Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all 2176 articles
Browse latest View live

太史公學天官於唐都

$
0
0
太史公學天官於唐都受易於楊何習道論於黃子

太史公司馬談は唐都に天官を学び、楊何に易(えき)を受け、黄子に道論を習った。

太史公仕於建元元封之愍學者之不達其意而師悖乃論六家之要指曰

太史公司馬談は建元、元封年間に仕(つか)え、学者がその意を達せずして師が悖(もと)るのを患(うれ)え、そこで六家の要旨(ようし)を論じた、曰く、

易大傳天下一致而百慮同歸而殊涂

「易(えき)の大伝は『天下は気持ちを一(いつ)にして、慮(おもんばか)りを百(ひゃく)にし、
帰着(きちゃく)を同じにして途(みち)を殊(こと)にする』と。

夫陰陽儒墨名法道此務為治者也

それ、陰陽、儒、墨、名、法、道、これらは務(つと)めて治(ち)を為すものである。

直所從言之異路有省不省耳

ただ言(げん)をほしままにするところの路(みち)が異(こと)なっていて、省(かえり)みるか、省(かえり)みないかを有(ゆう)するだけである。

嘗竊觀陰陽之術大祥而眾忌諱使人拘而多所畏

嘗(かつ)てひそかに陰陽の術を観(み)るに、大祥(父母親族の忌あけの祭り 二十五ヶ月後の祭りを大祥という)にして忌諱(きき)が多く、人をして拘(かかわ)らせて畏(おそ)れる所が多かった。

然其序四時之大順不可失也

然(しか)るにその四季の大順を順序づけるは、失(うしな)うべきではないのである。

儒者博而寡要勞而少功是以其事難盡從

儒者ははばひろくして要(かなめ)が少なく、労(ろう)して功(こう)が少なく、これ、
その事するを以ってことごとく従(したが)うのは難(むずか)しい。

然其序君臣父子之禮列夫婦長幼之別不可易也

然(しか)るにその君臣、父子の礼を順序づけ、夫婦、長幼の別を列するは替(か)えるべきではないのである。

墨者儉而難遵是以其事不可遍循

墨とは、節倹(せっけん)にして遵(したが)い難(がた)く、これ、その事するを以って遍(あまね)くしたがうことはできない。

然其彊本節用不可廢也

然(しか)るに本(もと)を強くして用いるを節するは、廃(はい)するべきではないのである。

法家嚴而少恩然其正君臣上下之分不可改矣

法家は厳(おごそ)かにして恩が少ない。然(しか)るにその君臣、上下の分(ぶ)を正(ただ)すは、改めるべきではない。

名家使人儉而善失真然其正名實不可不察也

名家(諸子百家の一つ)は人にして節倹(せっけん)させてしばしば真(まこと)を失わせる。然(しか)るにその名実を正(ただ)すは察しないべきではないのである。

道家使人精神專一動合無形贍足萬物

道家は人をして精神専一にさせ、形(かたち)無きものを合(あ)わせ動かし、万物に足(た)して救(すく)う。

其為術也因陰陽之大順采儒墨之善

その術(じゅつ)と為すは、陰陽の大順(たいじゅん)に因(よ)り、儒、墨の善いところを採(と)り、

撮名法之要與時遷移應物變化

名法の要(かなめ)を撮(つま)み取り、時機とともに遷移して、物に応じて変化し、

立俗施事無所不宜指約而易操事少而功多

俗(ぞく)を立てて事を施(ほどこ)し、宜(よろ)しくしないところは無く、約束を指(さ)し示して操(あやつ)り易(やす)く、事は少なくして功(こう)が多い。

儒者則不然以為人主天下之儀表也

儒とはすなわちそうではない。人主を天下の儀表(ぎひょう 模範)と為すを以ってするのであり、

主倡而臣和主先而臣隨如此則主勞而臣逸

主(あるじ)が歌えば臣下が和(わ)し、主(あるじ)が導(みちび)けば臣下が随(したが)う。
この如(ごと)くはすなわち、主(あるじ)が労(ろう)して、臣下が気ままにする。

至於大道之要去健羨絀聰明釋此而任術

大道(だいどう)の要(かなめ)に至って、健羨(けんせん たいへん慕(した)う)の者を去(さ)らせ、聡明(そうめい)な者を退(しりぞ)け、これらを手放して、術(じゅつ)に委(ゆだ)ねれば、

夫神大用則竭形大勞則敝

それ、神が大いに用いられれば尽(つ)きて、形が大いに労すれば破(やぶ)れる。

形神騷動欲與天地長久非所聞也

形、神が騒動(そうどう)すれば、天地と長久(ちょうきゅう)を欲しても、聞き入れられるところではないのである。

夫陰陽四時八位十二度二十四節各有教令

$
0
0
夫陰陽四時八位十二度二十四節各有教令

それ、陰陽の四時、八位、十二度、二十四節には各(おのおの)教令が有る。

順之者昌逆之者不死則亡未必然也故曰使人拘而多畏

これに順ずる者は栄(さか)え、これに叛(そむ)く者は死ぬか逃げるかで、未(ま)だ必ずしも然(しか)りではなく、故(ゆえ)に曰く、『人をして拘(かかわ)らせて畏(おそ)れる所が多い』と。

夫春生夏長秋收冬藏此天道之大經也

それ、春には生(しょう)じ、夏には成長し、秋には収穫して、冬には蔵(くら)に納(おさ)める、
これは天道の大経である。

弗順則無以為天下綱紀故曰四時之大順不可失也

順じなければ天下の綱紀と為すを以ってすることは無く、故(ゆえ)に曰く、『四時の大順は、失うべきではないのである』と。

夫儒者以六藝為法六藝經傳以千萬數

それ、儒者は六芸を以って法と為した。六芸経が伝えるは千万を以って数え、

累世不能通其學當年不能究其禮

世代を重ねてもその学問に通じることができず、まさに一年ではその礼を究(きわ)めることができず、

故曰博而寡要勞而少功

故(ゆえ)に曰く、『はばひろくして要(かなめ)が少なく、労(ろう)して功(こう)が少ない』と。

若夫列君臣父子之禮序夫婦長幼之別雖百家弗能易也

それ、君臣、父子の礼を列し、夫婦、長幼の別を順序だてるに及んでは、百家と雖(いえど)も替(か)えることはできないのである。

墨者亦尚堯舜道言其行曰

墨者もまた堯帝、舜帝の道を尊(とうと)び、その徳行を言った、曰く、

堂高三尺土階三等茅茨不翦采椽不刮

『堂(どう 家)の高さ三尺(非常に低いという意味)で、土の階段は三段で、茅(かや)でふいた屋根の端はきりそろえず(質素なこと)、山から切り出したままの木をたるきにしてきれいに削(けず)らず(粗末な建物の形容)、

食土簋啜土刑糲粱之食藜霍之羹

土製の器(うつわ)で食べ、土製のなべ(刑=鉶)で啜(すす)り、精米しない大粒の粟(あわ)を食し、あかざや豆の葉の吸い物(粗末な吸い物)を啜(すす)り、

夏日葛衣冬日鹿裘其送死桐棺三寸舉音不盡其哀

夏の日は葛(くず)の繊維で織ったひとえの衣(ころも)を着て、冬の日は鹿の毛皮の上衣を着た』と。
その死を送るは、桐(きり)の棺(ひつぎ)は三寸で、声を挙(あ)げても、その悲しみを尽くさない。

教喪禮必以此為萬民之率

喪(も)の礼を教え、必ずこれを以って万民の標準と為した。

使天下法若此則尊卑無別也

天下をしてこのごとくを法(のっと)らせれば、尊卑(そんぴ)は別(べつ)が無くなるのである。

夫世異時移事業不必同故曰儉而難遵

それ、世が異(こと)なり、時が移れば、事業は必ずしも同じではなくなり、故(ゆえ)に曰く、『節倹(せっけん)にして遵(したが)い難(がた)し』と。

要曰彊本節用則人給家足之道也

要(よう)は曰く、本(もと)を強くして用いるを節する、とは、すなわち人給家足の道なのである。

此墨子之所長雖百長弗能廢也

これは、墨子の長所で、百家の長所と雖(いえど)も廃(はい)することはできないのである。

法家不別親疏不殊貴賤一斷於法則親親尊尊之恩絕矣

法家は、親疏(親(ちか)い者、遠疏の者)を区別せず、貴賎を殊(こと)にせず、一(いつ)に法に於いて断(だん)じ、すなわち、親(親族)に親しみ尊貴を尊(とうと)ぶの恩(おん)が絶(た)たれるのである。

可以行一時之計而不可長用也故曰嚴而少恩

一時(いっとき)の計を行うを以ってすることができても、長く用いるべきではなく、故(ゆえ)に曰く、『厳(おごそ)かにして恩が少ない』と。

若尊主卑臣明分職不得相踰越雖百家弗能改也

主(あるじ)を尊び、臣下を卑(いや)しめ、職分(しょくぶん)を明らかにして相(あい)身分に過ぎたことをしあうことは得られずがごとくは、百家と雖(いえど)も改めることはできないのである。

名家苛察繳繞使人不得反其意

$
0
0
名家苛察繳繞使人不得反其意

名家はきびしくとりしまり、まといついてとりまき、人をしてその意にそむくことを得さしめない。

專決於名而失人情故曰使人儉而善失真

専(もっぱ)ら名(外見上の形式)に於いて決し、人情を失っており、故(ゆえ)に曰く、『人をして節倹にさせ、しばしばその真(まこと)を失わせる』と。

若夫控名責實參伍不失此不可不察也

もし、それ、名(外見上の形式)を控(ひか)え、実(じつ)を責(せ)め、参伍(さんご)といりまぜて失(うしな)わなければ、これ、察しないべきではないのである。

道家無為又曰無不為其實易行其辭難知

道家は無為(むい)で、また曰く、為さずは無し、と。その実は行(おこな)い易(やす)く、その辞(じ)は理解することが難(むずか)しい。

其術以虛無為本以因循為用

その術(じゅつ)は虚無(きょむ)を以って本(もと)と為し、因循(従うことと守ること)を以って用(用いる)と為す。

無成埶無常形故能究萬物之情

勢(いきお)いを成(な)すことは無く、常(つね)の形は無く、故(ゆえ)に万物の情況を究(きわ)めることができる。

不為物先不為物後故能為萬物主

物の先(さき)に為らず、物の後(うし)ろに為らず、故(ゆえ)に万物の中心と為ることができる。

有法無法因時為業有度無度因物與合

法が有って法が無く、時に因(よ)りて業を為す。度が有って度が無く、物に因(よ)りて与(くみ)し合(あ)わす。

故曰聖人不朽時變是守

故(ゆえ)に曰く、『聖人は時の変化に朽(く)ちず(或いは朽=攻?)、守る(したがう)ことを是(ぜ)とする。

虛者道之常也因者君之綱也

虚(きょ)とは道の常(つね いつまでも変わらない)であり、因(いん したがうこと)とは君の綱(つな 人として守るべき道)である』と。

群臣并至使各自明也

$
0
0
群臣并至使各自明也

群臣が並び至り、各(おのおの)をして自らを明らかにさせるのである。

其實中其聲者謂之端實不中其聲者謂之窾

その実状がその言葉に中(あた)る者はこれを端的(たんてき)に謂(い)い、その実状がその言葉に中(あたら)ない者はこれをでたらめに謂(い)う。

窾言不聽姦乃不生賢不肖自分白乃形

でたらめの言が聴き入れられなければ、不正は生(しょう)じず、賢(けん)、不肖(ふしょう)が自ずから分(わか)れ、白黒がすなわちあらわれる。

在所欲用耳何事不成乃合大道混混冥冥

用いるを欲するところのみが在(あ)って、何事(なにごと)が成されないだろうか。すなわち大道に
合(あ)わせて、混混冥冥(こんこんめいめい)とぼんやりとして奥深く。

光燿天下復反無名凡人所生者神也所託者形也

天下に光輝き、また無名(或いは蒙冥(暗いさま)?)に返(かえ)る。凡(およ)そ人の生ずるところは神であり、託(たく)すところは形である。

神大用則竭形大勞則敝形神離則死

神が大いに用いられれば尽(つ)きて、形が大いに労すれば破(やぶ)れて、形、神が離れれば死ぬ。

死者不可復生離者不可復反故聖人重之

死とは生き返ることができず、離れるとはまた返(かえ)すことができない、故(ゆえ)に聖人はこれを重(おも)んずる。

由是觀之神者生之本也形者生之具也

これ由(よ)りこれを観(み)るに、神とは生の本(もと)であり、形とは生の道具である。

不先定其神[形]而曰我有以治天下何由哉

その神、形を不動(ふどう)にすることを先(さき)にせずして、曰く、我(われ)は天下を治めるを以ってすることを有する、とは、何に由(よ)るのだろうかな」と。

太史公既掌天官不治民有子曰遷

太史公司馬談はすでに天官をつかさどり、民を治めなかった。子が有り曰く、遷、と。

遷生龍門耕牧河山之陽

司馬遷は龍門に生まれ、河山の陽で耕牧した。

年十歲則誦古文

年十歳ですなわち古文を声を出して読んだ。

二十而南游江淮上會稽探禹穴闚九疑浮於沅湘

二十歳にして南に江、淮を巡(めぐ)り、会稽に上(のぼ)り、禹穴を見物し、九疑をながめ、沅、湘に舟を浮かべ、

北涉汶泗講業齊魯之都觀孔子之遺風鄉射鄒嶧

北に汶、泗を渉(わた)り、斉、魯の都で講業し、孔子の遺風を観(み)て、鄒、嶧に郷射(きょうしゃ 弓射の会)し、

戹困鄱薛彭城過梁楚以歸

鄱、薛、彭城に困阸(こんやく 災難にあう)し、梁、楚を立ち寄って帰るを以ってした。

於是遷仕為郎中奉使西征巴蜀以南

ここに於いて司馬遷は郎中として仕(つか)え、使者を奉(たてまつ)り巴、蜀以南に西征し、

南略邛笮昆明還報命

南に邛、笮、昆明を見回り、還(かえ)って命令の結果を報告した。

是歲天子始建漢家之封而太史公留滯周南

この年、天子(漢孝武帝劉徹)は漢家の封を建て始め、しこうして、太史公司馬談は周南に留滯(りゅうたい 物事が進まないこと)して、

不得與從事故發憤且卒

ともに事に従うを得ず、故(ゆえ)に憤(いきどお)りを発してまさに死なんとした。

而子遷適使反見父於河洛之

しこうして、子の司馬遷は使者におもむいて返(かえ)り、父に河、洛の間で見(まみ)えた。

太史公執遷手而泣曰

$
0
0
太史公執遷手而泣曰余先周室之太史也

太史公司馬談は司馬遷の手を執(と)って泣いて曰く、「わたしの先祖は周室の太史である。

自上世嘗顯功名於虞夏典天官事

上世よりつねに虞(帝舜の国)、夏(帝禹の国)に於いて功名を顕(あきら)かにして、天官の事をつかさどった。

後世中衰絕於予乎汝復為太史則續吾祖矣

後世中に衰(おとろ)え、わたしで絶(たI)やすのか?汝(なんじ)もまた太史と為れば、吾(わ)が祖先に続けられる。

今天子接千歲之統封泰山而余不得從行是命也夫命也夫

今、天子(漢孝武帝劉徹)は千年の統治を接(つ)ぎ、泰山に封をするが、わたしは従い行くことを得られなかった。これも運命であるのだろうかな、運命であるのだろうかな。

余死汝必為太史為太史無忘吾所欲論著矣

わたしが死んだら、汝(なんじ)は必ず太史に為り、太史に為ったら、吾(われ)が論じ著(あらわ)そうと欲したところを忘れること無かれ。

且夫孝始於事親中於事君終於立身

まさにそれ、孝は親(おや)に仕(つか)えることに始まり、君に仕(つか)えることを中頃で、身を立てることを終(しま)いにし、

揚名於後世以顯父母此孝之大者

名を後世に揚(あ)げ、父母を顕(あきら)かにするを以ってする、これが孝の大なる者だ。

夫天下稱誦周公言其能論歌文武之宣周邵之風

それ、天下は周公旦をほめたたえ、その、文武(周文王、周武王)の徳を歌い論じ、周邵(召公奭?召公奭は周召公とも呼ばれる)の風(威勢)を述(の)べて、

達太王王季之思慮爰及公劉以尊后稷也

太王(古公亶父)王季(季歴)の思慮に達し、そして公劉(后稷の曾孫)に及び、后稷を尊ぶを以ってすることができたことを言う。

幽之後王道缺禮樂衰孔子修舊起廢

周幽王、周王の後、王道は欠(か)けて、礼楽は衰(おとろ)え、孔子が旧を修(おさ)めて廃(廃(すた)れたもの)を起(お)こし、

論詩書作春秋則學者至今則之

詩書を論じ、春秋を作り、すなわち学者は今に至ってもこれを手本とする。

自獲麟以來四百有餘歲而諸侯相兼史記放絕

麟(きりん)を獲(え)てより以来、四百と余年、しこうして諸侯は相(あい)兼(か)ねあい、
史記は放(ほう)っておかれ絶えた。

今漢興海內一統明主賢君忠臣死義之士余為太史而弗論載

今、漢が興(おこ)り、海内が統一し、明主、賢君、忠臣、義(ぎ)に死した士は、わたしは太史と為って論載せず、

廢天下之史文余甚懼焉汝其念哉

天下の記録文を廃(すた)れさせ、わたしは甚(はなは)だ懼(おそ)れる。汝(なんじ)はそれ、念(ねん)じよ」と。

遷俯首流涕曰小子不敏請悉論先人所次舊聞弗敢闕

司馬遷は首を俯(うつむ)けて涕(なみだ)を流して曰く、「わたしは、敏(さと)くはありませんが、
ことごとく先人が旧聞を次(つ)いだところを論じ、敢(あ)えて欠(か)くことはしません」と。

卒三歲而遷為太史令紬史記石室金匱之書

亡くなって三年して司馬遷は漢太子令に為り、石室、金匱の書で史記を綴(つづ)った。

五年而當太初元年十一月甲子朔旦冬至

五年して太初元年十一月甲子朔旦冬至に当(あ)たり、

天歷始改建於明堂諸神受紀

天歴が改め始まり、明堂を建て、諸(もろもろ)の神が紀念(きねん)を受けた。

太史公曰先人有言自周公卒五百歲而有孔子

太史公司馬遷曰く、「先人に言(げん)が有る、『周公旦が亡くなってより五百年して孔子が有る。

孔子卒後至於今五百歲有能紹明世正易傳繼春秋本詩書禮樂之際

孔子が亡くなった後、今に至ること五百年、世を明らかにして継承し、易伝を正(ただ)し、春秋を継(つ)ぎ、詩書、礼楽を本(もと)にすることができる機会が有る』と。

意在斯乎意在斯乎小子何敢讓焉

意(い)はここに在(あ)るか。意(い)はここに在(あ)るか。わたしはどうして敢(あ)えて譲(ゆず)ろうか」と。

上大夫壺遂曰昔孔子何為而作春秋哉

$
0
0
上大夫壺遂曰昔孔子何為而作春秋哉

上大夫壺遂が曰く、「昔、孔子が何の為(ため)にして春秋を作ったのかな?}と。

太史公曰余聞董生曰周道衰廢孔子為魯司寇

太史公司馬遷曰く、「わたしは聞いた、董先生(董仲舒)が曰く、『周道が衰(おとろ)え廃(すた)れ、孔子が魯司寇に為ったとき、

諸侯害之大夫壅之孔子知言之不用道之不行也

諸侯はこれをねたみ、大夫はこれをさまたげた。孔子は言葉が用いられず、道が行われないことを知り、

是非二百四十二年之中以為天下儀表貶天子

二百四十二年の中、天下の儀表(手本)と為す以って、天子を貶(おとし)め、

退諸侯討大夫以達王事而已矣

諸侯を退(しりぞ)け、大夫を討(う)って、王に達するを以ってした事を是非(ぜひ)してそれのみである』と。

子曰我欲載之空言不如見之於行事之深切著明也

孔子曰く、『我(われ)が空(むな)しい言(げん)を載(の)せようと欲しても、行われた事の深切著明(非常にていねいでめだってはっきりしていること)に於いてこれを読ませるにこしたことはないのである』と。

夫春秋上明三王之道下辨人事之紀別嫌疑

それ、春秋は、上は三王の道を明らかにし、下は人事(じんじ)の記録を弁(べん)じ、疑わしいものを区別し、

明是非定猶豫善善惡惡賢賢賤不肖存亡國

是非(ぜひ 正不正)を明らかにし、猶予(ゆうよ ぐずぐずして物事を決めない)を定め、善(ぜん)を善(ぜん)とし悪(あく)を悪(あく)とし、賢(けん)を賢(けん)とし、不肖(ふしょう)を賤(いや)しめ、亡国を存(ながら)えさせ、

繼絕世補敝起廢王道之大者也

絶えた世を継(つ)がせ、おとろえるを補(おぎな)い、廃(はい)されても身を立てたりと、王道の大なるものである。

易著天地陰陽四時五行故長於變

易経は天地、陰陽、四時、五行を著(あらわ)し、故(ゆえ)に変事に於いて長(た)けている。

禮經紀人倫故長於行書記先王之事故長於政

礼経は人倫(じんりん)を記(しる)し、故(ゆえ)に行いに於いて長(た)けている。書経は先王の事を記(しる)し、故(ゆえ)に政治に於いて長(た)けている。

詩記山川谿谷禽獸草木牝牡雌雄故長於風

詩経は山川、谿谷、禽獸、草木、牝牡雌雄(おすとめす)を記(しる)し、故(ゆえ)におもむきに於いて長(た)けている。

樂樂所以立故長於和春秋辯是非故長於治人

楽経は立てるを以ってしたところを奏(かな)で、故(ゆえ)に和(わ)に於いて長(た)けている。
春秋経は是非(ぜひ)を弁じ、故(ゆえ)に人を治(おさ)めることに於いて長(た)けている。

是故禮以節人樂以發和書以道事詩以達意

これ故(ゆえ)に礼は人を節するを以ってし、音楽は和(わ)を発するを以ってし、書は事を語るを以ってし、詩は意(い)に達するを以ってし、

易以道化春秋以道義撥亂世反之正莫近於春秋

易(えき)は変化を語るを以ってし、春秋は義(ぎ)を語るを以ってする。撥乱世反の正(乱れた世をおさめて平和な世にもどすこと)は、春秋より近いものはなし。

春秋文成數萬其指數千萬物之散聚皆在春秋

春秋の文は数万で成り、その要旨(ようし)は数千。万物の散聚(散ることと集まること)は皆(みな)春秋に在(あ)る。

春秋之中弒君三十六亡國五十二諸侯奔走不得保其社稷者不可勝數

春秋の中で、君を殺すは三十六、国を亡(ほろ)ぼすは五十二、諸侯の奔走してその社稷(しゃしょく)を保(たも)つことを得られなかった者はすべて数えあげることはできない。

察其所以皆失其本已故易曰失之豪釐差以千里

その所以(ゆえん)を察するに、皆(みな)その本(もと)を失っただけである。故(ゆえ)に易(えき)は曰く、『豪釐(ごうり 極めて小さい数量のたとえ)を失えば、差(さ)は千里を以ってする』と。

故曰臣弒君子弒父非一旦一夕之故也其漸久矣

故(ゆえ)に曰く、『臣下が君を殺し、子が父を殺すは、一朝一夕(いっちょういっせき 短い期間)の故(ゆえ)でないのであり、その少しずつ進んで久(ひさ)しいのである』と。

故有國者不可以不知春秋前有讒而弗見後有賊而不知

故(ゆえ)に国を有する者は、春秋を知らずを以って、前(まえ)に謗(そし)るが有っても見えず、後(うし)ろに賊(ぞく)が有っても知らないのは不可である。

為人臣者不可以不知春秋守經事而不知其宜遭變事而不知其權

人臣と為る者は春秋を知らずを以って、事を守りおさめるにその宜(よろ)しきを知らず、変事に遭(あ)って、そのはかりごとを知らないのは不可である。

為人君父而不通於春秋之義者必蒙首惡之名

人君の父と為って春秋の義(ぎ)に通じない者は、必ず首悪(しゅあく 悪人のかしら)の聞こえを蒙(こうむ)る。

為人臣子而不通於春秋之義者必陷篡弒之誅死罪之名

人臣の子と為って春秋の義(ぎ)に通じない者は、必ず篡弒(さんし 臣下が君主を殺して、その位を奪うこと)の誅(ちゅう)の、死罪の聞こえに陥(おちい)る。

其實皆以為善為之不知其義被之空言而不敢辭

その実(じつ)は皆(みな)善(ぜん)と為すを以ってこれを為して、その義(ぎ)を知らず、これに空(むな)しい言(げん)を被(こうむ)らせても敢(あ)えてやめないだろう。

夫不通禮義之旨至於君不君臣不臣父不父子不子

それ、礼、義の旨(むね)に通じなければ、君は君ではなく、臣下は臣下でなく、父は父でなく、子は子でなくなるに至る。

夫君不君則犯臣不臣則誅父不父則無道子不子則不孝

それ、君が君でなくなれば犯(おか)され、臣が臣でなくなれば誅(ちゅう)され、父が父でなくなれば無道(むどう)であり、子が子でなくなれば不孝(ふこう)である。

此四行者天下之大過也以天下之大過予之則受而弗敢辭

この四つの行いとは、天下の大過(たいか 大きなあやまち)であるが、天下の大過(たいか 大きなあやまち)を以ってこれにあたえれば、受けて敢(あ)えて辞退しないだろう。

故春秋者禮義之大宗也夫禮禁未然之前法施已然之後

故(ゆえ)に春秋とは、礼、義(ぎ)のおおもとなのである。それ、礼は未然(みぜん まだおこらないこと)の前(まえ)に禁(きん)じ、法(ほう)は已然(いぜん すでにおこったこと)の後に施(ほどこ)す。

法之所為用者易見而禮之所為禁者難知

法(ほう)の用と為すところのものはわかり易(やす)く、しこうして、礼の禁(きん)と為すところのものは理解することが難(むずか)しい」と。

壺遂曰孔子之時

$
0
0
壺遂曰孔子之時上無明君下不得任用

漢上大夫壷遂曰く、「孔子の時、上(うえ)には明君が無く、下(した)には任用できるものがなく、

故作春秋垂空文以斷禮義當一王之法

故(ゆえ)に春秋を作り、空(むな)しい文を垂(た)れて礼、義(ぎ)を断(だん)ずるを以って、一(いつ)に王の法に当(あ)てた。

今夫子上遇明天子下得守職萬事既具

今、あなたは上(うえ)に賢明な天子に遇(あ)い、下(した)に職を守るを得て、万(よろず)の事はすでに備(そな)わっており、

咸各序其宜夫子所論欲以何明

あまねく各(おのおの)がその宜(よろ)しきを順序だてられているのに、あなたが論ずるところは何を以って明らかにしたいと欲するのか?」と。

太史公曰唯唯否否不然

太史公司馬遷曰く、「はいはい、いえいえ、そうではありません。

余聞之先人曰伏羲至純厚作易八卦

わたしはこれを聞く、先人曰く、『伏羲(帝王の名)は純厚(じゅんこう たいそう手厚いこと)に至ってから、易(えき)の八卦(はっけ)を作った。

堯舜之盛尚書載之禮樂作焉

堯帝、舜帝が盛んな時を、尚書はこれを載(の)せて、礼、楽が作られた。

湯武之隆詩人歌之春秋采善貶惡

殷湯王、周武王の隆盛(りゅうせい)の時を、詩人はこれを歌った。春秋は善(ぜん)を彩(いろど)り、悪(あく)を貶(おとし)め、

推三代之褒周室非獨刺譏而已也

三代(夏、殷、周)の徳を推(お)しすすめ、周室を褒(ほ)めたたえ、ただなじりそしるみのではないのである』と。

漢興以來至明天子獲符瑞封禪

漢が興(おこ)って以来、賢明な天子に至り、符瑞(ふずい めでたいしるし)を獲(え)て、封禅(ほうぜん)をおこない、

改正朔易服色受命於穆清澤流罔極

暦(こよみ)を改正し、服色を替(か)え、天命を穆清に授(さず)かり、恩沢が流れてきわまりがなく、

海外殊俗重譯款塞請來獻見者不可勝道

海外は俗(ぞく)を殊(こと)にし、通訳を重(かさ)ねて塞(とりで)にのぞみ、来献(らいけん)を請(こ)うて見(まみ)える者は、すべて語ることはできない。

臣下百官力誦聖猶不能宣盡其意

臣下、百官は聖徳を力をこめてとなえても、猶(なお)ことごとくその意(い)を広めることができない。

且士賢能而不用有國者之恥

まさに士が賢能であって用いられずは、国を有(ゆう)する者の恥(はじ)で、

主上明聖而不布聞有司之過也

主上が明聖であって徳が評判を布(し)かないのは、有司(官職名)の過(あやま)ちである。

且余嘗掌其官廢明聖盛不載

まさにわたしはその官を嘗(な)めつかさどり、明聖盛を廃(はい)して載(の)せず、

滅功臣世家賢大夫之業不述墮先人所言罪莫大焉

功臣、世家、賢大夫の業を滅ぼして述(の)べなければ、先人の言うところをおこたって、罪は莫大(ばくだい)である。

余所謂述故事整齊其世傳

わたしは所謂(いわゆる)故事(こじ)を述(の)べ、その世伝をととのえるのであって、

非所謂作也而君比之於春秋謬矣

所謂(いわゆる)作るのではないのであり、君がこれを春秋に比(くら)べるのは、あやまりなのである」と。

於是論次其文

$
0
0
於是論次其文七年而太史公遭李陵之禍幽於縲紲

ここに於いてその文を順に論じた。七年して太史公は李陵(人名)の禍(わざわい)に遭(あ)い、牢屋に幽閉された。

乃喟然而嘆曰是余之罪也夫是余之罪也夫身毀不用矣

そこで喟然(きぜん)と嘆息(たんそく)して曰く、「これはわたしの罪なのだろうかな。これはわたしの罪なのだろうかな。身は傷つき用いられず」と。

退而深惟曰夫詩書隱約者欲遂其志之思也

退いて、深く考えて曰く、「それ、詩書がひそかに約(つづ)めるのは、その志(こころざし)を遂(と)げる思いを欲しているのである。

昔西伯拘羑里演周易孔子戹陳蔡作春秋

昔、西伯は羑里にとらえられ、周易を説明し孔子は陳蔡で困窮して、春秋を作った。

屈原放逐著離騷左丘失明厥有國語

屈原は放逐(ほうちく)されて、離騒を著(あらわ)した。左丘は失明して、それ国語を有した。

孫子臏腳而論兵法不韋遷蜀世傳呂覽

孫子は臏腳(刑罰名)されて、兵法を論じ、呂不韋は蜀に遷(うつ)され、世に呂覧(呂氏春秋)を伝え

韓非囚秦說難孤憤詩三百篇大抵賢聖發憤之所為作也

韓非は秦に囚(とら)われて、說難、孤憤をつくり、詩三百篇は、大抵(たいてい)賢聖が発憤(はっぷん)して作ったところである。

此人皆意有所郁結

$
0
0
此人皆意有所郁結不得通其道也故述往事思來者

これらの人は皆(みな)意(い)は気がつまるところを有(ゆう)し、その道に通ずることを得ず、故(ゆえ)に往事(おうじ)を述(の)べ、未来を思う者である」と。

於是卒述陶唐以來至于麟止自黃帝始

ここに於いてとうとう陶唐(帝堯)以来、麟止に至るを述(の)べ、黄帝より始めた。

維昔黃帝法天則地四聖遵序各成法度

これ、昔、黄帝は天に法(のっと)り、地に則(のっと)り、四人の聖人は順序だてることにしたがって各(おのおの)法度(はっと)を成(な)した。

唐堯遜位

$
0
0
唐堯遜位虞舜不臺厥美帝功萬世載之作五帝本紀第一

唐堯((陶唐(国号)の堯帝)は位をゆずり、虞舜(有虞(国号)の舜帝)はよろこばず、それ、帝の功績をほめて、万世にこれをいただいて、五帝本紀を作るが、第一番目。

維禹之功九州攸同光唐虞際流苗裔

これ、夏禹王の功績は、九州はともにするところとなり、唐虞(堯帝、舜帝)の際(おり)に光輝き、徳は苗裔(びょうえい )に流れ、

夏桀淫驕乃放鳴條作夏本紀第二

夏桀王は淫(みだ)らで驕(おご)り、すなわち鳴條に追い払われ。夏本紀を作るは第二。

維契作商

$
0
0
維契作商爰及成湯太甲居桐盛阿衡

これ、契(帝嚳の子)は商(殷)を作り、そして成湯(殷湯王(殷帝天乙))に及んだ。 殷帝太甲は桐宮に居住し、徳(とく)は阿衡(伊尹)で盛んになり、

武丁得說乃稱高宗

殷帝武丁は説(人名)を得て、すなわち高宗と称(たた)えられ、

帝辛湛湎諸侯不享作殷本紀第三

殷帝辛は酒色などに溺(おぼ)れて、諸侯は貢(みつ)がなくなった。殷本紀を作るが第三。

維棄作稷盛西伯武王牧野實撫天下

これ、棄(帝嚳の子)は稷(周)を作り、徳(とく)は西伯姫昌で盛んになり、周武王姫発は牧野で戦い、実(まこと)に天下を撫(な)で安んじ、

幽昏亂既喪酆鎬

周幽王姫宮涅、周王姫胡の時に混乱し、すでに酆鎬をほろぼし、

陵遲至赧洛邑不祀作周本紀第四

だんだんおとろえて周赧王姫延に至り、洛邑は祭祀されなくなった。周本紀を作るが第四。

維秦之先伯翳

$
0
0
維秦之先伯翳佐禹穆公思義悼豪之旅

これ、秦の先祖の伯翳(大費 帝顓頊(黄帝公孫軒轅の孫)の孫の女修の子(大業)の子)は禹(後の夏后帝)を補佐し、秦穆公嬴任好は義(ぎ)を思い、悼(いた)み大声で泣くことの旅に(黄泉の国への旅?)に、

以人為殉詩歌黃鳥昭襄業帝作秦本紀第五

人を以ってお伴(とも)と為さしめ、詩は「黄鳥」を歌った。秦昭襄王嬴稷は帝(西帝と号した)を業とした。秦本紀を作るが第五。

始皇既立并兼六國銷鋒鑄鐻維偃干革

秦始皇帝嬴政がすでに立ち、六国を兼(か)ね併(あわ)せ、銷(すき)鋒(ほこ)は鐻(かねかけ)に鋳(い)られ、これ、戦争をやめて、

尊號稱帝矜武任力

尊号して帝を称(しょう)し、武(ぶ)をほこり力にゆだねた。

二世受運子嬰降虜作始皇本紀第六

秦二世皇帝嬴胡亥はめぐり合わせを授(さず)かり、子嬰(秦王嬴嬰)は虜(とりこ)に降(くだ)った。始皇本紀を作るが第六。

秦失其道豪桀并擾

$
0
0
秦失其道豪桀并擾

秦はその道を失(うしな)い、豪傑(ごうけつ)がならび乱(みだ)れ、

項梁業之子羽接之

項梁(楚の武将)がこれを業として、子羽(甥(おい)の項羽(項籍))がこれを接(つ)ぎ、

殺慶救趙諸侯立之

慶(宋義)を殺して趙を救(すく)い、諸侯はこれを立てた。

誅嬰背懷天下非之作項羽本紀第七

子嬰(秦の最後の王)を誅(ちゅう)し、楚懐王熊心に背(そむ)き、天下はこれをそしった。項羽本紀を作るが第七。

子羽暴虐漢行功

子羽(項羽(項籍))は暴虐(ぼうぎゃく)であったが、漢は功徳を行い、

憤發蜀漢還定三秦

憤(いきどお)って蜀、漢を発して、還(かえ)って三秦(雍王章邯(旧秦将)、塞王司馬欣(もと秦将司馬欣)、翟王董翳(もと秦将董翳))を平定し、

誅籍業帝天下惟寧

項籍(項羽)を誅(ちゅう)し、帝業をはじめ、天下はもっぱら安寧(あんねい)して、

改制易俗作高祖本紀第八。

制度を改め、俗(ぞく)を替(か)えた。高祖本紀を作るが第八。

惠之早霣諸呂不台

$
0
0
惠之早霣諸呂不台

漢孝恵帝劉盈が早く死に、諸(もろもろ)の呂氏はよろこばず、

崇彊祿產諸侯謀之

強い呂祿、呂産を崇(あが)め、諸侯はこれを謀(はか)り、

殺隱幽友大臣洞疑

趙隱王如意を殺し、趙幽王劉友(劉邦の子)を幽閉して殺し、大臣は恐れ疑い(洞=恫?)、

遂及宗禍作呂太后本紀第九

遂(つい)に劉一族の禍(わざわい)に及んだ。呂太后本紀を作るのが第九。

漢既初興繼嗣不明

漢がすでに興(おこ)ったばかりで、後継ぎが明らかでなくなり、

迎王踐祚天下歸心

王を迎(むか)えて踐祚(せんそ 先帝がなくなられて、次の天子がすぐ天子の位につくこと)し、天下は心をよせた。

蠲除肉刑開通關梁

肉刑を免除し、関所、橋を開通し、

廣恩博施厥稱太宗作孝文本紀第十

恩を広くし、施(ほどこ)しを広くし、それ、太宗と称(しょう)した。孝文本紀を作るが第十。

諸侯驕恣吳首為亂

$
0
0
諸侯驕恣吳首為亂京師行誅七國伏辜

諸侯は驕(おご)り勝手きままになり、呉が首謀して乱をおこし、京師(みやこ)は誅(ちゅう)を行い、七国は重い罪に伏(ふ)した。

天下翕然大安殷富作孝景本紀第十一

天下は翕然(きゅうぜん)と集まり来て、大いに安んじ富み栄えた。孝景本紀を作るが第十一。

漢興五世隆在建元外攘夷狄內修法度

漢が興(おこ)って五世、隆盛は建元(年号)に在(あ)り、外(そと)は夷狄を追いはらい、内(うち)に法度を修(おさ)め、

封禪改正朔易服色作今上本紀第十二

封禅をして、暦(こよみ)を改正し、服色を替(か)えた。今上本紀を作るが第十二。

維三代尚矣年紀不可考

これ、三代(夏、殷、周)の尚書では、年紀は取り調べることができず、

蓋取之譜牒舊聞本于茲

おおかたこれを譜牒(事を並べて記した文書)、旧聞(きゅうぶん)から取り、これを本(もと)に、

於是略推作三代世表第一

ここに於いてあらましを推(お)しはかった、三代世表を作るのが第一。

幽之後周室衰微

$
0
0
幽之後周室衰微

周幽王姫宮涅、周王姫胡の後、周室は衰微(すいび)し、

諸侯專政春秋有所不紀

諸侯は政治を専(もっぱ)らにし、春秋は記さないところが有り、

而譜牒經略五霸更盛衰

しこうして譜牒(事を並べて記した文書)の経略(天下を治め、四方の国を攻め従えること)は、五覇がこもごもに盛衰(せいすい)し、

欲睹周世相先後之意作十二諸侯年表第二

周の世相(せそう)の先(さき)と後(あと)をよくみることの意(い)を欲し、十二諸侯年表を作るのが第二。

春秋之後陪臣秉政彊國相王

$
0
0
春秋之後陪臣秉政彊國相王

春秋の後、陪臣(ばいしん)は政治をとって、強い国はつぎつぎと王になり、

以至于秦卒并諸夏

秦に至るを以って、とうとう中国を併(あわ)せ、

滅封地擅其號作六國年表第三

封地を減らし、その号令をほしいままにした。六国年表を作るのが第三。

秦既暴虐楚人發難

秦がすでに暴虐(ぼうぎゃく)になると、楚人(陳渉)が難(なん)を発し、

項氏遂亂漢乃扶義征伐

項氏が遂(つい)に乱(みだ)れ、漢がそこで義帝(楚懐王熊心)によって、(項氏を)征伐(せいばつ)し、

八年之天下三嬗

八年の間で、天下は三度移り変わった。

事繁變眾故詳著秦楚之際月表第四

事は複雑で変化が多く、故(ゆえ)に秦、楚の際(さい)の月表を詳(くわ)しく著(あらわ)したのが第四。

漢興已來至于太初百年

漢が興(おこ)って以来、太初(年号)に至る百年は、

諸侯廢立分削譜紀不明

諸侯が廃されたり立ったり、分かれたり削られたりして、譜紀(系図を書いたもの)は明らかではなく、

有司靡踵彊弱之原云以世

役人が細かくたずねて、強弱の源(みなもと)が云(い)われるは世々(よよ)を以ってした。

作漢興已來諸侯年表第五

漢が興(おこ)って以来の諸侯年表を作るが第五。

維高祖元功輔臣股肱

$
0
0
維高祖元功輔臣股肱

これ、漢高祖(劉邦)の大功者の輔臣(主君に力添えする家来)股肱(君主のためにその手足となって仕える家来)は、

剖符而爵澤流苗裔

剖符(ほうふ 臣下の任命や爵位を与えるときなどの証拠として行われた)されて爵(しゃく)され、恩沢は苗裔に流れた。

忘其昭穆或殺身隕國作高祖功臣侯者年表第六

その昭穆(しょうぼく 宗廟の順位)を忘れ、或(あ)るものは身を殺し、国を崩(くず)した。高祖の功臣の侯者の年表を作るのが第六。

惠景之維申功臣宗屬爵邑作惠景侯者年表第七

漢孝恵帝劉盈、漢孝景帝劉啓の間は、これ、功臣、宗属、爵邑を申し上げ、恵景間の侯者年表を作るのが第七。

北討彊胡南誅勁越

北に強い胡(匈奴)を討(う)ち、南に強い越を誅(ちゅう)し、

征伐夷蠻武功爰列作建元以來侯者年表第八

夷蛮(いばん)を征伐(せいばつ)し、武功(ぶこう)はここに列せられた。建元以来の侯者年表を作るのが第八。

諸侯既彊七國為從

諸侯が既(すで)に強くなり、七国が合従を為した。

子弟眾多無爵封邑推恩行義

(諸侯の)子弟(してい)の衆の多くが爵、封邑が無く、恩(おん)を推(お)し進めさせて義(ぎ)を行わせた。

其埶銷弱歸京師作王子侯者年表第九

その(強い諸侯の)勢(いきお)いは衰え弱まり、徳(とく)は京師(みやこ)に帰(き)した。王子の侯者年表を作るのが第九。

國有賢相良將民之師表也

$
0
0
國有賢相良將民之師表也

国には賢相、良将軍がおり、民(たみ)の師表(しひょう 世の中の手本、模範となる人)である。

維見漢興以來將相名臣年表

これ、漢が興(おこ)って以来の将相、名臣の年表を見るに、

賢者記其治不賢者彰其事

賢者はその治(ち)を記(しる)され、不賢者はその事(こと)を彰(あきら)かにされる。

作漢興以來將相名臣年表第十

漢興以来将相名臣年表を作るのが第十。

維三代之禮

$
0
0
維三代之禮所損益各殊務

これ、三代(夏、殷、周)の礼は失われたり付け加えられたりして、各(おのおの)が務(つと)めを殊(こと)にしたが、

然要以近性情通王道

然(しか)るに要(かなめ)は性情(せいじょう)に近づけるを以って、王道に通じることで、

故禮因人質為之節文略協古今之變作禮書第一

故(ゆえ)に礼は人が質(ただ)すに因(よ)りて、これをはぶいたりかざったりして、古今の変化にあらましかなうように為したのである。礼書を作るが第一。

樂者所以移風易俗也

音楽とは、風習を移(うつ)して俗(ぞく)をあらためる方法である。

自雅頌聲興則已好鄭衛之音

雅(政治の得失を歌ったもので、天子諸侯の宴会などに用いた)、頌(宗廟の祭礼で先祖の徳を賛美する楽歌)の歌声が興(おこ)ってより、すなわちすでに鄭、衛の音楽が好まれ、

鄭衛之音所從來久矣人情之所感

鄭、衛の音楽の従い来るところは久しい。人情がゆり動かされ、

遠俗則懷比樂書以述來古作樂書第二

遠くの俗(ぞく)ならばなれしたがう。音楽の書をならべて、古来(こらい)を述べるを以ってした。楽書を作るのが第二。
Viewing all 2176 articles
Browse latest View live