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孝惠帝曾春出游離宮叔孫生曰

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孝惠帝曾春出游離宮叔孫生曰

漢孝恵帝劉盈は以前春に離宮に遊びに出かけ、叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)曰く、

古者有春嘗果方今櫻桃孰

「古(いにしえ)では春に果物をまつることをしました。まさに今、桜桃(さくらんぼ)が熟(じゅく)しており、

可獻願陛下出因取櫻桃獻宗廟

献(けん)ずるべきで、願わくは陛下が出かけたとき、因(よ)りて桜桃を取って宗廟(そうびょう)に献(けん)じてください」と。

上乃許之諸果獻由此興

上(漢孝恵帝劉盈)はそこでこれを聞き入れた。諸(もろもろ)の果実が献(けん)じられるはここ由(よ)り興(おこ)った。

太史公曰語曰千金之裘非一狐之腋也

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太史公曰語曰千金之裘非一狐之腋也

太史公曰く、「語りて曰く、千金の毛皮の衣服は、たった一匹の狐(きつね)の腋(わき)の下の毛皮だけでは非(あら)ざるなり、

臺榭之榱非一木之枝也

高殿(たかどの)の垂木(たるき)は、たった一本の木の枝(えだ)だけでは非(あら)ざるなり、

三代之際非一士之智也

三代(夏、殷、周)の際(きわ)には、たった一人の士の智恵(ちえ)だけでは非(あら)ざるなり、とは、

信哉夫高祖起微細定海內

信(まこと)かな。それ、漢高祖劉邦は微細(びさい)に起(お)こして、海内を平定し、

謀計用兵可謂盡之矣

謀計(ぼうけい)、用兵(ようへい)は力の限りを尽(つ)くしたと謂(い)うべきや。

然而劉敬脫輓輅一說建萬世之安智豈可專邪

然(しか)しながら、劉敬は車の牽引(けんいん)を脱(ぬ)け出して、一たび説(と)いて、万世(ばんせい)の安定を建(た)てた。智恵(ちえ)はどうして専(もっぱ)らにするべきだろうか。

叔孫通希世度務制禮進退與時變化卒為漢家儒宗

叔孫通は世にも希(まれ)に務(つと)めをはかり、礼(れい)を時(とき)とともに変化させて進めたり退(しりぞ)かせたりして制定(せいてい)し、とうとう、漢家の儒学の総本家と為った。

大直若詘道固委蛇蓋謂是乎

はなはだ真っ直(す)ぐなものは曲がっているがごとし。道理(どうり)は固(もと)よりうねうねと曲がりながら進む、とは、思うにこれを謂(い)うのであろうか」と。

今日で史記 劉敬叔孫通列伝は終わりです。明日からは史記 季布欒布列伝に入ります。

史記 季布欒布列伝 始め

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季布者楚人也為氣任俠有名於楚

季布という者は、楚の人である。気概(きがい)を為(な)して男気(おとこぎ)で、楚に於いて聞こえが有(あ)った。

項籍使將兵數窘漢王及項羽滅

項籍(項羽)は兵を率(ひき)いさせて、たびたび漢王劉邦をゆきづまらせた。項羽が滅(ほろ)ぶに及(およ)んで、

高祖購求布千金敢有舍匿罪及三族

漢高祖劉邦は楚将季布に千金の賞金をかけて求(もと)め、敢(あ)えて匿(かくま)う家が有(あ)れば、罪は三族に及(およ)ぶと。

季布匿濮陽周氏周氏曰

楚将季布は濮陽の周氏に匿(かくま)われていた。周氏曰く、

漢購將軍急跡且至臣家將軍能聽臣臣敢獻計

「漢は将軍に賞金をかけて求めることきびしく、追跡(ついせき)はまさにわたしの家に至らんとしています。将軍がわたしを聴き入れることができれば、わたしは敢(あ)えて計(はか)りごとを献(けん)じましょう。

即不能願先自剄季布許之

すなわちできなければ、願わくは先(さき)んじて自ら頸(くび)をかき斬ってください」と。楚将季布はこれを聴き入れた。

乃髡鉗季布衣褐衣置廣柳車中

そこで、楚将季布の頭髪を剃(そ)って、首かせをはめ、粗末(そまつ)な衣(ころも)を着させ、広柳(拘留?)車の中に置き、

并與其家僮數十人之魯朱家所賣之

その家の僕(しもべ)数十人と併(あわ)せて、これを買う所の魯の朱家に行かせた。

朱家心知是季布乃買而置之田

朱家の心はこれが元楚将季布だと知っており、そこで買ってこれを田(た)に置いた。

誡其子曰田事聽此奴必與同食

その子に誡(いまし)めて曰く、「田畑の事はこの奴隷に聴(き)き、必ず同じ食事を与(あた)えなさい」と。

朱家乃乘軺車之洛陽見汝陰侯滕公

朱家はそこで小さい車に乗って洛陽に行き、漢太僕汝陰侯滕公(夏侯嬰 或いはこの時昭平侯?))に見(まみ)えた。

滕公留朱家飲數日因謂滕公曰

漢太僕汝陰侯滕公(夏侯嬰)は朱家を留(とど)めて飲むこと数日。因(よ)りて漢太僕汝陰侯滕公(夏侯嬰)に謂(い)った、曰く、

季布何大罪而上求之急也滕公曰

「季布は何の大罪で、上(漢高帝劉邦)がこれをきびしく求(もと)めているのですか?」と。漢太僕汝陰侯滕公(夏侯嬰)曰く、

布數為項羽窘上上怨之故必欲得之

「季布はたびたび項羽の為(ため)に上(漢高帝劉邦)をゆきづまらせ、上(漢高帝劉邦)はこれを怨み、故(ゆえ)に必ずこれをつかまえようと欲しているのです」と。

朱家曰君視季布何如人也

朱家曰く、「君は季布をどのような人であると視(み)ますか?」と。

曰賢者也朱家曰臣各為其主用

曰く、「賢者である」と。朱家曰く、「臣下は各(おのおの)がその主(あるじ)の為(ため)に用いられます。

季布為項籍用職耳項氏臣可盡誅邪

季布は項籍(項羽)の為(ため)に用いられ、職務であっただけです。項氏の臣下は誅(ちゅう)し尽(つ)くすことができますか?

今上始得天下獨以己之私怨求一人

今、上(漢高帝劉邦)は天下を得(え)たばかりで、単に己(おのれ)の私怨を以ってたった一人を求め、

何示天下之不廣也且以季布之賢而漢求之急如此

どうして天下の狭(せま)さを示(しめ)すのですか。まさに季布の賢(かしこ)さを以ってして、漢がこれをこのごとくきびしく求めれば、

此不北走胡即南走越耳

これ、北に胡(匈奴)に逃げ走らず、すなわち、南に越(越はまだこの時、漢の領地ではなかった)に逃げ走るのみ。

夫忌壯士以資敵國此伍子胥所以鞭荊平王之墓也

それ、壮士を忌(い)みて敵国(てきこく)に資(し)するを以ってするは、これ、伍子胥が荊(楚)平王の墓を鞭(むち)打つを以ってしたところであります。

君何不從容為上言邪汝陰侯滕公心知朱家大俠

君はどうして従容(しょうよう)としてそれとなく上(漢高帝劉邦)の為(ため)に言わないのですか?」と。漢太僕汝陰侯滕公(夏侯嬰)は朱家の大いなる男気(おとこぎ)を知っており、

意季布匿其所乃許曰諾

元楚将季布がその所に匿(かくま)われていると思い、そこで聴きいれて曰く、「承諾(しょうだく)した」と。

待果言如朱家指上乃赦季布

ころあいを待(ま)って、果(は)たして朱家の旨(むね)のごとく言った。上(漢高帝劉邦)は元楚将季布を赦(ゆる)した。

當是時諸公皆多季布能摧剛為柔

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當是時諸公皆多季布能摧剛為柔

当時、諸公は皆(みな)季布が剛をおさえて柔に為ったことを多(た)とした。

朱家亦以此名聞當世季布召見謝上拜為郎中

朱家もまたこれを以って当世に名が聞(き)こえた。季布が召(め)されて見(まみ)え、謝(しゃ)し、上(漢高帝劉邦)は官をさずけて郎中と為した。

孝惠時為中郎將單于嘗為書嫚呂后

漢孝恵帝劉盈の時、中郎将に為った。単于(匈奴王冒頓)は嘗(かつ)て書状をつくって漢呂后(呂雉)をあなどり、

不遜呂后大怒召諸將議之

不遜(ふそん)で、漢呂后(呂雉)は大いに怒り、諸(もろもろ)の将軍を召(め)しよせてこれを議(ぎ)させた。

上將軍樊噲曰臣願得十萬眾行匈奴中

上将軍樊噲(漢相国舞陽侯樊噲)曰く、「わたしは願わくは、十万の衆を得(え)て、匈奴の中を横行(おうこう)したいと思います」と。

諸將皆阿呂后意曰然

諸(もろもろ)の将軍は皆(みな)漢呂后の意(い)に阿(おもね)って、曰く、「然(しか)り)と。

季布曰樊噲可斬也夫高帝將兵四十餘萬眾

漢中郎将季布曰く、「樊噲は斬るべきであります。それ、高帝(劉邦)が兵四十余万の衆を率(ひき)いて、

困於平城今噲柰何以十萬眾行匈奴中面欺

平城に於いて困窮したのに、今、樊噲がどうして十万の衆を以って匈奴の中を横行(おうこう)できるでしょうか、うわべの欺(あざむ)きであります。

且秦以事於胡陳勝等起

まさに秦は胡(匈奴)に於いて事(こと)とするを以ってしたので、陳勝らが立ち上がったのです。

于今創痍未瘳噲又面諛欲搖動天下

今に於いて切り傷が未(ま)だ治らないうちに、樊噲がまたおべっかをつかって(匈奴に於いて事とするは)、天下を揺(ゆ)り動かそうと欲しているのです」と。

是時殿上皆恐太后罷朝遂不復議擊匈奴事

この時、殿上(でんじょう)の皆(みな)は恐れ、漢太后呂雉は朝廷を退出して、遂(つい)にふたたび匈奴を撃つことを議(ぎ)さなかった。

季布為河東守孝文時人有言其賢者

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季布為河東守孝文時人有言其賢者

漢中郎将季布は河東守と為った。漢孝文帝劉恒の時、人のその賢(かしこ)さを言う者が有り、

孝文召欲以為御史大夫

漢孝文帝劉恒は召(め)し寄せて漢御史大夫と為すを以ってしようと欲した。

復有言其勇使酒難近

またその勇(いさ)ましさを言う者が有り、酒をして近づけ難(がた)くなる、と。

至留邸一月見罷季布因進曰

至りて、邸に留(とど)まること一ヶ月、中止された。河東守季布は因(よ)りて進み出て曰く、

臣無功竊寵待罪河東

「わたしは手柄無くひそかに寵愛され、河東に登用されました。

陛下無故召臣此人必有以臣欺陛下者

陛下が故(ゆえ)なくわたしを召(め)したのは、これ、人の、わたしを以って陛下を欺(あざむ)く者がきっと有ったからでしょう。

今臣至無所受事罷去此人必有以毀臣者

今、わたしが至り、事(こと)をさずけるところ無く、やめて去(さ)らせるは、これ、人の、わたしをそしるを以ってする者がきっと有ったからでしょう。

夫陛下以一人之譽而召臣

それ、陛下はたった一人の誉(ほ)め言葉を以ってしてわたしを召(め)しよせ、

一人之毀而去臣臣恐天下有識聞之有以闚陛下也

たった一人のそしりの言葉を以ってしてわたしを去(さ)らせ、わたしは、天下の有る者がこれを聞いてさとり、陛下をいざなうことを以ってすることが有るのを恐(おそ)れます」と。

上默然慚良久曰

上(漢孝文帝劉恒)は黙然(もくぜん)とだまりこんで恥(は)じ、しばらくして曰く、

河東吾股肱郡故特召君耳布辭之官

「河東は吾(われ)の手足となる郡で、故(ゆえ)に特別に君を召(め)し寄せただけだ」と。
河東守季布は朝廷を辞去(じきょ)した。

楚人曹丘生辯士數招權顧金錢

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楚人曹丘生辯士數招權顧金錢

楚人の曹丘先生は弁士(べんし)で、たびたび金銭を顧(かえり)みて権勢(けんせい)に招(まね)かれた。

事貴人趙同等與竇長君善

貴人の趙同らに仕(つか)え、竇長君と仲が善(よ)かった。

季布聞之寄書諫竇長君曰

河東守季布はこれを聞き、書状を寄(よ)せて竇長君を諌(いさ)めて曰く、

吾聞曹丘生非長者勿與通

「吾(われ)は聞く、曹丘先生は徳のある者では非(あら)ず、ともに通(かよ)うことなかれ」と。

及曹丘生歸欲得書請季布

曹丘先生が帰るに及(およ)んで、季布に謁見を請(こ)う書状を得たいと欲した。

竇長君曰季將軍不說足下足下無往

竇長君曰く、「季将軍(河東守季布)は足下(そっか)をよろこばない、足下(そっか)は往(ゆ)くことなかれ」と。

固請書遂行使人先發書季布果大怒待曹丘

固(かた)く書状を請(こ)い、遂(つい)に行った。人をつかわし先に書状を発した。河東守季布は果(は)たして大いに怒り、曹丘を待(ま)った。

曹丘至即揖季布曰楚人諺曰

曹丘が至ると、すぐに季布に両手を胸の前に組んで挨拶し、曰く、「楚人の諺(ことわざ)曰く、

得黃金百(斤)不如得季布一諾

黄金百斤を得ることは、季布のたった一つの承諾(しょうだく)を得ることに及ばない、と。

足下何以得此聲於梁楚哉且仆楚人

足下(そっか)は何を以ってこの評判を梁、楚の間に於いて得(え)たのですかな。まさに拙者(せっしゃ)は楚人、

足下亦楚人也仆游揚足下之名於天下顧不重邪

足下(そっか)もまた楚人である。拙者(せっしゃ)が遊説して足下の名を天下に於いて揚(あ)げれば、かえって重んぜられないでしょうか。

何足下距仆之深也季布乃大說引入

どうして足下(そっか)は拙者(せっしゃ)の奥深い気持ちを拒(こば)むのですか」と。河東守季布はそこで大いに悦(よろこ)び、引き入れて、

留數月為上客厚送之

留(とど)めること数ヶ月、上客と為し、厚(あつ)くこれを見送った。

季布名所以益聞者曹丘揚之也

河東守季布の名声が益々(ますます)聞こえるを以ってしたところとは、曹丘がこれを揚(あ)げたからである。

季布弟季心氣蓋關中遇人恭謹

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季布弟季心氣蓋關中遇人恭謹

季布の弟の季心は、人気は関中を蓋(おお)い、人にもてなすは恭(うやうや)しく謹(つつし)み、

為任俠方數千里士皆爭為之死

男気を為し、四方数千里、士は皆(みな)争って命がけでこの為(ため)にした。

嘗殺人亡之吳從袁絲匿

嘗(かつ)て人を殺し、逃げて呉に行き、袁絲に従(したが)って匿(かくま)われた。

長事袁絲弟畜灌夫籍福之屬

長く袁絲に仕(つか)え、灌夫、籍福の仲間を弟子にして養(やしな)った。

嘗為中司馬中尉郅都不敢不加禮

嘗(かつ)て中司馬に為ったとき、中尉郅都は敢(あ)えて礼を加えないことはなかった。

少年多時時竊籍其名以行當是時

少年たちの多くが時々、ひそかにその名をかりて行うを以ってした。まさにこの時、

季心以勇布以諾著聞關中

李心は勇(いさ)ましさを以って、季布は承諾(しょうだく)を以って、関中に著(いちじる)しく聞こえた。

季布母弟丁公為楚將

季布の母の弟の丁公は楚将と為った。

丁公為項羽逐窘高祖彭城西

楚将丁公は項羽の為(ため)に彭城の西で漢高祖劉邦を追いかけてゆきづまらせ、

短兵接高祖急顧丁公曰

刀剣兵が近づき、漢高祖劉邦はさしせまって、楚将丁公を顧(かえり)みて曰く、

兩賢豈相戹哉

「二人の賢者がどうして相(あい)苦しむのかな」と。

於是丁公引兵而還漢王遂解去

ここに於いて楚将丁公は兵を引いて、還(かえ)った。漢王劉邦は遂(つい)に解(と)かれて去(さ)った。

及項王滅丁公謁見高祖

項王(項羽)が滅ぶに及(およ)んで、楚将丁公は漢高祖劉邦に謁見(えっけん)した。

高祖以丁公徇軍中曰丁公為項王臣不忠

漢高祖劉邦は楚将丁公を以って軍じゅうに広く知らせた、曰く、「丁公は項王(項羽)の臣下として不忠(ふちゅう)で、

使項王失天下者乃丁公也

項王(項羽)をして天下を失(うしな)わせたのは、すなわち丁公である」と。

遂斬丁公曰使後世為人臣者無效丁公

遂(つい)に楚将丁公を斬り、曰く、「後世の人の臣下と為る者をして、丁公をまねること無かれ」と。

欒布者梁人也

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欒布者梁人也始梁王彭越為家人時嘗與布游

欒布という者は、梁(魏)の人である。以前、梁王彭越が使用人(或いは一般人民)だった時、嘗(かつ)て欒布とともに巡(めぐ)り歩いた。

窮困賃傭於齊為酒人保數歲

困窮して、斉に於いて賃金で雇(やと)われて、酒人保(役名)と為った。数年して、

彭越去之巨野中為盜而布為人所略賣為奴於燕

彭越は鉅野の中に去(さ)って、盗人(ぬすびと)と為った。しこうして、欒布は人のさらわれ売られるところと為って、燕に於いて奴隷(どれい)に為った。

為其家主報仇燕將臧荼舉以為都尉

(欒布は)その家主の為(ため)に仇(あだ)に報(むく)い、燕將臧荼が推挙(すいきょ)して都尉と為すを以ってした。

臧荼後為燕王以布為將

燕將臧荼は後に燕王に為ったとき、燕都尉欒布を以って燕将と為した。

及臧荼反漢擊燕虜布

燕王臧荼が叛(そむ)くに及(およ)んで、漢が燕を撃(う)ち、燕将欒布を虜(とりこ)にした。

梁王彭越聞之乃言上請贖布以為梁大夫

梁王彭越がこれを聞き、そこで、上(漢高帝劉邦)に言って、燕将欒布を金銭をだして贖(あがな)い、梁大夫と為すを以ってした。

使於齊未還漢召彭越責以謀反夷三族

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使於齊未還漢召彭越責以謀反夷三族

(梁大夫欒布が)斉に於いて使(つか)いし、未(ま)だ還(かえ)らないうちに、漢が梁王彭越を召(め)しよせ、責(せ)めとがめるに謀反(むほん)を以ってし、三族を滅(ほろ)ぼした。

已而梟彭越頭於雒陽下詔曰

しばらくして、梁王彭越の頭を雒陽の下(もと)に於いてさらし首にし、詔(みことのり)して曰く、

有敢收視者輒捕之

敢(あ)えてまみえるを収(おさ)める者は、そのたびごとにこれを捕(と)らえよ」と。

布從齊還奏事彭越頭下祠而哭之

梁大夫欒布が斉から還(かえ)り、梁王彭越の頭の下(もと)で事(こと)を奏上し、祀(まつ)って、これに哭礼(こくれい)をした。

吏捕布以聞上召布罵曰

役人は梁大夫欒布を捕(と)らえ、申し上げるを以ってした。上(漢高帝劉邦)は梁大夫欒布を召(め)しよせ、罵(ののし)って曰く、

若與彭越反邪吾禁人勿收

「なんじは彭越とともに叛(そむ)いたのだな。吾(われ)は人に収(おさ)めることないように禁じたのに、

若獨祠而哭之與越反明矣趣亨之

なんじは一人祀(まつ)ってこれに哭礼をした。彭越とともに謀反(むほん)したことは明らかである。烹刑におもむけよ」と。

方提趣湯布顧曰願一言而死

まさにひっさげられて湯(ゆ)におもむくとき、梁大夫欒布は顧(かえり)みて曰く、「願わくは一言(ひとこと)言って死なせてください」と。

上曰何言布曰方上之困於彭城

上(漢高帝劉邦)曰く、「何を言うのか」と。梁大夫欒布曰く、「まさに上(漢高帝劉邦)は彭城に於いて困窮し、

敗滎陽成皋項王所以(遂)不能[遂]西

栄陽、成皋の間に敗(やぶ)れましたが、項王(項羽)が西に遂(と)げることができなかったわけは、

徒以彭王居梁地與漢合從苦楚也

ただ彭王(彭越)が梁の地に居住しているのを以って漢と合従して楚を苦しめたからであります。

當是之時彭王一顧與楚則漢破與漢而楚破

まさにこの時、彭王(彭越)が一(いつ)に顧(かえり)みて、楚とともにすれば漢が破(やぶ)れ、漢とともにすれば楚が破(やぶ)れたのです。

且垓下之會微彭王項氏不亡

且(か)つ、垓下の会に彭王(彭越)がいなかったら、項氏は亡(ほろ)ばなかったでしょう。

天下已定彭王剖符受封亦欲傳之萬世

天下がすでに平定され、彭王(彭越)は剖符をさずかり封を受けて、おおいに万世に伝えることを欲しました。

今陛下一徵兵於梁彭王病不行而陛下疑以為反

今回、陛下が一(いつ)に梁に於いて兵を徴集(ちょうしゅう)し、彭王(彭越)は病(やまい)にかかり行きませんでした。しかし、陛下は疑って謀反(むほん)だと思いました。

反形未見以苛小案誅滅之臣恐功臣人人自危也

謀反の形(かたち)が未(ま)だ現(あら)われていないうちに、小さな案件をとがめるを以ってこれを誅(ちゅう)し滅ぼしました。わたしは功臣の人々が自(みずか)らを危(あや)ぶむことを恐れるのであります。

今彭王已死臣生不如死請就亨

今、彭王(彭越)がすでに死に、わたしは生きるより死んだほうがましです。烹刑に就(つ)くことを請(こ)う」と。

於是上乃釋布罪拜為都尉

ここに於いて、上(漢高帝劉邦)はすなわち梁大夫欒布の罪をゆるして、官をさずけて漢都尉と為した。

孝文時為燕相至將軍

漢孝文帝劉恒の時、燕相と為って、燕将軍に至った。

布乃稱曰窮困不能辱身下志非人也

燕将欒布はそこで称(とな)えて曰く、「困窮(こんきゅう)して身(み)を辱(はずかし)めることができずに、志(こころざし)をいやしめるは、人では非(あら)ざるなり。

富貴不能快意非賢也

富貴になって思いを快(こころよ)くできないのは、賢者では非(あら)ざるなり」と。

於是嘗有者厚報之有怨者必以法滅之

ここに於いて嘗(かつ)て恩の有った者には厚(あつ)くこれに報(むく)い、怨(うら)みの有った者には必ず法を以ってこれを滅ぼした。

吳(軍)[楚]反時以軍功封俞侯復為燕相

呉、楚が反乱した時、軍功を以って俞侯に封ぜられ、ふたたび燕相と為った。

燕齊之皆為欒布立社號曰欒公社

燕、斉の間は皆(みな)欒布の為(ため)に社(やしろ)を立てて、号(ごう)して、欒公社といった。

景帝中五年薨子賁嗣為太常

漢孝景帝(劉啓)中五年に死んだ。子の欒賁が継(つ)いで、漢太常と為った。

犧牲不如令國除

祭祀の犠牲(いけにえ)が令(れい きまり)に及(およ)ばず、国が除(のぞ)かれた。

太史公曰以項羽之氣而季布以勇顯於楚

太史公曰く、「項羽の気概(きがい)を以ってして、季布は勇(ゆう)を以って楚に於いて顕(あきら)かになり、

身屨(典)軍搴旗者數矣可謂壯士

身(み)みずから、くつをはいて戦い、旗(はた)を抜き取るのは、たびたびで、壮士と謂(い)うべきである。

然至被刑戮為人奴而不死何其下也

然(しか)るに刑戮を被(こうむ)るに至って、人の奴隷と為っても、死ななかったのは、どうしてその見下(みくだ)せようか。

彼必自負其材故受辱而不羞

彼は必ずその才能を自負(じふ)し、故(ゆえ)に辱(はずかし)めを受けても羞(は)じず、

欲有所用其未足也故終為漢名將

用いられる所を有(ゆう)することを欲して、その未(ま)だ満足していなかったのである。故(ゆえ)に終(しま)いには漢の名将と為ったのである。

賢者誠重其死夫婢妾賤人感慨而自殺者

賢者は誠(まこと)にその死を重(おも)んずる。それ、婢妾(ひしょう)賤人(せんじん)が感慨(かんがい)して自殺するのは、

非能勇也其計畫無復之耳

勇(いさ)みたつことができたのでは非(あら)ざるなり、そのこれ(感慨)をふたたびすることが無きよう計画しただけである。

欒布哭彭越趣湯如歸者彼誠知所處

欒布は彭越に哭礼し、帰結(きけつ)するが如(ごと)く湯(ゆ)におもむいたのは、彼は誠(まこと)に処(しょ)するところを知っていたのであり、

不自重其死雖往古烈士何以加哉

自(おのず)からその死を重(おも)んずることはなかったのである。むかしの烈士と雖(いえど)も、何ものを以って(彼を)しのぐだろうかな」と。

今日で史記 季布欒布列伝は終わりです。明日からは史記 袁盎鼂錯列伝に入ります。

史記 袁盎鼂錯列伝 始め

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袁盎者楚人也字絲

袁盎という者は、楚の人である。字(あざな)は絲。

父故為群盜徙處安陵

父は以前、群盗(ぐんとう)と為り、処(ところ)を安陵に移(うつ)した。

高后時盎嘗為呂祿舍人

漢高后呂雉の時、袁盎は嘗(かつ)て呂禄の舎人に為った。

及孝文帝即位盎兄噲任盎為中郎

漢孝文帝劉恒が即位するに及んで、袁盎の兄の袁噲が袁盎に任子(にんし)して中郎と為った。

絳侯為丞相朝罷趨出意得甚

絳侯周勃が丞相に為り、朝するに小走りに出仕することを免(めん)ぜられ、意(い)は甚(はなは)だ得(え)られた。

上禮之恭常自送之

上(漢孝文帝劉恒)はこれに礼すること恭(うやうや)しく、常(つね)に自らこれを見送った。

袁盎進曰陛下以丞相何如人

漢中郎袁盎は進み出て曰く、「陛下は丞相(周勃)を以ってどのような人ですか?」と。

上曰社稷臣

上(漢孝文帝劉恒)曰く、「社稷(しゃしょく)の臣下だ」と。

盎曰絳侯所謂功臣非社稷臣

漢中郎袁盎曰く、「絳侯(周勃)は所謂(いわゆる)功臣(こうしん)で、社稷(しゃしょく)の臣下ではなく、

社稷臣主在與在主亡與亡

社稷(しゃしょく)の臣下は、主(あるじ)が在(あ)ればともに在(あ)り、主(あるじ)が亡(ほろ)べば、ともに亡(ほろ)びます。

方呂后時諸呂用事擅相王劉氏不絕如帶

まさに呂后(漢高后呂雉)の時、諸(もろもろ)の呂氏が事(こと)に用いられ、宰相、王の地位をほしいままにしましたが、劉氏は帯(おび)の如(ごと)く絶(た)えませんでした。

是時絳侯為太尉主兵柄弗能正

この時、絳侯周勃は漢太尉として、軍の権力をつかさどっていましたが、正(ただ)すことができませんでした。

呂后崩大臣相與共畔諸呂太尉主兵

呂后(漢高后呂雉)が崩(ほう)じ、大臣が相(あい)与(くみ)し共(とも)に諸(もろもろ)の呂氏に叛(そむ)いたとき、漢太尉絳侯周勃は兵をつかさどり、

適會其成功所謂功臣非社稷臣

たまたまその成功に会(あ)い、所謂(いわゆる)功臣(こうしん)で、社稷臣(しゃしょくしん)ではありません。

丞相如有驕主色陛下謙讓臣主失禮竊為陛下不取也

丞相(周勃)には驕(おご)りたっとぶ色(いろ)が有(あ)ります。陛下が謙譲(けんじょう)し、臣下が主(あるじ)となって礼を失(うしな)うは、ひそかに陛下の為(ため)に得策(とくさく)としないのであります」と。

後朝上益莊丞相益畏

後(のち)朝したとき、上(漢孝文帝劉恒)が益々(ますます)おごそかにしたので、丞相(周勃)は益々(ますます)畏(おそ)れるようになった。

已而絳侯望袁盎曰吾與而兄善

しばらくして、漢丞相絳侯周勃は漢中郎袁盎をうらみ、曰く、「吾(われ)はなんじの兄と仲が善(よ)いのに、

今兒廷毀我盎遂不謝

今、おまえは我(われ)を朝廷でそしった」と。漢中郎袁盎は遂(つい)に謝(あやま)らなかった。

及絳侯免相之國國人上書告以為反

漢丞相絳侯周勃が丞相を免(めん)ぜられて封国に行くに及んで、封国人は上書して謀反(むほん)を為していることを告(つ)げた。

徵系清室宗室諸公莫敢為言唯袁盎明絳侯無罪

清室(罪を請う部屋)に取り立ててつないだが、宗室、諸公は敢(あ)えて言(げん)を為すものはなかった。唯(ただ)漢中郎袁盎だけが絳侯周勃の無罪(むざい)を明らかにした。

絳侯得釋盎頗有力絳侯乃大與盎結交

絳侯周勃は釈放(しゃくほう)を得(え)て、漢中郎袁盎は頗(すこぶ)る力を有(ゆう)した。絳侯周勃はそこで、大いに漢中郎袁盎と親交を結(むす)んだ。

淮南王朝殺辟陽侯居處驕甚

淮南王劉長(劉邦の七男)が朝し、辟陽侯審食其を殺し、居(お)る処(ところ)驕(おご)り高ぶること甚(はなは)だしかった。

袁盎諫曰諸侯大驕必生患可適削地

漢中郎袁盎は諌(いさ)めて曰く、「諸侯が大いに驕(おご)れば、必ず患(うれ)いを生(しょう)じます。領地を削(けず)ってほどよくするべきです」と。

上弗用淮南王益

上(漢孝文帝劉恒)は用(もち)いなかった。淮南王劉長は益々(ますます)勝手きままになっていった。

及棘蒲侯柴武太子謀反事覺治連淮南王

棘蒲侯柴武(陳武)の太子(陳奇)の謀反事が発覚(はっかく)し、取調べると、淮南王劉長に連(つら)なり、

淮南王徵上因遷之蜀轞車傳送

淮南王劉長は取立てられた。上(漢孝文帝劉恒)は因(よ)りてこれを蜀(地方名)に囚人車で伝送して遷(うつ)そうとした。

袁盎時為中郎將乃諫曰

漢中郎袁盎はちょうどこの時、漢中郎将と為った。そこで諌(いさ)めて曰く、

陛下素驕淮南王弗稍禁以至此今又暴摧折之

「陛下はふだんから淮南王を驕(おご)り高ぶらせ、少しも禁ずることなかったのに、ここに至るを以って、今またこれを荒々しくくだき折(お)ろうとしております。

淮南王為人剛如有遇霧露行道死

淮南王の人と為(な)りは強情(ごうじょう)で、霧(きり)露(つゆ)に遇(あ)えば、道を行きながら死ぬことが有るに及(およ)ぶでしょう。

陛下竟為以天下之大弗能容有殺弟之名柰何

陛下がとうとう天下の大事を以って、容認(ようにん)することができないと為して、弟殺しの汚名を有(ゆう)すれば、どうしますか?」と。

上弗聽遂行之

上(漢孝文帝劉恒)は聴き入れず、遂(つい)にこれを行(おこな)った。

淮南王至雍病死聞上輟食哭甚哀

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淮南王至雍病死聞上輟食哭甚哀

淮南王劉長が雍に至り、病死したのが耳に入ると、上(漢孝文帝劉恒)は食事を軽(かろ)んじ、慟哭(どうこく)して甚(はなは)だ哀(かな)しんだ。

盎入頓首請罪上曰以不用公言至此

漢中郎将袁盎が入り、頓首(とんしゅ)して罪(つみ)を請(こ)うた。上(漢孝文帝劉恒)曰く、「公の言(げん)を用いなかったのを以ってここに至ったのだ」と。

盎曰上自此往事豈可悔哉

漢中郎将袁盎曰く、「上は自ら寛大(かんだい)で、これは過去の事、  どうして悔(く)やむべきかな。

且陛下有高世之行者三此不足以毀名

且(か)つ、陛下は世間に評判の高い行(おこな)いが有るは三つで、これは、名をそしるを以ってするには足(た)りません。

上曰吾高世行三者何事

上(漢孝文帝劉恒)曰く、「吾(われ)の世間に評判の高い行いの三つとは、どんな事か?」と。

盎曰陛下居代時太后嘗病三年

漢中郎将袁盎曰く、「陛下が代に居(い)る時、太后(薄氏)が病を経験すること三年、

陛下不交睫不解衣湯藥非陛下口所嘗弗進

陛下はまばたきもせず、衣(ころも)も脱(ぬ)がず、湯薬は陛下の口で試(ため)したところでなければ、進めませんでした。

夫曾參以布衣猶難之今陛下親以王者修之過曾參孝遠矣

それ、曾参が無位無冠(むいむかん)を以ってしても猶(なお)を難(むずか)しいのに、今、陛下はみずから王者を以ってこれを修(おさ)め、曾参の孝行(こうこう)をはるかに越えています。

夫諸呂用事大臣專制

それ、諸(もろもろ)の呂氏が政治を思うままににし、大臣が専制(せんせい)し、

然陛下從代乘六傳馳不測之淵雖賁育之勇不及陛下

然(しか)るに陛下が代より六回宿次(しゅくつぎ)の馬車に乗りかえて、不測(ふそく)の淵(ふち)に馳(は)せるは、賁育の勇敢さと雖(いえど)も、陛下には及(およ)びません。

陛下至代邸西向讓天子位者再南面讓天子位者三

陛下が代邸に至り、西に向(むか)って天子の地位を譲(ゆず)ること二度、南に面(めん)して天子の地位を譲(ゆず)ること三度、

夫許由一讓而陛下五以天下讓過許由四矣

それ、許由は一度の謙譲(けんじょう)にして、陛下は五度、天下を以って謙譲(けんじょう)し、許由を四度も上まわっています。

且陛下遷淮南王欲以苦其志使改過有司衛不謹故病死

まさに陛下が淮南王を遷(うつ)すは、その志(こころざし)を苦々(にがにが)しく思うを以って過(あやま)ちを改(あらた)めさしめようと欲したのであって、役人が護衛(ごえい)するに謹(つつし)まなかったので、故(ゆえ)に病死したのです」と。

於是上乃解曰將柰何盎曰

ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)はすなわち解(かい)し、曰く、「まさにどうしたらよいだろうか?」と。漢中郎将袁盎曰く、

淮南王有三子唯在陛下耳

「淮南王(劉長)には三人の子が有り、ただ陛下に在(あ)るのみ」と。

於是文帝立其三子皆為王盎由此名重朝廷

ここに於いて漢孝文帝劉恒はその三人の子を立てて、皆(みな)王(おう)にした。漢中郎将袁盎はこれに由(よ)り、名は朝廷に重(おも)んぜられた。

袁盎常引大體慨

漢中郎将袁盎は常(つね)に大体(完備した徳)を引(ひ)いてなげきうれえていた。

宦者趙同以數幸常害袁盎袁盎患之

宦官(かんがん)の趙同は占(うらな)いを以って寵愛され、常(つね)に漢中郎将袁盎をじゃまに思い、漢中郎将袁盎はこれを患(うれ)えた。

盎兄子種為常侍騎持節夾乘說盎曰

漢中郎将袁盎の兄の子の袁種が漢常侍騎と為り、符節を持って馬車の左右に侍(はべ)っていた。漢中郎将袁盎に説(と)いて曰く、

君與鬬廷辱之使其毀不用

「君はともに闘(たたか)って、朝廷でこれを辱(はずかし)め、その謗(そし)りをして不用(ふよう)にさしめるのです」と。

孝文帝出趙同參乘袁盎伏車前曰

漢孝文帝劉恒が出かけるとき、宦者趙同が参乗(さんじょう)した。漢中郎将袁盎は車の前に伏(ふ)して曰く、

臣聞天子所與共六尺輿者皆天下豪英

「わたしは聞きます、天子が六尺の輿(こし)と共にするところの者は、皆(みな)天下の豪英であると。

今漢雖乏人陛下獨奈何與刀鋸餘人載

今、漢は人材が乏(とぼ)しいと雖(いえど)も、陛下はよりによってどうして刀鋸余人(宦官のこと)とともに載(の)るのですか?」と。

於是上笑下趙同趙同泣下車

ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)は笑い、趙同を下(お)ろした。趙同は泣いて下車した。

文帝從霸陵上欲西馳下峻阪

漢孝文帝劉恒は霸陵の上から、西に峻阪を馳(は)せ下(くだ)ろうと欲した。

袁盎騎并車擥轡上曰將軍怯邪

漢中郎将袁盎は馬に乗ったまま、馬車に並(なら)んで轡(くつわ)をつまみとった。
上(漢孝文帝劉恒)曰く、「将軍はおびえているのか?」と。

盎曰臣聞千金之子坐不垂堂

漢中郎将袁盎曰く、「わたしは聞きます、千金の子は坐(ざ)して(なんとはなしに)堂(壁のない平土間で、庭から上がったところ)にぶらさがったりしない(危険をおかさないという意)、

百金之子不騎衡聖主不乘危而徼幸

百金の子は手摺(てすり 或いは横木)に乗らない、聖主は危険を掛(か)けて、分不相応の幸福をもとめたりしない、と。

今陛下騁六騑馳下峻山如有馬驚車敗

今、陛下は六騑(左右に添え馬のついた四頭+二頭立て馬車?)を走らせて、峻山を馳(は)せ下(くだ)ろうとし、万が一、馬が驚(おどろ)いて車が敗(やぶ)れることが有(あ)れば、

陛下縱自輕柰高廟太后何上乃止

陛下は勝手きままに自らを軽(かろ)んじて、高廟(漢高祖劉邦の廟)、太后(薄氏)にどうしたらよいでしょうか」と。上(漢孝文帝劉恒)はすなわち止(や)めた。

上幸上林皇后慎夫人從

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上幸上林皇后慎夫人從

上(漢孝文帝劉恒)が、上林に行き、皇后、慎夫人が従(したが)った。

其在禁中常同席坐

その禁中に在(あ)るは、常(つね)に席を同じくして坐(すわ)った。

及坐郎署長布席袁盎引卻慎夫人坐

坐(すわ)るに及(およ)んで、郎署長が席を布(し)き、漢中郎将袁盎が慎夫人の座席を後(うし)ろに引いた。

慎夫人怒不肯坐上亦怒起入禁中

慎夫人は怒り、坐(すわ)ることをよしとしなかった。上(漢孝文帝劉恒)もまた怒り、立ち上がって、禁中に入った。

盎因前說曰臣聞尊卑有序則上下和

漢中郎将袁盎は因(よ)りて前に進み出て説(と)いた、曰く、「わたしは聞きます、尊卑(そんぴ)には序列(じょれつ)が有って、上下(じょうげ)が和(わ)する、と。

今陛下既已立后慎夫人乃妾

今、陛下はすでに后(きさき)を立て、慎夫人はすなわち妾(めかけ)です。

妾主豈可與同坐哉適所以失尊卑矣

妾主がどうしてともに坐(ざ)を同じくすることができましょうかな。正妻が尊卑(そんぴ)を失(うしな)うを以ってするところであります。

且陛下幸之即厚賜之

且(か)つ、陛下はこれを寵愛し、すなわち、これに厚(あつ)く賜(たま)わり、

陛下所以為慎夫人適所以禍之

陛下の慎夫人に為すを以ってするところは、正妻がこれに禍(わざわい)を以ってするところです。

陛下獨不見人彘乎

陛下はただ”人彘”を考えないのですか」と。

於是上乃說召語慎夫人慎夫人賜盎金五十斤

ここに於いて上(漢孝文帝劉恒)はすなわち慎夫人を召(め)しよせて語った。慎夫人は漢中郎将袁盎に金五十斤を賜(たま)わった。

然袁盎亦以數直諫不得久居中調為隴西都尉

然(しか)るに漢中郎将袁盎もまた、たびたび直々(じきじき)に諌(いさ)めるを以ってしたので、久(ひさ)しく中(なか)に居(お)ることを得(え)ず、移(うつ)って隴西都尉と為った。

仁愛士卒士卒皆爭為死遷為齊相

士卒を仁愛(じんあい)し、士卒は皆(みな)争って命がけに為した。遷(うつ)って斉相に為った。

徙為吳相辭行種謂盎曰

移(うつ)って呉相と為った。辞(じ)して行くとき、袁種が呉相袁盎に謂(い)った、曰く、

吳王驕日久國多姦今茍欲劾治

「呉王(劉 濞)は驕(おご)り高ぶる日々が久(ひさ)しく、国には不正が多いです。今、いやしくも治(ち)をきわめようと欲しても、

彼不上書告君即利劍刺君矣

彼は上書せずに君に告(つ)げ、すなわち鋭利(えいり)な剣で君を刺(さ)すことでしょう。

南方卑溼君能日飲毋何時說王曰毋反而已

南方は低く湿気があり、君は毎日酒を飲んで何もせず、時々王に叛(そむ)くことなかれとと説(と)くだけをよくして、

如此幸得脫盎用種之計吳王厚遇盎

この如(ごと)くすれば、幸いにもまぬかれることができるでしょう」と。呉相袁盎は袁種の計(はか)りごとを用(もち)い、呉王劉 濞は呉相袁盎を厚遇(こうぐう)した。

盎告歸道逢丞相申屠嘉

呉相袁盎が帰るを告(つ)げ、漢丞相申屠嘉に道で出逢い、

下車拜謁丞相從車上謝袁盎

下車して拝謁(はいえつ)した。漢丞相申屠嘉は車の上から呉相袁盎に謝した。

袁盎還愧其吏乃之丞相舍上謁求見丞相

呉相袁盎は還(かえ)り、その役人に羞(は)じて、そこで、漢丞相申屠嘉の邸舎に行って謁見を申し上げ、漢丞相申屠嘉に見(まみ)えることを求めた。

丞相良久而見之盎因跪曰

漢丞相申屠嘉はしばらくしてこれに見(まみ)えた。呉相袁盎は因(よ)りて跪(ひざまず)いて曰く、

願請丞相曰使君所言公事

「願わくは時間を請(こ)う」と。漢丞相申屠嘉曰く、「君が言うところをして、公(おおやけ)の事ならば、

之曹與長史掾議吾且奏之即私邪吾不受私語

役所に行き、長史、掾史とともに議(ぎ)したら、吾(われ)はまさにこれを奏上しよう。すなわち、私(わたくし)ごとならば、吾(われ)は私事の話しは受(う)けない」と。

袁盎即跪說曰君為丞相自度孰與陳平絳侯

呉相袁盎はすなわち、跪(ひざまず)いて説(と)いて曰く、「君は丞相と為って、自らをはかるに陳平、絳侯(周勃)とどちらがよいですか?」と。

丞相曰吾不如袁盎曰

漢丞相申屠嘉曰く、「吾(われ)は及(およ)ばない」と。呉相袁盎曰く、

善君即自謂不如

「善いことです、君がすなわち自らを及ばないと謂(い)うは。

夫陳平絳侯輔翼高帝定天下為將相而誅諸呂存劉氏
 
それ、陳平、絳侯(周勃)は漢高帝劉邦を守り助け、天下を平定し、将相に為り、しこうして、諸(もろもろ)の呂氏を誅(ちゅう)し、劉氏を存(ながら)えさせました。

君乃為材官蹶張遷為隊率

君はすなわち材官蹶張と為って、遷(うつ)って隊率と為り、

積功至淮陽守非有奇計攻城野戰之功

手柄(てがら)を積(つ)んで、淮陽守に至りましたが、奇計、攻城、野戦の功が有るのでは非(あら)ず。

且陛下從代來每朝郎官上書疏

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且陛下從代來每朝郎官上書疏

且(か)つ陛下が代より来て、朝するごとに、郎官が上奏文を申し上げて、

未嘗不止輦受其言言不可用置之

未(いま)だ嘗(かつ)てその言を受けて手車を止めたことはなく、言はこれを用い置くに不可(ふか)で、

言可受採之未嘗不稱善

言がこれを採用して受けられても、未(いま)だ嘗て善(よ)いと称(たた)えられたことがありません。

何也則欲以致天下賢士大夫

どうしてかといえば、天下の賢士大夫を招(まね)くを以って欲しているからです。

上日聞所不聞明所不知日益聖智

上(漢孝文帝劉恒)は毎日聞いたことがないところを聞き、知らなかったところを明らかにし、日に日に益々(ますます)聖智になっています。

君今自閉鉗天下之口而日益愚

君は今、自(みずか)ら閉(と)ざして天下の口(くち)にかなばさみをはめて、日に日に益々(ますます)愚(おろ)かになっています。

夫以聖主責愚相君受禍不久矣

それ、聖主が愚相を責(せ)めとがめるを以って、君が禍(わざわい)を受けるのは長くはないでしょう」と。

丞相乃再拜

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丞相乃再拜曰嘉鄙野人乃不知將軍幸教

漢丞相申屠嘉はそこで再拝(さいはい)して曰く、「わたしはいなか者で、すなわち知りませんでしたが、将軍が幸いにも教えてくださいました」と。

引入與坐為上客

引き入れてともに座(ざ)し、上客と為した。

盎素不好鼂錯鼂錯所居坐盎去

呉相袁盎は素(もと)より鼂錯を好(この)まず、鼂錯が座(ざ)に居(お)るところ、袁盎は去り、

盎坐錯亦去兩人未嘗同堂語

袁盎が座(すわ)れば、鼂錯もまた去(さ)り、両人(りょうにん)は未(いま)だ嘗(かつ)て堂を同じくして語ったことがなかった。

及孝文帝崩孝景帝即位鼂錯為御史大夫

漢孝文帝劉恒が崩じ、漢孝景帝劉啓が即位するに及んで、鼂錯は漢御史大夫と為った。

使吏案袁盎受吳王財物抵罪詔赦以為庶人

役人をして、呉相袁盎が呉王劉濞の財物(ざいぶつ)をさずかったことを取調べさせ、罪にふれて、詔(みことのり)して赦(ゆる)して庶人と為すを以ってした。

吳楚反聞鼂錯謂丞史曰

呉、楚の反乱が聞こえ、漢御史大夫鼂錯が丞史に謂(い)った曰く、

夫袁盎多受吳王金錢專為蔽匿

「それ、袁盎は呉王の金銭を多く受け取り、もっぱら、隠蔽(いんぺい)して、

言不反今果反欲請治盎宜知計謀

叛(そむ)かないと言った。今、果(は)たして叛(そむ)き、袁盎が知っているはずである計謀(けいぼう)を取り調べることを請(こう)を欲する」と。

丞史曰事未發治之有絕

丞史曰く、「事が未(ま)だ発せられないうちにこれを取り調べれば絶(た)やすことが有っただろう。

今兵西鄉治之何益且袁盎不宜有謀

今、兵は西に向っており、これを取り調べてもどうして益(えき)するであろうか。且(か)つ袁盎が謀(はかりごと)を有するはずがありません」と。

鼂錯猶與未決人有告袁盎者袁盎恐夜見竇嬰

漢御史大夫鼂錯はぐずぐすとして未(ま)だ決めないうちに、人の袁盎に告げる者が有り、袁盎は恐れ、夜に魏其侯竇嬰(景帝の母の従兄の子)に見(まみ)え、

為言吳所以反者願至上前口對狀

呉が叛(そむ)いた理由の言(げん)を為し、上(漢孝景帝劉啓)の前に至って状況を口頭(こうとう)で応(こた)えることを願った。

竇嬰入言上上乃召袁盎入見

魏其侯竇嬰は入って言上(ごんじょう)し、上(漢孝景帝劉啓)はそこで、袁盎を召し寄せて入見させた。

鼂錯在前及盎請辟人賜

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鼂錯在前及盎請辟人賜

漢御史大夫鼂錯が前におり、袁盎が人払いして間(ま)を賜(たま)わることを請(こ)うに及んで、

錯去固恨甚

漢御史大夫鼂錯は去(さ)り、固(かた)く恨(うら)むこと甚(はなは)だしかった。

袁盎具言吳所以反狀以錯故

袁盎は呉が叛(そむ)く状況になった理由は漢御史大夫鼂錯故(ゆえ)を以ってしたからで、

獨急斬錯以謝吳吳兵乃可罷

ただ急いで漢御史大夫鼂錯を斬って、呉に謝(あやま)るを以ってすれば、呉兵はすなわち止(と)めることができますと具(つぶさ)に言った。

其語具在吳事中使袁盎為太常竇嬰為大將軍

その話しは呉事の中に詳(くわ)しく在(あ)る。袁盎をして漢太常と為し、魏其侯竇嬰をして漢大将軍と為した。

兩人素相與善逮吳反

両人(りょうにん)は素(もと)より相(あい)ともに仲が善かった。呉の反乱をとらえに、

諸陵長者長安中賢大夫爭附兩人車隨者日數百乘

諸(もろもろ)の陵長者、長安中(じゅう)の賢大夫が争って両人により集まり、車がつづくのは毎日数百台。

及鼂錯已誅袁盎以太常使吳

漢御史大夫鼂錯がすでに誅(ちゅう)されるに及んで、漢太常袁盎は太常を以って呉に使(つか)いした。

吳王欲使將不肯欲殺之使一都尉以五百人圍守盎軍中

呉王劉濞は呉将にさしめようと欲したが、よしとしなかったので、これを殺そうと欲し、一人の呉都尉をつかわして、五百人を以って漢太常袁盎軍中を取り囲んで見張らせた。

袁盎自其為吳相時(嘗)有從史嘗盜愛盎侍兒

漢太常袁盎はその呉相と為っていた時より、従史がおり、嘗(かつ)て袁盎の侍児(じこ)を愛し盗み、

盎知之弗泄遇之如故

袁盎はこれを知っていたが、漏(も)らさず、これを以前の如(ごと)くあつかった。

人有告從史言君知爾與侍者通乃亡歸

人の従史に告げる者が有り、言った、「君はなんじが侍者と往き来していることを知っている」と。そこで、逃げ帰った。

袁盎驅自追之遂以侍者賜之復為從史

袁盎は駆(か)けて自らこれを追いかけ、遂(つい)に侍者を以ってこれに賜(たま)わり、ふたたび従史と為した。

及袁盎使吳見守從史適為守盎校尉司馬

漢太常袁盎が呉に使(つか)いして見張られるに及んで、従史はたまたま漢太常袁盎を見張る校尉司馬に為っており、

乃悉以其裝齎置二石醇醪會天寒士卒饑渴

そこで、ことごとく装飾、金品を以って二石(一石は約180.3ℓ)の濃い濁り酒に置き換え、ちょうどこの時、天気は寒く、士卒は餓(う)えて渇(かわ)き、

飲酒醉西南陬卒皆臥司馬夜引袁盎起曰

酒を飲んで酔(よ)い、西南の区域の兵は皆(みな)横になって寝てしまった。司馬は夜、漢太常袁盎を引いて起(お)こし、曰く、

君可以去矣吳王期旦日斬君

「君は去(さ)るを以ってするべきです。呉王は夜明けに君を斬ろうと待ち受けています」と。

盎弗信曰公何為者

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盎弗信曰公何為者

袁盎は信じなかった、曰く、「公は何を為す者か?」と。

司馬曰臣故為從史盜君侍兒者

司馬曰く、「わたしは以前従史と為って、君の侍児を盗んだ者です」と。

盎乃驚謝曰公幸有親吾不足以累公

袁盎はすなわち驚いて謝して曰く、「公には幸いにも親が有り、吾(われ)は公をわずらわすを以ってするには足(た)りません」と。

司馬曰君弟去臣亦且亡辟吾親君何患

司馬曰く、「君が去り次第、わたしもまたまさに吾(われ)の親を避難させて逃げんとす。君はどうして患(うれ)えるのですか」と。

乃以刀決張道從醉卒(直)隧[直]出

そこで、刀を以って道を切り開き、酔った兵の通路からまっすぐに出た。

司馬與分背袁盎解節毛懷之杖步行七八里

司馬とともに背を分けた。袁盎は節(使者の旗)の毛(け)を解(と)いて、これを懐(ふところ)に
しまい、(旗さおを)杖(つえ)にして、歩行(ほこう)すること、七、八里(一里150m換算で約1050m~1200m)、

明見梁騎騎馳去遂歸報

(空が)明らみ、梁騎を見て、騎乗して馳(は)せて去り、遂(つい)に帰って報告した。

吳楚已破上更以元王子平陸侯禮為楚王

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吳楚已破上更以元王子平陸侯禮為楚王袁盎為楚相

呉、楚がすでに破れ、上(漢孝景帝劉啓)は(楚の)元王子の平陸侯劉礼を以って楚王と為し、漢太常袁盎を以って楚相と為した。

嘗上書有所言不用

嘗(かつ)て言う所有って上書し、用(もち)いられなかった。

袁盎病免居家與閭里浮沈相隨行鬬雞走狗

楚相袁盎は病(やまい)になり免ぜられて家に居(い)た。村民とともに浮(う)き沈(しず)みして相(あい)随行(ずいこう)しあい、闘鶏(とうけい)、走狗(犬の競走)をした。

雒陽劇孟嘗過袁盎盎善待之

雒陽の劇孟が嘗(かつ)て袁盎に立ち寄り、袁盎は善(よ)くこれをもてなした。

安陵富人有謂盎曰吾聞劇孟博徒

安陵の金持ちの袁盎に謂(い)う者が有り、曰く、「吾(われ)は劇孟は博徒(ばくと)だと聞きます。

將軍何自通之盎曰

将軍はどうして自らこれと往き来するのですか?」と。袁盎曰く、

劇孟雖博徒然母死客送葬車千餘乘

「劇孟は博徒と雖(いえど)も、然(しか)るに母が死んだとき、客の葬儀を見送るは車千余台で、

此亦有過人者且緩急人所有

これもまた人を越(こ)えるものがある。まさに緩急(かんきゅう)は人の有(ゆう)するところ。

夫一旦有急叩門不以親為解

それ、一旦(いったん)急(きゅう)が有って門(もん)を叩(たた)けば、親(おや)を以っていいわけを為さず、

不以存亡為辭天下所望者獨季心劇孟耳

存亡(そんぼう)を以ってことわりを為さず、天下が望むところの者はただ李心、劇孟のみ。

今公常從數騎一旦有緩急寧足恃乎

今、公は常(つね)に数騎を従(したが)えているが、一旦(いったん)、緩急(かんきゅう この場合危急)が有れば、寧(むし)ろたよるに足(た)るだろうか」と。

罵富人弗與通諸公聞之皆多袁盎

富人を罵(ののし)り、ともに往き来することはなかった。諸公はこれを聞いて、皆(みな)袁盎をほめた。

袁盎雖家居景帝時時使人問籌策

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袁盎雖家居景帝時時使人問籌策

袁盎は家に居(お)ると雖(いえど)も、漢孝景帝劉啓は時々、人をつかわして策謀(さくぼう)を問(と)わせた。

梁王欲求為嗣袁盎進說其後語塞

梁王劉武は後継ぎと為ることを求めようと欲したが、袁盎が進み出て説(と)き、その後継の話しは閉ざされた。

梁王以此怨盎曾使人刺盎

梁王劉武はこれを以って袁盎を怨(むら)み、そこで人をつかわし袁盎を刺そうとした。

刺者至關中問袁盎諸君譽之皆不容口

刺者が関中に至り、袁盎を問うと、諸君はこれを誉(ほ)め、皆(みな)議論を容(い)れなかった。

乃見袁盎曰臣受梁王金來刺君君長者不忍刺君

そこで、袁盎に見(まみ)えて曰く、「わたしは梁王の金を受け取り君を刺しに来たが、君は長(た)けた者で、君を刺すには忍(しの)びない。

然後刺君者十餘曹備之

然(しか)るに君を刺す者十余人の仲間が後(おく)れてくるので、これに備(そな)えよ」と。

袁盎心不樂家又多怪乃之棓生所問占

袁盎の心は楽しまず、家もまた怪(あや)しいものが多く、そこれ、棓先生の所に行き、占(うらな)いを問(と)うた。

還梁刺客後曹輩果遮刺殺盎安陵郭門外

還(かえ)って、梁の刺客の後(あと)に仲間達が果(は)たして袁盎を安陵郭門の外で遮(さえぎ)り刺し殺した。

鼂錯者潁川人也學申商刑名於軹張恢先所

鼂錯という者は、潁川人である。申商(申不害・商鞅)刑名を軹の張恢先生の所に於いて学(まな)び、

與雒陽宋孟及劉禮同師以文學為太常掌故

雒陽の宋孟及び劉礼と師を同じくした。文学を以って漢太常掌故と為った。

錯為人陗直刻深孝文帝時天下無治尚書者

鼂錯の人と為りは厳正で非常に奥深かった。漢孝文帝劉恒の時、天下に尚書を治(おさ)める者が無く、

獨聞濟南伏生故秦博士治尚書年九十餘

ただ一人、済南の伏先生が以前秦の博士で、尚書を治(おさ)めていると聞き、年は九十余歳で、

老不可徵乃詔太常使人往受之

老(お)いて取り立てるには不可で、そこで、漢太常に詔(みことのり)して人をつかわしこれの教えを受けに往(い)かせようとした。

太常遣錯受尚書伏生所

漢太常は漢太常掌故鼂錯を遣(つか)わして、伏先生の所で尚書を受けさせた。

還因上便宜事以書稱說

還(かえ)ると、因(よ)りて、上(漢孝文帝劉恒)は事(こと)を便宜(べんぎ)するに、尚書を以って説(と)くを称(たた)えた。

詔以為太子舍人門大夫家令

詔(みことのり)して漢太子(劉啓)の舎人の門大夫、家令と為すを以ってした。

以其辯得幸太子太子家號曰智囊

その弁(べん)を以って漢太子(劉啓)の寵愛を得て、漢太子(劉啓)の家は号(ごう)して「智恵袋」といった。

數上書孝文時言削諸侯事及法令可更定者

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數上書孝文時言削諸侯事及法令可更定者

たびたび漢孝文帝劉恒時に上書して、諸侯を削(けず)る事、及び法令の改(あらた)めて定めるべきものを言い、

書數十上孝文不聽然奇其材遷為中大夫

数十(すうじゅう)回書いてたてまつったが、漢孝文帝劉恒は聴き入れなかった。然(しか)るにその才能を奇として、遷(うつ)して漢中大夫と為した。

當是時太子善錯計策袁盎諸大功臣多不好錯

まさにこの時、漢太子(劉啓)は漢中大夫鼂錯の計策を善(よ)しとし、袁盎、諸(もろもろ)の大功臣は多くが漢中大夫鼂錯を好まなかった。

景帝即位以錯為內史

漢孝景帝劉啓が即位すると、漢中大夫鼂錯を以って内史と為した。

錯常數請言事輒聽寵幸傾九卿法令多所更定

漢内史鼂錯はいつもひそかに事(こと)を言うをたびたび請(こ)い、そのたびごとに聴き入れられ、寵幸は九卿を弱まらせ、法令の多くが改(あらた)めて定めた所であった。

丞相申屠嘉心弗便力未有以傷

漢丞相申屠嘉の心は安(やす)らかではなかったが、力(ちから)は未(ま)だ傷(きず)つけるを以ってするにはなかった。

內史府居太上廟壖中門東出不便

內史府は漢太上廟(高祖の父の廟)の壖(垣にそったまわりの低い土地)の中に居(お)り、東に出る門は、不便だった。

錯乃穿兩門南出鑿廟壖垣

漢内史鼂錯はそこで、南に出る二つの門を穿(うが)ち、廟の壖垣に穴(あな)をあけた。

丞相嘉聞大怒欲因此過為奏請誅錯

漢丞相申屠嘉は聞くと、大いに怒り、この過(あやま)ちに因(よ)りて奏上を為して、漢内史鼂錯を誅(ちゅう)することを請(こ)おうと欲した。

錯聞之即夜請具為上言之

漢内史鼂錯はこれを聞き、すぐに夜、具(つぶさ)に上言するために間(ま)を請(こ)うた。

丞相奏事因言錯擅鑿廟垣為門請下廷尉誅

漢丞相申屠嘉が事(こと)を奏(かな)でるは、因(よ)りて、漢内史鼂錯が廟垣を思うままに穴をあけて門を作ったことを言い、廷尉に下(くだ)して誅(ちゅう)することを請(こ)うた。

上曰此非廟垣乃壖中垣不致於法

上(漢孝景帝劉啓)曰く、「これは廟垣ではなく、すなわち壖中垣であり、法(ほう)にはかけられない」と。

丞相謝罷朝怒謂長史曰

漢丞相申屠嘉は謝(しゃ)した。朝廷を退出すると、怒って漢長史に謂(い)った、曰く、

吾當先斬以聞乃先請為兒所賣固誤

「吾(われ)はまさに先(さき)に斬って申し上げるを以ってするべきであった。すなわち先(さき)に請(こ)うたので、小僧のあざむかれるところと為ってしまったのは、まことに誤(あやま)りであった」と。

丞相遂發病死錯以此愈貴

漢丞相申屠嘉は遂(つい)に病(やまい)を発して死んだ。漢内史鼂錯はこれを以っていよいよ貴(とうと)ばれていった。

遷為御史大夫

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遷為御史大夫請諸侯之罪過削其地收其枝郡

遷(うつ)して漢御史大夫と為し、諸侯の罪過(ざいか)は、その地を削(けず)って、その支郡を収(おさ)めることを請(こ)うた。

奏上上令公卿列侯宗室集議

奏上し、上(漢孝景帝劉啓)は公卿、列侯、宗室に令(れい)して集まり議させたが、

莫敢難獨竇嬰爭之由此與錯有卻

敢(あ)えて非難するものはなかった。ただ一人魏其侯竇嬰だけがこれを言い争い、これに由(よ)り漢御史大夫鼂錯と仲たがいを有(ゆう)した。

錯所更令三十章諸侯皆諠譁疾鼂錯

漢御史大夫鼂錯が令を改(あらた)めた所は三十章で、諸侯は皆(みな)やかましく言い騒いで漢御史大夫鼂錯をにくんだ。
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