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非兵不彊非不昌黃帝湯武以興

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非兵不彊非不昌黃帝湯武以興

戦かわなければ強くならず、徳をほどこさなければ盛んにならず、黄帝、殷湯王、周武王は興(おこ)るを以ってし、

桀紂二世以崩可不慎歟

夏桀王、殷紂王、秦二世は崩(くず)れるを以ってし、慎(つつし)まないべきだろうか。

司馬法所從來尚矣太公孫吳王子能紹而明之

司馬法の従い来(きた)るところは遠く久しく、太公望呂尚、孫子、呉子、王子は継承してこれを明らかにすることができ、

切近世極人變作律書第三

近世に切実(せつじつ)で、人変を極(きわ)めた。律書を作るのが第三。

律居陰而治陽歷居陽而治陰

律は陰(いん)に居(お)り、陽(よう)を治(おさ)め、歴(こよみ)は陽(よう)に居(お)り、陰(いん)を治(おさ)める。

律歷更相治不容翲忽

律、歴はこもごもに相(あい)治(おさ)め、間(ま)は飄忽(ひょうこつ 風がはやいさま)も容(い)れない。

五家之文怫異維太初之元論作歷書第四

五家の学問は悖(もと)り異(こと)なる。これ、太初(年号)の元年に論じられた。歴書を作るのが第四。

星氣之書多雜禨祥不經

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星氣之書多雜禨祥不經

星(ほし)、雲気(うんき)の書は多くが禨祥(たたりとさいわい)をまぜて、とりとめがない。

推其文考其應不殊比集論其行事

その文を推(お)しはかり、その応(こた)えを考え、殊(こと)にせず、集めならべてその行事を論じ、

驗于軌度以次作天官書第五

軌度(きど 法則)を調べて順序づけるを以ってした。天官書を作るのが第五。

受命而王封禪之符罕用用則萬靈罔不禋祀

天命を授(さず)かって王になり、封禅の符(おふだ 玉牒書(天を祭るときの祭文を記した札)?)はめったに用いず、用いれば万霊が禋祀(煙をのぼらせて天をまつること)をされずはなし。

追本諸神名山大川禮作封禪書第六

諸の神、名山、大川の礼を源(みなもと)にさかのぼり、封禅書を作るのが第六。

維禹浚川九州攸寧

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維禹浚川九州攸寧

これ、禹が川をくみとって、九州はゆったりとやすんじた。

爰及宣防決瀆通溝作河渠書第七

ここにおいて堤防(ていぼう)を広く行きわたらせて、大きな川をきりひらいて、溝(みぞ)に通(とお)した。河渠書を作るのが第七。

維幣之行以通農商

これ、貨幣の行いは、農、商に流通するを以ってし、

其極則玩巧并兼茲殖

その極(きわ)めれば、ぬけめがなくなり、増やし培(つちか)うことを兼(か)ねあわせ、

爭於機利去本趨末作平準書以觀事變第八

機会に乗じて利益をえることに於いて争(あらそ)い、本(農)を去って末(商)にはしる。 平準書を作って事の変化を観(み)るを以ってしたのが、第八。

太伯避歷江蠻是適

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太伯避歷江蠻是適

太伯は李歴(太伯の末弟)を避(さ)けて、江蛮(地方名)はここに適(かな)い、

文武攸興古公王跡

周文王(姫昌)周武王(姫発)が悠然(ゆうぜん)と興(おこ)るは、古公王の業績(ぎょうせき)である。

闔廬弒僚賓服荊楚

呉王闔廬(姫光)は呉王僚(姫僚)をころし、荊、楚を賓服(ひんぷく 服従してあいさつに来ること)させ、

夫差克齊子胥鴟夷

呉王夫差(姫夫差)は斉に勝ち、伍子胥(伍員)は遺体を馬の皮でつくった酒の袋に入れて江に流され、

信嚭親越吳國既滅

呉太宰伯嚭を信じて越と親和(しんわ)し、呉国はまもなく滅(ほろ)んだ。

嘉伯之讓作吳世家第一

太伯の譲(自分が辞退して、人を先に立てること)を嘉(よみ)して、呉世家を作るのが第一。

申呂肖矣尚父側微

申、呂がおとろえて、尚父(太公望呂尚)は身分が低く、

卒歸西伯文武是師

とうとう西伯(姫昌)に帰属(きぞく)し、周文王(姫昌)周武王(姫発)はここに師(し)とし、

功冠群公繆權于幽

功(こう)は、ひそかに策をめぐらし、群公(多くの公者)に冠(かん)した。

番番黃髪爰饗營丘

番番(はは)と勇ましい黄髪(白髪)になり、ここに於いて(斉の)営丘(地名)を享受(きょうじゅ)した。

不背柯盟桓公以昌九合諸侯霸功顯彰

柯盟(斉桓公が魯と柯に会して盟約した)に背(そむ)かず、斉桓公姜小白は栄(さか)えるを以ってし、諸侯をたびたび会合させ、諸侯の旗頭(はたがしら)となって、功(こう)は顕彰(けんしょう)された。

田闞爭寵姜姓解亡嘉父之謀作齊太公世家第二

田氏と闞氏(監氏)が寵(ちょう)を争い、姜姓は解(と)かれ亡(ほろ)んだ。尚父の謀(はかりごと)を嘉(よみ)して、斉太公世家を作るのが第二。

依之違之周公綏之

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依之違之周公綏之

これに従うもの、これにそむくものを、周公(姫旦)は安(やす)んじなぐさめ、

憤發文天下和之

文徳をふるいおこし、天下はこれに和(わ)し、

輔翼成王諸侯宗周

周成王姫誦を輔翼(ほよく 守り助けること)し、諸侯は周をかしらとしてあがめた。

隱桓之際是獨何哉

魯隠公姫息、魯桓公姫允の際(さい)は、これどうしてなのだろうかな?

三桓爭彊魯乃不昌

三桓(魯の第15代君主桓公の子孫の孟孫氏(仲孫氏)・叔孫氏・季孫氏のこと)が強を争い、魯はすなわち栄(さか)えなかった。

嘉旦金縢作周公世家第三

周公旦(姫旦)の金縢を嘉(よみ)して、周公世家を作るのが第三。

武王克紂天下未協而崩

周武王姫発が殷紂王(子辛)に克(か)って、天下が未(ま)だ協和(きょうわ)しないうちに崩御(ほうぎょ)した。

成王既幼管蔡疑之

周成王姫誦はまだ幼(おさな)く、管(姫鮮 周文王の三男)、蔡(姫度 周文王の五男)がこれを疑い、

淮夷叛之於是召公率

淮夷がこれに叛(そむ)いた。ここに於いて召公奭(姫奭)が徳をすすめたので、

安集王室以寧東土

周王室に安んじ集まり、東土をしずめるを以ってした。

燕(易)[噲]之禪乃成禍亂

燕易王の禅(天子の位をゆずること 燕噲王が後を継いだ)は、すなわち禍乱と成(な)った。

嘉甘棠之詩作燕世家第四

甘棠の詩(召公奭が亡くなって人民が召公奭の政治を思い、やまなしの樹(き)を懐(なつ)かしんで歌に詠(よ)んだ)を嘉(よみ)して、燕世家を作るのが第四。

管蔡相武庚將寧舊商

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管蔡相武庚將寧舊商

管(姫鮮(周文王の三男)の封地)、蔡(姫度(周文王の五男)の封地)が武庚(子禄父(殷紂王(子辛)の子))を補佐し、まさに旧商(旧殷)を安寧(あんねい)にせんとした。

及旦攝政二叔不饗

周公旦(姫旦)が摂政(せっしょう)になるに及んで、二人の兄弟はねぎらわず、

殺鮮放度周公為盟

姫鮮(管叔鮮)を殺し、姫度(蔡叔度)を放逐(ほうちく)した。周公(姫旦)は誓(ちか)をたてて、

大任十子周以宗彊

十人の子(周公旦の兄弟たち)を大いに任用して、周は一族を以って強くなった。

嘉仲悔過作管蔡世家第五

蔡仲(姫胡 蔡叔度の子)が過(あやま)ちを悔(く)やんだのを嘉(よみ)して、管蔡世家を作るのが第五。

王后不絕舜禹是說

王の後継が絶(た)えなければ、帝舜(姚重華 或いは公孫重華?)、帝禹(夏禹王(姒禹))はここに悦(よろこ)ぶ。

維休明苗裔蒙烈

これ、徳はおおいに明らかになり、苗裔(びょうえい)はすぐれた業績を蒙(こうむ)った。

百世享祀爰周陳杞楚實滅之

百世が祭祀(さいし)を享受(きょうじゅ)し、ここにおいてめぐって陳(帝舜の子孫の国)、杞(帝禹の子孫の国)は、楚が実(じつ)にこれを滅ぼした。

齊田既起舜何人哉作陳杞世家第六

斉の田氏(陳の子孫)がまもなく起こり 、帝舜(姚重華 或いは公孫重華?)はなんとえらい人なのだろうかな。陳、杞の世家を作るのが第六。

收殷餘民叔封始邑

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收殷餘民叔封始邑

殷の残った民を収(おさ)め、叔封(姫封 周文王の九男)が邑をおさめ始(はじ)め、

申以商亂酒材是告

申すは商(殷)の乱を以ってして、酒誥、梓材がここに告げられた。

及朔之生衛頃不寧

姫朔(衛恵公)の生まれるに及んで、衛は傾(かたむ)いて安(やす)んじなくなった。

南子惡蒯聵子父易名

南子(衛霊公姫元の寵姫)は姫蒯聵(衛太子)をそしり、子(姫輒)と父(姫蒯聵)が天命(名(めい)=命(めい)?)を交替(こうたい)した。

周卑微戰國既彊

周の徳が衰(おとろ)え、戦う国がまもなく強くなり、

衛以小弱角獨後亡

衛は弱小を以って、衛君姫角はただ一人で後継は亡(ほろ)んだ。

喜彼康誥作衛世家第七

彼(か)の康誥(殷の乱を以って衛康叔(姫封)に誡めた言葉)を喜び、衛世家を作るのが第七。

嗟箕子乎嗟箕子乎

ああ箕子よ、ああ箕子よ。

正言不用乃反為奴

言(げん)を正しても用いられず、そこでそむいて奴に為った。

武庚既死周封微子

武庚(子禄父(殷紂王(子辛)の子))がすでに死んで、周は微子(子啓または子開 殷紂王の庶兄)に封じた。

襄公傷於泓君子孰稱

宋襄公子茲甫は泓で傷(きず)つき、君子(くんし)は誰を称(たた)えようか。

景公謙熒惑退行

宋景公子頭曼は謙で、火星が退行した。

剔成暴虐宋乃滅亡

宋公子剔成は暴虐で 宋はすなわち滅亡した。

喜微子問太師作宋世家第八

微子が太師に問うたことを喜び、宋世家を作るのが第八。

武王既崩叔虞邑唐

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武王既崩叔虞邑唐

周武王姫発がすでに崩じて、叔虞(姫虞 周成王姫誦の弟)が唐を邑とした。

君子譏名卒滅武公

君子(くんし)は名前をそしり、とうとう曲沃武公姫称に滅ぼされた。

驪姬之愛亂者五世

驪姫への愛が乱したのは五世。

重耳不得意乃能成霸

姫重耳(晋献公姫詭諸の子)は意を得なかったが、そこで覇(は)を成(な)すことができた。

六卿專權晉國以秏

六卿が権力を専(もっぱ)らにしたので、晋国は消耗するを以ってした。

嘉文公錫珪鬯作晉世家第九

晋文公姫仇が珪、鬯(香酒)を(周王室より)たまわったことを嘉(よみ)して、晋世家を作るのが第九。

重黎業之吳回接之

南正の重、北正の黎(いずれも帝顓頊の曾孫)はこれを仕事として、呉回(重、黎の弟)がこれを接(つ)いだ。

殷之季世粥子牒之

殷の末世に、粥子(鬻熊)がこれを系図にした。

周用熊繹熊渠是續

周は熊繹(鬻熊の曾孫)を用い、熊渠(熊繹の曾孫)がここに受継いだ。

莊王之賢乃復國陳

楚荘王熊侶は賢く、すなわち陳を復国させ、

既赦鄭伯班師華元

まもなく鄭伯を赦(ゆる)し、宋の華元により軍隊を引き返した。

懷王客死蘭咎屈原

楚懐王熊槐が客死すると、子蘭(楚懐王熊槐の子で楚令尹)は屈原をにくみ、

好諛信讒楚并於秦

諂(へつら)いを好み、讒言(ざんげん)を信じ、楚は秦に併合(へいごう)された。

嘉莊王之義作楚世家第十

楚荘王熊侶の義を嘉(よみ)して、楚世家を作るのが第十。

少康之子實賓南海

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少康之子實賓南海

夏王姒少康の子は、実に南海にしりぞき、

文身斷發黿鱓與處

文身断髪して、大亀とわにが処(ところ)をともにし、

既守封禺奉禹之祀

やがて封禺の山を守り、夏王姒禹の祭祀を奉(たてまつ)った。

句踐困彼乃用種蠡

越王姒句踐は彼(か)の地(会稽)で困窮し、そこで大夫種、范蠡を用いた。

嘉句踐夷蠻能修其

越王姒句踐の夷蛮(いばん)がその徳を修(おさ)めることができ、

滅彊吳以尊周室作越王句踐世家第十一

強い呉を滅ぼして周室を尊ぶを以ってしたことを嘉(よみ)して、越王句踐世家を作るのが第十一。

桓公之東太史是庸

鄭桓公姫友の東遷には、太史伯の言がここに用いられた。

及侵周禾王人是議

周の禾を侵(おか)すに及んで、王室の人々がここに議(ぎ)した。

祭仲要盟鄭久不昌

祭仲は盟約を強要され、鄭は久しく栄えなかった。

子產之仁紹世稱賢

子産(鄭相姫産 鄭成公姫睔の子)の仁(じん)は、代々受継いで賢を称(たた)えられた。

三晉侵伐鄭納於韓

三晋(韓、趙、魏)が侵伐(しんばつ)して、鄭は韓に納(おさ)められた。

嘉公納惠王作鄭世家第十二

鄭公姫突が周恵王姫閬を(周に)に納(おさ)めたことを嘉(よみ)して、鄭世家を作るのが第十二。

維驥騄耳乃章造父

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維驥騄耳乃章造父

これ、一日千里を走る馬の騄耳はすなわち造父を章(あきら)かにした。

趙夙事獻衰續厥緒

趙夙は晋献公姫詭諸に仕(つか)え、趙衰がその系統を続けた。

佐文尊王卒為晉輔

晋文公姫重耳を補佐し、周王を尊び、とうとう晋輔と為った。

襄子困辱乃禽智伯

趙襄子(趙毋卹)が、困り辱(はずか)しめられ、すなわち、智伯(智瑶)を擒(とりこ)にした。

主父生縛餓死探爵

主父(趙武霊王趙雍)が生きたまま縛(しば)られ、雀(すずめ)を探(さが)しながら餓死した。

王遷辟淫良將是斥

趙幽繆王趙遷は誠実ではなく淫(みだ)らで、良将がここに排斥(はいせき)された。

嘉鞅討周亂作趙世家第十三

趙鞅(趙簡子)が周の乱を討(う)ったことを嘉(よみ)して、趙世家を作るのが第十三。

畢萬爵魏卜人知之

畢万が魏を爵されることは、卜(うらな)い人はこれを知っていた。

及絳戮干戎翟和之

魏絳(魏昭子)が姫楊干(晋悼公姫周の弟)を殺戮し、戎翟がこれに和(わ)した。

文侯慕義子夏師之

魏文侯魏都は義を慕(した)い、子夏(卜商 孔子の門人)がこれの師となった。

惠王自矜齊秦攻之

魏恵王魏罃は自らを誇(ほこ)り、斉、秦はこれを攻めた。

既疑信陵諸侯罷之

すでに信陵君魏無忌を疑い、諸侯はこれをやめ、

卒亡大梁王假廝之

とうとう大梁(魏の都)を亡(ほろ)ぼし、魏王魏假は召使にされた。

嘉武佐晉文申霸道作魏世家第十四

魏武子(畢万の子)が晋文公姫重耳を補佐して覇道を述(の)べたことを嘉(よみ)して、魏世家を作るのが第十四。

韓厥陰趙武攸興

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韓厥陰趙武攸興

韓厥(韓献子)はひそかに徳をほどこし、趙武(趙文子)が悠然(ゆうぜん)と興(おこ)った。

紹絕立廢晉人宗之

絶えたのを継承し、廃したのを立て、晋人はこれを尊びうやまった。

昭侯顯列申子庸之

韓昭侯が列を顕(あきら)かにしたのは、申子(申不害)のてがらである。

疑非不信秦人襲之

韓非を疑って信じず、秦人はこれを襲(おそ)った。

嘉厥輔晉匡周天子之賦作韓世家第十五

韓厥が晋を補佐して周天子の賦を匡(ただ)したことを嘉(よみ)して、韓世家を作るのが第十五。

完子避難適齊為援

完子(陳完 嬀完 史記によれば陳公嬀他(陳桓公の弟)の子であり、陳公嬀他の次に陳桓公の子の嬀躍が陳利公として立ち五ヶ月で亡くなり、次に、次の弟の嬀林が陳荘公に為ったとしていますが、他文献の或るものでは陳完は嬀躍の子としており嬀躍が陳公としているものがあります。どちらともいえないですが、史記を読む限りでは陳杞世家、田敬仲完世家の両方を読んで、嬀他は陳公であり陳文公の子であり、陳完は嬀他の子であると言っており、陳公嬀他(陳文公の子)ー陳利公嬀躍(陳桓公の子)ー陳荘公嬀林(陳桓公の子)の系図には整合性があります)が難を避(さ)けて斉におもむき助けと為った。

陰施五世齊人歌之

ひそかに五世にわたって施(ほどこ)し、斉人はこれを歌った。

成子得政田和為侯

田成子(田常)は政治を得て、田和が斉侯に為った。

王建動心乃遷于共

斉王田建は心を動かし、すなわち共に遷った。

嘉威宣能撥濁世而獨宗周作田敬仲完世家第十六

斉威王田因斉、斉宣王田辟彊が濁世(だくせい)をただして、独(ひと)り周を尊びあがめたことを嘉(よみ)して、田敬仲完世家を作るのが第十六。

周室既衰諸侯恣行

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周室既衰諸侯恣行

周室がすでに衰(おとろ)えると、諸侯は行いを思うままにした。

仲尼悼禮廢樂崩追修經術

仲尼(孔子(孔丘))は礼が廃され音楽が崩(くず)れたことを悼(いた)み、さかのぼって経術を修(おさ)め、

以達王道匡亂世反之於正

王道に達するを以って、乱世を匡(ただ)してこれを正に反(かえ)し、

見其文辭為天下制儀法

その文辞(ぶんじ)をあらわし、天下の為(ため)に儀法を制し、

垂六藝之統紀於後世作孔子世家第十七

六芸の統紀を後世に垂(た)れた。孔子世家を作るのが第十七。

桀紂失其道而湯武作周失其道而春秋作

(夏后の)帝桀(姒履癸)、(殷の)紂王(帝辛 子辛)がその道を失って、湯武(殷湯王子履、周武王姫発の功伐)が作られ、周がその道を失って春秋が作られた。

秦失其政而陳涉發跡

秦がその政治を失って、陳渉が跡(あと)を発し、

諸侯作難風起雲蒸卒亡秦族

諸侯が難を作り、風が起こり雲が蒸(む)されて、とうとう秦族を亡(ほろ)ぼした。

天下之端自涉發難作陳涉世家第十八

天下の発端は陳渉より難を発した。陳渉世家を作るのが第十八。

成皋之臺薄氏始基

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成皋之臺薄氏始基

成皋の台は、薄氏が基(もと)づいた始まりである。

詘意適代厥崇諸竇

意(い)を曲(ま)げて代におもむいたので、それ、諸(もろもろ)の竇氏を崇盛(しゅうせい)にさせた。

栗姬偩貴王氏乃遂

栗姫は貴をたのみにしたので、王氏がすなわちすすめあげられた。

陳後太驕卒尊子夫

陳后は大いに驕(おご)ており、とうとう衛子夫を尊(とうと)んだ。

嘉夫若斯作外戚世家十九

それ、徳はこのごとくであったことを嘉(よみ)して、外戚世家を作るのが第十九。

漢既譎謀禽信於陳

漢がすでに譎謀(けつぼう いつわりのはかりごと)して、楚王韓信を陳に於いて擒(とりこ)にした。

越荊剽輕乃封弟交為楚王

越、荊は剽軽(ひょうけい 荒々しく軽薄なこと)で、そこで(漢高祖劉邦の)弟の劉交に封じて楚王にした。

爰都彭城以彊淮泗

ここにおいて彭城を都にして、淮、泗を強くするを以って、

為漢宗藩戊溺於邪禮復紹之

漢の宗藩と為った。楚王劉戊(劉交の孫)は不正に溺(おぼ)れ、劉礼(劉交の子)がふたたびこれを受継いだ。

嘉游輔祖作楚元王世家二十

游(楚元王劉交のあざな)が祖(漢高祖劉邦)を補佐したことを嘉(よみ)して、楚元王世家を作るのが第二十。

維祖師旅劉賈是與

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維祖師旅劉賈是與

これ、漢高祖劉邦の戦いで、劉賈はここにともにした。

為布所襲喪其荊吳

淮南王英布の襲われるところと為って、その荊、呉をうしなった。

營陵激呂乃王瑯邪

営陵侯劉沢は呂氏に激(げき)し、そこで、瑯邪の王になった。

怵午信齊往而不歸

斉内史祝午が斉を信じさせ、往(い)きて帰れず、

遂西入關遭立孝文獲復王燕

遂(つい)に西に関に入り、漢孝文帝劉恒を遭立してふたたび燕で王になることを獲(え)た。

天下未集賈澤以族為漢藩輔作荊燕世家第二十一

天下が未(ま)だ安んじないうちに、劉賈、劉沢は同族を以って、漢藩と為って補佐した。荊燕世家を作るのが第二十一。

天下已平親屬既寡

天下がすでに平定されたが、親族はすでに少なく、

悼惠先壯實鎮東土

斉悼恵王劉肥(高祖劉邦の長庶子)が先んじて壮年で、実(じつ)に東土を鎮(しず)めた。

哀王擅興發怒諸呂

斉哀王劉襄(劉肥の子)は思うままに兵を興(おこ)して諸(もろもろ)の呂氏に怒りを発した。

駟鈞暴戾京師弗許

駟鈞(斉哀王劉襄の母の実家)は暴虐で、京師(みやこ)は聞き入れなかった。

之內淫禍成主父

斉王劉次景は内に淫らで、禍(わざわい)は主父偃でしずまった。

嘉肥股肱作齊悼惠王世家第二十二

斉悼恵王劉肥が 股肱(君主のためにその手足となって仕える家来)であったことを嘉(よみ)して、斉悼恵王世家を作るのが第二十二。

楚人圍我滎陽相守三年

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楚人圍我滎陽相守三年

楚人が漢を栄陽で包囲して、互いに守ること三年、

蕭何填撫山西推計踵兵

漢丞相蕭何は山西を鎮撫(ちんぶ)して、計(はか)りごとを推(お)して戦いをつぎ、

給糧食不絕使百姓愛漢不樂為楚

糧食を給するは絶やさず、百姓をして漢を愛さしめ、楚のためにすることを楽しまないようにさせた。

作蕭相國世家第二十三

蕭相國世家を作るのが第二十三。

與信定魏破趙拔齊遂弱楚人

韓信(淮陰侯の方)とともに魏を平定し、趙を破って斉を攻め落とし、遂(つい)に楚人を弱まらせた。

續何相國不變不革黎庶攸寧

蕭何(漢相国酂文終侯蕭何)に続いて相国になり、不変不革で、庶民は悠然(ゆうぜん)と安寧(あんねい)した。

嘉參不伐功矜能作曹相國世家第二十四

曹参(漢相国平陽懿侯曹参)は功をほこらず能力をほこらなかったことを嘉(よみ)して、曹相國世家を作るのが第二十四。

運籌帷幄之中制勝於無形

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運籌帷幄之中制勝於無形

はかりごとを帳(とばり)の幕の中でめぐらし、形にならないうちから勝ちを制(せい)し、

子房計謀其事無知名

子房(張良)がその事を計謀するは、名を知られることは無く、

無勇功圖難於易為大於細

勇ましい功は無く、難を易(やさ)しいうちから図(はか)り、微細なうちから大と為した。

作留侯世家第二十五

留侯世家を作るのが第二十五。

六奇既用諸侯賓從於漢

六回の奇計がすでに用いられて、諸侯は漢に賓従(ひんじゅう)し、

呂氏之事平為本謀

呂氏の事は陳平が本謀をつくり、

終安宗廟定社稷作陳丞相世家第二十六

終いには宗廟を安んじ、社稷(しゃしょく)を定めた。陳丞相世家を作るのが第二十六。

諸呂為從謀弱京師

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諸呂為從謀弱京師而勃反經合於權

諸(もろもろ)の呂氏がほしいままに為り、京師(みやこ)を弱めることを謀(はか)り、しこうして、
絳侯周勃は一定不変の道理に反して、臨機応変に合わせた。

吳楚之兵亞夫駐於昌邑

呉、楚の戦いは、周亞夫(このとき漢大尉條侯周亞夫 絳侯周勃の子)が昌邑に駐屯し、

以戹齊趙而出委以梁作絳侯世家第二十七

斉、趙をはばむを以ってし、しこうして出して委(ゆだ)ねるは梁を以ってした。絳侯世家を作るのが第二十七。

七國叛逆蕃屏京師唯梁為捍

七国が叛逆し、京師(みやこ)に藩屏(はんぺい)するは、唯(ただ)梁のみがふせぎ守った。

偩愛矜功幾獲于禍

愛をたのみにして功をほこり、あやうく禍(わざわい)を獲(え)るところだった。

嘉其能距吳楚作梁孝王世家第二十八

その呉、楚をはばむことができたことを嘉(よみ)して、梁孝王世家を作るのが第二十八。

五宗既王親屬洽和

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五宗既王親屬洽和

五つの宗族がすでに王になり、親族はうちとけて和した。

諸侯大小為藩爰得其宜

諸侯の大も小も藩となり、ここにおいてその宜(よろ)しきを得た。

僭擬之事稍衰貶矣作五宗世家第二十九

身分不相応におごった事でしだいに衰え地位を下げていったのである。五宗世家を作るのが第二十九、

三子之王文辭可觀作三王世家第三十

三人の子が王になり、文辞(ぶんじ)は観(み)るべきである。山王世家を作るのが第三十。

末世爭利維彼奔義

末世は利(り)を争うが、ここに彼は義(ぎ)を追い求めた。

讓國餓死天下稱之作伯夷列傳第一

国を譲(ゆず)って餓死したが、天下はこれを称(たた)えた。伯夷列伝を作るのが第一。

晏子儉矣夷吾則奢

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晏子儉矣夷吾則奢齊桓以霸景公以治作管晏列傳第二

晏子(晏嬰)は節倹であり、夷伍(管仲)はすなわちぜいたくであった。斉桓公姜小白が覇(は)を以ってし、斉景公姜杵臼は治(ち)を以ってした。管晏列伝を作るのが第二。

李耳無為自化清凈自正韓非揣事情循埶理作老子韓非列傳第三

李耳(老子)は何も為さずに自らを教化し、清らかで静かにして自らを正した。韓非は事情をさぐって情勢(じょうせい)の理に従った。老子韓非列伝を作るのが第三。

自古王者而有司馬法穰苴能申明之作司馬穰苴列傳第四

古(いにしえ)の王者より司馬法は有り、穰苴(田穰苴)はこれに追申(ついしん)して明らかにすることができた。司馬穰苴列伝を作るのが第四。

非信廉仁勇不能傳兵論劍

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非信廉仁勇不能傳兵論劍

信廉仁勇に非(あら)ざれば、兵法を伝え剣術を論ずることができない。

與道同符內可以治身

道とともに符を同じくすれば、内に身を治めるを以ってすることができ、

外可以應變君子比焉作孫子吳起列傳第五

外に変化に応ずるを以ってすることができ、君子が徳にたとえるのである。孫子呉起列伝を作るのが第五。

維建遇讒爰及子奢

これ、楚太子熊建が讒言(ざんげん)に遇(あ)い、ここにおいて子奢(伍奢)に及び

尚既匡父伍員奔吳作伍子胥列傳第六

伍尚はすでに父を救おうとし、 伍員は呉に奔走した。伍子胥列伝を作るのが第六。

孔氏述文弟子興業

孔子が文を述べ、弟子が業を興(おこ)し、

咸為師傅崇仁義作仲尼弟子列傳第七

あまねく師傅と為って、仁を崇(あが)め義を磨(みが)いた。仲尼弟子列伝を作るのが第七。

鞅去衛適秦能明其術

公孫鞅(商鞅)は衛を去って秦におもむき、その術を明らかにすることができた。

彊霸孝公後世遵其法作商君列傳第八

秦孝公嬴渠梁を強く覇(は)させ、後世はその法を手本にした。商君列伝を作るのが第八。

天下患衡秦毋饜而蘇子能存諸侯

天下は秦が満足すること無く連衡していることを患(うれ)え、しこうして蘇子(蘇秦)は諸侯を
存(ながら)えさせることができると、

約從以抑貪彊作蘇秦列傳第九

合従を約して貪強を抑(おさ)えることを以ってした。蘇秦列伝を作るのが第九。

六國既從親而張儀能明其說

六国がすでに従親(じゅうしん)すると、しこうして、張儀はその説を明らかにすることができ、

復散解諸侯作張儀列傳第十

ふたたび諸侯を散解(さんかい)させた。張儀列伝を作るのが第十。
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