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錯父聞之從潁川來謂錯曰

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錯父聞之從潁川來謂錯曰

漢御史大夫鼂錯の父がこれを聞いて、潁川より来て、漢御史大夫鼂錯に謂(い)った、曰く、

上初即位公為政用事侵削諸侯

「上(漢孝景帝劉啓)は即位したばかりで、公は政治を為して思うままにふるい、諸侯を削(けず)って侵(おか)し、

別疏人骨肉人口議多怨公者何也

人の身内(みうち)をばらばらに別(わか)れさせ、人々は口々に議(ぎ)して公を怨(うら)む者が多いのは、どうしなのか?」と。

鼂錯曰固也不如此天子不尊宗廟不安

漢御史大夫鼂錯曰く、「いうまでもないことであります。この如(ごと)くしなければ、天子は尊(とうと)ばれず、宗廟(そうびょう)は安(やす)んじないのです」と。

錯父曰劉氏安矣而鼂氏危矣吾去公歸矣

漢御史大夫鼂錯の父曰く、「劉氏は安(やす)んじるだろうが、鼂氏は危(あや)うくなるだろう。吾(われ)は公から去(さ)って帰ろう」と。

遂飲藥死曰吾不忍見禍及吾身

遂(つい)に薬を飲んで死に、曰く、「吾(われ)は禍(わざわい)が吾(わ)が身に及ぶのを見るに忍(しの)びない」と。

死十餘日吳楚七國果反以誅錯為名

死んで十余日して、呉楚七国が果(は)たして叛(そむ)き、漢御史大夫鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)と為した。

及竇嬰袁盎進說上令鼂錯衣朝衣斬東市

魏其侯竇嬰、袁盎が進み出て説(と)くに及(およ)んで、上(漢孝景帝劉啓)は漢御史大夫鼂錯に朝衣を着せて東市で斬らせた。

鼂錯已死謁者仆射公為校尉擊吳楚軍為將

漢御史大夫鼂錯がすでに死に、謁者僕射の公が校尉と為り、呉楚軍を撃(う)ちに将軍に為った。

還上書言軍事謁見上上問曰

還(かえ)って、軍事を言うことを上書して、上(漢孝景帝劉啓)に謁見(えっけん)した。上(漢孝景帝劉啓)は問(と)うた、曰く、

道軍所來聞鼂錯死吳楚罷不

「軍の来たところを語(かた)って、鼂錯の死を聞かせ、呉、楚は止(や)めたか?止(や)めなかったか?」と。

公曰吳王為反數十年矣發怒削地

漢将公曰く、「呉王(劉濞)は謀反(むほん)を思って数十年であり、地を削(けず)られて怒(いか)りを発し、

以誅錯為名其意非在錯也

鼂錯を誅(ちゅう)することを以って名目(めいもく)に為しましたが、その意(い)は、鼂錯に在(あ)ったのでは非(あら)ざるなり。

且臣恐天下之士噤口不敢復言也

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且臣恐天下之士噤口不敢復言也

まさにわたしは、天下の士が口をつぐみ、敢(あ)えて言(げん)を繰り返さないことを恐(おそ)れるのであります」と。

上曰何哉公曰

上(漢孝景帝劉啓)曰く、「どうしてかな?」と。公曰く、

夫鼂錯患諸侯彊大不可制

「それ、鼂錯は諸侯が強大になって制することができなくなることを患(うれ)え、

故請削地以尊京師萬世之利也

故(ゆえ)に地を削(けず)って、京師(天子のいる都)を尊ぶを以ってすれば、万世の利であると請(こ)うたのであります。

計畫始行卒受大戮內杜忠臣之口

計画が行われたばかりで、とうとう大戮を受け、内(うち)に、忠臣の口(くち)を閉(と)ざし、

外為諸侯報仇臣竊為陛下不取也

外(そと)に諸侯の為(ため)に仇(あだ)に報(むく)いました。わたしはひそかに陛下の為(ため)に得策としないのであります」と。

於是景帝默然良久曰

ここに於いて漢孝景帝劉啓は黙然(もくぜん)と黙りこむことしばらくして、曰く、

公言善吾亦恨之乃拜公為城陽中尉

「公の言葉はすぐれている。吾(われ)もまたこれを恨(うら)めしく思う」と。そこで、公に官をさずけて城陽中尉と為した。

公成固人也多奇計

公は成固人であり、奇計を多くした。

建元中上招賢良公卿言公

建元年間中、上(漢孝武帝劉徹)は賢良を招(まね)き、公卿は公を言った。

時公免起家為九卿

この時公は免ぜられており、立身出世して九卿に為った。

一年復謝病免歸

一年して、また病(やまい)を謝(しゃ)して免(めん)ぜられて帰った。

其子章以修黃老言顯於諸公

その子の章は黄老の言(げん)を修(おさ)めるを以って、諸公の間に於いて顕(あきら)かになった。

太史公曰袁盎雖不好學亦善傅會

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太史公曰袁盎雖不好學亦善傅會

太史公曰く、「袁盎は学問を好まなかったと雖(いえど)も、傅会(こじつけ)が上手く、

仁心為質引義慨

情け深い心を性格とし、義(ぎ)を引いてはなげきうれえていた。

遭孝文初立資適逢世

漢孝文帝劉恒が立ったばかりの時に遭(あ)って、資質が世(よ)に適合(てきごう)した。

時以變易及吳楚一說說雖行哉

時は変易(へんえき)するを以ってし、呉楚七国の乱に及んで、ひとたび説(と)き、説(せつ)は行われたと雖(いえど)も、

然復不遂好聲矜賢竟以名敗

然(しか)るに復(ふく)することは遂(と)げられなかった。名誉を好み、賢(かしこ)さを誇(ほこ)ったが、とうとう聞こえを以って敗(やぶ)れた。

鼂錯為家令時數言事不用

鼂錯が(漢太子劉啓の)家令にに為っていた時、たびたび事(こと)を言ったが用いられず、

後擅權多所變更諸侯發難

後(のち)に権力を思うままにして、変更(へんこう)した所は多かった。諸侯は難(なん)を発したが、

不急匡救欲報私讎反以亡軀

急いで正(ただ)し救(すく)わず、個人的な仇(あだ)に報(むく)いることを欲し、反(かえ)って身を亡(ほろ)ぼした。

語曰變古亂常不死則亡豈錯等謂邪

ことわざに曰く、古(いにしえ)を変えて平常(へいじょう)を乱(みだ)せば、死ぬか、逃げるかである、と。いったい鼂錯らのことを謂(い)うのであろうか」と。

今日で史記 袁盎鼂錯列伝は終わりです。明日からは史記 張釋之馮唐列伝に入ります。

史記 張釈之馮唐列伝 始め

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張廷尉釋之者堵陽人也

張廷尉釈之という者は堵陽の人であり、

字季有兄仲同居

字(あざな)は李(末弟の意)。兄の仲(真中の兄の意)が有り、住まいを同じくした。

以訾為騎郎事孝文帝十歲不得調無所知名

財産(訾=貲?)を以って騎郎と為り、漢孝文帝劉恒に仕(つか)えたが、十年しても移(うつ)ることを得られず、名を知られるところは無かった。

釋之曰久宦減仲之產不遂

漢騎郎張釈之曰く、「久しく宮仕えして張仲の財産を減らしてしまったのに、遂(と)げられない」と。

欲自免歸中郎將袁盎知其賢

自(みずか)ら免職して帰ろうと欲した。漢中郎將袁盎がその賢(かしこ)さを知り、

惜其去乃請徙釋之補謁者

その去(さ)るを惜(お)しんだ。そこで、漢騎郎張釈之を移(うつ)して謁者に任命することを請(こ)うた。

釋之既朝畢因前言便宜事

漢謁者張釈之はすでに朝し終わると、因(よ)りて前に進み出て、事(こと)を便宜(べんぎ)することを言上した。

文帝曰卑之毋甚高論令今可施行也

漢孝文帝劉恒曰く、「これを身近にせよ、甚(はなは)だ高遠(こうえん)な理論をすることなかれ、
今、施行(せこう)できるようにせしめるのである」と。

於是釋之言秦漢之事秦所以失而漢所以興者久之

ここに於いて漢謁者張釈之は秦、漢の間(あいだ)の事(こと)を言い、秦が失(うしな)われた理由、そして、漢が興(おこ)った理由を言うのは長々と述べた。

文帝稱善乃拜釋之為謁者仆射

漢孝文帝劉恒は善(よ)いと称(たた)え、そこで、漢謁者張釈之に官をさずけて謁者僕射と為した。

釋之從行登虎圈

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釋之從行登虎圈

漢謁者僕射張釈之は行幸(ぎょうこう)に従(したが)って、虎圈に登(のぼ)った。

上問上林尉諸禽獸簿十餘問尉左右視盡不能對

上(漢孝文帝劉恒)は上林尉に諸(もろもろ)の禽獣(鳥やけもの)の帳簿を問(と)うた。十あまりが問(と)われたが、上林尉、左右は視(み)て、ことごとく応(こた)えることができなかった。

虎圈嗇夫從旁代尉對上所問禽獸簿甚悉

虎圈の嗇夫(低い官)が傍(かたわ)らより上林尉に代(か)わって上(漢孝文帝劉恒)が問(と)うたところの禽獸簿を甚(はなは)だ悉(ことごと)く応(こた)え、

欲以觀其能口對響應無窮者

その口頭で応(こた)えるは響応(きょうおう)して言い窮(きわま)ること無くできるのをみせようと欲した。

文帝曰吏不當若是邪?尉無

漢孝文帝劉恒曰く、「役人はまさにこのごとくであるべきではないのか?尉は頼(たよ)りにならない」と。

乃詔釋之拜嗇夫為上林令

そこ漢謁者僕射張釈之に詔(みことのり)して、嗇夫に官をさずけて上林令と為そうとした。

釋之久之前曰陛下以絳侯周勃何如人也

漢謁者僕射張釈之はしばらくして前に進み出て曰く、「陛下は絳侯周勃はどのような人だと思いますか?」と。

上曰長者也又復問

上(漢孝文帝劉恒)曰く、「長者である」と。またふたたび問(と)うた、

東陽侯張相如何如人也上復曰

「東陽侯張相如はどのような人だと思いますか?」と。上(漢孝文帝劉恒)はふたたび曰く、

長者釋之曰夫絳侯東陽侯稱為長者

「長者だ」と。漢謁者僕射張釈之曰く、「それ、絳侯、東陽侯は長者として称(たた)えられましたが、

此兩人言事曾不能出口豈斅此嗇夫諜諜利口捷給哉

この二人は事(こと)を言うにすなわち弁(べん)が達者(たっしゃ)ではありません。どうしてこの嗇夫の諜諜(ちょうちょう)と弁(べん)が利(き)き次から次へと敏速にしゃべることを教えられましょうかな。

且秦以任刀筆之吏吏爭以亟疾苛察相高

まさに秦は刀筆(文字を書き写すだけの小役人)の役人に任(まか)せるを以って、役人は(書写の)すばやさ、細かくて明らかなさまをを以って相(あい)高めることを争(あらそ)いました。

然其敝徒文具耳無惻隱之實以故不聞其過

然(しか)るにその、むだに文具(ぶんぐ)をぼろぼろにするだけで、いたみあわれむことの真心(まごころ)がありませんでした。故(ゆえ)を以ってその過(あやま)ちを申し上げず、

陵遲而至於二世天下土崩

だんだんと衰(おとろ)えて秦二世皇帝嬴胡亥に至って、天下は土がくずれるようにもろく崩(くず)れたのです。

今陛下以嗇夫口辯而超遷之臣恐天下隨風靡靡

今、陛下は嗇夫の口弁を以ってしてこれを順序を飛び越えて上の官位に遷(うつ)せば、わたしは天下が風のまにまに靡靡(びび)として

爭為口辯而無其實

口弁を為して争(あらそ)うことになびき、その真心(まごころ)を無(な)くすことを恐(おそ)れます。

且下之化上疾於景響舉錯不可不審也

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且下之化上疾於景響舉錯不可不審也

まさに下(した)の上(うえ)に変化を与えるは、影(かげ)、響(ひび)きより早いのでありますから、挙(あ)げ置くはよく調べるべきです」と。

文帝曰善乃止不拜嗇夫

漢孝文帝劉恒曰く、「よろしい」と。そこで止(や)めて嗇夫に官をさずけなかった。

上就車召釋之參乘徐行問釋之秦之敝

上(漢孝文帝劉恒)が車に就(つ)くと、漢謁者僕射張釈之を召(め)して参乗(さんじょう)させ、徐行(じょこう)して、漢謁者僕射張釈之に秦の疲弊(ひへい)を問(と)うた。

具以質言至宮上拜釋之為公車令

具(つぶさ)に事実を以って言った。宮に至ると、上(漢孝文帝劉恒)は漢謁者僕射張釈之に官をさずけて公車令と為した。

頃之太子與梁王共車入朝不下司馬門

しばらくして、漢太子劉啓が梁王劉武と車を共(とも)にして入朝するとき、司馬門で車を下(お)りなかった。

於是釋之追止太子梁王無得入殿門

ここに於いて漢公車令張釈之は漢太子劉啓、梁王劉武を追いかけて止(と)め、殿門に入らせなかった。

遂劾不下公門不敬奏之薄太后聞之文帝免冠謝曰

遂(つい)に公門に下(お)りずは不敬(ふけい)であると追求してこれを上奏した。漢薄太后(漢孝文帝劉恒の母)がこれを聞いた。漢孝文帝劉恒は冠(かんむり)をはずして謝(しゃ)して曰く、

教兒子不謹薄太后乃使使承詔赦太子梁王然後得入

「息子たちに教えるのによく注意しませんでした」と。漢薄太后はそこで使者をつかわし詔(みことのり)を承(うけたまわ)らせて漢太子劉啓、梁王劉武を赦(ゆる)させたので、然(しか)る後(のち)に入ることを得た。

文帝由是奇釋之拜為中大夫

漢孝文帝劉恒はこれに由(よ)り漢公車令張釈之をすぐれているとして、官をさずけて漢中大夫と為した。

頃之至中郎將從行至霸陵居北臨廁

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頃之至中郎將從行至霸陵居北臨廁

しばらくして、(漢中大夫張釈之は)漢中郎将に至った。巡行に従(したが)い、霸陵に至り、北に(道の?)いりまじるさまを臨(のぞ)んで居(きょ)した。

是時慎夫人從上指示慎夫人新豐道曰

この時、慎夫人が従(したが)っており、上(漢孝文帝劉恒)は慎夫人に新豐道を指(さ)し示して曰く、

此走邯鄲道也使慎夫人鼓瑟

「これは(趙の)邯鄲道につながるのだ」と。慎夫人をして瑟(おおごと)を鳴(な)らせ、

上自倚瑟而歌意慘悽悲懷顧謂群臣曰

上(漢孝文帝劉恒)は瑟(おおごと)に調子をあわせて歌った。意(い)は(故郷を?)なんともいえないほどいたみ悲しみ懐(なつか)しみ、顧(かえり)みて群臣に謂(い)った、曰く、

嗟乎以北山石為槨用紵絮斮陳

「ああ、北山の石を以って石槨(せっかく)を作り、麻(あさ)のわたを用いて打ち並べ、

蕠漆其豈可動哉

その間(あいだ)に漆(うるし)を塗(ぬ)れば(蕠=塗?)、どうして動(うご)かすことができるだろうかな」と。

左右皆曰善釋之前進曰

左右の者は皆(みな)曰く、「善いと思います」と。漢中郎将張釈之は前に進み出て曰く、

使其中有可欲者雖錮南山猶有郄

「その中(なか)にして欲するべきものが有れば、南山にとじこめようと雖(いえど)も猶(なお)すきまを有(ゆう)し、

使其中無可欲者雖無石槨又何戚焉

その中(なか)をして欲するべきものが無ければ、石槨(せっかく)が無いと雖(いえど)も、またどうして患(うれ)えるでしょうか」と。

文帝稱善其後拜釋之為廷尉

漢孝文帝劉恒は善いと称(たた)えた。その後、漢中郎将張釈之に官をさずけて漢廷尉と為した。

頃之上行出中渭橋有一人從橋下走出乘輿馬驚

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頃之上行出中渭橋有一人從橋下走出乘輿馬驚

しばらくして、上(漢孝文帝劉恒)は行き中渭橋に出た。一人橋の下から走り出てきた者が有り、天子の乗る馬車の馬が驚(おどろ)いた。

於是使騎捕屬之廷尉釋之治問

ここに於いて騎兵をつかわして捕(と)らえさせ、これを漢廷尉張釈之に任(まか)せた。漢廷尉張釈之は問い調べ、

曰縣人來聞蹕匿橋下

曰く、「田舎人が来て、さきばらいを聞き、橋の下にかくれました。

久之以為行已過即出見乘輿車騎即走耳

しばらくして、すでに通り過ぎて行ったと思い、すなわち出たら、天子の乗られる馬車、兵車、騎兵を見て、すなわち逃げ走っただけです」と。

廷尉秦當一人犯蹕當罰金

漢廷尉張釈之は、たった一人でさきばらいを犯(おか)したのに当たり、罰金刑に当たる、と奏上した。

文帝怒曰此人親驚吾馬吾馬柔和

漢孝文帝劉恒は怒って曰く、「この人はみずから吾(わ)が馬を驚(おどろ)かせ、吾(わ)が馬が幸いにも柔和(にゅうわ)だったのでよかったのであるが、

令他馬固不敗傷我乎而廷尉乃當之罰金

他(ほか)の馬ならば、どうして(固=胡)我(われ)を落とし傷つけなかっただろうか。而(しか)して、廷尉はすなわちこれを罰金刑に当てるとは」と。

釋之曰法者天子所與天下公共也

漢廷尉張釈之曰く、「法(ほう)とは天子(てんし)が天下(てんか)とともに公共(こうきょう)にするところであります。

今法如此而更重之是法不信於民也

今、法(ほう)がこのごとくして、これを改(あらた)めて重(おも)くすれば、ここに法(ほう)は民(たみ)に於いて信用がなくなります。

且方其時上使立誅之則已

且(か)つ、まさにその時、上(漢孝文帝劉恒)が立ちどころにしてこれを誅(ちゅう)していればそれまででしたが、

今既下廷尉廷尉天下之平也

今、既(すで)に廷尉に下(くだ)しました。廷尉は天下の天秤(てんびん)であり、

一傾而天下用法皆為輕重民安所措其手足唯陛下察之

ひとたび(天秤が)傾(かたむ)いたまま天下が法(ほう)を用いるに皆(みな)目方(めかた)をはかれば、民(たみ)はどこにそのいちばんの頼(たよ)りを置いたらよいのでしょうか?ただ陛下にはこれをお察しください」と。

良久上曰廷尉當是也

しばらくして、上(漢孝文帝劉恒)曰く、「廷尉が罪に当てるは正しい」と。

其後有人盜高廟坐前玉環

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其後有人盜高廟坐前玉環捕得文帝怒下廷尉治

その後、人の高廟(漢高祖劉邦の廟)の座前の玉環を盗んだ者が有り、捕(と)らえてつかまえた。漢孝文帝劉恒は怒り、漢廷尉張釈之に下(くだ)して取調べさせた。

釋之案律盜宗廟服御物者為奏奏當棄市

漢廷尉張釈之は宗廟の服御物を盗んだ者を法令に調べ、奏上を為し、棄市罪に当たると奏上した。

上大怒曰人之無道乃盜先帝廟器

上(漢孝文帝劉恒)は大いに怒り曰く、「人の無道(むどう)にも、先帝廟の器を盗み、

吾屬廷尉者欲致之族

吾(われ)が廷尉にまかせたのは、これを族刑に致(いた)そうと欲したからで、

而君以法奏之非吾所以共承宗廟意也

しかしながら、君は法を以ってこれを奏上し、吾(われ)が宗廟を恭(うやうや)しく承(うけたまわ)るを以ってするところの意(い)では非(あら)ざるなり。

釋之免冠頓首謝曰法如是足也

漢廷尉張釈之は冠(かんむり)をはずして、頭を地につけて謝(しゃ)して曰く、「法はこの如(ごと)くで足(た)るのであります。

且罪等然以逆順為差

まさに罪の等級は、然(しか)るに、反逆の順(じゅん)を以って差(さ)をつけます。

今盜宗廟器而族之有如萬分之一假令愚民取長陵一抔土

今、宗廟の器が盗まれてこれを族刑にすることが万が一にも有れば、仮(かり)に愚民が長陵の一杯の土を取れば、

陛下何以加其法乎

陛下は何ものを以ってその法に加(くわ)えるのですか?」と。

久之文帝與太后言之乃許廷尉當

しばらくして、漢孝文帝劉恒は漢薄太后とともにこれを言い、そこで、漢廷尉張釈之の判断を許可した。

是時中尉條侯周亞夫與梁相山都侯王恬開見釋之持議平

この時、漢中尉條侯周亞夫と梁相山都侯王恬開は漢廷尉張釈之の意見を持つは公平(こうへい)であると見て、

乃結為親友張廷尉由此天下稱之

そこで、親友として契(ちぎ)った。張廷尉(漢廷尉張釈之)はこれに由(よ)り天下がこれを称(たた)えた。

後文帝崩景帝立釋之恐稱病

漢孝文帝劉恒が崩じた後、漢孝景帝劉啓が立った。漢廷尉張釈之は恐れ、病(やまい)と称した。

欲免去懼大誅至欲見謝則未知何如

免職して去(さ)ることを欲し、大誅が至るのを懼(おそ)れた。見(まみ)えて謝(しゃ)することを欲すれば、どのようにしたらよいか未(ま)だわからなかった。

用王生計卒見謝景帝不過也

王生の計画を用(もち)いて、とうとう見(まみ)え謝(しゃ)すと、漢孝景帝はとがめなかったのである。

王生者善為黃老言處士也

王生という者は黄老の言(げん)を為すことが上手く、民間の人物である。

嘗召居廷中三公九卿盡會立

嘗(かつ)て召(め)されて廷中に居(い)たとき、三公九卿がことごとく同席(どうせき)しており、

王生老人曰吾韤解顧謂張廷尉

王生老人曰く、「吾(われ)のたびが解(ほど)けた」と。張廷尉(漢廷尉張釈之)を顧(かえり)みて謂(い)った、

為我結韤釋之跪而結之

「我(われ)のためにたびを結(むす)んでくだされ」と。漢廷尉張釈之は跪(ひざまず)いてこれを結(むす)んだ。

既已人或謂王生曰獨柰何廷辱張廷尉使跪結韤

すでに終わると、人の或(あ)るものが王生に謂(い)った、曰く、「よりによってどうして張廷尉を廷中で辱(はずかし)め、跪(ひざまず)かせてたびを結ばせたのですか?」と。

王生曰吾老且賤自度終無益於張廷尉

王生曰く、「吾(われ)は老(お)いており、且(か)つ身分が低く、自(みずか)らをはかるに終(しま)いまで張廷尉に益(えき)することは無いだろうと。

張廷尉方今天下名臣吾故聊辱廷尉

張廷尉はまさに今、天下の名臣で、吾(われ)は故(ゆえ)に廷尉をいささか辱(はずかし)め、

使跪結韤欲以重之

跪(ひざまず)かせてたびを結(むす)ばせて、これを重(おも)んじさせようと欲したのだ」と。

諸公聞之賢王生而重張廷尉

諸公はこれを聞き、王生を賢(かしこ)いとし、そして張廷尉(漢廷尉張釈之)を重(おも)んじた。

張廷尉事景帝歲餘

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張廷尉事景帝歲餘為淮南王相猶尚以前過也

張廷尉(漢廷尉張釈之)が漢孝景帝劉啓に仕(つか)えて一年余りして、淮南王劉安の宰相に為ったのは、やはりなお前の過(あやま)ちを以ってしたのである。

久之釋之卒其子曰張摯

しばらくして淮南相張釈之が亡くなった。その子は張摯といい、

字長公官至大夫免

字(あざな)は長公、官は大夫に至ったが、免(めん)ぜられた。

以不能取容當世故終身不仕

当世に一時しのぎの容認を取ることができずを以ってして、故(ゆえ)に身を終えるまで仕(つか)えなかった。

馮唐者其大父趙人父徙代

馮唐という者はその祖父は趙の人で、父は代に移(うつ)った。

漢興徙安陵唐以孝著為中郎署長事文帝

漢が興(おこ)ると安陵に移(うつ)った。馮唐は孝行を以って明らかになり、漢中郎署長と為って、漢孝文帝劉恒に仕(つか)えた。

文帝輦過問唐曰父老何自為郎家安在

漢孝文帝劉恒のてぐるまが通り過ぎ、漢中郎署長馮唐に問(と)うた、曰く、「父老(老人の敬称)はどうして自ら郎に為ったのか?家はどこに在(あ)るのか?」と。

唐具以實對文帝曰

漢中郎署長馮唐は具(つぶさ)に実(まこと)を以って応(こた)えた。漢孝文帝劉恒曰く、

吾居代時吾尚食監高袪數為我言趙將李齊之賢戰於鉅鹿下

「吾(われ)が代に居(い)た時、吾(わ)が尚食監の高袪がたびたび我(われ)の為(ため)に趙将李齊の、鉅鹿の下(もと)に於いての戦いの賢(けん)を言った。

今吾每飯意未嘗不在鉅鹿也父知之乎

今、吾(われ)は食事をするごとに、意(い)は、未(いま)だ嘗(かつ)て鉅鹿になかったことはない。あなたはこれ(趙将李齊)を知っていますか?」と。

唐對曰尚不如廉頗李牧之為將也

漢中郎署長馮唐曰く、「なお廉頗、李牧の将軍と為るには及(およ)びません」と。

上曰何以唐曰臣大父在趙時

上(漢孝文帝劉恒)曰く、「何ものを以ってか?」と。漢中郎署長馮唐曰く、「わたしの祖父は趙に在(あ)った時、

為官(卒)[率]將善李牧

官と為って兵を率(ひき)い、趙将李牧と仲善くしていました。

臣父故為代相善趙將李齊知其為人也

わたしの父は以前、代相であった時、趙将李齊と仲善くしており、その人と為(な)りを知っているのです」と。

上既聞廉頗李牧為人良說而搏髀曰

上(漢孝文帝劉恒)はすでに廉頗、李牧の人と為(な)りを聞きおわると、まことに悦(よろこ)び、しこうして、ふとももを手てたたいて曰く、

嗟乎吾獨不得廉頗李牧時為吾將吾豈憂匈奴哉

「ああ、吾(われ)はよりによって廉頗、李牧の時を得られない。吾(われ)の為(ため)に兵を率いれば、吾(われ)はどうして匈奴(きょうど)に憂(うれ)えようかな」と。

唐曰主臣陛下雖得廉頗李牧弗能用也

漢中郎署長馮唐曰く、「臣下をつかさどるは、陛下が廉頗、李牧を得たと雖(いえど)も、用いることはできないでしょう」と。

上怒起入禁中良久召唐讓曰

上(漢孝文帝劉恒)は怒り、立ち上がって禁中に入ってしまった。しばらくして、漢中郎署長馮唐を召(め)して曰く、

公柰何眾辱我獨無處乎

「公はどうして吾(われ)を衆の面前で辱(はずかし)め、よりによって人払いした処でしなかったのか?」と。

唐謝曰鄙人不知忌諱

漢中郎署長馮唐は謝(しゃ)して曰く、「田舎者で忌(い)み嫌(きら)うことを知らなかったのです」と。

當是之時匈奴新大入朝那殺北地都尉卬

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當是之時匈奴新大入朝那殺北地都尉卬

ちょうどこの時、匈奴が新(あら)たに朝那に大挙(たいきょ)して入(はい)り、北地都尉卬を殺した。

上以胡寇為意乃卒復問唐曰

上(漢孝文帝劉恒)は胡寇(匈奴の外敵)を以って思いを為(な)し、そこでとうとうまた漢中郎署長馮唐に問うた、曰く、

公何以知吾不能用廉頗李牧也

「公は何ものを以って吾(われ)が廉頗、李牧を用いることができないとさとったのか?」と。

唐對曰臣聞上古王者之遣將也跪而推轂

漢中郎署長馮唐は応(こた)えて曰く、「わたしは聞きます、上古(じょうこ)の王者の将軍を遣(つか)わすは、跪(ひざまず)いて、轂(こしき)を推(お)し、

曰閫以內者寡人制之

曰く、都の城壁以内は、わたしがこれを制(せい)し、

閫以外者將軍制之軍功爵賞皆決於外歸而奏之

都の城壁以外は将軍がこれを制する、と。軍功、爵賞は皆(みな)外に於いて決められ、帰ってからこれを奏上しました。

此非虛言也臣大父言李牧為趙將居邊

これは虚言(きょげん)では非(あら)ざるなり。わたしの祖父は言いました、李牧は趙将と為って辺境に居(きょ)し、

軍市之租皆自用饗士賞賜決於外不從中擾也

軍市の租税(そぜい)は皆(みな)自(みずか)ら士をもてなすことに用い、賞賜(しょうし)は外に於いて決め、中(うち)から干渉(かんしょう)しなかったのであります。

委任而責成功故李牧乃得盡其智能

任を委(ゆだ)ね、成功を求め、故(ゆえ)に趙将李牧はすなわち、ことごとくその智能を得て、

遣選車千三百乘彀騎萬三千百金之士十萬

選(えら)んだ車千三百台、弓をひきしぼった騎兵一万三千、百金の士十万を遣(つか)わし、

是以北逐單于破東胡滅澹林

ここに北に単于(匈奴王)を追い払うを以ってし、東胡を破(やぶ)り、澹林を滅(ほろ)ぼし、

西抑彊秦南支韓魏

西に強秦を抑(おさ)えて、南に韓、魏を支(ささ)えこばんだのです。

當是之時趙幾霸其後會趙王遷立其母倡也

ちょうどこの時、趙はほとんど諸侯の旗頭(はたがしら)になるところでした。その後、すなわち趙王遷(趙幽繆王趙遷)が立ち、その母は倡伎(しょうぎ)でありました。

王遷立乃用郭開讒卒誅李牧令顏聚代之

王遷(趙幽繆王趙遷)が立つと、そこで(寵臣の)郭開の讒言(ざんげん)を用いて、とうとう趙大将武安君李牧を誅(ちゅう)し、趙將顏聚に令(れい)してこれに代(か)えさせました。

是以兵破士北為秦所禽滅

ここに戦いが破(やぶ)れるを以って、士は逃げ、秦の擒(とりこ)にして滅ぼされるところと為りました。

今臣竊聞魏尚為雲中守其軍市租盡以饗士卒

今、わたしはひそかに聞きました、魏尚が雲中守と為って、その軍市の租税はことごとく士卒をもてなすを以ってし、

[出]私養錢五日一椎牛饗賓客軍吏舍人

自分のまかない銭を出して、五日に一度、牛(うし)を椎(つち)で打ち、賓客、軍吏、舎人をもてなしたと。

是以匈奴遠避不近雲中之塞

ここに、匈奴を以って遠くにしりぞかせ、雲中の塞(とりで)に近づけませんでした。

虜曾一入尚率車騎擊之所殺其眾

敵(てき)がすなわち一度だけ入りましたが、雲中守魏尚は車騎を率(ひき)いてその衆を殺したところを撃(う)ちました。

夫士卒盡家人子起田中從軍安知尺籍伍符

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夫士卒盡家人子起田中從軍安知尺籍伍符

それ、士卒はことごとくみな一般庶民の子で田の中に立ち上がって従軍(じゅうぐん)し、どうして尺籍伍符を知るでしょうか。

終日力戰斬首捕虜上功莫府

終日(しゅうじつ)力戦(りきせん)し、首を斬り虜(とりこ)を捕(と)らえ、幕府に手柄(てがら)を申し上げ、

一言不相應文吏以法繩之

たった一つでも不相応(ふそうおう)を言えば、文吏が法(ほう)を以ってこれをお縄(なわ)にかけます。

其賞不行而吏奉法必用

その賞(しょう)するは行われずして、役人は法(ほう)を奉(たてまつ)って必ず用います。

臣愚以為陛下法太明賞太輕罰太重

わたしは愚(おろ)かですが、陛下が法(ほう)にのっとるは大いにはっきりと明らかで、賞するは大いに軽(かる)く、罰するは大いに重(おも)いと思います。

且雲中守魏尚坐上功首虜差六級

まさに、雲中守魏尚が首、虜(とりこ)を上功するに六級誤(あやま)って申し上げたことに罪を問われ、

陛下下之吏削其爵罰作之

陛下はこれを役人に下(くだ)し、その爵位を削(けず)り、これを罰作刑にしました。

由此言之陛下雖得廉頗李牧弗能用也

これに由(よ)り、これを言ったのです、陛下が廉頗、李牧を得たと雖(いえど)も、用いることはできないでしょう、と。

臣誠愚觸忌諱死罪死罪

わたしは誠(まこと)に愚(おろ)かもので、忌(い)み嫌(きら)うことに触(ふ)れました、死罪にしてください、死罪にしてください」と。

文帝說是日令馮唐持節赦魏尚

漢孝文帝劉恒は悦(よろこ)び、この日、漢中郎署長馮唐に令(れい)して節(使者の旗)を持たせて魏尚を赦(ゆる)し、

復以為雲中守而拜唐為車騎都尉

雲中守と為すを以って復位させた。しこうして漢中郎署長馮唐に官をさずけて漢車騎都尉と為し、

主中尉及郡國車士

中尉及(およ)び、郡、国の車士をつかさどらせた。

七年景帝立以唐為楚相免

七年して、漢孝景帝劉啓が立ち、漢車騎都尉馮唐を以って楚相と為り、免(めん)ぜられた。

武帝立求賢良舉馮唐

漢孝武帝劉徹が立ち、賢良を求(もと)め、馮唐を推挙(すいきょ)した。

唐時年九十餘不能復為官乃以唐子馮遂為郎

馮唐は年(とし)九十余歳で、ふたたび官に為ることができず、そこで、馮唐の子の馮遂を以って郎と為した。

遂字王孫亦奇士與余善

漢郎馮遂の字(あざな)は王孫で、また奇才の士で、余(よ わたし)と仲が善かった。

太史公曰張季之言長者守法不阿意

太史公曰く、「張季(張釈之)の言(げん)が長者(ちょうじゃ)を言ったこと、法(ほう)を守って意(い)に阿(おもね)らなかったこと、

馮公之論將率有味哉有味哉

馮公(馮唐)の将軍の率(ひき)いるを論(ろん)じたこと、味(あじ)あるかな、味(あじ)あるかな。

語曰不知其人視其友

ことわざに曰く、その人を知らなければ、その友(とも)を視(み)よ、と。

二君之所稱誦可著廊廟

二君のほめたたえたところは、廊廟(ろうびょう 政治を行う所)に著(あらわ)すべきである。

書曰不偏不黨王道蕩蕩不黨不偏王道便便

書経曰く、偏(かたよ)らず、おもねりあわず、王道(おうどう)は蕩蕩(とうとう)として広く遠く、
おもねりあわず、偏(かたよ)らず、王道(おうどう)は便々(べんべん)とよく治(おさ)まる、と。

張季馮公近之矣

張季(張釈之)、馮公(馮唐)がこれに近い」と。

今日で史記 張釈之馮唐列伝は終わりです。明日からは史記 萬石張叔列伝に入ります。

史記 万石張叔列伝 始め

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萬石君名奮其父趙人也姓石氏

万石君は名は奮、その父は趙の人で、姓名は石氏。

趙亡徙居溫高祖東擊項籍

趙が亡(ほろ)び、居(きょ)を温に移(うつ)した。漢高祖劉邦が項籍(項羽)を撃(う)ちに東に進み、

過河內時奮年十五為小吏侍高祖

河内に立ち寄った。ときに石奮は年十五歳、小吏と為って、漢高祖劉邦に侍(はべ)った。

高祖與語愛其恭敬問曰若何有

漢高祖劉邦はともに語(かた)り、その恭敬さを愛(め)で問うた、曰く、「なんじは何が有るのか?」と。

對曰奮獨有母不幸失明家貧有姊能鼓琴

応(こた)えて曰く、「わたしにはただ母が有り、不幸にも失明(しつめい)しました。家は貧(まず)しく、姉が有り、琴(こと)をかなでることができます」と。

高祖曰若能從我乎

漢高祖劉邦曰く、「なんじは我(われ)に従うことができるか?」と。

曰願盡力於是高祖召其姊為美人

曰く、「願わくは力を尽くしたいと思います」と。ここに於いて漢高祖劉邦はその姉を召(め)しよせて美人(官名)と為し、

以奮為中涓受書謁徙其家長安中戚裏以姊為美人故也

石奮を以って中涓と為し、上書、謁見を受けさせた。その家を長安の中の戚里に移(うつ)したのは、
姉を以って美人(官名)と為した故(ゆえ)である。

其官至孝文時積功勞至大中大夫

その官は漢孝文帝劉恒の時に至って、功労(こうろう)を積(つ)んで漢大中大夫に至った。

無文學恭謹無與比

文学が無くでも恭謹さはともに並ぶものが無かった。

文帝時東陽侯張相如為太子太傅免

漢孝文帝劉恒の時、東陽侯張相如が漢太子太傅と為ったが、免ぜられた。

選可為傅者皆推奮奮為太子太傅

傅(教育係)になるべき者を選び、皆(みな)漢大中大夫石奮を推挙(すいきょ)し、漢大中大夫石奮は漢太子太傅と為った。

及孝景即位以為九卿迫近憚之徙奮為諸侯相

漢孝景帝劉啓が即位に及(およ)んで、九卿と為すを以ってしたが、近くに迫(せま)り、これを憚(はばか)り、漢九卿石奮を移(うつ)して諸侯の宰相に為した。

奮長子建次子甲次子乙次子慶

石奮の長男は建、次の子は甲、次の子は乙、次の子は慶、

皆以馴行孝謹官皆至二千石

皆(みな)馴行(すなおな行い)孝謹(父母を大事にしてつつしむ)を以ってし、官は皆(みな)二千石に至った。

於是景帝曰石君及四子皆二千石

ここに於いて漢孝景帝劉啓曰く、「石君及び四人の子は皆(みな)二千石で、

人臣尊寵乃集其門號奮為萬石君

人臣(じんしん)の尊寵がすなわちその家門に集まっている」と。諸侯の宰相の石奮を号(ごう)して万石君と為した。

孝景帝季年萬石君以上大夫祿歸老于家以歲時為朝臣

漢孝景帝の晩年、万石君(石奮)は上大夫の俸禄(ほうろく)を以って家に帰り老いを過ごした。歳時(さいじ)を以って朝臣と為った。

過宮門闕萬石君必下車趨見路馬必式焉

宮の物見台の門を通る時、万石君(石奮)は必ず車を下(お)りて小走りし、路馬(天子や諸侯の馬車につける馬)を見ると、必ずしきみに手をかけて礼をした。

子孫為小吏來歸謁萬石君必朝服見之不名

子、孫(まご)が小吏と為って、帰って来て謁見するとき、万石君(石奮)は必ず朝服を着てこれに見(まみ)え、名を呼ばなかった。

子孫有過失不譙讓為便坐對案不食

子、孫に過失(かしつ)が有ると、しかりせめずに、休んで座(すわ)り、机(つくえ)に向って食事をとらなかった。

然後諸子相責因長老肉袒固謝罪改之乃許

然(しか)る後、諸(もろもろ)の子が相(あい)責(せ)めて、因(よ)りて長老(長男)が肌ぬぎになって、固(かた)く謝罪し、これを改(あらた)め、そこで許(ゆる)した。

子孫勝冠者在側雖燕居必冠申申如也

子、孫の冠(かんむり)をつけた者が側(そば)にいれば、ゆったりと家でくつろいでいる時と雖(いえど)も、必ず冠をかぶり、申申(しんしん)とゆったりとしていた。

僮仆訢訢如也唯謹

召使は訢訢(ぎんぎん)とやわらぎたのしみ、ただただ謹(つつ)しみ深かった。

上時賜食於家必稽首俯伏而食之如在上前

上(漢孝景帝劉啓)がときどき食事を家に賜(たま)わったときには、必ず頭を地につけて礼をしてうつむいたままこれを食べ、上(漢孝景帝劉啓)が前にいるかの如(ごと)くであった。

其執喪哀戚甚悼子孫遵教亦如之

その喪(も)を執(と)るは、哀戚(あいせき)することはなはだ悼(いた)み悲しんだ。子、孫は教えを守り従い、またこの如(ごと)くした。

萬石君家以孝謹聞乎郡國

万石君(石奮)の家は孝謹を以って郡、国に聞こえるや、

雖齊魯諸儒質行皆自以為不及也

斉、魯の諸(もろもろ)の儒者の質正(しつせい)な行いと雖(いえど)も、皆(みな)自ら及ばないと思ったのである。

建元二年郎中令王臧以文學獲罪

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建元二年郎中令王臧以文學獲罪

建元二年、漢郎中令王臧が文学を以って罪を獲(え)た。

皇太后以為儒者文多質少今萬石君家不言而躬行

皇太后(太皇太后竇氏)は儒者はうわべをかざることが多く、質正さが少なく、今、万石君(石奮)家は
言わずして自分みずから行うと思い、

乃以長子建為郎中令少子慶為內史

そこで、長男の石建を以って漢郎中令と為し、末子の石慶を漢内史と為した。

建老白首萬石君尚無恙建為郎中令

漢郎中令石建は老(お)いて白髪頭になったが、万石君(石奮)は尚(なお)つつがなかった。石建が漢郎中令に為ると、

每五日洗沐歸謁親入子舍竊問侍者

五日ごとに足を洗(あら)い、髪(かみ)を洗(あら)って、帰り親(おや)に謁見し、子(こ)の家に入るとき、ひそかに侍者に問(と)い、

取親中帬廁牏身自浣滌復與侍者

親(おや)のもすそ、はだじゅばんを取(と)らせ、身(み)自(みずか)ら洗(あら)いすすぎ、また侍者に与(あた)え、

不敢令萬石君知以為常建為郎中令

敢(あ)えて万石君(石奮)に知られないようにして、常(つね)に為すを以ってした。石建が漢郎中令と為って、

事有可言屏人恣言極切

事(こと)に言うべきが有れば、人ばらいして思うままに言い、極(きわ)めて切実(せつじつ)で、

至廷見如不能言者是以上乃親尊禮之

朝廷に至って見(まみ)えるときは、言うことができない者の如(ごと)くであった。ここに上(漢孝武帝劉徹)を以ってすなわちみずから尊(とうと)びこれに礼(れい)した。

萬石君徙居陵裏內史慶醉歸入外門不下車

万石君(石奮)は居(きょ)を陵里に移(うつ)した。漢内史石慶が酔(よ)って帰り、外門に入ったとき車から下(お)りなかった。

萬石君聞之不食慶恐肉袒請罪不許

万石君(石奮)はこれを聞いて、食事をとらなかった。漢内史石慶は恐(おそ)れ、肌脱ぎして罪を請(こ)うたが許(ゆる)されなかった。

舉宗及兄建肉袒萬石君讓曰

一族及び兄の漢郎中令石建を挙(あ)げて肌脱ぎすると、万石君(石奮)はしかり責めて曰く、

內史貴人入閭里里中長老皆走匿

「内史は貴人で、村里に入れば、里中の長老(ちょうろう)が皆(みな)走って伏(ふ)せ隠(かく)れるというのに、

而內史坐車中自如固當

しこうして内史が車の中に座(すわ)ったまま平気でいるのは、どうして(固=胡?)適(かな)うだろうか」と。

乃謝罷慶慶及諸子弟入里門趨至家

そこで、漢内史石慶を許(ゆる)し退(しりぞ)かせた。漢内史石慶及び諸(もろもろ)の子弟(してい)は、里の門に入るときには、小走りして家に至った。

萬石君以元朔五年中卒

万石君(石奮)は元朔五年中を以って亡くなった。

長子郎中令建哭泣哀思扶杖乃能行

長男の漢郎中令石建は号泣(ごうきゅう)して哀(かな)しみ思い、杖(つえ)に寄りかかってすなわち歩くことができた。

歲餘建亦死諸子孫咸孝

一年余りして、漢郎中令石建もまた死んだ。諸(もろもろ)の子、孫はあまねく孝行(こうこう)であったが、

然建最甚甚於萬石君

然(しか)るに漢郎中令石建が最(もっと)も甚(はなは)だ孝行(こうこう)で、万石君(石奮)に於いて非常に孝行(こうこう)であった。

建為郎中令書奏事事下建讀之曰

石建が漢郎中令に為ると、奏上する事(こと)を書いて、事(こと)が下(くだ)され、漢郎中令石建がこれを読み、曰く、

誤書馬者與尾當五

「文字が誤(あやま)っている。馬、とは尾(お)とともに五つ有るべきで、

今乃四不足一上譴死矣

今、すなわち四で、一つ不足(ふそく)している。上が死をとがめるだろう」と。

甚惶恐其為謹慎雖他皆如是

甚(はなは)だ恐れかしこまった。その謹慎(きんしん)と為すは、他(ほか)のことと雖(いえど)も皆(みな)この如(ごと)くであった。

萬石君少子慶為太仆御出

万石君(石奮)の末子の石慶は漢太僕と為って、御(ぎょ)して出るとき、

上問車中幾馬慶以策數馬畢舉手曰

上(漢孝武帝劉徹)が車中で幾(いく)ばくの馬かを問うたとき、漢太僕石慶は馬のむちを以って馬を数え、終わると、手を挙(あ)げて曰く、

六馬慶於諸子中最為簡易矣然猶如此

「六頭の馬です」と。漢太僕石慶は諸(もろもろ)の子の中に於いて最も簡易(かんい)を為したが、然(しか)るに猶(なお)この如(ごと)くであった。

為齊相舉齊國皆慕其家行

(石慶は)斉相と為って、斉国を挙(あ)げて皆(みな)その家の行いを慕(した)い、

不言而齊國大治為立石相祠

言わなくても斉国は大いに治(おさ)まり、石相(斉相石慶)の祠(ほこら)をつくり立てた。

元狩元年上立太子選群臣可為傅者

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元狩元年上立太子選群臣可為傅者

元狩元年、上(漢孝武帝劉徹)は太子を立て、群臣の傅(教育係)と為るべき者を選(えら)び、

慶自沛守為太子太傅七歲遷為御史大夫

石慶は沛守より漢太子太傅に為った。七年して遷(うつ)して漢御史大夫と為した。

元鼎五年秋丞相有罪罷

元鼎五年秋、漢丞相が罪を有(ゆう)し、罷免(ひめん)された。

制詔御史萬石君先帝尊之子孫孝

漢御史大夫石慶に詔(みことのり)を制(せい)し、「万石君は、先帝はこれを尊(とうと)び、子孫は孝行で、

其以御史大夫慶為丞相封為牧丘侯

その漢御史大夫石慶を以って丞相と為し、封じて牧丘侯と為す」と。

是時漢方南誅兩越東擊朝鮮北逐匈奴

この時、漢はまさに南に両越(南越、東越)を誅(ちゅう)し、東に朝鮮を撃(う)ち、北に匈奴(きょうど)を追い払い、

西伐大宛中國多事天子巡狩海內

西に大宛を討伐(とうばつ)し、中国は事が多かった。天子(漢孝武帝劉徹)は海内を巡行(じゅんこう)し、

修上古神祠封禪興禮樂公家用少

上古(じょうこ)の神祠(しんし)を修(おさ)め、封禅(ほうぜん)を行い、礼楽を盛んにした。公家は少ししか用いられず、

桑弘羊等致利王溫舒之屬峻法

桑弘羊らが利(り)を招(まね)き、王溫舒の仲間が法をきびしくし、

兒等推文學至九卿更進用事

児らが文学を推(お)して九卿に至り、改(あらた)めて進めるに政治をもっぱらにし、

事不關決於丞相丞相醇謹而已

事(こと)は漢丞相牧丘侯石慶に於いて決するに関(かん)せず、漢丞相牧丘侯石慶はもっぱら謹(つつし)んでそれのみであった。

在位九歲無能有所匡言

位(くらい)に在(あ)ること九年、匡(ただ)すところの言(げん)を有(ゆう)することができなかった。

嘗欲請治上近臣所忠九卿咸宣罪

嘗(かつ)て上(漢孝武帝劉徹)の忠実(ちゅうじつ)なところの近臣を治(おさ)めることを請(こ)おうと欲したが、九卿があまねくあやまちを述(の)べて、

不能服反受其過贖罪

服(ふく)させることができず、反(かえ)ってその過(あやま)ちを受けて、罪を購(あがな)ったことがあった。

元封四年中關東流民二百萬口

元封四年中、関東の流民は二百万人、

無名數者四十萬公卿議欲請徙流民於邊以適之

戸籍(こせき)の無い者は四十万人、公卿は議(ぎ)して流民を辺境(へんきょう)に移(うつ)して、これをほどよくしようとすることを請(こ)うを欲した。

上以為丞相老謹不能與其議

上(漢孝武帝劉徹)は漢丞相牧丘侯石慶は老(お)いて謹(つつし)み、その議(ぎ)にくみすることはできないと思い、

乃賜丞相告歸而案御史大夫以下議為請者

そこで、漢丞相牧丘侯石慶に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)を賜(たま)わり、しこうして漢御史大夫以下が請(こ)うを為すものを議(ぎ)するを案(あん)じた。

丞相慚不任職乃上書曰

漢丞相牧丘侯石慶は職を任(まか)されないのを恥(は)じて、そこで上書して曰く、

慶幸得待罪丞相罷駑無以輔治

「わたしは幸いにも丞相に登用を得ましたが、役立たずで政治を輔佐(ほさ)するを以ってすることが無く、

城郭倉庫空虛民多流亡罪當伏斧質上不忍致法

城郭、倉庫は空虚(くうきょ)で、民は多くが流亡し、罪は処刑台に伏(ふ)すに当たりますが、上は法に致(いた)すことを忍(しの)ばれず。

願歸丞相侯印乞骸骨歸避賢者路

願わくは、丞相、侯の印を帰(かえ)し、退職して帰り、賢者の路(みち)をしりぞくことを乞(こ)い願います」と。

天子曰倉廩既空民貧流亡

天子(漢孝武帝劉徹)曰く、「倉庫はすでに空(から)で、民は貧しく流亡し、

而君欲請徙之搖蕩不安動危之

しこうして、君はこれを移(うつ)すを請(こ)うを欲し、動かすことはたやすくなく、事をするは危(あや)ういが、

而辭位君欲安歸難乎

而(しか)して地位を辞(じ)して、君はどうして患(うれ)いに帰(き)そうと欲するのか?」と。

以書讓慶慶甚慚遂復視事

書状を以って漢丞相牧丘侯石慶をしかり責めた。漢丞相牧丘侯石慶は甚(はなは)だ恥(は)じて、遂(つい)にまた事(こと 政治)を視(み)た。

慶文深審謹然無他大略為百姓言

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慶文深審謹然無他大略為百姓言

漢丞相牧丘侯石慶は礼儀は深く、審議(しんぎ)は謹(つつし)しんだが、然(しか)るに二心なく、大略(あらまし)して、百姓の為(ため)に言上した。

後三歲餘太初二年中丞相慶卒謚為恬侯

三年余り後、太初二年中、漢丞相牧丘侯石慶が亡くなり、おくり名は牧丘恬侯と為した。

慶中子慶愛用之上以為嗣代侯

牧丘恬侯石慶の中(なか)の子の石徳は、石慶が愛(まな)でこれを用い、上(漢孝武帝劉徹)は石徳を以って後継ぎに為し、牧丘侯に代(か)えた。

後為太常坐法當死贖免為庶人

後に漢太常と為ったが、法(ほう)に罪を問われて死刑に当たり、購(あがな)い免ぜられて庶人に為った。

慶方為丞相諸子孫為吏更至二千石者十三人

牧丘恬侯石慶はまさに漢丞相と為って、諸(もろもろ)の子孫は役人に為って更(さら)に二千石に至る者は十三人になった。

及慶死後稍以罪去孝謹益衰矣

牧丘恬侯石慶の死後に及んで、だんだんと罪を以って去(さ)り、孝謹はますます衰(おとろ)えていった。

建陵侯衛綰者代大陵人也

建陵侯衛綰という者は代の大陵の人である。

綰以戲車為郎事文帝功次遷為中郎將醇謹無他

衛綰は戯車を以って郎(官名)と為り、漢孝文帝劉恒に仕(つか)え、功の順次で遷(うつ)されて中郎将と為ったが、もっぱら謹(つつし)んで二心は無かった。

孝景為太子時召上左右飲而綰稱病不行

漢孝景帝劉啓が漢太子と為っていた時、上(漢孝文帝劉恒)が左右を召(め)して飲んだ。しこうして、漢中郎将衛綰は病(やまい)を称して行かなかった。

文帝且崩時屬孝景曰

漢孝文帝劉恒がまさに崩(ほう)ずる時、漢孝景帝劉啓にたのんで曰く、

綰長者善遇之

「衛綰は長者(ちょうじゃ)であるから、これを善遇(ぜんぐう)せよ」と。

及文帝崩景帝立歲餘不噍呵綰綰日以謹力

漢孝文帝劉恒が崩(ほう)ずるに及んで、漢孝景帝劉啓が立ち、一年余り漢中郎将衛綰をきびしくしかることなく、漢中郎将衛綰は毎日、謹(つつし)みを以って務(つと)めた。

景帝幸上林詔中郎將參乘還而問曰

漢孝景帝劉啓が上林に行き、漢中郎将衛綰に詔(みことのり)して参乗(さんじょう)させ、還(かえ)ってから問うた、曰く、

君知所以得參乘乎綰曰

「君は参乗(さんじょう)を得(え)た理由を知っているか?」と。漢中郎将衛綰曰く、

臣從車士幸得以功次遷為中郎將不自知也

「わたしは車士より、幸いにも功の順次を以って中郎将に遷(うつ)されることを得(え)ましたが、(理由は)自(みずか)らわきまえておりません」と。

上問曰吾為太子時召君君不肯來何也

上(漢孝景帝劉啓)は問うて曰く、「吾(われ)が太子であった時、君を召(め)しよせたが、君は来ることをよしとしなかったのはどうしてなのか?」と。

對曰死罪實病上賜之劍

応(こた)えて曰く、「死罪であります。実(まこと)に病(やまい)でありました」と。上(漢孝景帝劉啓)はこれに剣を賜(たま)わろうとした。

綰曰先帝賜臣劍凡六劍不敢奉詔

漢中郎将衛綰曰く、「先帝がわたしに剣を凡(おそ)そ六振り賜(たま)わりましたので、剣は敢(あ)えて詔(みことのり)を奉(たてまつ)れません」と。

上曰劍人之所施易獨至今乎

上(漢孝景帝劉啓)曰く、「剣は、人の容易(ようい)に施(ほどこ)すところであるのに、ただ今に至(いた)るのか?」と。

綰曰具在上使取六劍劍尚盛未嘗服也

漢中郎将衛綰曰く、「そろって在(あ)ります」と。上(漢孝景帝劉啓)は六振りの剣を取らせると、剣は尚(なお)美しく、未(いま)だ嘗(かつ)て身に着(つ)けたことがなかったのである。

郎官有譴常蒙其罪不與他將爭

郎官にとがめが有ると、常(つね)にその罪をかばって、他の中郎将と争(あらそ)わず、

有功常讓他將

手柄(てがら)が有れば、常(つね)に他の中郎将に譲(ゆず)った。

上以為廉忠實無他腸乃拜綰為河王太傅

上(漢孝景帝劉啓)は行いが清らかで、忠実で、他心が無いと思った。そこで、漢中郎将衛綰に官をさずけて河間王の太傅と為した。

吳楚反詔綰為將將河兵擊吳楚有功拜為中尉

呉、楚が反乱し、河間王太傅衛綰に詔(みことのり)して河間将軍に為さしめた。河間兵を率(ひき)いて呉、楚を撃ち、手柄(てがら)が有り、官をさずけて中尉と為した。

三歲以軍功孝景前六年中封綰為建陵侯

三年して、軍功(ぐんこう)を以って、漢孝景帝前六年中に漢中尉衛綰に封じて建陵侯と為した。

其明年上廢太子誅栗卿之屬

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其明年上廢太子誅栗卿之屬

その明くる年、上(漢孝景帝劉啓)は漢太子劉栄を廃(はい)して、栗卿の仲間を誅(ちゅう)した。

上以為綰長者不忍乃賜綰告歸

上(漢孝景帝劉啓)は漢中尉建陵侯衛綰は長者(ちょうじゃ)で忍(しの)ばれないと思い、そこで、漢中尉建陵侯衛綰に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)を賜(たま)わり、

而使郅都治捕栗氏既已

しこうして、郅都(人名)をして栗氏を捕(と)らえて取り調べさせた。すでに終わると、

上立膠東王為太子召綰拜為太子太傅

上(漢孝景帝劉啓)は膠東王劉徹を立てて漢太子と為し、漢中尉建陵侯衛綰を召(め)し寄せて、官をさずけて漢太子太傅に為した。

久之遷為御史大夫

しばらくして、遷(うつ)して漢御史大夫と為した。

五歲代桃侯舍為丞相朝奏事如職所奏

五年して、桃侯劉舍に代(か)えて(漢御史大夫建陵侯衛綰を)漢丞相と為し、朝(ちょう)して事(こと)を奏上するは、奏上するところの職の如(ごと)くであった。

然自初官以至丞相終無可言

然(しか)るに官になったばかりのときより、丞相に至(いた)るまで、とうとう言うべきものは無かった。

天子以為敦厚可相少主尊寵之賞賜甚多

天子はまごころがあって人情深く、若い主(あるじ)を補佐(ほさ)することができると思い、これを尊寵して、賞賜(しょうし)は甚(はなは)だ多かった。

為丞相三歲景帝崩武帝立

丞相と為って三年して、漢孝景帝劉啓が崩じ、漢孝武帝劉徹が立った。

建元年中丞相以景帝疾時諸官囚多坐不辜者而君不任職免之

建元年中、漢丞相建陵侯衛綰は漢孝景帝劉啓が病気の時、諸(もろもろ)の官が囚(とら)われて多くが罪なき者を罪に問うたのを以って、しこうして、君(漢孝武帝劉徹)は職を任(まか)せられないとして、これを罷免(ひめん)した。

其後綰卒子信代坐酎金失侯

その後、建陵侯衛綰が亡くなり、子の衛信が代(か)わったが、酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われ、侯位を失(うしな)った。

塞侯直不疑者南陽人也

塞侯直不疑という者は南陽の人である。

為郎事文帝

郎(官名)と為って漢孝文帝劉恒に仕(つか)えた。

其同舍有告歸誤持同舍郎金去

その同じ官舎で告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)するものが有り、誤(あやま)って同じ官舎の郎の金を持って去(さ)った。

已而金主覺妄意不疑

しばらくして、金の持ち主が気付いて、直不疑を疑(うたが)った。

不疑謝有之買金償

直不疑はこれに有ると謝(しゃ)して、金を払って償(つぐな)った。

而告歸者來而歸金

しこうして、告帰者が来て金を帰(かえ)し、

而前郎亡金者大慚以此稱為長者

そして、前の金を亡(な)くした者の郎は大いに恥(は)じて、これを以って称(たた)えられ長者とされた。

文帝稱舉稍遷至太中大夫

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文帝稱舉稍遷至太中大夫

漢孝文帝劉恒は称(たた)え挙(あ)げて、だんだんと遷(うつ)して漢太中大夫に至らせた。

朝廷見人或毀曰不疑狀貌甚美

朝して廷見するとき、人の或(あ)る者がそしって曰く、「不疑の容貌(ようぼう)は甚(はなは)だ美しく、

然獨無柰其善盜嫂何也

然(しか)るにただその善(よ)く嫂(あによめ)を盗(ぬす)むのはどうすることもできない」と。

不疑聞曰我乃無兄然終不自明也

漢太中大夫直不疑は聞いて曰く、「我(われ)にはすなわち兄はいない」と。然(しか)るに終いまで自分で明らかにしなかった。

吳楚反時不疑以二千石將兵擊之

呉、楚が反乱した時、漢太中大夫直不疑は二千石を以って兵を率(ひき)いてこれを撃(う)った。

景帝後元年拜為御史大夫

漢孝景帝後元年、官をさずけて漢御史大夫と為した。

天子修吳楚時功乃封不疑為塞侯

天子(漢孝景帝劉啓)は呉楚の乱の時の手柄(てがら)を修(おさ)めて、そこで、漢御史大夫直不疑に封じて、塞侯と為した。

武帝建元年中與丞相綰俱以過免

漢孝武帝建元年中、漢丞相建陵侯衛綰とともに過(あやま)ちを以って(御史大夫を)免(めん)ぜられた。

不疑學老子言

塞侯直不疑は老子の言(げん)を学(まな)んだ。

其所臨為官如故唯恐人知其為吏跡也

その官と為って臨(のぞ)むところは以前の如(ごと)く、唯(ただ)人(ひと)がその役人としての足跡を知ることを恐(おそ)れ、

不好立名稱稱為長者不疑卒子相如代

名を立(た)てて称(しょう)されることを好(この)まなかったが、称(しょう)されて長者とされた。塞侯直不疑が亡くなると、子の直相如が(侯に)代わった。

孫望坐酎金失侯

孫(まご)の塞侯直望は、酎金(朝廷における祭祀の際に拠出する金)に罪を問われて侯位を失(うしな)った。

郎中令周文者名仁其先故任城人也

郎中令周文という者は名は仁、その先祖は任城の人である。

以醫見景帝為太子時拜為舍人

医(い)を以って見(まみ)え、漢孝景帝劉啓が太子の時、官をさずけて(太子の)舎人と為した。

積功稍遷孝文帝時至太中大夫

手柄(てがら)を積(つ)んで次第に遷(うつ)り、漢孝文帝劉恒時には、漢太中大夫に至(いた)った。

景帝初即位拜仁為郎中令

漢孝景帝劉啓が即位(そくい)したばかりのとき、漢太中大夫周仁(周文)に官をさずけて漢郎中令と為した。

仁為人陰重不泄常衣敝補衣溺袴

漢郎中令周仁(周文)の人と為(な)りは奥深くて重厚で、(秘密とすべきは)漏(も)らさず、常(つね)に、ぼろぼろでつぎはぎの衣(ころも)、尿(にょう)のついた袴(はかま)を着て、

期為不清以是得幸

一年中、不潔(ふけつ)にしており、これを以って(帝の)お気に入りを得た。

景帝入臥內於後宮祕戲仁常在旁

漢孝景帝劉啓が後宮に於いて寝室の中に入って秘(ひ)めた戯(たわむ)れごとをするとき、漢郎中令周仁(周文)は常(つね)に傍(かたわ)らに在(あ)た。

至景帝崩仁尚為郎中令終無所言

漢孝景帝劉啓が崩ずるに至(いた)り、漢郎中令周仁(周文)は尚(なお)漢郎中令として、終(しま)いまで言うところは無かった。

上時問人仁曰上自察之

上(漢孝景帝劉啓)がときどき人を問(と)うと、漢郎中令周仁(周文)曰く、「上が自(みずか)らこれをお調べください」と。

然亦無所毀以此景帝再自幸其家

然(しか)るにまた謗(そし)るところが無かった。これを以って漢孝景帝劉啓は再(ふたた)びみずからその家をかわいがった。

家徙陽陵上所賜甚多然常讓不敢受也

家は陽陵に移(うつ)った。上(漢孝景帝劉啓)が賜(たま)わるところは甚(はなは)だ多かったが、然(しか)るに常(つね)に譲(ゆず)り、敢(あ)えてさずからなかったのである。

諸侯群臣賂遺終無所受

諸侯、群臣が賄賂(わいろ)を贈っても、終(しま)いまで受け取るところは無かった。

武帝立以為先帝臣重之

漢孝武帝劉徹が立ち、先帝の家臣と為っていたのを以ってこれを重(おも)んじた。

仁乃病免以二千石祿歸老

漢郎中令周仁(周文)はすなわち病(やまい)にかかって免(めん)ぜられ、二千石の俸禄(ほうろく)を以って帰り老(お)いをすごした。

子孫咸至大官矣

子、孫(まご)はあまねく大官に至(いた)った。

御史大夫張叔者名歐

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御史大夫張叔者名歐安丘侯說之庶子也

御史大夫張叔という者は名は欧、安丘侯張説の庶子(妾腹の子)である。

孝文時以治刑名言事太子然歐雖治刑名家其人長者

漢孝文帝劉恒時、刑名(けいめい)を治(おさ)めるを以って言上し漢太子劉啓に仕(つか)えた。然(しか)るに張欧は刑名家と雖(いえど)も、その人は長者であった。

景帝時尊重常為九卿

漢孝景帝劉啓時、尊重(そんちょう)されて、常(つね)に九卿と為った。

至武帝元朔四年韓安國免詔拜歐為御史大夫

漢孝武帝劉徹元朔四年に至り、韓安国(人名)を免(めん)じて、詔(みことのり)して張欧に官をさずけて漢御史大夫(主として官吏の監督にあたった)と為した。

自歐為吏未嘗言案人專以誠長者處官

漢御史大夫張欧(張叔)が役人に為ってより、未(いま)だ嘗(かつ)て人を取り調べることを言上したことがなく、専(もっぱ)ら、誠(まこと)の長者を以ってして官を処断(しょだん)した。

官屬以為長者亦不敢大欺上具獄事

官の仲間は長者と為すを以って、また敢(あ)えて大いに欺(あざむ)かなかった。具(つぶさ)に獄事(ごくじ)を上(あ)げて、

有可卻卻之不可者不得已

退(しりぞ)けるべきが有れば、これを退(しりぞ)け、不可(ふか)な者はやむを得ず、

為涕泣面對而封之其愛人如此

涕(なみだ)を流して泣いて天子にお目にかかって応(こた)え、しこうしてこれを封事(ほうじ 上奏文の一種)した。その人を愛するはこの如(ごと)くであった。

老病甐請免於是天子亦策罷以上大夫祿歸老于家

老(お)いて病が重くなり、免職を請(こ)うた。ここに於いて天子(漢孝武帝劉徹)はまたやめさせることを策(さく)して、上大夫の俸禄(ほうろく)を以って帰(かえ)し家で老いをすごさせた。

家於陽陵子孫咸至大官矣

陽陵に於いて家を構(かま)えた。子、孫(まご)はあまねく大官に至った。

太史公曰仲尼有言曰君子欲訥於言而敏於行

太史公曰く、「仲尼(孔子)に言が有り曰く、君子(くんし)は言(げん)に於いて口下手で、行いに於いて敏速(びんそく)であることを欲する、と。

其萬石建陵張叔之謂邪

その万石君(石奮)、建陵侯衛綰、張叔(張欧)のことを謂(い)ったのだろうか。

是以其教不肅而成不嚴而治

ここにその教えを以って、つつしまずにして成(な)り、厳(きび)しくせずして治(おさ)まった。

塞侯微巧而周文處讇君子譏之

塞侯直不疑はそれとなくぬけめがなく、しこうして周文(周仁)はばかていねいに処(しょ)し、君子(くんし)はこれを非難(ひなん)した。

為其近於佞也然斯可謂篤行君子矣

そのおもねるに近いと思ったのである。然(しか)るにこれ、所謂(いわゆる)篤行(とっこう)の君子(くんし)である」と。

今日で史記 万石張叔列伝は終わりです。明日からは史記 田叔列伝に入ります。

史記 田叔列伝 始め

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田叔者趙陘城人也

田叔という者は、趙の陘城の人である。

其先齊田氏苗裔也叔喜劍學黃老術於樂巨公所

その先祖は斉の田氏の遠い子孫である。田叔は剣術を喜(よろこ)び、黄老の学術を楽巨公(楽臣公)の所で学んだ。

叔為人刻廉自喜喜游諸公

田叔の人と為(な)りは、非常に廉潔(れんけつ)で自(みずから)を喜び、諸公を巡遊(じゅんゆう)することを喜(よろこ)んだ。

趙人舉之趙相趙午午言之趙王張敖所趙王以為郎中

趙人はこれを趙相趙午に推挙し、趙相趙午はこれを趙王張敖の所に言上し、趙王張敖は趙郎中と為すを以ってした。

數歲切直廉平趙王賢之未及遷

数年して、剛直(ごうちょく)廉平(れんぺい)で、趙王張敖はこれを賢(かしこ)いとしたが、未(ま)だ遷(うつ)すに及ばないうちに、

會陳豨反代漢七年高祖往誅之過趙

ちょうどその時、陳豨(韓王信?)が代で反乱した。漢七年、漢高祖劉邦はこれを誅(ちゅう)しに往(ゆ)き、趙に立ち寄ったとき、

趙王張敖自持案進食禮恭甚高祖箕踞罵之

趙王張敖が自(みずか)ら机を持って食事を進め、礼するは恭(うやうや)しいこと甚(はなは)だしかった。漢高祖劉邦はあぐらをかいてこれを罵(ののし)った。

是時趙相趙午等數十人皆怒謂張王曰

この時趙相趙午ら数十人が皆(みな)怒り、張王(趙王張敖)に謂(い)った、曰く、

王事上禮備矣今遇王如是臣等請為亂

「王が上(漢高祖劉邦)に仕(つか)つか)えるは礼(れい)は備(そな)わっておりました。今、王を遇(ぐう)するはこの如(ごと)く。わたしたちは反乱することを請(こ)い願います」と。

趙王齧指出血曰先人失國微陛下

趙王張敖は指(ゆび)を噛(か)みきって血を出し、曰く、「先人(張耳)が国を失(うしな)ったとき、陛下(漢高祖劉邦)がいなければ、

臣等當蟲出公等柰何言若是毋復出口矣

わたしたちはまさに虫が(死んで身体から)這い出ていたことだろう。おぬしらはどうしてこのごとくを言うのか。ふたたび口に出すことなかれ」と。

於是貫高等曰王長者不倍

ここに於いて趙相貫高らは曰く、「王は長者で恩(おん)にそむかない」と。

卒私相與謀弒上會事發覺漢下詔捕趙王及群臣反者

とうとうひそかに相(あい)ともに上(漢高祖劉邦)を殺すことを謀(はか)った。この時、事(こと)は発覚(はっかく)して、漢は詔(みことのり)を下(くだ)し、趙王張敖及び群臣の叛(そむ)いた者を捕(と)らえさせた。

於是趙午等皆自殺唯貫高就系

ここに於いて趙相趙午らは皆(みな)自殺して、ただ一人趙相貫高だけが繋(つな)がれの身に就(つ)いた。

是時漢下詔書趙有敢隨王者罪三族

この時、漢は詔(みことのり)の書状を下(くだ)し、「趙に敢(あ)えて王に付き従う者が有れば三族刑に罪する」と。

唯孟舒田叔等十餘人赭衣自髡鉗

ただ、孟舒、趙郎中田叔ら十余人は赭衣(罪人の着る赤い着物)を着て、自(みずか)ら髪を切り、首かせをはめて、

稱王家奴隨趙王敖至長安

趙王家の奴隷(どれい)と称(しょう)して、趙王張敖につき従って長安に至った。

貫高事明白趙王敖得出廢為宣平侯乃進言田叔等十餘人

趙相貫高の事は明白(めいはく)になり、趙王張敖は出るを得(え)られ、廃(はい)されて宣平侯と為った。そして趙郎中田叔ら十余人に言を進めた。

上盡召見與語漢廷臣毋能出其右者

上(漢高祖劉邦)はことごとく召し寄せて見(まみ)え、ともに語ると、漢廷の臣下でその右に出ることができる者はおらず、

上說盡拜為郡守諸侯相

上(漢高祖劉邦)は悦(よろこ)んで、ことごとくみな官をさずけて郡守、諸侯相に為した。

叔為漢中守十餘年會高后崩

趙郎中田叔が漢中守に為って十余年、このとき漢高后呂雉が崩じた。

諸呂作亂大臣誅之立孝文帝

諸(もろもろ)の呂氏が反乱し、大臣はこれ(諸呂氏)を誅(ちゅう)して、漢孝文帝劉恒を立てた。
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