October 13, 2014, 5:37 pm
昔者越王句踐困於會稽之上乃用范蠡計然
昔、越王句踐が会稽のほとりで困(こま)り、そこで范蠡(人名)、計然(人名)を用いた。
計然曰知斗則修備時用則知物
計然曰く、「ひしゃくを知れば、備(そな)えを修(おさ)め、用いるをうかがえば、物を知る。
二者形則萬貨之情可得而觀已故歲在金穰
二者が形になれば、万(よろず)の貨の情況は得てして観(み)ることができるのみ。故(ゆえ)に実りの時は金に在(あ)り、豊穣(ほうじょう)は、
水毀木饑火旱
水に在(あ)り、毀(こぼ)つは、木に在(あ)り、飢饉(ききん)は火、旱魃(かんばつ)に在(あ)る。
旱則資舟水則資車物之理也
日照りになれば、舟を役ににたて、洪水になれば、車を役にたてるは、物の理(り)である。
六歲穰六歲旱十二歲一大饑
六年ごとに豊穣(ほうじょう)になり、六年ごとに日照りになり、十二年に一度大きな飢饉(ききん)になる。
夫糶二十病農九十病末
それ、穀物を売り出すに、二十で農を病(や)み、九十で商売を病(や)む。
末病則財不出農病則草不辟矣
商売が病(や)めば、品物が出ず、農が病めば草は除(のぞ)かれず、
上不過八十下不減三十則農末俱利
上が八十を過ぎず、下が三十を減(へ)らなければ、すなわち、農、商はともに利(り)して、
平糶齊物關市不乏治國之道也
穀物を売り出すを平(たいら)かにして物をととのえ、関の市(いち)は乏(とぼ)しくならず、国を治(おさ)める道である。
積著之理務完物無息幣
適(つりあう 著(ちゃく)=適(ちゃく)?)の道理を積(つ)み、物をまっとうさせることに務(つと)め、貨幣を休ませること無かれ。
以物相貿易腐敗而食之貨勿留無敢居貴
物を以って相(あい)貿易(ぼうえき)し、腐敗させて食糧の品が留(とど)まることなく、敢(あ)えて値段を高く据(す)えること無かれ。
論其有餘不足則知貴賤
その有余(ゆうよ)、不足(ふそく)を論(ろん)ずれば、すなわち高い、安いを知る。
貴上極則反賤賤下極則反貴
高値が上に極(きわ)まれば、反(かえ)して安くなり、安値が下に極(きわ)まれば反(かえ)して高くなる。
貴出如糞土賤取如珠玉財幣欲其行如流水
高ければ糞土(ふんど)の如(ごと)く出して、安ければ珠玉(しゅぎょく)の如(ごと)く取る。
財幣はその流水の如(ごと)く行くことを欲する」と。
修之十年國富厚賂戰士士赴矢石
これを修(おさ)めて十年、国は富(と)み、賄賂(わいろ)を(呉に)厚(あつ)くし、士を戦わせ、士は戦場に赴(おもむ)き、
如渴得飲遂報彊吳觀兵中國稱號五霸
のどが渇(かわ)いて飲むを得たが如(ごと)く、遂(つい)に強い呉に報(むく)い、戦いを中国に観(み)て、称(しょう)して、五覇、と号(ごう)した。
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October 14, 2014, 5:44 pm
范蠡既雪會稽之恥乃喟然而嘆曰
范蠡がすでに会稽の恥(はじ)を雪(すす)ぎ、すなわち喟然(きぜん)としてため息をついて曰く、
計然之策七越用其五而得意
「計然の策(さく)は七つで、越はその五つを用いて、意を得た。
既已施於國吾欲用之家
すでに国に施(ほどこ)され、吾(われ)はこれを家に用いることを欲する」と。
乃乘扁舟浮於江湖變名易姓
そこで小舟(こぶね)に乗って江湖に浮かび、名を変え姓名を変えて、
適齊為鴟夷子皮之陶為朱公
斉におもむいて鴟夷子皮と為り、陶に行って朱公と為った。
朱公以為陶天下之中諸侯四通貨物所交易也
朱公は、陶は天下の中心で、諸侯は四方から通じ、貨物が交易(こうえき)するところであると思った。
乃治產積居與時逐而不責於人
そこで、産物を治(おさ)め積みたくわえた。好機とともに出して、人を責(せ)めとがめなかった。
故善治生者能擇人而任時
故(ゆえ)に善(よ)く生業(なりわい)を治(おさ)めたのは、人を択(えら)んで、好機に委(ゆだ)ねることができたからである。
十九年之中三致千金再分散與貧交疏昆弟
十九年のうちで三度、千金を成しとげ、二度、分散して貧しく交際の疎遠(そえん)な兄弟に与えた。
此所謂富好行其者也後年衰老而聽子孫
これは、所謂(いわゆる)富んでその徳を行うことを好む者である。後年、衰(おとろ)え老(お)いて、子や孫にまかせ、
子孫修業而息之遂至巨萬故言富者皆稱陶朱公
子、孫は業を修(おさ)めてこれを増やし、遂(つい)に巨万に至った。故(ゆえ)に富(とみ)を言う者は、皆(みな)陶朱公を称(たた)えた。
子贛既學於仲尼退而仕於衛
子贛(子貢)がすでに仲尼(孔子)に学び、退(しりぞ)いて衛に仕(つか)え、
廢著鬻財於曹魯之
曹、魯の間で品物を鬻(ひさ)いで売って儲(もう)け(著(ちょ)=儲(ちょ)?)、
七十子之徒賜最為饒益
七十人の弟子の仲間で、最も豊かと為るを賜(たまわ)った。
原憲不厭糟糠匿於窮巷
原憲は粗末な食べ物にも厭(いと)わず、貧しい巷(ちまた)に隠れたが、
子貢結駟連騎束帛之幣以聘享諸侯
子貢は四頭立て馬車を結んで、騎士を連(つら)ね、束(たば)ねた絹の贈り物は、諸侯に訪問して献上するを以ってし、
所至國君無不分庭與之抗禮
至ったところの国君で、庭を分けてこれと対等の礼をしない者は無かった。
夫使孔子名布揚於天下者子貢先後之也
それ、孔子の名声をして天下に広く称揚(しょうよう)されたのは、子貢がこれを助け導いたからである。
此所謂得埶而益彰者乎
これは、所謂(いわゆる)、勢(いきお)いを得て益々(ますます)彰(あきら)かになった者だろうか。
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October 15, 2014, 5:56 pm
白圭周人也
白圭は周の人である。
當魏文侯時李克務盡地力
魏文侯魏斯の時に、李克が土地の生産力を尽(つ)くすことに務(つと)めるに当たり、
而白圭樂觀時變故人棄我取人取我與
しこうして、白圭は時の変化を観(み)ることを楽しみ、故(ゆえ)に人が棄(す)てたら我(われ)が取り、人が取ったら我(われ)が与(あた)えた。
夫歲孰取穀予之絲漆
それ、実りの時が豊かであれば穀物を取って、絹糸、漆(うるし)を与(あた)え、
繭出取帛絮予之食
繭(まゆ)が捨てられたら、絹織物、真綿(まわた)を取って、食物を与(あた)えた。
太陰在卯穰明歲衰惡
太陰は卯(う)の年に在(あ)り、豊穣になり、明くる年の実りは衰え悪くなる。
至午旱明歲美
午(うま)の年に至ると日照りになり、明くる年の実りは立派になる。
至酉穰明歲衰惡
酉(とり)の年に至ると豊穣になり、明くる年の実りは衰え悪くなる。
至子大旱明歲美有水
子(ね)の年に至ると、大日照りになり、明くる年の実りは立派になるが、洪水が有る。
至卯積著率歲倍
卯(う)の年に至ると、積み貯(たくわ)える(著(ちょ)=貯(ちょ)?)はおおむね実りの時の倍(ばい)になる。
欲長錢取下穀長石斗取上種
長銭(質の良い銭?価値のある銭?)で嘉穀(かこく 下(か)=嘉(か)?)を取り、
長石斗(質の良い石のひしゃく?)で上等の種(たね)を取ることを欲した。
能薄飲食忍嗜欲節衣服
飲食を質素にし、嗜欲(しよく)を忍(しの)び、衣服を節約(せつやく)することができ、
與用事僮仆同苦樂趨時若猛獸摯鳥之發
事に用いられる僮僕(召使)と苦楽(くらく)を同じにして、好機に走るは、猛獣(もうじゅう)、猛鳥(もうちょう)の発するがごとくであった。
故曰吾治生產猶伊尹呂尚之謀孫吳用兵商鞅行法是也
故(ゆえ)に曰く、「吾(われ)が生産を治(おさ)めるは、ちょうど伊尹、呂尚の謀(はかりごと)、孫子、呉子の用兵(ようへい)、商鞅の行法がこれである。
是故其智不足與權變勇不足以決斷
これ故(ゆえ)にその智(ち)が権変にあずかるに足(た)らず、勇気が決断を以ってするに足(た)らず、
仁不能以取予彊不能有所守
仁が取ったり与(あた)えたりするを以ってすることができず、強さが守るところを有することができなければ、
雖欲學吾術終不告之矣
吾(わ)が術を学ぶことを欲すると雖(いえど)も、終(しま)いまでこれに告げることはないだろう」と。
蓋天下言治生祖白圭白圭其有所試矣
思うに天下が治生を言うは白圭を祖(そ)とした。白圭がその積みたくわえる(試(し)=積(し)?)ところが有れば、
能試有所長非茍而已也
その長ずるところを有して積みたくわえる(試(し)=積(し)?)ことができ、かりそめにしてそれのみではないのである。
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October 16, 2014, 6:37 pm
猗頓用盬鹽起而邯鄲郭縱以鐵冶成業與王者埒富
猗頓は盬塩(こえん あらしお)を用いて身を起こした。しこうして邯鄲(趙の都)の周囲で 鉄冶(鉄鉱石を溶かし鉄をとりだすこと)を以って産業を成(な)すを思うままにして、王者と富(とみ)をひとしくした。
烏氏倮牧及眾斥賣求奇物獻遺戎王
烏氏倮は牧畜(ぼくちく)をして、多くなるに及んで、売りはらって、すぐれた絹物を求め、ひそかに戎王に謹(つつし)んで物を贈った。
戎王什倍其償與之畜畜至用谷量馬牛
戎王はその返礼を十倍にして、これに狗(いぬ 畜は休と音が同じで休(く)=狗(く)?)を与え、
狗(いぬ)は至って谷で用いられ、馬、牛を数(かぞ)えた。
秦始皇帝令倮比封君以時與列臣朝請
秦始皇帝嬴政は烏氏倮に令して封君の比(たぐ)いにさせ、時を以って列臣とともに朝請させた。
而巴[蜀]寡婦清其先得丹穴
しこうして巴(地方名)の寡婦(かふ やもめ)の清は、その先祖は丹(赤色の鉱物)の穴を得て、
而擅其利數世家亦不訾
しこうしてその利(り)を思うままにすること数世代、家もまたうらまれなかった。
清寡婦也能守其業用財自衛不見侵犯
清は寡婦(かふ)であり、その仕事を守ることができ、財を用いて自衛(じえい)して、侵犯(しんぱん)される目にはあわなかった。
秦皇帝以為貞婦而客之為筑女懷清臺
秦始皇帝嬴政は貞婦と為すを以ってこれを客にまねき、女懐清台を築(きず)きつくった。
夫倮鄙人牧長清窮鄉寡婦
それ、烏氏倮はいなかもので牧畜が長(た)け、清は郷(さと)に窮(きゅう)した寡婦(かふ)であるのに、
禮抗萬乘名顯天下豈非以富邪
礼は万乗に匹敵(ひってき)して、名が天下に顕(あきら)かになったのは、どうして、富(とみ)を以ってしてで非(あら)ざるだろうか。
漢興海內為一開關梁弛山澤之禁
漢が興(おこ)って、海内が一つに為り、関梁を開(ひら)き、山沢の禁を弛(ゆる)め、
是以富商大賈周流天下交易之物莫不通
ここに、富商、大商人を以って天下にあまねく流れさせ、交易(こうえき)の物で通じないものはなくなり、
得其所欲而徙豪傑諸侯彊族於京師
その欲するところを得て、しこうして、豪傑(ごうけつ)、諸侯、強族を京師(みやこ)に移した。
關中自汧雍以東至河華膏壤沃野千里
関中は汧(川名)、雍(川名)以東より河、華に至るまで、肥沃な土地が千里、
自虞夏之貢以為上田而公劉適邠
虞(帝舜の国)、夏(帝禹の国)の貢(税法の名)より上田(じょうでん)と為すを以ってして、公劉(后稷の曾孫)は邠におもむき、
大王王季在岐文王作豐
大王(古公亶父)、王季(季歴)は岐に在住し、周文王姫昌は豐(都市名)を作り、
武王治鎬故其民猶有先王之遺風
周武王姫発は鎬(都市名)を治(おさ)め、故(ゆえ)にその民は猶(なお)先王の遺風(いふう)を有(ゆう)し、
好稼穡殖五穀地重重為邪
稼穡(かしょく 農事)を好み、五穀を育て、地は重く、くりかえし作られたのだろうか。
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October 17, 2014, 6:32 pm
及秦文(孝)[]繆居雍隙隴蜀之貨物而多賈
秦文公、秦徳公、秦繆公は雍に居住し、隴蜀の貨物をうかがって商人が多い。
獻(孝)公徙櫟邑櫟邑北卻戎翟東通三晉亦多大賈
秦献公は櫟邑に移り、櫟邑は北に戎翟をうかがい、東に三晋に通じ、また大商人が多い。。
(武)[孝]昭治咸陽因以漢都長安諸陵
秦孝公、昭公は咸陽で治(おさ)め、因りて漢都、長安の諸陵を以って、
四方輻湊并至而會地小人眾故其民益玩巧而事末也
四方が輻湊(ふくそう)して並び至りて会(かい)した。地は小さく人が多く、故(ゆえ)にその民はますますなれ親しみ、ぬけめがなくなり商売を事(こと)としたのである。
南則巴蜀巴蜀亦沃野地饒炧薑丹沙石銅鐵竹木之器
南に進めば巴蜀で、巴蜀もまた肥沃(ひよく)な土地で、土地には炧、薑(しょうが)、丹沙(丹砂)、石、銅、鉄、竹、木の器が豊かで、
南御滇僰僰僮西近邛笮笮馬旄牛
南に滇、僰、僮に御(ぎょ)する。西は邛笮が近く、笮馬、旄牛がいる。
然四塞棧道千里無所不通唯褒斜綰轂其口以所多易所鮮
然(しか)るに四方が塞(ふさ)がり、桟道(さんどう)が千里に通じないところは無く、唯(ただ)褒斜道(褒(川名)斜(川名))はその出口に轂(車輪のこしき)をつないで、豊富にあるところを以って足らないところと交換した。
天水隴西北地上郡與關中同俗然西有羌中之利
天水、隴西、北地、上郡は関中と同俗(どうぞく)で、然(しか)るに西に羌(異民族名)中の利(り)が有り、
北有戎翟之畜畜牧為天下饒
北に戎翟(異民族名)の狗(いぬ 畜(休と同音でおそらく、く、と発音する)=狗(く)? 例えば翟犬など)が有り、畜牧は天下を豊かにした。
然地亦窮險唯京師要其道
然(しか)るに地もまたきわめて険阻(けんそ)で、ただ京師(みやこ)だけがその道を要(かなめ)にした。
故關中之地於天下三分之一而人眾不過什三
故(ゆえ)に関中(咸陽?)の地は天下に於いて三つに分けた一つ(雍、櫟邑、咸陽の三つ?)で、しこうして、人の多さは三割に過ぎず、
然量其富什居其六
然(しか)るにその富(とみ)を量(はか)るに、十のうちその六を占(し)めた。
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October 18, 2014, 7:44 pm
昔唐人都河東殷人都河內周人都河南
昔、唐人は河東を都(みやこ)にし、殷人は河内を都(みやこ)にし、周人は河南を都(みやこ)にした。
夫三河在天下之中若鼎足王者所更居也
それ、三河は天下の中心に在(あ)って、鼎(かなえ)の足(三本足)のごとく、王者が居を改めたところである。
建國各數百千歲土地小狹民人眾
建国して各(おのおの)数百千年、土地は小さく狭(せま)く、人民は多く、
都國諸侯所聚會故其俗纖儉習事
都(みやこ)は国、諸侯が集会するところで、故(ゆえ)にその俗(ぞく)はつつましく事(こと)に習熟した。
楊平陽陳西賈秦翟北賈種代
楊(河東)、平陽(河東)、陳(河南)は西に秦、翟に商(あきな)い、北に種、代に商(あきな)った。
種代石北也地邊胡數被寇
種、代は石北であり、地は胡(きょうど)にとなりあい、たびたび寇(こう 集団でうばいとること)を被(こうむ)った。
人民矜懻忮好氣任俠為姦不事農商
人民はうらんでそばだち、気を好(この)み、任侠(にんきょう)で不正を為し、農、商を事(こと)としなかった。
然迫近北夷師旅亟往中國委輸時有奇羨
然るに北夷に迫(せま)り近く、軍隊がしばしば往(ゆ)き、中国が輸送を委(ゆだ)ねた時、すぐれたあまりものを有(ゆう)した。
其民羯羠不均自全晉之時固已患其僄悍
その民は羯羠(どなり傷つけ?)して均(ひと)しくせず、全晋の時より固(もと)よりすでにその僄悍(すばやくて荒々しいこと)さを患(うれ)いており、
而武靈王益之其謠俗猶有趙之風也
しこうして趙武霊王はますますこれに悩(なや)み、その俗(ぞく)を歌うは猶(なお)趙の気質を有したのである。
故楊平陽陳掾其得所欲
故(ゆえ)に楊(河東)、平陽(河東)、陳(河南)はその間(あいだ)に拠(よ)り欲するところを得た。
溫軹西賈上黨北賈趙中山
溫(河内)、軹(河内)は西に上党に商(あきな)い、北に趙、中山に商(あきな)った。
中山地薄人眾猶有沙丘紂淫地餘民
中山の地は草木が密生 し、人が多く、猶(なお)沙丘には紂(帝紂の)淫(殷?)地の残った民(たみ)がおり、
民俗懁急仰機利而食
民俗は気ぜわしく、機利(きり 機会に乗じて利益を得ること)を仰(あお)いで食した。
丈夫相聚游戲悲歌慨起則相隨椎剽
丈夫(一人前の男子)は相(あい)集まって遊戯をし、悲しい歌をうたってなげき、たちあがれば相(あい)まにまにたたきおびやかした。
休則掘冢作巧姦冶多美物為倡優
休めば、墳墓を掘りかえし、巧(たく)みに不正に金属を鋳(い)て作り、美しい物を多(た)とし、役者と為った。
女子則鼓鳴瑟跕屣
女子ならば、瑟(おおごと)を鳴(な)らし、はきものをつっかけにはいて歩き、
游媚貴富入後宮遍諸侯
貴富に遊びへつらい、後宮に入るは、諸侯に遍(あまね)くした。
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October 19, 2014, 5:09 pm
然邯鄲亦漳河之一都會也
然(しか)るに邯鄲(趙の都)もまた漳、河の間(あいだ)の一都会である。
北通燕涿南有鄭衛
北に燕、涿に通じ、南に鄭、衛が有る。
鄭衛俗與趙相類然近梁魯微重而矜節
鄭、衛の俗(ぞく)は趙と相(あい)類(るい)し、然(しか)るに梁、魯に近いので、かすかに礼節を重んじうやまう。
濮上之邑徙野王野王好氣任俠衛之風也
濮上の邑は野王(河内)に移り、野王(河内)は気を好み任侠(にんきょう)で、衛の気質である。
夫燕亦勃碣之一都會也
それ、燕もまた勃、碣の間(あいだ)の一都会である。
南通齊趙東北邊胡
南に斉、趙に通じ、東北に胡(匈奴)にとなりあう。
上谷至遼東地踔遠人民希數被寇
上谷は遼東に至り、地ははるか遠く、人民は希(まれ)で、たびたび寇(こう 集団でうばいとること)を被(こうむ)った。
大與趙代俗相類而民雕捍少慮有魚鹽棗栗之饒
おおまかに趙、代の俗(ぞく)と相(あい)類似し、しこうして民はずるがしこく荒々しく慮(おもんばか)りが少ない。魚、塩、棗(なつめ)、栗(くり)の豊饒(ほうじょう)が有る。
北鄰烏桓夫餘東綰穢貉朝鮮真番之利
北に烏桓、夫餘に隣(とな)りあい、東に穢貉、朝鮮、真番の利(り)に結(むす)ぶ。
洛陽東賈齊魯南賈梁楚
洛陽は東に斉、魯に商(あきな)い、南に梁、楚に商(あきな)う。
故泰山之陽則魯其陰則齊
故(ゆえ)に泰山の陽であれば魯、その陰であれば斉である。
齊帶山海膏壤千里宜桑麻人民多文綵布帛魚鹽
斉は山、海を帯(お)び、肥沃な土地が千里、桑(くわ 絹)、麻(あさ)を宜(よろ)しくして、人民は模様や彩(いろど)りのある織物、魚、塩を多(た)とした。
臨菑亦海岱之一都會也
臨菑もまた、海、岱の間(あいだ)の一都会である。
其俗緩闊達而足智好議論地重難動搖
その俗(ぞく)はのんびりして心がひろくこせこせしておらず、しこうして、智(ち)に足(た)り、議論を好み、地は重く、動揺(どうよう)し難(がた)く、
怯於眾鬬勇於持刺
衆闘(大勢の闘い)に怯(おび)え、刃物を持つことにおいては勇(いさ)み、
故多劫人者大國之風也其中具五民
故(ゆえ)に人をおびやかして制する者が多く、大国の気質である。その中は五民(士農工商賈)を具(そな)える。
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October 20, 2014, 6:55 pm
而鄒魯濱洙泗猶有周公遺風
しこうして、鄒、魯濱洙、泗は猶(なお)周公旦の遺風(いふう)が有り、
俗好儒備於禮故其民齪齪
俗(ぞく)は儒を好(この)み礼を備(そな)え、故(ゆえ)にその民は齪齪とこせこせしている。
頗有桑麻之業無林澤之饒
頗(すこぶ)る桑(くわ 絹)麻(あさ)の仕事を有(ゆう)し、林沢の恵みは無い。
地小人眾儉嗇畏罪遠邪
地は小さく人は多く、儉嗇(倹約で物惜しみをすること)、罪を畏(おそ)れ、不正を遠ざける。
及其衰好賈趨利甚於周人
その衰えるに及んで商売を好(この)み利(り)に走るは、周人より甚(はなは)だしい。
夫自鴻溝以東芒碭以北
それ、鴻溝以東より、芒、碭以北は、
屬巨野此梁宋也
巨野に属し、これ、梁、宋である。
陶睢陽亦一都會也昔堯作(游)[於]成陽
陶、睢陽もまた一都会である。昔、帝堯が成陽を作り、
舜漁於雷澤湯止于亳
帝舜が雷沢で漁をし、殷湯王が亳に止(とど)まった。
其俗猶有先王遺風重厚多君子
その俗(ぞく)は猶(なお)先王の遺風(いふう)を有(ゆう)し、重厚(じゅうこう)で君子(くんし)が多く、
好稼穡雖無山川之饒
稼穡(かしょく 農事)を好(この)み、山川の恵みが無いと雖(いえど)も、
能惡衣食致其蓄藏
衣食を粗末にして、その蓄蔵(ちくぞう)につくすことができる。
越楚則有三俗
越、楚はすなわち三つの俗(ぞく)を有(ゆう)し、
夫自淮北沛陳汝南南郡此西楚也
それ、淮北沛、陳、汝南、南郡はこれ、西楚である。
其俗剽輕易發怒地薄寡於積聚
その俗(ぞく)は荒々しく軽薄で、怒りを発しやすく、地は薄(うす)く、積集(集めたくわえること)に於いては少ない。
江陵故郢都西通巫巴東有雲夢之饒
江陵は以前の郢都で、西に巫、巴に通じ、東に雲夢の豊饒(ほうじょう)が有る。
陳在楚夏之交通魚鹽之貨其民多賈
陳は楚、夏の交わりに在(あ)り、魚、塩の貨物を通じ、その民には商人が多い。
徐僮取慮則清刻矜己諾
徐、僮は慮(おもんばか)りを取れば、清(きよ)くきびしく、唯諾(いだく 己諾=已諾=唯諾?)を誇(ほこ)る。
彭城以東東海吳廣陵此東楚也
彭城以東の東海、呉、広陵はこれ、東楚である。
其俗類徐僮朐以北俗則齊
その俗(ぞく)は徐、僮に類似する。朐、以北の俗(ぞく)はすなわち斉である。
浙江南則越夫吳自闔廬春申王濞
浙江の南ならば越である。それ、呉は呉王姫闔廬、春申君黄歇、呉王劉濞より、
三人招致天下之喜游子弟東有海鹽之饒
三人は天下の遊説を喜ぶ子弟(してい)を招致(しょうち)し、東には海塩の豊饒(ほうじょう)を有(ゆう)し、
章山之銅三江五湖之利亦江東一都會也
章山の銅(どう)、三江五湖の利(り)を有(ゆう)して、また江東は一都会である。
衡山九江江南豫章長沙是南楚也其俗大類西楚
衡山、九江、江南、豫章、長沙はこれ、南楚であり、その俗(ぞく)はおおかた西楚に類似する。
郢之後徙壽春亦一都會也
郢(都市名)の後に壽春(都市名)に移し、また(壽春は)一都会である。
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October 21, 2014, 5:27 pm
而合肥受南北潮皮革鮑木輸會也
しこうして合肥は南北の潮を受けて、皮革、鮑(塩づけの魚)、木材が輸送される要(かなめ)である。
與閩中干越雜俗故南楚好辭巧說少信
閩中、干、越と俗を混(ま)ぜ、故(ゆえ)に南楚は辞を好み、説を巧(たく)みにして、信(まこと)が少ない。
江南卑溼丈夫早夭多竹木
江南は低く湿気があり、丈夫(一人前の男子)は早死にする。竹の木が多い。
豫章出黃金長沙出連錫然堇堇物之所有取之不足以更費
豫章は黄金が出て、長沙は鏈(銅の類 連(れん)=鏈(れん)?)、錫(すず)を出し、然(しか)るに堇堇(きんきん)とわずかに物の有するところは、これを取っても費用をまかなうには足(た)らない。
九疑蒼梧以南至儋耳者與江南大同俗而楊越多焉
九疑、蒼梧以南から儋耳に至るまでは、江南とおおかた同じ俗(ぞく)で、しこうして、楊越が多い。
番禺亦其一都會也珠璣犀瑁果布之湊
番禺もまたその一都会であり、珠璣(しゅき 宝石)、犀(さい)、瑁(海亀の一種)、果物、布の湊(みなと)である。
潁川南陽夏人之居也
潁川、南陽は夏人が居住する。
夏人政尚忠樸猶有先王之遺風
夏人の政治は忠樸を尊(とうと)び、猶(なお)先王の遺風(いふう)が有った。
潁川敦願秦末世遷不軌之民於南陽
潁川は願いを厚くして、秦の末世に、従わない民を南陽に移した。
南陽西通武關鄖關東南受漢江淮
南陽は西に武関、鄖関に通じ、東南に漢、江、淮を受けた。
宛亦一都會也俗雜好事業多賈
宛もまた一都会である。俗は混ざり事(こと)を好み、仕事は商人が多い。
其任俠交通潁川故至今謂之夏人
その任侠(にんきょう)は、潁川に交わり通じ、故(ゆえ)に今に至ってこれを謂(い)う、夏人、と。
夫天下物所鮮所多人民謠俗
それ、天下の物の少ないところ、多いところの人民は俗(ぞく)を歌い、
山東食海鹽山西食鹽鹵
山東は海塩を食べ、山西は岩塩を食べ、
領南沙北固往往出鹽大體如此矣
領南、沙北は固(もと)より往々(おうおう)にして塩を産出し、大体(だいたい)この如(ごと)くである。
總之楚越之地地廣人希飯稻羹魚
これをまとめると、楚越の地は、地が広く、人は希(まれ)で、稲を食べ、魚を羹(あつもの)にして、
或火耕而水耨果隋蠃蛤不待賈而足
或(あ)るものは火に耕して水に雑草を取り、果物は堕(お)ち、巻貝、蛤(はまぐり)は商人を待たずして足(た)り、
地埶饒食無饑饉之患以故呰窳偷生
地の勢いは食糧を豊かにし、飢饉(ききん)の患(うれ)いが無く、故(ゆえ)を以って、呰窳(しゆ なまけること)として生をその場かぎりの安楽にふけり、
無積聚而多貧是故江淮以南
積集(せきしゅう)は無く、しこうして貧しいものが多い。これ故(ゆえ)に、江、淮以南は、
無凍餓之人亦無千金之家
凍(こご)え餓(う)える人も無ければ、また千金の家も無いのである。
沂泗水以北宜五穀桑麻六畜地小人眾
沂、泗水以北は、五穀、桑(くわ 絹)麻(あさ)、六畜(馬、牛、羊、鶏、豚、狗)を宜(よろ)しくし、地は小さく、人は多く、
數被水旱之害民好畜藏
たびたび洪水、日照りの害を被(こうむ)り、民は蓄蔵(ちくぞう)を好み、
故秦夏梁魯好農而重民
故(ゆえ)に、秦、夏、梁、魯は農を好みて民を重んずる。
三河宛陳亦然加以商賈
三河、宛、陳もまた然(しか)りで、商賈(しょうこ あきんど)を以って加える。
齊趙設智巧仰機利
斉、趙は智巧を設(もう)けて、機利(きり 機会に乗じて利益を得ること)を仰(あお)ぐ。
燕代田畜而事蠶
燕、代は田畜(犬を連れた狩り?)して蚕(かいこ 絹)を事(こと)とする。
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October 22, 2014, 5:08 pm
由此觀之賢人深謀於廊廟論議朝廷
これに由(よ)りこれを観(み)るに、賢人が廊廟に於いて深く謀(はか)り、朝廷で論議(ろんぎ)し、
守信死節隱居巖穴之士設為名高者安歸乎
信を守り節に死し、隠居(いんきょ)、巌穴の士が名高き者に為るを設(もう)けるは、いずこに帰(き)するのか?
歸於富厚也是以廉吏久久更富廉賈歸富
帰するは富厚(ふこう)に於いてである。ここに欲のない役人を以って久しくすれば、久しくいよいよ富(と)み、欲のない商人も富(とみ)に帰する。
富者人之情性所不學而俱欲者也
富(とみ)とは、人の情性で、学ばずしてともに欲するところの者なのである。
故壯士在軍攻城先登陷陣卻敵
故(ゆえ)に壮士が軍に在(あ)って、城攻めは先登(さきがけ)し、陣(じん)を陥(おとしい)れて敵(てき)を退(しりぞ)け、
斬將搴旗前蒙矢石不避湯火之難者為重賞使也
将軍を斬り、旗をぬきとり、矢石を蒙(こうむ)っても前進し、湯、火の難(なん)を避けないのは、大きな褒美(ほうび)のためにさせているのである。
其在閭巷少年攻剽椎埋劫人作姦掘冢鑄幣
その民間に在(あ)る少年は、攻めおびやかし、打ち殺して埋(う)め、人を脅(おど)して不正をはたらき、墳墓を掘り返し、貨幣(かへい)を鋳造(ちゅうぞう)したり、
任俠并兼借交報仇篡逐幽隱不避法禁
任侠(男気)があわせ兼(か)ねられて、とりかわしを拠り所にして仇(あだ)に報い、奥深く隠れたところでおいはぎをしたり、法の禁を避(さ)けず、
走死地如騖者其實皆為財用耳
死地に走るは務(つと)めの如(ごと)くするのは、その実(じつ)は皆(みな)財(ざい)の為(ため)に用いているだけである。
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October 23, 2014, 7:36 pm
今夫趙女鄭姬設形容揳鳴琴揄長袂
今、それ趙女、鄭姫は顔かたちをこしえら、琴(こと)を打ち鳴らし、長い袂(たもと)をひき、
躡利屣目挑心招出不遠千里不擇老少者奔富厚也
履(利(り)=履(り)?)をふみつけてつっかけて歩き、目は挑発(ちょうはつ)し心は誘(さそ)い、出かけるは千里も遠いとせず、老、少を択(えら)ばないのは、富厚(ふこう)に奔走(ほんそう)するからである。
游公子飾冠劍連車騎亦為富貴容也
あたりを巡(めぐ)る公子は、冠、剣を飾り、車騎を連(つら)ね、また富貴の容(かたち)をつくるのである。
弋射漁獵犯晨夜冒霜雪馳阬谷
弋射(よくしゃ)、漁猟して朝から夜まで犯(おか)し、霜(しも)雪にも強引に進み、谷間を馳(は)せ、
不避猛獸之害為得味也
猛獣の害を避(さ)けずは、味を得る為にするのである。
博戲馳逐鬬雞走狗作色相矜必爭勝者重失負也
博打(ばくち)、競馬、闘鶏(とうけい)、走狗(競犬)では色(いろ)をなして相(あい)そばだち、
必ず勝ちを争うのは、失い負けることをおそれるからである。
醫方諸食技術之人焦神極能為重糈也
医術、諸(もろもろ)の技術に食(は)む人も、精神を焦(こ)がし、能力を極(きわ)めるのは、
重い糧(かて)の為(ため)である。
吏士舞文弄法刻章偽書不避刀鋸之誅者沒於賂遺也
吏士が文章を舞(ま)わせて法に奔走(ほんそう)し、印章を刻(きざ)み、書を偽(いつわ)り、
刀鋸(かたなとのこぎり)の誅(ちゅう)も避(さ)けないのは、賄賂(わいろ)に溺(おぼ)れているからである。
農工商賈畜長固求富益貨也
農、工、商賈、畜産は固(もと)より益々(ますます)金、物を富(と)ませることを求めるのである。
此有知盡能索耳終不餘力而讓財矣
これは、知識を有(ゆう)し能力を尽くして求めるのみで、終(しま)いには力を余(あま)さずして財(ざい)を譲渡(じょうと)するのである。
諺曰百里不販樵千里不販糴
諺(ことわざ)に曰く、「百里の遠くでは薪(たきぎ)を販売しない、千里の遠くでは穀物を販売しない」と。
居之一歲種之以穀十歲樹之以木
ここに居(きょ)して一年で、ここに種(たね)をまくに穀物を以ってし、十年居(きょ)すれば、ここに植えるに木を以ってし、
百歲來之以者人物之謂也
百年居(きょ)すれば、ここに来るに徳(とく)を以ってする。徳(とく)とは人や物を謂(い)うのである。
今有無秩祿之奉爵邑之入而樂與之比者
今、秩禄(ちつろく)の奉(ほう)、爵邑の収入の無いものが有って、これと並んで楽しむ者は、
命曰素封封者食租稅歲率戶二百
命名して曰く、素封、と。封とは食糧の租税であり、一年の率(りつ)は一戸に二百で、
千戶之君則二十萬朝覲聘享出其中
千戸の君であれば二十万、朝見してその中から出して献上する。
庶民農工商賈率亦歲萬息二千
庶民の農、工、商賈の率(りつ)もまた一年で一万人口で二千人、
百萬之家則二十萬而更傜租賦出其中
百万人の人口ならば二十万人にして傜(徭)租賦を改めて、その中から出した。
衣食之欲恣所好美矣
衣食は思うままに好み美味しいところを欲した。
故曰陸地牧馬二百蹄牛蹄角千千足羊
故(ゆえ)に曰く、陸地には放牧した馬が二百の蹄(ひづめ)(二百頭)、牛の蹄(ひづめ)角(つの)は千(千頭)、千足(千匹)の羊(ひつじ)、
澤中千足彘水居千石魚陂山居千章之材
沢の中には千足(千匹)の豕(いのこ)、川には千の石の鱗(うろこ 魚=鱗?)のような模様の堤(つつみ)があり、山には千の樟(くすのき)の材木がある、と。
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October 24, 2014, 6:30 pm
安邑千樹棗燕秦千樹栗
安邑には千本の棗(なつめ)、燕、秦には千本の栗(くり)、
蜀漢江陵千樹橘
蜀、漢、江陵には千本の橘(みかん)、
淮北常山已南河濟之千樹萩
淮北、常山以南、河、済の間には千本の萩(はぎ)、
陳夏千畝漆齊魯千畝桑麻
陳、夏の千畝(うね 農地の広さの単位)の漆(うるし)、斉、魯の千畝の桑(くわ)麻(あさ)、
渭川千畝竹及名國萬家之城帶郭千畝畝鐘之田
渭川の千畝の竹、名国、万人(家=口?)の城に及んでは、郭(町のまわりを二重に囲む城壁のうち外側のもの)を帯(お)びるは千畝の畝鐘(堡障?)の田、
若千畝卮茜千畦薑韭此其人皆與千戶侯等
若の千畝の卮茜(くちなし?、あかね(根から赤色の染料をとる))、千畦(けい 農地の広さの単位))の薑韭(しょうが にら)、このように、その人は皆(みな)千戸の侯と等(ひと)しい。
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October 25, 2014, 4:40 pm
然是富給之資也不窺市井不行異邑
然(しか)るにここに満ち足りて十分な資産が、市井(しせい)を窺(うかが)わず、異(こと)なる邑(むら)に行かず、
坐而待收身有處士之義而取給焉
坐(ざ)して収穫を待ち、身(み)ずからは処士(教養があっても官につかえない人)の義(ぎ)を有して供給を取る。
若至家貧親老妻子軟弱歲時無以祭祀進醵
もしも、家が貧しくなり、親が老いて、妻子が軟弱に至れば、実りの時に祭祀(さいし)を以って酒を進めることが無くなり、
飲食被服不足以自通如此不慚恥則無所比矣
飲食被服は自らを心ゆかせるには足らなくなる。この如(ごと)くで恥じなければ、比(ひ)するところは無い。
是以無財作力少有鬬智既饒爭時此其大經也
ここに、財が無いのを以って力をつくし、少し有れば智(ち)を闘(たたか)わせ、すでに多ければ、好機に争う、これがそのおおまかな道である。
今治生不待危身取給則賢人勉焉
今は、生業(なりわい)を治(おさ)めるに、身(み)を危(あや)うくして供給を取るを待(ま)たずが、すなわち賢人の勉(つと)めである。
是故本富為上末富次之姦富最下
これ故(ゆえ)に本(農)の富(とみ)が上と為され、末(商)の富(とみ)がこれに次(つ)ぎ、不正の富(とみ)が最も下(した)である。
無巖處奇士之行而長貧賤好語仁義亦足羞也
厳穴に処するすぐれた士の行いでは無くして、貧賤を長くして仁義を語ることを好むのも、また恥じるに足(た)るのである。
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October 26, 2014, 7:30 pm
凡編戶之民富相什則卑下之伯則畏憚之
凡(およ)そ、編戸の民(貧しい民)は、富(とみ)が十倍とみればこれに卑下(ひげ)し、百倍ならばこれを畏(おそ)れ憚(はばか)り、
千則役萬則仆物之理也
千倍ならば使役し、万倍ならば召使いになるのが物の理(り)である。
夫用貧求富農不如工工不如商
それ、貧を用いて富(とみ)を求めるならば、農は工におよばず、工は商におよばず、
刺繡文不如倚市門此言末業貧者之資也
刺繍の模様を刺(さ)すは、市(いち)の門によりかかるに及ばない、ここに言う、商業は貧者のよりどころである、と。
通邑大都酤一歲千釀醯醬千瓨漿千甔
邑、大都に通(かよ)い、一年に酒を売ること千釀、醯醬(すとひしお)は千瓨(もたい みそなどを入れる背の高い瓶)、漿(こんず)は千甔、
屠牛羊彘千皮販穀糶千鐘薪槁千車
牛、羊(ひつじ)彘(いのこ)を屠殺すること千皮(かわ)、穀糶(穀類)を販売すること千鍾(鐘(しょう)=鍾(しょう)?)、薪槁(たきぎ)は千車、
船長千丈木千章竹竿萬其軺車百乘
船は長さ千丈(じょう 長さの単位)、材木の千の章(樟くすのき?)、竹の竿(さお)一万、その軺車(使者の乗る車)は百乗、
牛車千兩木器髤者千枚銅器千鈞
牛車は千両、木器の漆がぬってあるもの千枚、銅器は千鈞(きん 重さの単位)
素木鐵器若炧茜千石
白木、鉄器、若の炧(くちなし?)茜(あかね)は千石(容量の単位)
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October 27, 2014, 5:22 pm
馬蹄蹾千牛千足羊彘千雙
馬の蹄(ひづめ)踆(ける 蹾=踆?)千(千頭?)、牛は千足(千頭?)、羊、彘(いのこ)は千匹?(雙=双はおそらく双蹄(ふたつに分かれた蹄 遇蹄目)の意?)、
僮手指千筋角丹沙千斤其帛絮細布千鈞
奴婢(ぬひ)の手指は千(千人?)、麇角(のろじかの角 筋(きん)=麇(きん)?)、丹沙(丹砂)は千斤、糸(其=糸?)、絹織物、、まわた、細布は千鈞、
文采千匹榻布皮革千石漆千斗
彩模様の布は千匹(ひつ 長さの単位)、榻布(とうふ きめが粗くて厚い布)、皮革は千石、漆(うるし)は千斗(容量の単位)、
糱麹鹽豉千荅鮐鮆千斤鯫千石
糱麹(げつきく こうじ)、塩、味噌は千荅(ますめの単位)、鮐(さば又はふぐ)、鮆(かたくちいわし)は千斤、鯫(みごい 又は雑魚)は千石、
鮑千鈞棗栗千石者三之狐鼦裘千皮
鮑(塩づけの魚 又はあわび)は千鈞、棗(なつめ)栗(くり)は千石などはこれを三掛けで、狐(きつね)、鼦(てん)の毛皮の衣服は千皮(千枚)、
羔羊裘千石旃席千具佗果菜千鐘
羔(こひつじ)羊(ひつじ)の毛皮の衣服は千石、毛織物の御座(ござ)は千具、美しい果物野菜は千鍾(鐘(しょう)=鍾(しょう)? 容積の単位)、
子貸金錢千貫節駔會貪賈三之廉賈五之
子(利子)貸し金銭は千貫(さし? 銭を通す縄 または通貨の単位)、駔会(仲買人)を節制(せっせい)して、貪欲(どんよく)な商人はこれを三掛けで、欲のない商人はこれを五掛けで、
此亦比千乘之家其大率也
此(こ)れもまた千乗の家にならい、そのおおまかな率(りつ)である。
佗雜業不中什二則非吾財也
他の雑多な仕事は十分の二に中(あた)らなければ、吾(わ)が財源(ざいげん)では非(あら)ざるなり。
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October 28, 2014, 6:53 pm
請略道當世千里之中賢人所以富者
当世(とうせい)千里(せんり)の中の賢人が富(とみ)を以ってしたところの者を略して語ることを請(こ)う。
令後世得以觀擇焉
後世(こうせい)をして択(えら)び観(み)るを以ってすることを得さしめるだろう。
蜀卓氏之先趙人也用鐵冶富
蜀の卓氏の先祖は趙の人であり、鉄冶(てつや 鉄鉱石を溶かし鉄を取り出すこと)を用いて富(と)んだが、
秦破趙遷卓氏
秦が趙を破り卓氏を移した。
卓氏見虜略獨夫妻推輦行詣遷處
卓氏は虜略(りょりゃく 人をとりこにして物をうばいとること)の目にあい、ただ夫妻だけが荷車を推(おして、遷(うつ)る処(ところ)に行った。
諸遷虜少有餘財爭與吏求近處處葭萌
諸(もろもろ)の遷(うつ)される虜(とりこ)は少し残った財が有り、争って役人に与(あた)え、近くの処(ところ)を求めて、葭萌(地名)に処(ところ)した。
唯卓氏曰此地狹薄吾聞汶山之下
唯(ただ)卓氏のみが曰く、「この地は狭(せま)くやせている。吾(われ)は聞く、汶山の下は、
沃野下有蹲鴟至死不饑民工於市易賈
肥沃な平野で、下(もと)には蹲鴟(大きないも)が有り、餓(う)えずに死に至る、民は工をして市(いち)に行き、商人(あきんど)にかわる、と」と。
乃求遠遷致之臨邛大喜即鐵山鼓鑄
そこで遠くに遷(うつ)ることを求めた。臨邛に行く着くと、大いに喜び、すなわち鉄山は鋳(ちゅう)を鳴(な)らし
運籌策傾滇蜀之民富至僮千人
計画をめぐらせ、滇、蜀の民を帰服(きふく)させて、富(とみ)は奴婢(ぬひ)千人に至った。
田池射獵之樂擬於人君
池での漁(りょう)、射猟の楽しみは、人君に準(じゅん)じた。
程鄭山東遷虜也亦冶鑄
程鄭は山東の遷虜(うつされたとりこ)であり、また冶鋳(やちゅう)をし、
賈椎髻之民富埒卓氏俱居臨邛
椎髻(さいづちまげ)を結(ゆ)う民にあきないして、富(とみ)は卓氏に均(ひと)しく、
ともに臨邛に居住した。
宛孔氏之先梁人也用鐵冶為業
宛の孔氏の先祖は梁の人であり、鉄冶(てつや 鉄鉱石を溶かし鉄を取り出すこと)を用いて業と為したが、
秦伐魏遷孔氏南陽
秦が魏を討(う)ち、孔氏を南陽に遷(うつ)した。
大鼓鑄規陂池連車騎游諸侯
大いに鋳(ちゅう)を鳴(な)らし、陂池(ひち)をただし、車騎を連(つら)ね、諸侯を巡(めぐ)り、
因通商賈之利有游公子之賜與名
因(よ)りて商賈(しょうこ)の利(り)を通(かよ)わせて、游公子の賜(恩恵)を有して名誉に与(あずか)った。
然其贏得過當愈於纖嗇家致富數千金
然(しか)るにその儲(もう)けものは当(とう)を越(こ)えていたが、愈々(いよいよ)つつましく節約して、家は数千金の富(とみ)をなしとげた。
故南陽行賈盡法孔氏之雍容
故(ゆえ)に南陽の行商(ぎょうしょう)はことごとくみな孔氏の雍容(ようよう やわらいださま)に法(のっと)った。
魯人俗儉嗇而曹邴氏尤甚
魯の人の俗(ぞく)は倹約でつつましく、しこうして、曹邴氏が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、
以鐵冶起富至巨萬
鉄冶(てつや 鉄鉱石を溶かし鉄を取り出すこと)を以って身を起こし、富(とみ)は巨万に至った。
然家自父兄子孫約俛有拾
然(しか)るに家は自ずから父、兄、子孫は倹約で、うつむいては拾(ひろ)いものを有(ゆう)し、
仰有取貰貸行賈遍郡國
仰(あお)いでは取りものを有(ゆう)し、かけうりをして行商は郡国を遍(あまね)くした。
鄒魯以其故多去文學而趨利者以曹邴氏也
鄒、魯はその故(ゆえ)を以って、文学を去(さ)って、利(り)に走る者が多く、曹邴氏を以ってするのである。
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October 29, 2014, 6:49 pm
齊俗賤奴虜而刀獨愛貴之
斉の俗(ぞく)は賎(いや)しい奴虜で、しこうして刀間は独(ひと)りこれを愛し貴(とうと)んだ。
桀黠奴人之所患也唯刀收取
桀黠(けっかつ 悪知恵があって荒々しいこと)の奴は人の患(うれ)えるところであるが、唯(ただ)刀のみが収(おさ)め取り、
使之逐漁鹽商賈之利或連車騎
これをつかわして漁塩の商賈(しょうこ)の利(り)を追求させ、或(あ)るものは車騎を連(つら)ね、
交守相然愈益任之
太守、相に交(まじ)わった。然(しか)るに愈々(いよいよ)益々(ますます)これに委(ゆだ)ねた。
終得其力起富數千萬
終(しま)いにはその力を得て、富(とみ)を起こすこと数千万。
故曰寧爵毋刀言其能使豪奴自饒而盡其力
故(ゆえ)に曰く、「寧(むし)ろ盃(さかずき)をすすめられるのは刀ではない」と。その強い奴をつかわし自(みずか)らを豊かにさせて、その力をささげさせることができたことを言ったのである。
周人既纖而師史尤甚轉轂以百數
周人はすでにつつましく、しこうして師史が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、轂(こしき 車輪の軸を受けるまるい部分)転(ころ)がすは百を以って数え、
賈郡國無所不至
郡国に商(あきな)って、至らないところは無かった。
洛陽街居在齊秦楚趙之中貧人學事富家
洛陽の大通りは、斉、秦、楚、趙の中心に据(す)えて在(あ)り、貧人が富家に仕(つか)えて学び、
相矜以久賈數過邑不入門
相(あい)つつしんで久しく商(あきな)うを以ってし、たびたび邑を通過しても門に入らず、
設任此等故師史能致七千萬
これらに委(ゆだ)ねるを設(もう)け、故(ゆえ)に 師史は七千万を成し遂げることができたのである。
宣曲任氏之先為督道倉吏
宣曲の任氏の先祖は督道倉吏をしていた。
秦之敗也豪傑皆爭取金玉而任氏獨窖倉粟
秦が敗(やぶ)れ、豪傑(ごうけつ)は争って皆(みな)金、玉を取ったが、任氏は独(ひと)り倉(くら)の粟(あわ)を穴倉(あなぐら)にたくわえた。
楚漢相距滎陽也民不得耕種米石至萬
楚、漢が栄陽で相(あい)対峙(たいじ)したとき、民は耕したり種をまいたりすることができず、
米一石が一万に至り、
而豪傑金玉盡歸任氏任氏以此起富
しこうして、豪傑(ごうけつ)の金、玉はことごとくみな任氏に帰(き)して、任氏はこれを以って富(とみ)を起こした。
富人爭奢侈而任氏折節為儉力田畜
富人は奢侈(しゃし)を争うが、任氏は折節(せつせつ)して倹約を為し、田畜(牧畜)にはげんだ。
田畜人爭取賤賈任氏獨取貴善
田畜(牧畜)人は争って安いものを取って商(あきな)うが、任氏は独(ひと)り高くて善いものを取った。
富者數世然任公家約非田畜所出弗衣食
富んだ者は数世代。然(しか)るに任公の家は、田畜(牧畜)が出したところでなければ、衣食にしないことを約束し、
公事不畢則身不得飲酒食肉
公の事が終わらなければ、身(み)みずから酒を飲んだり肉を食したりできなかった。
以此為閭里率故富而主上重之
此(こ)れを以って村里の標準(ひょうじゅん)と為って、故(ゆえ)に富(と)んで、主上はこれを重んじた。
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October 30, 2014, 4:48 pm
塞之斥也唯橋姚已致馬千匹牛倍之
国境地帯には、唯(ただ)橋姚のみがすでに馬千匹、牛はこれの倍(ばい)、
羊萬頭粟以萬鐘計吳楚七國兵起時
羊は一万頭、粟(あわ)は一万鍾(鐘(しょう)=鍾(しょう))を以って計上するを成し遂げた。
呉楚七国の戦いが起こった時、
長安中列侯封君行從軍旅齎貸子錢
長安中の列侯の封君は戦いに従いに行き、高利貸しに貸してもらおうと思った。
子錢家以為侯邑國在關東關東成敗未決莫肯與
高利貸しの家は侯の邑国は関東に在(あ)って、関東の成敗(せいばい)が未(ま)だ決まっていないことを思い、与えることをよしとしなかった。
唯無鹽氏出捐千金貸其息什之
唯(ただ)無塩氏のみが一千金を出して貸し、その利息は十掛け(十割 100%)にした。
三月吳楚平一歲之中則無鹽氏之息什倍用此富埒關中
三ヶ月で呉楚は平(たいら)ぎ、一年のうちで、すなわち無塩氏の利息は十分の十倍(貸した分と同じ額)になった。これを用いて富(とみ)は関中と均(ひと)しくした。
關中富商大賈大抵盡諸田田嗇田蘭
関中の富商、大賈は大抵(たいてい)ことごとくみな諸(もろもろ)の田氏(例えば長安の富賈の田甲)で、田嗇、田蘭、
韋家栗氏安陵杜杜氏亦巨萬
韋家の栗氏、安陵の杜杜氏もまた巨万。
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October 31, 2014, 5:01 pm
此其章章尤異者也皆非有爵邑奉祿弄法犯姦而富
これらはその章章(しょうしょう)と明らかに最もすぐれた者である。皆(みな)爵邑、奉祿が有って、法をもてあそび不正を犯して富(と)んだのではなく、
盡椎埋去就與時俯仰獲其贏利以末致財
去就(きょしゅう)を推理(すいり 椎埋=推理?)し尽くして、時とともに俯(うつむ)いたり仰(あお)むいたりして、その利益を獲(え)たのである。商を以って財を成し遂げれば、
用本守之以武一切用文持之變化有概故足術也
農を用いてこれを守り、武(ぶ)を以って一切(いっさい)をすれば、文(ぶん)を用いてこれを助け、
変化にはあらましが有って、故(ゆえ)に術(すべ)とするに足(た)るのである。
若至力農畜工虞商賈為權利以成富
農、畜、工、虞(山林沼沢)、商賈にはげみ権利を為すに至るがごとく富(とみ)を成すを以ってし、
大者傾郡中者傾縣下者傾鄉里者不可勝數
大者の郡を帰服させた者、中者の県を帰服させた者、下者の郷里者を帰服させた者はすべて数えあげることはできない。
夫纖嗇筋力治生之正道也而富者必用奇勝
それ、つつしんで倹約し勤労するは、生を治(おさ)める正道であるが、しこうして、富者は必ず奇(き)を用いて勝つ。
田農掘業而秦揚以蓋一州
田農は掘る仕事であるが、秦楊はおおむね一州を以ってした。
掘冢姦事也而田叔以起
墳墓を掘るは、不正な事であるが、田叔は身を起こすを以ってした。
博戲惡業也而桓發用富
博打(ばくち)は悪しき仕事であるが、桓発は富(とみ)に用いた。
行賈丈夫賤行也而雍樂成以饒
行商は、丈夫(一人前の男子)の賎(いや)しい行いであるが、雍の楽成は豊かになるを以ってした。
販脂辱處也而雍伯千金
脂(あぶら)を販売するは、辱(はずかし)められる処(ところ)であるが、雍伯は千金になった。
賣漿小業也而張氏千萬
漿(こんず)を売るはとるに足らない仕事であるが、張氏は千万になった。
灑削薄技也而郅氏鼎食
灑削はとるに足らない技(わざ)であるが、郅氏は贅沢な暮らしをした。
胃脯簡微耳濁氏連騎
胃脯は手軽で粗末なだけであるが、濁氏は騎士を連(つら)ねた。
馬醫淺方張裏擊鐘此皆誠壹之所致
馬医は浅い医術であるが、張裏は鐘(かね)を撃った。これらは皆(みな)誠(まこと)に専一(せんいつ)にして成し遂げたところである。
由是觀之富無經業則貨無常主能者輻湊不肖者瓦解
これに由(よ)りこれを観(み)るに、富(とみ)には一定の仕事は無ければ、貨には常(つね)の主(あるじ)は無く、能力のある者には物が四方からより集まり、不肖(ふしょう)者は瓦(かわら)がくだけるように物事があっけなくこわれる、と。
千金之家比一都之君巨萬者乃與王者同樂
千金の家は一つの都市の君になぞらえ、巨万者はすなわち王者と楽しみを同じにする。
豈所謂素封者邪非也
どうして所謂(いわゆる)素封者ではないだろうか(素封者にちがいない)。
今日で史記 貨殖列伝は終わりです。明日からは史記 太史公自序に入ります。
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November 1, 2014, 6:24 pm
昔在顓頊命南正重以司天北正黎以司地
昔、顓頊(せんぎょく 黄帝の孫 高陽氏)が在(あ)り、南正の重に命じて天(てん)を司(つかさど)らせ、北正の黎に命じて地(ち)を司(つかさど)らせた。
唐虞之際紹重黎之後使復典之
唐(陶唐 帝堯)、虞(有虞 帝舜)の際(さい)に、重、黎の後継を継承(けいしょう)し、ふたたびこれをつかさどらせた。
至于夏商故重黎氏世序天地
夏、商(殷)に至り、故(ゆえ)に、重氏、黎氏は代々(だいだい)天、地をきちんと言い伝えた。
其在周程伯休甫其後也
その周に在(あ)るは、程伯、休甫がその後継である。
當周宣王時失其守而為司馬氏
ちょうど周宣王の時、その務(つと)めを失(うしな)って司馬氏と為った。
司馬氏世典周史惠襄之司馬氏去周適晉
司馬氏は代々(だいだい)周史をつかさどった。周恵王、周襄王の間(あいだ)に、司馬氏は周を去って晋におもむいた。
晉中軍隨會奔秦而司馬氏入少梁
晋の中軍の随会は秦に逃げ、しこうして、司馬氏は少梁に入った。
自司馬氏去周適晉分散或在衛或在趙或在秦
司馬氏が周を去って晋におむむいてより、分散(ぶんさん)して、或(あ)るものは衛に在(あ)り、或(あ)るものは趙に在(あ)り、或(あ)るものは秦に在(あ)った。
其在衛者相中山在趙者以傳劍論顯蒯聵其後也
その衛に在(あ)った者は中山で相になった。趙に在(あ)った者は、剣論を伝えるを以って顕(あきら)かになり、司馬蒯聵がその子孫である。
在秦者名錯與張儀爭論
秦に在(あ)った者の名は錯で張儀と論を争い、
於是惠王使錯將伐蜀遂拔因而守之
ここに於いて秦恵文王嬴駟は司馬錯をつかわし蜀を討(う)たせ、遂(つい)に攻め落として、因(よ)りてこれを守らせた。
錯孫靳事武安君白起而少梁更名曰夏陽
司馬錯の孫は司馬靳で、武安君白起に仕(つか)えた。しこうして少梁は名を改(あらた)めて曰く、夏陽、と。
靳與武安君阬趙長平軍還而與之俱賜死杜郵葬於華池
司馬靳は武安君白起とともに趙の長平の軍を穴埋めにした。還(かえ)りて、これとともに杜郵で死を賜(たま)わり、華池に葬(ほうむ)られた。
靳孫昌昌為秦主鐵官當始皇之時
司馬靳の孫は昌で、司馬昌は秦の主鉄官に為った。ちょうど秦始皇帝嬴政の時、
蒯聵玄孫卬為武信君將而徇朝歌
司馬蒯聵の玄孫(やしゃご)の司馬卬が武信君項梁の将軍に為り朝歌にしたがった。
諸侯之相王王卬於殷
諸侯が相、王になったとき、司馬卬を殷に於いて王にした。
漢之伐楚卬歸漢以其地為河內郡
漢が楚を討(う)ったとき、司馬卬は漢に帰属して、その地を以って河内郡と為された。
昌生無澤無澤為漢市長
司馬昌は司馬無沢を生み、司馬無沢は漢市長と為った。
無澤生喜喜為五大夫卒皆葬高門
司馬無沢は司馬喜を生み、司馬喜は五大夫と為り、亡くなって皆(みな)高門に葬(ほうむ)られた。
喜生談談為太史公
司馬喜は司馬談を生み、司馬談は太史公と為った。
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