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孝文帝既立召田叔

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孝文帝既立召田叔問之曰公知天下長者乎

漢孝文帝劉恒がすでに立ち、漢中守田叔を召(め)しよせてこれに問うた、曰く、「公は天下の長者を知っているか?」と。

對曰臣何足以知之上曰

応(こた)えて曰く、「わたしがどうしてこれを知るを以ってするに足(た)るでしょうか」と。上(漢孝文帝劉恒)曰く、

公長者也宜知之叔頓首曰

「公は長者であるから、宜(よろ)しくこれを知っているにちがいない」と。漢中守田叔は頭を地につけて曰く、

故雲中守孟舒長者也

「前の雲中守孟舒が長者であります」と。

是時孟舒坐虜大入塞盜劫雲中尤甚免

この時、孟舒は敵(てき)が大いに塞(とりで)に入っておどして盗みを働き、雲中郡が最も甚(はなは)だしかったことに罪を問われ、免(めん)ぜられていた。

上曰先帝置孟舒雲中十餘年矣虜曾一人

上(漢孝文帝劉恒)曰く、「先帝が孟舒を雲中に置いて十余年、敵(てき)がすなわちたった一度だけ入り(人=入?)

孟舒不能堅守毋故士卒戰死者數百人

雲中守孟舒は堅守(けんしゅ)できずに、故(ゆえ)なくして士卒の戦死者は数百人。

長者固殺人乎公何以言孟舒為長者也

長者がどうして人を殺すのか?公は何ものを以って孟舒を長者だと思うと言うのか?」と。

叔叩頭對曰是乃孟舒所以為長者也

漢中守田叔は頭を叩(たた)いて応(こた)えて曰く、「是(これ)がずなわち孟舒の長者たる所以(ゆえん)であります。

夫貫高等謀反上下明詔趙有敢隨張王罪三族

それ、趙相貫高らが謀反(むほん)したとき、上(漢高祖劉邦)が明らかな詔(みことのり)を下(くだ)し、趙に敢(あ)えて張王(趙王張敖)につき従う者が有れば、三族刑に罪すると。

然孟舒自髡鉗隨張王敖之所在

然(しか)るに孟舒は自ら髪(かみ)を切り首かせをはめて、張王敖(趙王張敖)の在(あ)る所につき従ったのは、

欲以身死之豈自知為雲中守哉

身(み)を以って死ぬことを欲したのであって、どうして自(みずか)ら雲中守に為ることを知っていたでしょうかな。

漢與楚相距士卒罷敝

漢が楚と相(あい)対峙(たいじ)したとき、士卒は疲弊(ひへい)しました。

匈奴冒頓新服北夷來為邊害

匈奴冒頓が新(あら)たに北夷を服属(ふくぞく)させて来て、国境地帯を荒らしました。

孟舒知士卒罷敝不忍出言士爭臨城死敵

雲中守孟舒は士卒が疲弊していることを知っていたので、言(げん)を出すことを忍(しの)ばれませんでしたが、士は争(あらそ)って城に臨(のぞ)んで敵(てき)を殺し、

如子為父弟為兄以故死者數百人

子は父の為(ため)の如(ごと)く、弟は兄の為(ため)の如(ごと)くしました。故(ゆえ)に死者は数百人を以ってしたのです。

孟舒豈故驅戰之哉是乃孟舒所以為長者也

雲中守孟舒がどうしてことさらにこれに戦いを駆(か)りたてるでしょうかな。是(これ)がすなわち孟舒の長者たる所以(ゆえん)であります」と。

於是上曰賢哉孟舒復召孟舒以為雲中守

ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)曰く、「賢いかな、孟舒は」と。ふたたび孟舒を召し寄せて雲中守と為すを以ってした。

後數歲叔坐法失官

数年後、漢中守田叔は法(ほう)に罪を問われ官位を失(うしな)った。

梁孝王使人殺故吳相袁盎

梁孝王劉武が人をつかわし、もと呉相袁盎を殺させた。

景帝召田叔案梁具得其事還報

漢孝景帝劉啓は田叔を召(め)し寄せて梁を取調べさせ、具(つぶさ)にその事を得て、還(かえ)って報告した。

景帝曰梁有之乎叔對曰

漢孝景帝劉啓曰く、「梁はこれに有ったのか?」と。田叔は応(こた)えて曰く、

死罪有之上曰其事安在

「おそれながらこれに有りました」と。上(漢孝景帝劉啓)曰く、「その事はいずこに在(あ)るのか?」と。

田叔曰上毋以梁事為也上曰

田叔曰く、「上は梁事を以って為されることなかれ」と。上(漢孝景帝劉啓)曰く、

何也曰今梁王不伏誅是漢法不行也

「どうしてなのか?」と。曰く、「今、梁王(劉武)が誅(ちゅう)に伏(ふ)さなければ、是(これ)、漢の法が行われなかったことになります。

如其伏法而太后食不甘味

その法に伏(ふ)すに及べば、しこうして、竇太后は食べても美味しくなく、

臥不安席此憂在陛下也

横になっても寝ても床(とこ)に安(やす)んぜず、此(こ)れ、憂(うれ)いは陛下に在(あ)るようになるのです」と。

景帝大賢之以為魯相

漢孝景帝劉啓は大いにこれを賢いと思い、魯相と為すを以ってした。

魯相初到民自言相

魯相田叔が到(いた)ったばかりのとき、民が自ら魯相田叔に言い、

訟王取其財物百餘人

魯王劉余がその財物を取ったと訴(うった)えた者は数百人。

田叔取其渠率二十人各笞五十餘各搏二十

魯相田叔はその頭(かしら)二十人をつかまえ、各(おのおの)にむちうち五十回、残りの者に各(おのおの)手でなぐること二十回、

怒之曰王非若主邪何自敢言若主

これを怒って曰く、「王はなんじらの主(あるじ)ではないのか?どうして自(みずか)ら敢(あ)えてなんじらの主(あるじ)を訴えるのか」と。

魯王聞之大慚發中府錢使相償之

魯王劉余はこれを聞いて大いに恥じ入り、中府銭を発して、魯相田叔をしてこれを償(つぐな)わせようとした。

相曰王自奪之使相償之

魯相田叔曰く、「王が自(みずか)らこれを奪(うば)ったのに、宰相をしてこれを償(つぐな)わせれば、

是王為惡而相為善也相毋與償之

ここに王が悪(あく)と為って宰相が善(ぜん)と為ります。宰相はこれを償(つぐ)なうに与(くみ)してはなりません」と。

於是王乃盡償之

ここに於いて魯王劉余はすなわちことごとくこれを償(つぐな)った。

魯王好獵相常從入苑中

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魯王好獵相常從入苑中

魯王劉余は猟(りょう)を好(この)み、魯相田叔が常(つね)に苑の中に入るに従(したが)った。

王輒休相就館舍相出常暴坐待王苑外

魯王劉余はそのたびごとに魯相田叔を休(やす)ませ館舎に就(つ)かせたが、魯相田叔は出て、常(つね)に雨風にあたりながら座(すわ)って、魯王劉余を苑の外で待(ま)った。

王數使人請相休終不休曰

魯王劉余はたびたび人をつかわして魯相田叔に休むように請(こ)わせたが、終いまで休まなかった、曰く、

我王暴露苑中我獨何為就舍

「我(わ)が王が苑の中で雨風にさらされているのに、我(われ)がひとりどうして館舎に就(つ)けるだろうか」と。

魯王以故不大出游

魯王劉余は故(ゆえ)を以って大いに遊びに出なくなった。

數年叔以官卒魯以百金祠

数年して、魯相田叔は官を以って亡くなった。魯は百金を以って祭祀(さいし)しようとしたが、

少子仁不受也曰不以百金傷先人名

末子の田仁は授(さず)からなかったのである、曰く、「百金を以って先人の名を傷(きず)つけられない」と。

仁以壯健為衛將軍舍人數從擊匈奴

田仁は壮健(そうけん)を以って衛将軍の舎人と為り、たびたび匈奴を撃つに従(したが)った。

衛將軍進言仁仁為郎中數歲

衛将軍は田仁を進言(しんげん)して、田仁は漢郎中に為った。数年して、

為二千石丞相長史失官其後使刺舉三河

二千石丞相長史と為って、宮仕えを失(うしな)った。その後、三河を挙(あ)げて罪を調べさしめた。

上東巡仁奏事有辭上說

上(漢孝武帝劉徹)は東に巡行し、田仁は事を奏上して言葉が有り、上(漢孝武帝劉徹)は悦(よろこ)び、

拜為京輔都尉月餘上遷拜為司直

官をさずけて漢京輔都尉と為した。一ヶ月余りして、上(漢孝武帝劉徹)は遷(うつ)して官をさずけて漢司直と為した。

數歲坐太子事時左相自將兵

数年して、漢太子劉拠の事に罪を問われた。この時、漢左丞相劉屈氂が自ら兵を率(ひき)い、

令司直田仁主閉守城門坐縱太子下吏誅死

漢司直田仁に令して、城門を閉(と)ざして守ることをつかさどらせたが、(田仁は)漢太子劉拠を放(はな)ち、罪を問われた。役人に下(くだ)して誅死させようとしたので、

仁發兵長陵令車千秋上變仁

漢司直田仁は兵を発し、長陵令車千秋が漢司直田仁の変事を申し上げ、

仁族死陘城今在中山國

漢司直田仁の一族は死んだ。陘城は今、中山国に在(あ)る。

太史公曰孔子稱曰居是國必聞其政

太史公曰く、「孔子が称(たた)えて曰く、この国に居(お)れば必ずその政治を聞く、と。

田叔之謂乎義不忘賢明主之美以救過

田叔のことを謂(い)うのだろうか。義(ぎ)として賢明(けんめい)な主(あるじ)の美(び)を忘(わす)れず、過(あやま)ちを救(すく)うを以ってした。

仁與余善余故并論之

田仁はわたしと仲が善(よ)く、わたしは故(ゆえ)に併(あわ)せてこれを論じた」と。

褚先生曰臣為郎時聞之曰田仁故與任安相善

褚先生曰く、「わたしが郎に為っていた時、これを聞いた、曰く、田仁は以前、任安と相(あい)仲良くしていたと。

任安滎陽人也少孤貧困

任安は栄陽の人である。若くして親がなくなり貧困(ひんこん)になり、

為人將車之長安留求事為小吏

人の為(ため)に車を率(ひき)いて長安に行き、留(とど)まって、小役人に為って仕(つか)えることを求めたが、

未有因緣也因占著名數

未(ま)だ手づるを有(ゆう)さないうちに、占(うらな)いに因(よ)りて、戸籍(こせき)を明らかにし、

武功扶風西界小邑也谷口蜀道近山

武功(地名)は扶風(地方名)の西の境界の小さな邑(むら)であり、谷口は蜀につながる道で山に近いと。

安以為武功小邑無豪易高也

任安は武功は小さい邑(むら)で、豪傑(ごうけつ)がおらず、身分が高くなり易(やす)いと思った。

安留代人為求盜亭父

任安は留(とど)まって人に代(か)わって、求盜亭父と為った。

後為亭長邑中人民俱出獵

後に亭長と為った。邑中の人民がともに猟(りょう)に出て、

任安常為人分麋鹿雉兔部署老小當壯劇易處

武功亭長任安は常(つね)に人の為(ため)に麋(おおじか)、鹿(しか)、雉(きじ)、兔(うさぎ)を分(わ)けて、老人子供、壮年に当たる者をきびしい処(ところ)、容易(ようい)な処(ところ)に振り分けた。

眾人皆喜曰無傷也

衆人は皆(みな)喜び曰く、「けがをすることが無かったのは、

任少卿分別平有智略明日復合會會者數百人

任少卿(任安)が公平に区分し智略(ちりゃく)が有ったからだ」と。明くる日、ふたたび会合し、集まった者は数百人。

任少卿曰某子甲何為不來乎

任任少卿(任安)曰く、「某(なにがし)の子の甲はどうして来ないのか?」と。

諸人皆怪其見之疾也其後除為三老

諸(もろもろ)の人々は皆(みな)その見分けることの速(はや)さをすごいと思った。その後、除(じょ)されて三老に為り、

舉為親民出為三百石長治民

挙(あ)げられて親民と為り、出世して三百石長と為り、民を治(おさ)めた。

坐上行出游共帳不辦斥免

上(漢孝武帝劉徹)が巡遊(じゅんゆう)に出かけて帳(とばり)を共(とも)にしたとき無調法(ぶちょうほう)があったのを罪に問われ、しりぞけられ免(めん)ぜられた。

乃為衛將軍舍人

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乃為衛將軍舍人與田仁會俱為舍人

そこで衛将軍の舎人に為ろうとして、田仁と会(あ)い、ともに舎人と為った。

居門下同心相愛

門の下(もと)に居(きょ)し、心(こころ)同じくして相(あい)仲良くした。

此二人家貧無錢用以事將軍家監家監使養惡齧馬

この二人の家は貧(まず)しく、銭(ぜに)が無く将軍の家監に仕(つか)えるを以って用いられ、家監は、噛(か)みついて悪い馬を養(やしな)わせられた。

兩人同床臥仁竊言曰

二人は同じ寝床に横になって寝た。田仁がこっそり言った曰く、

不知人哉家監也任安曰

「人を知らないのかな、家監とは」と。任安曰く、

將軍尚不知人何乃家監也

「将軍もやはり人を知らない、何と家監とは」と。

衛將軍從此兩人過平陽主主家令兩人與騎奴同席而食

衛将軍はこの二人を従えて平陽主に立ち寄った時、平陽主家は二人に騎奴と席を同じくして食事をさせた。

此二子拔刀列斷席別坐

この二氏は刀(かたな)を抜(ぬ)いて席(せき)を切り断(た)ち、座(ざ)を別(わ)けた。

主家皆怪而惡之莫敢呵

平陽主家は皆(みな)怪(あや)しみてこれを憎(にく)んだが、敢(あ)えてとがめなかった。

其後有詔募擇衛將軍舍人以為郎將軍取舍人中富給者

その後、詔(みことのり)が有り、衛将軍の舎人を択(えら)んで郎と為すを以ってするを募(つの)らせた。衛将軍は舎人の中の富(と)んで物がじゅうぶんにある者を選び取り、

令具鞌馬絳衣玉具劍欲入奏之

鞍(くら)を置いた馬(うま)、赤い衣(ころも)、宝石のついた剣を準備させ、入ってこれを奏上しようと欲した。

會賢大夫少府趙禹來過衛將軍,

この時、賢大夫少府の趙禹が来て衛将軍に立ち寄った。

將軍呼所舉舍人以示趙禹

衛将軍は推挙(すいきょ)したところの舎人を呼(よ)んで、賢大夫少府趙禹に示(しめ)すを以ってした。

趙禹以次問之十餘人無一人習事有智略者

賢大夫少府趙禹は順次(じゅんじ)を以ってこれに問(と)い、十余人が、事に習熟(しゅうじゅく)して智略(ちりゃく)の有る者が一人もいなかった。

趙禹曰吾聞之將門之下必有將類

賢大夫少府趙禹曰く、「吾(われ)はこれを聞く、将軍の門下には必ず将軍の類(たぐい)が有ると。

傳曰不知其君視其所使不知其子視其所友

言い伝(つた)えに曰く、その君を知らなければ、その使われるところを視(み)よ、その子を知らなければその友(とも)とするところを視(み)よ、と。

今有詔舉將軍舍人者

今、詔(みことのり)が有って、将軍の舎人を挙(あ)げさせるのは、

欲以觀將軍而能得賢者文武之士也

将軍を観(み)るを以って、賢者、文武の士を得ることができるのを欲したからである。

今徒取盎人子上之又無智略

今、むだに富裕な人の子をえらび取ってこれを上(あ)げるは、また智略(ちりゃく)無く、

如木偶人衣之綺繡耳將柰之何

木の人形にきれいな刺繍(ししゅう)の着物を着せたが如(ごと)くなだけで、まさにこれをどうしようというのか?」と。

於是趙禹悉召衛將軍舍人百餘人

ここに於いて賢大夫少府趙禹はことごとく衛将軍の舎人百余人を召(め)しよせ、

以次問之得田仁任安曰

順次(じゅんじ)を以ってこれに問(と)い、家監田仁、家監任安を得て曰く、

獨此兩人可耳餘無可用者

「ただこの二人だけが良いだけで、残りは用いることができる者はいない」と。

衛將軍見此兩人貧意不平

衛将軍はこの二人を貧(まず)しいと見て、心の中は不平(ふへい)であった。

趙禹去謂兩人曰各自具樾象絳衣

賢大夫少府趙禹が去(さ)ると、二人に謂(い)った、曰く、「各(おのおの)自ら、樾象(鞍を置いた馬?)、赤い衣を準備せよ」と。

兩人對曰家貧無用具也

二人は応(こた)えて曰く、「家が貧(まず)しく用具(ようぐ)がありません」と。

將軍怒曰今兩君家自為貧何為出此言

衛将軍は怒って曰く、「今、二人の家は自(おの)ずから貧(まず)しいと為し、どうしてこの言を出すのか?

鞅鞅如有移於我者何也

鞅鞅(おうおう)と不満そうで、我(われ)より威徳(移=威?)有る者の如(ごと)くは、どうしてか?」と。

將軍不得已上籍以聞有詔召見衛將軍舍人

衛将軍はやむを得ず、文書を上(あ)げて申し上げるを以ってした。詔(みことのり)が有り、衛将軍の舎人を召し寄せて見(まみ)えさせた。

此二人前見詔問能略相推第也

この二人が前に進み出て見(まみ)えると、詔(みことのり)して智略(ちりゃく)の才能を問(と)い、互いに推(お)しいただかせて品定めさせたのである。(第=題?)

田仁對曰提桴鼓立軍門

田仁は応(こた)えて曰く、「ばち、太鼓(たいこ)をひっさげて軍門に立ち、

使士大夫樂死戰鬬仁不及任安

士大夫をして戦闘で死するをよろこばせるは、わたしは任安には及(およ)びません」と。

任安對曰夫決嫌疑定是非辯治官

任安は応(こた)えて曰く、「それ、嫌疑(けんぎ)を決(けっ)し、是非(ぜひ)を定(さだ)め、官を言葉で治(おさ)め、

使百姓無怨心安不及仁也

百姓をして怨(うら)む心を無くさせるは、わたしは田仁には及(およ)びません」と。

武帝大笑曰善使任安護北軍

漢孝武帝劉徹は大いに笑って曰く、「よろしい」と。任安をして北軍を護(まも)らせ、

使田仁護邊田穀於河上

田仁をして河上に於いて辺境の田の穀物(こくもつ)を護(まも)らせた。

此兩人立名天下

このようにして二人は天下に名を立てた。

其後用任安為益州刺史

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其後用任安為益州刺史以田仁為丞相長史

その後、任安を用いて益州刺史と為し、田仁を以って漢丞相長史と為した。

田仁上書言天下郡太守多為姦利

漢丞相長史田仁は上書して曰く、「天下の郡太守は多くが不正の利(り)を為しています。

三河尤甚臣請先刺舉三河

三河(河南、河内、河東)が尤(もっと)も甚(はなは)だしく、わたしは先(さき)に三河を挙(あ)げて罪を調べることを請(こ)い願います。

三河太守皆內倚中貴人與三公有親屬

三河の太守は皆(みな)内(うち)に中貴人(天子のおそばで寵愛される地位の高い臣)をたのみにしており、三公と親属を有(ゆう)し、

無所畏憚宜先正三河以警天下姦吏

畏(おそ)れ憚(はばか)るところがありません。宜(よろ)しく先(さき)に三河を正(ただ)して天下の不正役人をいましめるを以ってするべきです」と。

是時河南河內太守皆御史大夫杜父兄子弟也

この時、河南、河内の太守は皆(みな)漢御史大夫杜父(杜周)の兄、子弟であり、

河東太守石丞相子孫也

河東の太守は石丞相(牧丘恬侯石慶)の子孫である。

是時石氏九人為二千石方盛貴

この時、石氏は九人が二千石に為り、まさに貴人でみちあふれていた。

田仁數上書言之杜大夫及石氏使人謝謂田少卿曰

漢丞相長史田仁はたびたび上書してこれを言上した。杜大夫及び石氏は人をして謝(あやま)らせ、田少卿(漢丞相長史田仁)に謂(い)わせた、曰く、

吾非敢有語言也願少卿無相誣汙也

「吾(われ)らは敢(あ)えて話しは有りませんから、願わくは少卿(田仁)には互いにそしりあってけがすこと無かれ」と。

仁已刺三河三河太守皆下吏誅死

漢丞相長史田仁がすでに三河の罪を調べおわり、三河の太守は皆(みな)役人に下(くだ)されて誅死(ちゅうし)した。

仁還奏事武帝說以仁為能不畏彊御

漢丞相長史田仁が還(かえ)って事(こと)を奏上すると、漢孝武帝劉徹は悦(よろこ)んで、漢丞相長史田仁を以って強(きょう)を畏(おそ)れずに治(おさ)めることができると思い、

拜仁為丞相司直威振天下

漢京輔都尉田仁(丞相長史の次にさずかった官位)に官をさずけて漢丞相司直と為し、威(い)は天下に振(ふ)るわれた。

其後逢太子有兵事丞相自將兵使司直主城門

その後、漢太子劉拠が兵事を有(ゆう)したときに逢(あ)い、漢丞相劉屈氂が自ら兵を率(ひき)いて、漢丞相司直田仁をつかわし城門をつかさどらせた。

司直以為太子骨肉之親

漢丞相司直田仁は漢太子劉拠は骨肉(こつにく)の身内(みうち)であって、

父子之不甚欲近去之諸陵過

父と子の関係は甚(はなは)だ近くを欲さず、これ(漢太子劉拠)を諸陵に去(さ)らせようと思い、罪をおかした。

是時武帝在甘泉使御史大夫暴君下責丞相

この時、漢孝武帝劉徹は甘泉におり、漢御史大夫暴君(暴勝)が責任を漢丞相劉屈氂に下(くだ)し、

何為縱太子丞相對言使司直部守城門而開太子

「何の為(ため)に太子を放(はな)ったのか」と。漢丞相劉屈氂は応(こた)えて曰く、「司直をして城門の守りをとりしまらせたが、太子に開(あ)けてしまったのです」と。

上書以聞請捕系司直司直下吏誅死

上書して申し上げるを以って、漢丞相司直田仁を捕(と)らえて繋(つな)いだ。漢丞相司直田仁は役人に下(くだ)されて誅死(ちゅうし)した。

是時任安為北軍使者護軍

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是時任安為北軍使者護軍太子立車北軍南門外

この時、任安は北軍使者護軍と為っており、漢太子劉拠が車を北軍の南門の外に立て、

召任安與節令發兵

漢北軍使者護軍任安を召(め)しよせて、旗印(はたじるし)を与(あた)えて兵を発さしめた。

安拜受節入閉門不出武帝聞之

漢北軍使者護軍任安は拝礼して旗印(はたじるし)を授(さず)かり、入って門を閉(し)めて出なかった。武帝はこれを聞いて、

以為任安為詳邪不傅事何也

任安が偽(いつわ)りを為そうとしているのか、事(こと)を伝(つた)えないのはどうしてなのか、と思った。

任安笞辱北軍錢官小吏小吏上書言之

漢北軍使者護軍任安は北軍銭官の小役人をむち打って辱(はずかし)めた。小役人は上書して、これを言った、

以為受太子節言幸與我其鮮好者

(仁安は)漢太子劉拠の旗印(はたじるし)を授(さず)かって、幸いにも我(われ)にすばらしく好(よ)いものを与(あた)えてくださいましたと言っていました、と。

書上聞武帝曰是老吏也見兵事起

書状が申し上げられると、漢孝武帝劉徹曰く、「これは老吏で、兵事(へいじ)が起こったのを目の当たりにして、

欲坐觀成敗見勝者欲合從之有兩心

座(ざ)して成敗(せいばい)を観察しようと欲し、勝者を見てこれに合従しようと欲しているのであって、二心(にしん)が有る。

安有當死之罪甚眾吾常活之

仁安は死の罪に当たるものが甚(はなは)だ多く有ったが、吾(われ)はいつもこれを活(い)かしていた。

今懷詐有不忠之心

今、偽(いつわ)りを懐(いだ)くは不忠の心が有る」と。

下安吏誅死

仁安を役人に下(くだ)して誅死させた。

夫月滿則虧物盛則衰天地之常也

それ、月(つき)が満(み)ちればすなわち欠(か)け、物が盛んになればすなわち衰(おとろ)えるは、天地の常(つね)である。

知進而不知退久乘富貴禍積為祟

進むを知って、退(しりぞ)くを知らず、久(ひさ)しく富貴に乗れば、禍(わざわい)が積(つ)もって祟(たた)りを為す。

故范蠡之去越辭不受官位名傳後世

故(ゆえ)に范蠡(人名)は越(国名)を去(さ)って、辞(じ)して官位を受けず、名声は後世に伝わって、

萬歲不忘豈可及哉後進者慎戒之

万年も忘(わす)れられない。どうして及(およ)ぶことができるだろうかな。後進者(こうしんしゃ)は慎(つつし)んでこれを誡(いまし)めよ」と。

今日で史記 田叔列伝は終わりです。明日からは史記 扁鵲倉公列伝に入ります。

史記 扁鵲倉公列伝 始め

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扁鵲者勃海郡鄭人也姓秦氏名越人

扁鵲という者は勃海郡の鄭の人である。姓名は秦氏、名は越人。

少時為人舍長舍客長桑君過扁鵲獨奇之常謹遇之

若い時、人の舎長と為った。舎客の長桑君が立ち寄り、扁鵲はひとりこれをすぐれているとし、常(つね)につつしんでこれを遇(ぐう)した。

長桑君亦知扁鵲非常人也

長桑君もまた扁鵲を常人ではないと知ったのである。

出入十餘年乃呼扁鵲私坐與語曰

出入りして十余年、すなわち、扁鵲を呼んで個人的に座(ざ)し、ひそかにともに語った、曰く、

我有禁方年老欲傳與公公毋泄

「我(われ)には秘伝の医術が有る。年老いて、公に伝(つた)え与(あた)えることを欲する。公は漏(も)らすことなかれ」と。

扁鵲曰敬諾乃出其懷中藥予扁鵲

扁鵲曰く、「つつしんで承諾(しょうだく)します」と。そこでその懐(ふところ)の中の薬を出して、扁鵲に与(あた)えた。

飲是以上池之水三十日當知物矣

「これを飲むに上池(雨)の水を以ってし、三十日でまさに物を知るべし」と。

乃悉取其禁方書盡與扁鵲

そこでことごとくその秘伝の医術書を取ってことごとく扁鵲に与(あた)えた。

忽然不見殆非人也

忽然(こつぜん)と見えなくなった。ほとんど人では非(あら)ざるなり。

扁鵲以其言飲藥三十日視見垣一方人

扁鵲はその言葉を以って薬を飲むこと三十日、垣(かき)のもう一方の人が見えた。

以此視病盡見五藏癥結特以診脈為名耳

これを以って病(やまい)を視(み)ると、ことごとく五つの臓器の癥結(腹の中にかたまりのできる病気)を見つけ、特に脈(みゃく)を診(み)るを以ってするは外見上の形式としただけである。

為醫或在齊或在趙在趙者名扁鵲

医者と為って或いは斉に在(あ)り、或いは趙に在(あ)り、趙に在(あ)るのは名は扁鵲といった。

當晉昭公時諸大夫彊而公族弱

まさに晋昭公姫夷(晋頃公?)の時、諸(もろもろ)の大夫は強く、そして公族は弱く、

趙簡子為大夫專國事

趙簡子(趙鞅)が晋大夫と為ると、国事を専(もっぱ)らにした。

簡子疾五日不知人大夫皆懼於是召扁鵲

(晋定公時に)趙簡子(趙鞅)が病にかかり、五日間、人事不省(じんじふせい)になり、晋大夫たちは皆(みな)懼(おそ)れ、ここに於いて扁鵲を召し寄せた。

扁鵲入視病出董安于問扁鵲扁鵲曰

扁鵲は入って病を視(み)た。出ると、董安于が扁鵲に問うた、扁鵲曰く、

血脈治也而何怪

「血脈は治(おさ)まっているが何と不思議なことか。

昔秦穆公嘗如此七日而寤

昔、秦穆公嬴任好も嘗(かつ)てこの如(ごと)くなり、七日して目覚めました。

寤之日告公孫支與子輿曰

目覚めた日、公孫支と子輿に告げて曰く、

我之帝所甚樂吾所以久者適有所學也

『我(われ)は天帝のところで甚(はなは)だ楽しんだ。吾(われ)が長くいたわけとは、たまたま学ぶところが有ったからだ。

帝告我晉國且大亂五世不安

天帝は我(われ)に告げた、晋国はまさに大乱とならんとし、五世代(献公~懐公まで)は不安定になる、

其後將霸未老而死

その後はまさに諸侯の旗頭(はたがしら)となり、老(お)いずに死ぬ、

霸者之子且令而國男女無別

覇者の子はまさに令(れい)して国の男女は区別が無くなるだろう、と。

公孫支書而藏之秦策於是出

公孫支は記録してこれを所蔵しました。秦の策謀はここより出(い)でたのです。

夫獻公之亂文公之霸

それ、晋献公姫詭諸の乱、晋文公姫重耳の覇(は)、

而襄公敗秦師於殽而歸縱淫此子之所聞

そして晋襄公姫驩が秦軍を殽に於いて敗(やぶ)り、しこうして帰り勝手きままに乱れ、これ、なんじらの聞くところである。

今主君之病與之同

今、主君の病はこれと同じで、

不出三日必必有言也

三日もたたずに必ず癒(い)えて、癒(い)えれば必ず言葉が有るでしょう」と。

居二日半簡子寤語諸大夫曰

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居二日半簡子寤語諸大夫曰

二日半がたち、趙簡子が目覚め、諸大夫に語った、曰く、

我之帝所甚樂與百神游於鈞天

「我(われ)は天帝の所で甚(はなは)だ楽しんだ。百神とともに鈞天(天帝の都)に於いて遊んだ。

廣樂九奏萬舞不類三代之樂其聲動心

天上の音楽を何度も奏(かな)でたくさん舞(ま)いおどった。三代(夏、殷、周)の音楽の類(たぐい)ではなく、その声は心を動かした。

有一熊欲援我帝命我射之中熊熊死

一頭の熊があり我(われ)を引き寄せようと欲し、天帝は我(われ)にこれを射(い)ることを命じた。熊に命中(めいちゅう)し、熊は死んだ。

有羆來我又射之中羆羆死

羆(ひぐま)が有り来て、我(われ)はまたこれを射(い)た。羆(ひぐま)に命中(めいちゅう)し、羆(ひぐま)は死んだ。

帝甚喜賜我二笥皆有副

天帝は甚(はなは)だ喜び、我(われ)に二つの箱を賜(たま)わり、皆(みな)添え物が有った。

吾見兒在帝側帝屬我一翟犬曰

吾(われ)は天帝の側(そば)にいる子供を見た。天帝は我(われ)に、一匹の翟(異民族名)の犬を従えさせ、曰く、

及而子之壯也以賜之

『なんじの子が大人になるに及んだら、これを賜(たま)わるを以ってせよ』と。

帝告我晉國且世衰七世而亡

天帝は我(われ)に告げた、『晋国はまさに代々衰(おとろ)え、七世にして亡(ほろ)びるだろう。

嬴姓將大敗周人於范魁之西而亦不能有也

嬴姓(秦、趙の姓名)はまさに周人を范魁の西に於いて大敗(たいはい)させるが、また有することはできないのである』と」と。

董安于受言書而藏之

董安于は言葉を受けて、記録しこれを所蔵した。

以扁鵲言告簡子簡子賜扁鵲田四萬畝

扁鵲の言葉を以って趙簡子に告(つ)げると、趙簡子は扁鵲に田四万畝(うね)を賜(たま)わった。

其後扁鵲過虢虢太子死扁鵲至虢宮門下

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其後扁鵲過虢虢太子死扁鵲至虢宮門下

その後、扁鵲は虢に立ち寄ったとき、虢太子が死んだ。扁鵲が虢宮門の下に至り、

問中庶子喜方者曰太子何病國中治穰過於眾事

中庶子の医術を好む者に問(と)うた、曰く、「太子は何の病(やまい)ですか?国中、まつりの際に供える農作物を治(おさ)めるは多くの事より越えていますが」と。

中庶子曰太子病血氣不時

虢中庶子曰く、「太子の病は血の気が不全(ふぜん)で、

交錯而不得泄暴發於外則為中害

かわるがわるにして外に出すことを得なかったり、にわかに外に飛び出したりし、すなわち中(なか)の害(がい)の為(ため)です。

精神不能止邪氣邪氣畜積而不得泄

精神は邪気(じゃき)を止(とど)めることができず、邪気(じゃき)が蓄積(ちくせき)して、発散することを得ず、

是以陽緩而陰急故暴蹷而死

ここに、陽が緩(ゆる)まるを以ってして、陰が急(きゅう)になり、故(ゆえ)ににわかに倒(たお)れて死んだのです。

扁鵲曰其死何如時曰

扁鵲曰く、「その死は何の如(ごと)くの時ですか」と。曰く、

雞鳴至今曰收乎曰

「今日になって鶏(にわとり)が鳴(な)いた時です」と。曰く、「収(おさ)めたのですか?」と。曰く、

未也其死未能半日也

「未(ま)だです。その死は未(ま)だ半日ではできないのです」と。

言臣齊勃海秦越人也家在於鄭

「わたしは斉の勃海の秦越人と言い、家は鄭に在(あ)ります。

未嘗得望精光侍謁於前也

未(いま)だ嘗(かつ)て、御前に於いて精光(容姿のすぐれているさま)を望(のぞ)み謁見を侍(じ)したことはありませんが、

聞太子不幸而死臣能生之

太子が不幸にして死んだと聞きましたが、わたしはこれを生きかえらせることができます」と。

中庶子曰先生得無誕之乎

虢中庶子曰く、「先生はうそでは無く(生き返らすことを)得られるのか?

何以言太子可生也臣聞上古之時

何ものを以って太子が生き返ることができると言うのか。わたしは聞きます、上古(じょうこ)の時、

醫有俞跗治病不以湯液醴灑鑱石撟引案扤毒熨

医者の俞跗が有り、病を治(なお)すに、湯液、あま酒を以ってすすぎ、石のはりを以ってのばし矯正(きょうせい)し、案扤毒を以って熨(ひのし)するを以ってせず、

一撥見病之應因五藏之輸

たった一度ひらいただけで病を見て対処し、五つの臓器(ぞうき)の輸(こわれる)に因(よ)りて、

乃割皮解肌訣脈結筋

すなわち皮(かわ)を割(さ)いて肌を切り開き、脈(みゃく)を別(わ)けて筋(すじ)を結(むす)び、

搦髓腦揲荒爪幕湔浣腸胃

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搦髓腦揲荒爪幕湔浣腸胃

重要な部分にいどみ 荒(あ)れたところを取り出し、膜(まく)(幕=膜?)をつかみ、
腸、胃を洗いすすぎ、

漱滌五藏練精易形

五臓を洗いすすぎ、白くきれいにし、形をととのえます。

先生之方能若是則太子可生也

先生の医術がこのごとくできれば、太子は生き返ることができるでしょう。

不能若是而欲生之曾不可以告咳嬰之兒

このごとくできなければ、これを生き返らせようと欲しても、すなわち、赤ん坊に告(つ)げるを以ってしても不可でしょう」と。

終日扁鵲仰天嘆曰夫子之為方也

一日じゅう、扁鵲は天を仰(あお)いでため息をついて曰く、「その人の医術を為すは、

若以管窺天以郄視文越人之為方也

管(くだ)を以って天を窺(うかが)うがごとく、すきまを以って模様を視(み)るがごとく。わたしの医術を為すは、

不待切脈望色聽聲寫形言病之所在

脈をみて顔色を望み、声を聴(き)いて形を写(うつ)しとったりするのを待(ま)たずに、病の所在(しょざい)を言います。

聞病之陽論得其陰聞病之陰論得其陽

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聞病之陽論得其陰聞病之陰論得其陽

病(やまい)の陽(よう)を聞いて、その陰(いん)を得て論じ、病(やまい)の陰(いん)を聞いて、その陽(よう)を得て論じます。

病應見於大表不出千里決者至眾不可曲止也

病(やまい)はまさに広(ひろ)く表(おもて)に出たのを見るべきで、千里(せんり)の遠くに出かけなくても決めるものは、きわめて多く、小さく止(とど)まるべきではないのであります。

子以吾言為不誠試入診太子

なんじが吾(われ)の言を以って誠(まこと)ではないと思うならば、試(ため)しに入って太子を診(み)てごらんなさい。、

當聞其耳鳴而鼻張循其兩股以至於陰當尚溫也

まさにその耳が、鳴(な)るを聞いて鼻がひろがり、その両股(りょうまた)を手でなでて陰部に至るを以ってして、まさに尚(なお)温(あたた)かいことでしょう」と。

中庶子聞扁鵲言目眩然而不瞚

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中庶子聞扁鵲言目眩然而不瞚

虢中庶子は扁鵲の言を聞き、目は眩然としてくらみてまばたきせず、

舌撟然而不下乃以扁鵲言入報虢君

舌(した)は撟然として上がったまま、下(さ)がらず、すなわち扁鵲の言を以って入り虢君に報告した。

虢君聞之大驚出見扁鵲於中闕曰

虢君はこれを聞いて大いに驚き、出て中門に於いて扁鵲に見えて曰く、

竊聞高義之日久矣然未嘗得拜謁於前也

「ひそかに高義(こうぎ)を聞く日々が久(ひさ)しく、然(しか)るに未(いま)だ嘗(かつ)て御前において拝謁(はいえつ)を得られませんでした。

先生過小國幸而舉之偏國寡臣幸甚

先生がわが国に立ち寄られ、幸いにもこれを挙(あ)げてくだり、へんぴな国のわたしは幸いであること甚(はなだ)であります。

有先生則活無先生則棄捐填溝壑

先生がいれば活(い)きかえり、先生がいなければ、すてて溝(みぞ)の穴にうめられ、

長終而不得反言末卒因噓唏

永遠にして生き返れなかったでしょう」と。言葉の末(すえ)にとうとう、よりてすすり泣いて

服臆魂精泄流涕長潸

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服臆魂精泄流涕長潸

よく心にとめて、思いは純粋にもれ出てあふれ、涙を流すはますますはらはらと流れ、

忽忽承睫悲不能自止容貌變更

忽忽(こつこつ)とはやくまつげをまばたかせ、悲しむこと自ら止(と)めることができず、容貌が変わることいよいよであった。

扁鵲曰若太子病所謂尸蹷者也

扁鵲曰く、「太子の病(やまい)のごとくは所謂(いわゆる)脚気(かっけ)というものであります。

夫以陽入陰中動胃繵緣

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夫以陽入陰中動胃繵緣

それ、陽(よう)を以って、陰(いん)の中に入り、胃を動かしてまとわりついて取り囲み、

中經維絡別下於三焦膀胱

経脈をみたし、絡脈につなぎ、別(わか)われ三焦、膀胱に下(くだ)り、

是以陽脈下遂陰脈上爭會氣閉而不通

ここに、陽脈を以っておしわけるように下(くだ)り、陰脈を以って引っ張られて上(あ)がり、
気を会(かい)して閉(し)まりて不通(ふつう)になり、

陰上而陽內行下內鼓而不起

陰は上がって陽は内(うち)を行き、下って内(うち)に動かして起きず、

上外絕而不為使上有絕陽之絡

上がって外(そと)に絶(た)って使(つか)いを為さず、上に陽を絶やした絡脈が有り、

下有破陰之紐破陰絕陽(之)色[已]廢脈亂

下に陰の破(やぶ)れた紐(ひも)が有り、陰を破って陽を絶(た)ち、顔色はすでにおとろえ、脈が乱(みだ)れ、

故形靜如死狀太子未死也

故(ゆえ)に身体が動かず死んだような状態になるのです。太子は未(ま)だ死んではおりません。

夫以陽入陰支蘭藏者生以陰入陽支蘭藏者死

それ、陽を以って陰に入り蘭臓(おそらく蘭の花の形から心臓の形に似ているので心臓を指す?)を支(ささ)えるのは、生きて、陰を以って陽に入り蘭臓を支(ささ)えるのは死にます。

凡此數事皆五藏蹙中之時暴作也

凡(おそ)そこれら数々の事は皆(みな)五臓(心臓、肝臓、肺臓、腎臓、脾臓)が中でつまった時(とき)ににわかに作用するのであります。

良工取之拙者疑殆

良い医者はこれを採用しますが、へたな医者は疑いあやぶむのです」と。

扁鵲乃使弟子子陽鍼砥石

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扁鵲乃使弟子子陽鍼砥石

扁鵲はそこで弟子の子陽をつかわし、はりを砥石(といし)でみがかせ、

以取外三陽五會有太子蘇

三陽五会にうって外(はず)すを以ってした。しばらくして、虢太子は目をさました。

乃使子豹為五分之熨

そこで、子豹をつかわし五分のひのし(熱いものでおさえる)をつくらせ、

以八減之齊和煮之以更熨兩脅下

八減の剤を以ってこれをあわせて煮(に)て、両方の脇(わき)の下にかわるがわるひのし(熱いものでおさえる)するをもってした。

太子起坐更適陰陽但服湯二旬而復故

虢太子は起き上がって座(すわ)った。さらに陰陽をほどよくし、もっぱら煎(せん)じ薬を二十日服用させて、回復した。

故天下盡以扁鵲為能生死人

故(ゆえ)に天下はことごとく、扁鵲を以って死人を生き返らせることができると思った。

扁鵲曰越人非能生死人也

扁鵲曰く、「わたしは死人を生き返らせることができたのでは非(あら)ざるなり、

此自當生者越人能使之起耳

これは自(みずか)らまさに生きていた者で、わたしはこれをして起(お)きあがらせることができただけです」と。

扁鵲過齊齊桓侯客之

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扁鵲過齊齊桓侯客之

扁鵲が斉に立ち寄ると、斉桓侯姜小白(呂小白)はこれを賓客とした。

入朝見曰君有疾在腠理不治將深

朝見に入って曰く、「君には腠理(皮膚表面の細かいしわ)に在(あ)る病気が有り、治(なお)さないとまさに深刻になっていくでしょう」と。

桓侯曰寡人無疾

斉桓侯姜小白曰く、「わたしは病気では無い」と。

扁鵲出桓侯謂左右曰

扁鵲が退出すると、斉桓侯姜小白は左右のものに謂(い)った、曰く、

醫之好利也欲以不疾者為功

「医者の利(り)を好むものは、病気ではない者を以っててがらをたてようと欲するものだ」と。

後五日扁鵲復見曰

五日後、扁鵲がふたたび見(まみ)えて曰く、

君有疾在血脈不治恐深

「君には血脈に在(あ)る病気が有り、治(なお)さないと恐らく深刻になるでしょう」と。

桓侯曰寡人無疾

斉桓侯姜小白曰く、「わたしは病気では無い」と。

扁鵲出桓侯不

扁鵲が退出したが、斉桓侯姜小白は悦(よろ)こばなかった。

後五日扁鵲復見曰

五日後、扁鵲がふたたび見(まみ)えて曰く、

君有疾在腸胃不治將深

「君には腸、胃の間に在(あ)る病気が有(あ)り、治(なお)さないとまさに深刻にならんとすることでしょう」と。

後五日扁鵲復見望見桓侯而退走

五日後、扁鵲はまた見(まみ)え、斉桓侯姜小白を遠くから望(のぞ)み見て、走って退出した。

桓侯使人問其故扁鵲曰

斉桓侯姜小白は人をつかわしてその故(ゆえ)を問わせた。扁鵲曰く、

疾之居腠理也湯熨之所及也

「病気が腠理(皮膚表面の細かいしわ)に居(お)る時は、煎薬(せんやく)、ひのし(熱いものでおさえる)の及(およ)ぶ所であります。

在血脈鍼石之所及也

血脈に在(あ)れば、石のはりの及(およ)ぶところであります。

其在腸胃酒醪之所及也

その腸、胃に在(あ)れば、濁(にご)り酒の及(およ)ぶところであります。

其在骨髓雖司命無柰之何

その骨髄(こつずい)に在(あ)れば、医者と雖(いえど)もどうすることもできません。

今在骨髓臣是以無請也

今、骨髄に在(あ)って、わたしはここに請(こ)わずを以ってしたのであります」と。

後五日桓侯體病使人召扁鵲

五日後、斉桓侯姜小白の身体が病(や)み、人をつかわして扁鵲を召(め)しよせさせたが、

扁鵲已逃去桓侯遂死

扁鵲はすでに逃げ去っていた。斉桓侯姜小白は遂(つい)に死んだ。

使聖人預知微能使良醫得蚤從事

聖人をしてあらかじめおとろえに気付いて、良い医者をして速く事に従わせることを得られれば、

則疾可已身可活也

すなわち病気は已(や)むことができ、身は活(い)きることができるのである。

人之所病病疾多

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人之所病病疾多

人の病(や)むところ、病気が多く、

而醫之所病病道少

しこうして、医の病(や)むところ、病(やまい)の療法が少ない。

故病有六不治驕恣不論於理一不治也

故(ゆえ)に病には六つの不治が有り、おごりたかぶってほしいままにし、道理を説(と)かないのが、一の不治である。

輕身重財二不治也

身を軽(かろ)んじて財(ざい)を重んずるのが、二の不治である。

衣食不能適三不治也

着たり食べたりがほどよくできないのが、三の不治である。

陰陽并藏氣不定四不治也

陰、陽があわさり、内臓、気が定まらないのが、四の不治である。

形羸不能服藥五不治也

からだが疲れきって薬を服用できないのが、五の不治である。

信巫不信醫六不治也

巫(みこ)を信じて医者を信じないのが、六の不治である。

有此一者則重難治也

この一つの者でも有れば、治療をいっそう難(むず)かしくするのである。

扁鵲名聞天下

扁鵲の名は天下に聞こえた。

過邯鄲聞貴婦人即為帶下醫

邯鄲に立ち寄って、婦人を貴(とうと)ぶと聞き、すなわち婦人病の医者に為り、

過雒陽聞周人愛老人即為耳目痹醫

雒陽に立ち寄って、周人は老人を敬愛すると聞くと、すなわち耳、目、しびれの医者に為り、

來入咸陽聞秦人愛小兒即為小兒醫

咸陽に来て入ると、秦人は小児を愛(まな)でると聞き、すなわち小児医に為り、

隨俗為變秦太醫令李醯自知伎不如扁鵲也使人刺殺之

俗(ぞく)につきしたがって変化した。秦の太医令の李醯は自(みずか)らを腕前(うでまえ)が扁鵲におよばないと知って、人をしてこれ(扁鵲)を刺し殺させた。

至今天下言脈者由扁鵲也

今に至り天下の脈(みゃく)を言う者は、扁鵲に由(よ)るのである。

太倉公者齊太倉長臨菑人也

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太倉公者齊太倉長臨菑人也姓淳于氏名意

太倉公という者は、斉の太倉長で、臨菑の人であり、姓名は淳于氏、名は意。

少而喜醫方術高后八年更受師同郡元里公乘陽慶

若くして医方の術を喜んだ。漢高后呂雉八年、改(あらた)めて同郡元里の公乗(爵位名)陽慶に学び師事(しじ)した。

慶年七十餘無子使意盡去其故方

公乗陽慶の年は七十余歳、子が無く、淳于意をしてことごとくその以前の医術を去(さ)らせ、

更悉以禁方予之傳黃帝扁鵲之脈書

改(あらた)めてことごとく秘伝の医術を以ってこれにあたえた。黄帝、扁鵲の脈書、

五色診病知人死生

五色診病、人の死生をみきわめ、

決嫌疑定可治及藥論甚精

うたがいを決定し、治療すべきを定(さだ)めることを伝(つた)え、薬論に及んでは甚(はなは)だ詳(くわ)しくした。

受之三年為人治病決死生多驗

これに学ぶこと三年、人の為(ため)に病を治(なお)し、死生を決定して効能(こうのう)が多かった。

然左右行游諸侯不以家為家

然るにあちこちと諸侯を巡遊(じゅんゆう)して、暮らすを以って家をつくらず、

或不為人治病病家多怨之者

ことによると人の為(ため)に病を治(なお)さず、病人の家はこれを怨(うら)む者が多かった。

文帝四年中人上書言意以刑罪當傳西之長安

漢孝文帝劉恒四年中、人が上書して淳于意を言い、刑罰を以って当(あ)てられるを以って、駅次(えきつぎ)で西に長安に行った。

意有五女隨而泣意怒罵曰

淳于意には五人の娘(むすめ)が有り、よりそって泣いた。淳于意は怒って罵(ののし)って曰く、

生子不生男緩急無可使者

「子を生んで、男が生まれず、緩急(かんきゅう)のときに使うべき者がいない」と。

於是少女緹縈傷父之言乃隨父西

ここに於いて年少の娘の緹縈が父の言葉に傷(きず)つき、そこで、父に従(したが)って西へ行った。

上書曰妾父為吏齊中稱其廉平

上書して曰く、「わたしの父は役人と為って、斉の中でその廉平さを称(たた)えられています。

今坐法當刑妾切痛死者不可復生而刑者不可復續

今、法に罪を問われて刑を当てられました。わたしは、死んだ者はふたたび生き返ることができず、そして、刑された者はふたたび役人になる(続=属?)ことができないことを切(せつ)に残念に思います。

雖欲改過自新其道莫由終不可得

過(あやま)ちを改め自らを新(あら)たにしようと欲すると雖(いえど)も、その道は由(よし)なく、終(しま)いまで得ることができません。

妾願入身為官婢以贖父刑罪使得改行自新也

わたしは入って身(み)みずから官婢と為り、父の刑罰を購(あがな)うを以ってして、行いを改め自らを新(あら)たにすることを得さしめてくださることを願うのであります」と。

書聞上悲其意此歲中亦除肉刑法

書状が申し上げられると、上(漢孝文帝劉恒)はその心を憐(あわ)れんで、この年中にまた肉刑の法も除(のぞ)いた。

意家居詔召問

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意家居詔召問所為治病死生驗者幾何人也主名為誰

淳于意が家住まいをしているとき、詔(みことのり)して召し寄せ、病を治(なお)す方法、死生の試(こころ)みた者は幾人(いくにん)で、主(おも)な名は誰であるのかを問うた。

詔問故太倉長臣意方伎所長及所能治病者

詔(みことのり)して前の太倉長臣意(淳于意)に問(と)うた、「医術のうでまえの長ずるところ、及び病を治(なお)すことができたところのものは?

有其書無有皆安受學受學幾何歲

その書は有るのか無いのか?皆(みな)いずこで学問をさずかったのか?学問をさずかったのは何年か?

嘗有所驗何縣里人也何病醫藥已

嘗(かつ)て試(ため)した所の有るものは、何県何里の人であるのか?何の病(やまい)か?医薬がなおすは、

其病之狀皆何如具悉而對臣意對曰

その病(やまい)の症状は皆(みな)どのようなごとくであるのか?ことごとく具(つぶさ)にして応(こた)えよ」と。臣意(淳于意)は応(こた)えて曰く、

自意少時喜醫藥醫藥方試之多不驗者

「わたしの若い時より、医薬を喜び、医薬の術が試(ため)されましたが多くが効能のないものでした。

至高后八年得見師臨菑元里公乘陽慶

漢高后呂雉八年に至り、臨菑元里の公乗陽慶に見(まみ)え師事(しじ)するを得ました。

慶年七十餘意得見事之

陽慶は年七十余歳で、わたしはこれに見(まみ)えて仕(つか)えることを得ました。

謂意曰盡去而方書非是也

わたしに謂(い)いました、『ことごとくなんじの医術書を棄て去りなさい、正しくないからである。

慶有古先道遺傳黃帝扁鵲之脈書

わたしは古(いにしえ)のてびき書が有(あ)るので贈(おく)って、黄帝、扁鵲の脈書、

五色診病知人生死決嫌疑

五色診病で、人の生死を知り、疑(うたが)いを決(き)め、

定可治及藥論書甚精我家給富

治療すべきを定(さだ)めることを伝え、及び薬論書を贈って、甚(はなは)だ詳(くわ)しく伝(つた)えよう。我(わ)が家は余裕が十分にあり、

心愛公欲盡以我禁方書悉教公

心から公を愛(まな)で、我(わ)が秘伝の医術書を以ってことごとく公に教えるを以ってし尽(つ)くすことを欲する』と。

臣意即曰幸甚非意之所敢望也

わたしはすなわち曰く、『非常に幸(しあわ)せであり、わたしの敢(あ)えて望(のぞ)むところでは非(あら)ざるなり』と。

臣意即避席再拜謁受其脈書上下經

わたしはすぐに席(せき)をしりぞいて再拝(さいはい)して求(もと)め、その脈書上下巻、

五色診奇咳術揆度陰陽外變藥論

五色診、奇咳術、揆度(ほかと比べて考えること)陰陽外変、薬論、

石神接陰陽禁書受讀解驗之可一年所

石鍼(神(しん)=鍼(しん)?)、接陰陽禁書をさずかりました。これを読解(どくかい)して試(ため)すことを学び、一年ほどでできるようになりました。

明歲即驗之有驗然尚未精也

明くる年、すなわちこれを試(ため)し、効能が有りましたが、然(しか)るに尚(なお)未(ま)だ詳(くわ)しくなかったので、

要事之三年所即嘗已為人治

これに仕(つか)えること三年ほど要(よう)しました。すなわち、嘗(かつ)てすでに人の為(ため)に治(なお)し、

診病決死生有驗精良

病(やまい)を診(み)て死生を決(けっ)し、すぐれて良い効能が有(あ)ったのです。

今慶已死十年所臣意年盡三年年三十九歲也

今、陽慶はすでに死んで十年ほどで、わたしの年は三年を尽(つ)くして、年三十九歳であります。

齊侍御史成自言病頭痛臣意診其脈

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齊侍御史成自言病頭痛臣意診其脈

斉侍御史成は自(みずか)ら頭痛に病(や)むと言い、わたし(淳于意)はその脈を診(み)ました。

告曰君之病惡不可言也

告(つ)げて曰く、『君の病(やまい)は悪く、言うべきではありません』と。

即出獨告成弟昌曰此病疽也

すぐに退出して、ともかく斉侍御史成の弟の昌に告げて曰く、『この病(やまい)は疽(悪性のはれもの)であります。

內發於腸胃之後五日當擁腫

内(うち)に腸、胃の間(あいだ)に於いて発し、五日後にはまさに腫(は)れあがり、

後八日嘔膿死成之病得之飲酒且內

八日後に膿(うみ)を吐(は)いて死ぬでしょう』と。斉侍御史成の病(やまい)は飲酒して内(うち)に腫れ物(且=疽?)を得たのです。

成即如期死所以知成之病者

斉侍御史成はすなわち期に及(およ)んで死にました。斉侍御史成の病(やまい)を知ったわけとは、

臣意切其脈得肝氣

わたしはその脈をはかり、肝の気を得たからです。

肝氣濁而靜此內關之病也

肝の気は濁(にご)って静(しず)かで、これは内関の病(やまい)でありました。

脈法曰脈長而弦不得代四時者

脈法で曰く、『脈が長くして弦(ぴんと張った琴の弦のような脈)で、朝、昼、夕、夜に代(一定した間隔で途中で止まりまた動く)を得ないのは、

其病主在於肝和即經主病也代則絡脈有過

その病(やまい)の主(ぬし)は肝に於いて在(あ)る。和(わ)すれば経脈の主(ぬし)の病(やまい)であり、代(一定した間隔で途中で止まりまた動く)すれば、絡脈に過(あやま)ちが有るのだ』と。

經主病和者其病得之筋髓里

経脈の主(ぬし)の病(やまい)が和するのは、その病(やまい)が筋髄の内部から得るからです。

其代絕而脈賁者病得之酒且內

その代(一定した間隔で途中で止まりまた動く)が二つにわかれて脈がいきどおるのは、病(やまい)が、内(うち)に酒による腫れ物(且=疽?)を得たからです。

所以知其後五日而擁腫

その五日後にしてふくれあがり、

八日嘔膿死者切其脈時少陽初代

八日で膿(うみ)を吐(は)いて死ぬことを知ったわけとは、その脈をはかった時、少陽が代(一定した間隔で途中で止まりまた動く)になりはじめたからです。

代者經病病去過人人則去

代(一定した間隔で途中で止まりまた動く)というのは、経脈の病(やまい)は、病(やまい)が人に過(あやま)つるを去(さ)れば、人はすなわち(病を)去(さ)りますが、

絡脈主病當其時少陽初關一分

絡脈が主(ぬし)の病(やまい)は、ちょうどその時、少陽が一分(いちぶ)に関(かか)わり初めたばかりの時で、

故中熱而膿未發也及五分

故(ゆえ)に中位の熱(ねつ)で膿(うみ)は未(ま)だ発されておりませんでしたが、五分(ごぶ)に及べば、

則至少陽之界及八日則嘔膿死

すなわち少陽の限界(げんかい)に至り、八分(日=分?)に及べば、すなわち膿(うみ)を吐(は)いて死に、

故上二分而膿發至界而擁腫盡泄而死

故(ゆえ)に二分(にぶ)を上(あ)げて膿(うみ)が発され、少陽の限界に至って腫(は)れあがり、ことごとく排泄(はいせつ)して死ぬのです。

熱上則熏陽明爛流絡

熱(ねつ)が上(あ)がれば、陽明を燻(くすぶ)り、絡脈の流れを爛(ただ)れさせ、

流絡動則脈結發脈結發則爛解故絡交

絡脈の流れが動けば、脈の結(時に止まるが止まり方は一定しない)が発され、脈の結(時に止まるが止まり方は一定しない)が発されれば、爛(ただ)れ解(と)かれて、故(ゆえ)に絡脈が入り乱れるのです。

熱氣已上行至頭而動故頭痛

熱(ねつ)の気がすでに上がり行けば、頭に至って動かし、故(ゆえ)に頭痛がするのです。

齊王中子諸嬰兒小子病召臣意診切其脈

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齊王中子諸嬰兒小子病召臣意診切其脈告曰

斉王の中子の諸(もろもろ)の赤ん坊の年少の子が病(やまい)にかかり、わたしを召し寄せました。その脈を切って診(み)て、告げて曰く、

氣鬲病病使人煩懣食不下時嘔沫

『気鬲の病(やまい)です。病(やまい)は人をして思いわずらわせ、食べても下(くだ)らず、時には沫(あわ)を吐(は)きます。

病得之(少)[心]憂數忔食飲

病(やまい)は心の憂(うれ)えでたびたび飲食をいとうことから得たのです』と。

臣意即為之作下氣湯以飲之一日氣下

わたしはそこでこれの為(ため)に下気湯を作ってこれに飲ませるを以ってしました。一日で気が下(さ)がり、

二日能食三日即病愈

二日で食べられるようになり、三日ですなわち病(やまい)が癒(い)えました。

所以知小子之病者診其脈心氣也

小子の病(やまい)を知ったわけとは、その脈を診(み)ると心の気であり、

濁躁而經也此絡陽病也

濁(にご)ってさわがしくして経脈であり、これは絡陽の病であったからです。

脈法曰脈來數疾去難而不一者病主在心

脈法に曰く『脈が上(あ)がって数(一呼吸で五拍以上の脈)の疾(脈名)で下(さ)がって難になりて一(いつ)でないものは、病(やまい)の主(ぬし)は心に在(あ)る』と。

周身熱脈盛者為重陽重陽者逿心主

あまねく身体が熱(あつ)くなり、脈が盛(さか)んになるのは、重陽の為(ため)です。重陽とは、湯心の主(ぬし)です。

故煩懣食不下則絡脈有過

故(ゆえ)に思いわずらい食べても下(くだ)らなければ、絡脈に過(あやま)ちを有(ゆう)し、

絡脈有過則血上出血上出者死

絡脈に過(あやま)ちを有(ゆう)すれば、血が上(のぼ)って出て、血が上って出れば死にます。

此悲心所生也病得之憂也

このように悲しみの心が生ずるところであり、病(やまい)は憂(うれ)いから得るのであります。

齊郎中令循病眾醫皆以為蹙入中而刺之

斉の郎中令循が病(やまい)にかかり、多くの医者が皆(みな)中(なか)に入って詰(つ)まっていると思って、これを(鍼(はり)で)刺(さ)しました。

臣意診之曰湧疝也令人不得前後溲

わたしはこれを診(み)て曰く、『湧疝であります。人に大小便を得させなくさせます』と。

循曰不得前後溲三日矣

斉郎中令循曰く、『大小の便を三日しておりません』と。

臣意飲以火齊湯一飲得前[后]溲

わたしは飲ませるに火斉湯を以ってし、一度飲んで小便を得て、

再飲大溲三飲而疾愈病得之內

二度目に飲んで大便をし、三度目に飲んで、病(やまい)が癒(い)えました。病(やまい)は内(うち)から得たのです。

所以知循病者切其脈時右口氣急

斉郎中令循の病(やまい)を知ったわけとは、その脈をはかった時、右口の気が急になり、

脈無五藏氣右口脈大而數

脈には五臓の気は無く、右口の脈が大にして数(一呼吸で五拍以上の脈)だったからです。

數者中下熱而湧左為下右為上

数(一呼吸で五拍以上の脈)というのは、中の下の熱(ねつ)にして湧(わ)きあがり、左で下(さ)がり、右で上(あ)がり、

皆無五藏應故曰湧疝中熱故溺赤也

皆(みな)五臓の呼応(こおう)は無く、故(ゆえ)に湧疝といったのです。中位の熱(ねつ)で、故(ゆえ)に小便が赤くなるのであります。
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