りにつかわし、斬伐(ざんばつ)するところは貴戚(貴族の親類)も避(さ)けなかった。

遷為關內都尉聲甚於寧成

遷(うつ)されて関内都尉と為り、聞こえは寧成より甚(はなは)だしかった。

上以為能遷為中尉吏民益凋敝

上(漢孝武帝劉徹)は能力があると思い、遷(うつ)して中尉と為さしめ、吏民はますます生気がなくなり疲弊していった。

尹齊木彊少文豪惡吏伏匿而善吏不能為治以故事多廢抵罪

漢中尉尹斉は頑固で融通がきかず、法文にとぼしく、豪悪な役人がかくれひそみ、しこうして善い役人は治(ち)を為すことができず、故(ゆえ)を以って、事の多くが廃され、罪にふれた。

上復徙溫舒為中尉而楊仆以嚴酷為主爵都尉

上(漢孝武帝劉徹)はふたたび漢廷尉王温舒を移して中尉と為さしめ、しこうして楊仆は厳酷を以って主爵都尉に為った。

楊仆者宜陽人也

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楊仆者宜陽人也

楊僕という者は、宜陽の人である。

以千夫為吏河南守案舉以為能遷為御史使督盜賊關東

千夫を以って役人と為った。河南守が案(あん)じて能力があると為すを以って推挙(すいきょ)し、
遷(うつ)して御史と為さしめ、関東で盗賊を見張らせた。

治放尹齊以為敢摯行稍遷至主爵都尉列九卿

(漢御史楊僕の)治(ち)は尹斉を模倣(もほう)し、敢(あ)えて過酷な行いを為すを以ってした。次第に遷(うつ)って主爵都尉に至り、九卿に列した。

天子以為能南越反拜為樓船將軍有功封將梁侯

天子(漢孝武帝劉徹)は能力があると思った。南越が謀反(むほん)をおこし、(漢主爵都尉楊僕に)官をさずけて樓船將軍と為さしめ、手柄(てがら)が有り、将梁侯を封じた。

為荀彘所縛居久之病死

(漢樓船將軍将梁侯楊僕は)荀彘(人名)のとらえるところを為った。居ることしばらくして、病死した。

而溫舒復為中尉為人少文居廷惛惛不辯至於中尉則心開

しこうして王温舒がふたたび中尉に為ったが、人と為りは法文にとぼしく、法廷に居(い)て惛惛(こんこん)とぼんやりして話さなかったが、中尉に至るとすなわち、心が開かれた。

督盜賊素習關中俗知豪惡吏豪惡吏盡復為用為方略

盗賊を見張り、素(もと)より関中の俗(ぞく)を習(なら)い、豪悪の役人を知っていた。豪悪の役人はことごとくまた用を為し、方略(ほうりゃく)を為した。

吏苛察

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吏苛察盜賊惡少年投缿購告言姦置伯格長以牧司姦盜賊

役人はきびしくとりしまり、盜賊、惡少年は、投書箱、賞金をかけたことにより、不正を告発し、伯格長を置いて、不正、盗賊を管理するを以ってした。

溫舒為人讇善事有埶者即無埶者視之如奴

王温舒の人と為りは有勢者には善事をへつらい、すなわち、勢力な無い者には、これを下男の如(ごと)く視(み)た。

有埶家雖有姦如山弗犯無埶者貴戚必侵辱

勢力の有る家には、不正が山ほど有ると雖(いえど)も、犯(おか)さず、勢いの無い者には、貴戚でも必ず侵(おか)し辱(はずかし)めた。

舞文巧詆下戶之猾以熏大豪其治中尉如此

法文を乱用して巧(たく)みに貧しい人の悪賢い者をそしり、大豪(大勢力者)をいぶす(勢いを盛んにすること)を以ってした。その中尉の仕事を治(おさ)めるは、この如(ごと)くであった。

姦猾窮治大抵盡靡爛獄中行論無出者

姦猾(かんかつ ずるがしこい)は取り調べを窮(きわ)め、大抵(たいてい)獄中で尽きてたおれ、論を行って出る者は無かった。

其爪牙吏虎而冠於是中尉部中中猾以下皆伏

その爪(つめ)牙((きば)の役人は虎(とら)にして冠(かんむり)をつけていた。ここに於いて
漢中尉王温舒は中の、猾(悪賢いもの)に中(あた)るもの以下を部分けして皆(みな)かくれ伏(ふ)させ、

有勢者為游聲譽稱治

勢いの有る者は巡(めぐ)って誉(ほまれ)をうわさし、(王温舒の)治(ち)を称(たた)えた。

治數歲其吏多以權富

治めて数年、その役人の多くが権力があって富(と)むを以ってした。

溫舒擊東越還議有不中意者坐小法抵罪免

漢中尉王温舒は東越を撃(う)って還(かえ)り、意(い)に中(あた)らなかったものが有ったことを議し細かな法に罪を問われて、罪にふれて免ぜられた。

是時天子方欲作通天臺而未有人

この時、天子(漢孝武帝劉徹)はまさに通天台を作ることを欲し、しこうして、未(ま)だ人がなく、

溫舒請覆中尉脫卒得數萬人作

漢中尉王温舒は中尉を覆(くつがえ)して脱(だっ)した兵を請(こ)い、数万人を得て、(通天台)を作った。

上說拜為少府徙為右內史治如其故姦邪少禁

上(漢孝武帝劉徹)はよろこび、官をさずけて少府と為さしめた。移って、右内史と為り、治(ち)はその以前の如(ごと)くして、不正は差し止められることは少なかった。

坐法失官復為右輔行中尉事如故操

(漢右内史王温舒は)法に罪を問われて官を失った。ふたたび右輔と為って、中尉の事を行った。以前の如(ごと)く操(あやつ)った。

歲餘會宛軍發詔徵豪吏溫舒匿其吏華成

一年余りして、宛軍が発されるに会し、詔(みことのり)して強い役人を召(め)した。漢右輔王温舒はその役人の華成を匿(かくま)った。

及人有變告溫舒受員騎錢他姦利事罪至族自殺

人にそむくものが有り、漢右輔王徐自為温舒が員騎銭を受けとったり、他の不正に事に利(り)していることを告げた。罪は族刑に至り、自殺した。

其時兩弟及兩婚家亦各自坐他罪而族

その時、二人の弟、及び二つの婚家(こんか)もまた各(おのおの)が自ら他の罪を問われて、族刑に処された。

光祿徐自為曰悲夫夫古有三族

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光祿徐自為曰悲夫夫古有三族

光祿(官名)徐自為曰く、「悲しいかな、それ古(いにしえ)には三族が有り、

而王溫舒罪至同時而五族乎

しこうして、王温舒の罪は同時にして五族に至ってしまったか」と。

溫舒死家直累千金

王温舒が死んだとき、家にはもっぱら千金を積んでいた。

後數歲尹齊亦以淮陽都尉病死家直不滿五十金

数年後、尹斉もまた淮陽都尉を以って病死し、家にはわずかに五十金に満たなかった。

所誅滅淮陽甚多及死仇家欲燒其尸尸亡去歸葬

淮陽で誅滅(ちゅうめつ)したところは甚(はなは)だ多く、死ぬに及んで、仇(かたき)の家が
その屍(しかばね)を焼くことを欲したが、屍(しかばね)は逃れ去って帰り葬(ほうむ)られた。

自溫舒等以惡為治而郡守都尉

王温舒らより悪を以って治(ち)を為し、しこうして、郡守、都尉、

諸侯二千石欲為治者其治大抵盡放溫舒

諸侯、二千石は治(ち)を為す者を欲し、その治(ち)は大抵(たいてい)いことごとく王温舒を模倣(もほう)し、

而吏民益輕犯法盜賊滋起

しこうして吏民はますます法を犯(おか)すことを軽んじ、盗賊はますます起こった。

南陽有梅免白政楚有殷中杜少齊有徐勃

南陽に梅免、白政がおり、楚に殷中、杜少がおり、斉に徐勃がおり、

燕趙之有堅盧范生之屬

燕、趙の間に堅盧、范生の仲間が有った。

大群至數千人擅自號攻城邑取庫兵

大群は数千人に至り、思うままに自ら号令して、城邑を攻(せ)め、武庫の兵器を取り、

釋死罪縛辱郡太守都尉殺二千石為檄告縣趣具食

死罪者を釈放(しゃくほう)し、郡太守、都尉を縛(しば)り辱(はずかし)め、二千石を殺し、ふれぶみを作り県に告げて酒食を催促(さいそく)した。

小群以百數掠鹵鄉里者不可勝數也

小さい群れは百を以って数え、鄉里でかすめとる者は数えあげることはできなかったのである。

於是天子始使御史中丞丞相長史督之

ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)は御史中丞、丞相長史をつかわしこれを見張らせ始(はじ)めた。

猶弗能禁也乃使光祿大夫范昆

猶(なお)禁ずることができず、そこで、光祿大夫范昆、

諸輔都尉及故九卿張等衣繡衣持節

諸輔都尉及び、前の九卿の張らをつかわし、繡衣(刺繍のある美しい衣)を着せて、旗、

虎符發兵以興擊斬首大部或至萬餘級

虎符(とらふ)を持たせ、兵を発し撃つを盛んにするを以ってし、首を斬り、大部隊の或(あ)るものは一万余級をあげるに至った。

及以法誅通飲食坐連諸郡甚者數千人

法を以って飲食に通じたものを誅するに及んで、諸(もろもろ)の郡に連(つら)なって罪を問い、甚だしいものは数千人になった。

數歲乃頗得其渠率散卒失亡

数年して、すなわち頗(すこぶ)るその悪者の頭(かしら)をつかまえた。兵を散(さん)じて失い逃し、

復聚黨阻山川者往往而群居無可柰何

ふたたぶ山、川に阻(はば)まれて党を集める者は、往々(おうおう)にして、群れて居(きょ)し、
どうすることもできなかった。

於是作沈命法曰群盜起不發覺

ここに於いて「「沈命法」を作り、曰く、群盗が起こっても発覚しなかったり、

發覺而捕弗滿品者二千石以下至小吏主者皆死

発覚して品に満たない者を捕(と)らえれば、二千石以下小吏主に至るまでの者は皆(みな)死刑である、と。

其後小吏畏誅雖有盜不敢發恐不能得

その後、小役人は誅を畏(おそ)れ、盗みが有ると雖(いえど)も敢(あ)えて口に出さず、つかまえることができずに、

坐課累府府亦使其不言故盜賊寖多

府に累(るい とらえる)を課(か)して罪に問われることを恐れ、府もまたその言わないようにさせた。故(ゆえ)に盗賊はますます多くなっていった。

上下相為匿以文辭避法焉

上も下も相(あい)隠匿(いんとく)を為し、文辞を以って法を避(さ)けた。

減宣者楊人也

減宣という者は楊の人である。

以佐史無害給事河東守府

佐史を以って害無く、河東守府で給事(官職名)した。

衛將軍青使買馬河東見宣無害言上徵為大廐丞

漢将軍衛青が河東で馬を買わせ、減宣を無害と見て、言上し、召されて大廐丞と為った。

官事辨稍遷至御史及中丞

官の仕事はうまくゆき、次第に遷(うつ)されて御史及び中丞に至った。

使治主父偃及治淮南反獄所以微文深詆

主父偃を取り調べさせ、及び淮南の謀反の獄を取り調べさせ、些細な法文を以って深くとがめて

殺者甚眾稱為敢決疑

殺したところの者は甚(はなは)だ多く、称(しょう)されて勇敢に疑いを議決したと為された。

數廢數起為御史及中丞者幾二十歲

たびたび廃され、たびたび起こされ、御史及び中丞に為ったのは、ほとんど二十年。

王溫舒免中尉而宣為左內史

王温舒が中尉を免ぜられて、しこうして減宣は左内史と為った。

其治米鹽

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其治米鹽事大小皆關其手自部署縣名曹實物

その米塩(めんどうなことのたとえ 細かなこと)を治(おさ)め、大小に事(こと)し皆(みな)その手に関(かか)わり、自ら役目をふりわけて仲間、実物を明らか(名(めい)=明(めい)?)にして示し、

官吏令丞不得擅搖痛以重法繩之

官吏、令丞は、思うままに揺(ゆ)り動かすことができず、法を重んずるを以ってはげしくこれに縄(なわ)をかけた。

居官數年一切郡中為小治辨然獨宣以小致大

官に居ること数年、一切(いっさい)の郡中は、小さな治弁(とりさばくこと)を為したが、然(しか)るにただひとり減宣だけが小を以って大に致(いた)し、

能因力行之難以為經中廢

これを力行(りきこう)することに因(よ)りてでき、常道を為すを以ってすることを難(なん)じた。途中で廃され、

為右扶風坐怨成信信亡藏上林中

右扶風と為り、なんとはなしに成信を怨(うら)んで、成信は上林の中にかくれ、

宣使郿令格殺信吏卒格信時射中上林苑門

漢右扶風減宣は郿令をつかわし成信を格殺(かくさつ 手でうちころす)させた。吏卒は成信を格殺した時、弓を射(い)て上林苑の門に中(あ)てた。

宣下吏詆罪以為大逆當族自殺而杜周任用

減宣は役人に下(くだ)され、罪にふれて、大逆と為されるを以って、族刑に当てられ、自殺した。
しこうして杜周が任用(にんよう)された。

杜周者南陽杜衍人

杜周という者は、南陽の杜衍の人である。

義縱為南陽守以為爪牙舉為廷尉史

義縦が南陽守に為り、爪牙と為るを以って、推挙されて廷尉史と為った。

事張湯湯數言其無害至御史

張湯に仕(つか)え、張湯はたびたびその無害であることを言上し、御史に至った。

使案邊失亡所論殺甚眾

辺境の失亡を取り調べさせ、死刑と論告するところは甚だ多かった。

奏事中上意任用

(漢御史杜周の)事(こと)を奏上するは、上(漢孝武帝劉徹)の意に中(あ)て、用を任(まか)せられた。

與減宣相編更為中丞十餘歲

減宣とともに相(あい)編成(へんせい)し、改めて中丞と為って十余年。

其治與宣相放

その治(ち)は減宣と相(あい)模倣(もほう)しあった。

然重遲外內深次骨

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然重遲外內深次骨

然(しか)るに疑(うたが)い深く(遅(ち)=疑(ぎ)? ちは、き、ぎ、い、などに変化するので)、外(そと)は寛容(かんよう)にして、内(うち)では骨(ほね)にいたるほど深い。

宣為左內史周為廷尉其治大放張湯而善候伺

減宣が左内史に為り、杜周が廷尉に為り、その治(ち)は大いに張湯を模倣(もほう)して、善くごきげんをうかがった。

上所欲擠者因而陷之

上(漢孝武帝劉徹)がきずつけようと欲するところの者は、因(よ)りてこれを陥(おとしい)れ、

上所欲釋者久系待問而微見其冤狀

上(漢孝武帝劉徹)がゆるそうと欲するところの者は、久しくつないで、問いを待(ま)ちて、ひそかにその無罪の書状を見せた。

客有讓周曰君為天子決平不循三尺法

客の漢廷尉杜周を責めしかる者が有り、曰く、「君は天子の為(ため)に平(たいら)かに決(けっ)し、三尺法にしたがわず、

專以人主意指為獄獄者固如是乎

専(もっぱ)ら人主の意の旨(むね)を以って獄(裁判)を為す。獄(裁判)とはもとより、この如(ごと)くであるのか?」と。

周曰三尺安出哉前主所是著為律

漢廷尉杜周曰く、「三尺がどうして出るのかな。前の主(あるじ)が是(ぜ)として著(あらわ)したところが法律に為り、

後主所是疏為令當時為是何古之法乎

後の主(あるじ)が是(ぜ)として箇条書きにしたところが法令と為り、時に当たって是(ぜ)と為すのであって、どうして古(いにしえ)の法にしたがうのか」と。

至周為廷尉詔獄亦益多矣

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至周為廷尉詔獄亦益多矣

杜周が廷尉に為るに至り、詔獄(しょうごく 漢代、天子の命をうけて罪人をとりしらべたところ)もまた益々多くなっていった。

二千石系者新故相因不減百餘人

二千石のつながれた者は、新旧相(あい)因(よ)りて、百余人を減(げん)じず。

郡吏大府舉之廷尉一歲至千餘章

郡吏、大府がこれを廷尉に挙(あ)げるは、一年で一千余りの文書であった。

章大者連逮證案數百小者數十人

文書の大きいものは、つぎつぎとつかまえあかして取り調べるは、数百人、小さいものは数十人、

遠者數千近者數百里會獄

遠い者は数千里、近い者は数百里。獄(裁判)に会(かい)し、

吏因責如章告劾不服以笞掠定之

役人は因(よ)りて文書の如(ごと)く弾劾を告げて責(せ)め、不服(ふふく)であれば、むちでたたいてこれを定(さだ)めた。

於是聞有逮皆亡匿

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於是聞有逮皆亡匿

ここに於いて逮捕が有ると聞いたものは皆(みな)逃げ隠れた。

獄久者至更數赦十有餘歲而相告言大抵盡詆以不道以上

裁判の長い者は贖(あがない 数(しょく)=贖(しょく)?)赦(赦免)の令?を改(あらた)めるに至りて十と余年で、しこうしてつぎつぎと告言して、大抵(たいてい)ことごとくそしるに不道(無道?)以上を以ってした。

廷尉及中都官詔獄逮至六七萬人吏所加十萬餘人

廷尉及び中都官の詔獄の逮捕は六、七万人に至り、役人が増加したところは十万余人。

周中廢後為執金時逐盜捕治桑弘羊衛皇后昆弟子刻深

漢廷尉杜周は途中で廃され、後に執金に為った時、遂(つい)に盗みがあり、桑弘羊、衛皇后の兄弟の子を捕(と)らえて取調べることきびしくして、

天子以為盡力無私遷為御史大夫

天子(漢孝武帝劉徹)は力を尽くして私(個人的なこと)が無いと思い、遷(うつ)して御史大夫と為さしめた。

家兩子夾河為守其治暴酷皆甚於王溫舒等矣

二人の子に家を構(かま)えさせ、河をはさんで守と為さしめた。その治(ち)は荒々しくむごく、皆(みな)王温舒らより甚(はなは)だしかった。

杜周初徵為廷史有一馬且不全

杜周は初め廷史としてとりたてられたときは、一頭の馬が有って、且つ善(よ)い馬ではなく(全(ぜん)=善(ぜん)?)、

及身久任事至三公列子孫尊官家訾累數巨萬矣

身が久しく事に任用され、三公の列(れつ)に至るに及んで、子孫は尊官になり、家の財産は数巨万を累積(るいせき)した。

太史公曰自郅都杜周十人者此皆以酷烈為聲

太史公曰く、「郅都より杜周の十人の者は、これ、皆(みな)酷烈(こくれつ)を以って評判と為った。

然郅都伉直引是非爭天下大體

然(しか)るに郅都はがんこ者で、正、不正を引いて、天下の大体(大いなる本質)を争った。

張湯以知陰陽人主與俱上下時數辯當否國家其便

張湯は陰陽、人主はともに上下することを知るを以って、時にたびたび当否(とうひ)を弁じ、国家はその便を頼(たよ)った。

趙禹時據法守正杜周從諛以少言為重

趙禹は時に法に拠(よ)り正を守った。杜周はへつらいをほしいままにし、言葉が少なく重きを為すを以ってした。

自張湯死后網密多詆嚴官事寖以秏廢

張湯の死後より、法の網(あみ)は細かくなり、厳酷(げんこく)をそしることが多くなり、官の仕事はますます乱れ廃(すた)れるを以ってした。
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