September 4, 2013, 4:30 pm
上還至洛陽上曰代居常山北趙乃從山南有之遠
上(劉邦)は還(かえ)り洛陽に至った。上(劉邦)曰く、「代は常山の北に居(お)り、趙はすなわち
山の南よりこれに有り、遠い」と。
乃立子恒為代王都中都代鴈門皆屬代
そこで子の劉恒を立てて代王と為し、中都を都とし、代、鴈門は皆(みな)代に属(ぞく)した。
高祖十二年冬樊噲軍卒追斬豨於靈丘
漢高祖十二年冬、漢樊噲軍はとうとう追いかけて陳豨を霊丘で斬った。
太史公曰韓信盧綰非素積累善之世
太史公曰く、「韓信(韓王信)、盧綰は素(もと)より代々に徳を積(つ)み善を累積(るいせき)していたのではなく、
徼一時權變以詐力成功遭漢初定
一時の権力の変化をうかがい、詐謀(さぼう)の力を以って成功し、漢が平定したばかりの時に遭(あ)い、
故得列地南面稱孤
故(ゆえ)に地を裂(さ)くことを得て、南面して孤(王侯の自称)を称した。
內見疑彊大外倚蠻貊以為援
内(うち)に強大を疑われる目にあい、外(そと)に夷貊をたよって援(たす)けと為すを以ってし、
是以日疏自危事窮智困卒赴匈奴豈不哀哉
ここに、日に日に疎(うと)んぜられるを以ってみずからを危(あや)うくし、事が窮(きゅう)し、智(ち)がゆきづまり、とうとう匈奴に赴(おもむ)いた。どうして哀(かな)しまないであろうかな。
陳豨梁人其少時數稱慕魏公子
陳豨は梁の人で、その少年時、たびたび魏公子(信陵君魏無忌)を慕(した)い称(たた)えた。
及將軍守邊招致賓客而下士名聲過實
軍を率(ひき)いて辺境を守るに及んで、賓客(ひんきゃく)を招致(しょうち)して士にへりくだり、
名声は実力を越(こ)えた。
周昌疑之疵瑕頗起懼禍及身
周昌がこれを疑い、(陳豨の)過失(かしつ)が頗(すこぶ)る起(お)こると、(陳豨は)禍(わざわい)が身に及ぶことを懼(おそ)れた。
邪人進說遂陷無道於戲悲夫
よこしまな人が説(せつ)を進め、遂(つい)に無道(むどう)に陥(おちい)った。ああ、悲しいかな。
夫計之生孰成敗於人也深矣
それ、計(はか)りごとの人に於いて成功、敗亡のいずれかを生(しょう)ずるのは、奥深いことである」と。
今日で史記 韓信盧綰列伝は終わりです。明日からは史記 田儋列伝に入ります。
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September 5, 2013, 6:23 pm
田儋者狄人也故齊王田氏族也
田儋という者は狄人であり、前の斉王田氏の一族である。
儋從弟田榮榮弟田皆豪宗彊能得人
田儋の年下のいとこの田栄、、田栄の弟の田横は皆(みな)豪傑(ごうけつ)で、宗族(そうぞく)は強く、人望(じんぼう)を得ることができた。
陳涉之初起王楚也使周市略定魏地
陳涉の楚に王となって立ち上がったばかりのときに、周市(魏の人)をつかわし魏の地を略取し平定させた。
北至狄狄城守田儋詳為縛其奴
北に狄に至ると、狄城は守った。田儋は偽(いつわ)ってその下男を縛(しば)り、
從少年之廷欲謁殺奴
(狄の)少年たちをつれて法廷に行き、(狄令に)謁見(えっけん)して下男を殺すことを欲した。
見狄令因擊殺令而召豪吏子弟曰
狄令に見(まみ)えると、因(よ)りて狄令を撃(う)ち殺し、しこうして豪吏(ごうり)の子弟(してい)を召して、曰く、
諸侯皆反秦自立齊古之建國
「諸侯は皆(みな)秦に叛(そむ)き自立した。斉は古(いにしえ)の建国で、
儋田氏當王遂自立為齊王
わたしは田氏であり、当然王になるべきだ」と。遂(つい)に自(みずか)ら立って斉王と為った。
發兵以擊周市周市軍還去
兵を発して張楚将周市を撃(う)つを以ってした。張楚将周市軍は還(かえ)り去った。
田儋因率兵東略定齊地
斉王田儋は因(よ)りて兵を率(ひき)いて東に斉の地を略定した。
秦將章邯圍魏王咎於臨濟急
秦将章邯は魏王魏咎を臨済(魏の都)に於いて包囲し、さしせまらせた。
魏王請救於齊齊王田儋將兵救魏
魏王魏咎は斉に救援を請(こ)い、斉王田儋は兵を率(ひき)いて魏を救援した。
章邯夜銜枚擊大破齊魏軍
秦将章邯は夜、枚(昔、夜、敵を攻めるとき声を出さないように兵士の口にくわえさせた
細長い木)をくわえさせて撃(う)ち、斉軍、魏軍を大破(たいは)し、
殺田儋於臨濟下
斉王田儋を臨済(魏の都)の下(もと)で殺した。
儋弟田榮收儋餘兵東走東阿
斉王田儋のいとこの田栄が斉王田儋の残った兵を収(おさ)めて東に東阿に走った。
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September 6, 2013, 4:39 pm
田榮之走東阿章邯追圍之
斉将田栄の東阿に逃走するは、秦将章邯が追いかけてこれを包囲した。
項梁聞田榮之急乃引兵擊破章邯軍東阿下
楚将項梁は斉将田栄の急(さしせまり)を聞き、そこで、兵を引いて秦将章邯軍を東阿の下(もと)で撃(う)ち破(やぶ)った。
章邯走而西項梁因追之
秦将章邯は逃走して西へ進み、楚将項梁は因(よ)りてこれを追いかけた。
而田榮怒齊之立假乃引兵歸擊逐齊王假
しこうして、斉将田栄は斉の田仮を(王に)立てたことを怒(おこ)り、そこで、兵を引いて(斉に)帰り、斉王田仮を撃(う)ち追い払った。
假亡走楚齊相角亡走趙
斉王田仮は楚に逃げ走った。斉相の田角は趙に逃げ走った。
角弟田前求救趙因留不敢歸
斉相田角の弟の田間は前(さき)に、趙に救(すく)いを求(もと)めていたので、因(よ)りて留(とど)まって(斉に)敢(あ)えて帰らなかった。
田榮乃立田儋子市為齊王
斉将田栄はそこで、(先々の斉王の)田儋の子(こ)の田市を立てて斉王と為した。
榮相之田為將平齊地
斉将田栄は斉相になり、田横(田栄の弟)は将軍に為り、斉の地を平定した。
項梁既追章邯章邯兵益盛
楚将項梁がすでに秦将章邯に追いつくと、秦将章邯兵はますます盛んになり、
項梁使使告趙齊發兵共擊章邯
楚将項梁は使者をつかわして、趙、斉に兵を発して共(とも)に秦将章邯を撃(う)つよう告(つ)げさせた。
田榮曰使楚殺田假
斉相田栄曰く、「楚をして(先の斉王)田仮を殺さしめ、
趙殺田角田肯出兵
趙をして(先の斉相)田角、(田角の弟)田間を殺さしめれば、ひそかに出兵を承知しましょう」と。
楚懷王曰田假與國之王
楚懐王熊心は曰く、「(先の斉王)田仮は与国(同盟国)の王で、
窮而歸我殺之不義
窮(きゅう)して我(われ)に帰属したので、これを殺すのは不義(ふぎ)だ」と。
趙亦不殺田角田以市於齊
趙(趙王趙歇)もまた(先の斉相)田角、(田角の弟の)田間を殺して斉に於いてさらそうとはしなかった。
齊曰蝮螫手則斬手螫足則斬足何者
斉曰く、「まむしが手をさせば、手を斬り、足をさせば、足を斬る。どうしてかというと、
為害於身也今田假田角田於楚趙
身(み)に害(がい)を為すからである。今、田仮、田角、田間の楚、趙に於いては、
非直手足戚也何故不殺
手足(てあし)を真っ直ぐにせずにちぢこまっているときであり、何故(なにゆえ)に殺さないのか?
且秦復得志於天下則齮龁用事者墳墓矣
まさに秦がふたたび天下に志(こころざし)を得(え)れば、事に用(もち)いられた者の墳墓(ふんぼ)を噛(か)みきり食(く)らうことだろうに」と。
楚趙不聽齊亦怒終不肯出兵
楚、趙は聴き入れなかった。斉もまた怒(おこ)り、とうとう出兵を承知しなかった。
章邯果敗殺項梁破楚兵楚兵東走
秦将章邯は果(は)たして楚将項梁を敗(やぶ)り殺し、楚兵を破(やぶ)った。楚兵は東へ逃走した。
而章邯渡河圍趙於鉅鹿
しこうして、秦将章邯は河を渡って趙(趙王趙歇)を鉅鹿に於いて包囲した。
項羽往救趙由此怨田榮
楚上将項羽が趙を救援に往(ゆ)き、これに由(よ)り斉相田栄を怨(うら)んだ。
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September 7, 2013, 6:20 pm
項羽既存趙降章邯等西屠咸陽
楚上将項羽はすでに趙を存(ながら)えさせ、秦将章邯らを降(くだ)し、西に咸陽を陥落(かんらく)させ、
滅秦而立侯王也乃徙齊王田市更王膠東治即墨
秦を滅(ほろ)ぼして侯、王を立てた。そこで斉王田市を移(うつ)して改めて膠東で王にさせ、即墨で治(おさ)めさせた。
齊將田都從共救趙因入關
斉将田都は従って共(とも)に趙を救(すく)い、因(よ)りて関に入ったので、
故立都為齊王治臨淄
故(ゆえ)に斉将田都を立てて斉王と為し、臨淄で治(おさ)めさせた。
故齊王建孫田安項羽方渡河救趙
旧斉の王の田建の孫(まご)の田安は、楚上将項羽がまさに趙を救済せんとして河を渡ったとき、
田安下濟北數城引兵降項羽
田安は済北の数城を下(くだ)し、兵を引いて楚上将項羽に降(くだ)ったので、
項羽立田安為濟北王治博陽
西楚覇王項羽は田安を立てて済北王と為し、博陽で治(おさ)めさせた。
田榮以負項梁不肯出兵助楚趙攻秦
斉相田栄は楚将項梁にそむくを以って、兵を出して楚、趙を助けて秦を攻(せ)めることをよしとしなかったので、
故不得王趙將陳餘亦失職
故(ゆえ)に王位を得られなかった。趙将陳余もまた職を失(うしな)って、
不得王二人俱怨項王
王位を得られなかった。二人はともに項王(西楚覇王)項羽を怨(うら)んだ。
頊王既歸諸侯各就國田榮使人將兵助陳餘
項王(西楚覇王)項羽がすでに帰り、諸侯は各(おのおの)国に就(つ)いた。田栄は人をつかわし兵を率(ひき)いさせて成安君陳余を助け、
令反趙地而榮亦發兵以距擊田都田都亡走楚
趙の地で反乱させ、しこうして田栄もまた兵を発して斉王田都を撃(う)ちに対峙(たいじ)するを以ってし、斉王田都は楚に逃げ走った。
田榮留齊王市無令之膠東市之左右曰
田栄は(前の)斉王田市(膠東王田市)を留(とど)めようと、膠東へ行かせなかった。膠東王田市の左右の者たちは曰く、
項王彊暴而王當之膠東不就國必危
「項王(西楚覇王項羽)は強暴ですから、王は膠東に行くべきであり、国に就(つ)かないと、必ず危(あや)うくなります」と。
市懼乃亡就國田榮怒追擊殺齊王市於即墨
膠東王田市は懼(おそ)れ、すなわち逃げて国に就(つ)いた。田栄は怒って、(前の)斉王田市(膠東王田市)を即墨に於いて撃(う)ち殺し、
還攻殺濟北王安於是田榮乃自立為齊王盡并三齊之地
還(かえ)って、済北王田安を攻(せ)め殺した。ここに於いて田栄はすなわち、自立して斉王と為り、
ことごとく三つの斉の地(膠東、済北、斉)を併(あわ)せた。
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September 8, 2013, 6:35 pm
項王聞之大怒乃北伐齊
項王(項羽)はこれを聞き、大いに怒り、そこで、斉を討(う)ちに北へ進んだ。
齊王田榮兵敗走平原平原人殺榮
斉王田栄の兵は敗(やぶ)れ、平原に逃走した。平原人は斉王田栄を殺した。
項王遂燒夷齊城郭所過者盡屠之
項王(項羽)は遂(つい)に、斉の城郭(じょうかく)を焼き払い、通過した所の者(城郭)はことごとく陥落(かんらく)させた。
齊人相聚畔之榮弟收齊散兵
斉人は互いに集まってこれに叛(そむ)いた。斉王田栄の弟の斉将田横は斉の散りじりに為った兵を収(おさ)め、
得數萬人反擊項羽於城陽
数万人を得て、西楚覇王項羽に城陽に於いて反撃(はんげき)した。
而漢王率諸侯敗楚入彭城項羽聞之
しこうして、漢王劉邦は諸侯を率(ひき)いて楚を敗(やぶ)り、彭城(項王の都)に入った。西楚覇王項羽はこれを聞き、
乃醳齊而歸擊漢於彭城
そこで、斉をあきらめて(醳=釈?)帰り、漢を彭城(項王の都)に於いて撃(う)った。
因連與漢戰相距滎陽
因(よ)りてうちつづき漢と戦い、栄陽で相(あい)対峙(たいじ)した。
以故田復得收齊城邑立田榮子廣為齊王
故(ゆえ)を以って斉将田横はふたたび斉の城邑を収(おさ)めることを得た。故斉王田栄の子の田広を
立てて斉王と為し、
而相之專國政政無巨細皆斷於相
しこうして、斉将田横はこれを補佐し、国政を専(もっぱ)らにした。政治は巨細(大小)無く皆(みな)斉相国田横に於いて処断(しょだん)された。
定齊三年漢王使酈生往說下齊王廣及其相國
斉相国田横が斉を平定して三年、漢王劉邦は酈生(酈食其)をつかわし、斉王田広及びその相国田横を説(と)き下(くだ)しに往(ゆ)かせた。
以為然解其歷下軍
斉相国田横はその(説の)通りだと思い、その(斉の)歷下(地名)の軍を解(と)いた。
漢將韓信引兵且東擊齊
漢将韓信(漢相国大将軍韓信 (淮陰侯の方))は兵を引いてまさに斉を撃(う)ちに東に進まんとし、
齊初使華無傷田解軍於歷下以距漢
斉が初(はじ)め斉将華無傷軍、斉将田解軍を歷下につかわし漢と対峙(たいじ)するを以ってした。
漢使至乃罷守戰備縱酒且遣使與漢平
漢の使者(酈食其)が至り、そこで、守戦の備(そな)えを止(や)めて、大いに酒宴をし、まさに使者を遣(つか)わして漢と和平しようとした。
漢將韓信已平趙燕用蒯通計
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)はすでに趙、燕を平定しおわり、蒯通の計(はか)りごとを用いて、
度平原襲破齊歷下軍因入臨淄
平原を渡(わた)り、斉の歷下軍を襲(おそ)い破(やぶ)り、因(よ)りて臨淄(斉の都)に入った。
齊王廣相怒以酈生賣己而亨酈生
斉王田広、斉相国田横は漢使酈生(酈食其)が己(おのれ)をあざむくを以ってしたと怒(おこ)り、しこうして、漢使酈生(酈食其)を烹刑にした。
齊王廣東走高密相走博(陽)
斉王田広は東に(斉の)高密に逃走し、斉相国田横は(済北の)博陽に逃走した。
守相田光走城陽將軍田既軍於膠東
斉守相田光は城陽に逃走し、斉将軍田既は膠東に於いて軍営をしいた。
楚使龍且救齊齊王與合軍高密
楚は楚将龍且をつかわし斉を救援させ、斉王田広はともに合わせて高密に軍営をしいた。
漢將韓信與曹參破殺龍且虜齊王廣
漢将韓信(漢相国大将軍韓信)は漢右丞相将軍曹参とともに楚将龍且を破(やぶ)り殺し、斉王田広を虜(とりこ)にした。
漢將灌嬰追得齊守相田光
漢将灌嬰は斉守相田光を追いかけてつかまえた。
至博(陽)而聞齊王死自立為齊王
(済北(斉地)の)博陽に至ると、しこうして、斉相国田横は斉王田広が死んだと聞き、自(みずか)ら立って斉王と為った。
還擊嬰嬰敗之軍於嬴下
漢将灌嬰を撃(う)ちに還(かえ)ると、漢将灌嬰は斉王田横の軍を嬴下に於いて敗(やぶ)った。
田亡走梁歸彭越彭越是時居梁地
斉王田横は逃げて梁に走り、建成侯魏相国彭越に帰属した。建成侯魏相国彭越はこの時、梁(魏)の地に居住しており、
中立且為漢且為楚
中立(ちゅうりつ)して、まさに漢の為(ため)にせんとし、まさに楚の為(ため)にせんとしていた。
韓信已殺龍且因令曹參進兵破殺田既於膠東
漢相国大将軍韓信がすでに楚将龍且を殺し、因(よ)りて漢右丞相将軍曹参に令(れい)して兵を進めて、斉将軍田既を膠東(斉地)に於いて破(やぶ)り殺させ、
使灌嬰破殺齊將田吸於千乘
漢将灌嬰をして斉将田吸を千乗に於いて破(やぶ)り殺させた。
韓信遂平齊乞自立為齊假王漢因而立之
漢相国大将軍韓信は遂(つい)に斉を平定し、自立して斉の仮(かり)の王に為ることを乞(こ)い、
漢は因(よ)りてこれを(斉王に)立てた。
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September 9, 2013, 5:31 pm
後歲餘漢滅項籍漢王立為皇帝以彭越為梁王
一年余り後、漢は西楚覇王項籍(項羽)を滅ぼし、漢王劉邦は立って皇帝(こうてい)と為り、建成侯魏相国彭越を以って梁王と為した。
田懼誅而與其徒屬五百餘人入海居島中
(先の斉王)田横は誅(ちゅう)を懼(おそ)れ、しこうして、その徒属(とぞく)五百余人とともに海に入り、島中に居住した。
高帝聞之以為田兄弟本定齊齊人賢者多附焉
漢高帝劉邦はこれを聞き、(先の斉王)田横の兄弟が斉を平定した本(もと)と為すを以って、斉人の賢者が多く付き従い、
今在海中不收後恐為亂乃使使赦田罪而召之
今、海の中に在(あ)って収(おさ)めなければ、後(のち)に乱を為すを恐(おそ)れた。そこで、
使者をつかわし田横の罪(つみ)を赦免(じゃめん)してこれを召し寄せさせた。
田因謝曰臣亨陛下之使酈生
田横は因(よ)りて謝(しゃ)して曰く、「わたしは陛下の使者酈生(酈食其)を烹刑にし、
今聞其弟酈商為漢將而賢臣恐懼
今聞くに、その弟の酈商は漢将と為って賢(かしこ)いと。わたしは恐れおののき、
不敢奉詔請為庶人守海島中
敢(あ)えて詔(みことのり)を奉(たてまつ)らず、庶人と為って海の島中を守ることを請(こ)う」と。
使還報高皇帝乃詔衛尉酈商曰
漢使者は還(かえ)って報告した。漢高皇帝劉邦はそこで、漢衛尉酈商に詔(みことのり)して曰く、
齊王田即至人馬從者敢動搖者致族夷
「斉王田横がすなわち至ったら、人馬、従者の敢(あ)えて動揺(どうよう)させた者は一族皆殺しに致(いた)す」と。
乃復使使持節具告以詔商狀曰
そこで、ふたたび使者をつかわし符節を持たせ、漢衛尉酈商に詔(みことのり)を以ってした状況をつぶさに告(つ)げさせた、曰く、
田來大者王小者乃侯耳
「田横が来れば、大(だい)は王になり、小(しょう)でもすなわち侯になるのみ。
不來且舉兵加誅焉
来なければ、まさに兵を挙(あ)げて誅(ちゅう)を加えんとす」と。
田乃與其客二人乘傳詣雒陽
田横はそこでその(田横の)食客(賓客)二人とともに伝車に乗って雒陽に詣(もう)でた。
未至三十里至尸鄉廄置謝使者曰
三十里(一里150m換算で約4.5km)手前で、尸鄉の馬つぎの駅に至り、田横は漢使者に謝(しゃ)して曰く、
人臣見天子當洗沐止留
「人臣(じんしん)が天子(てんし)に見(まみ)えるときは当然身体や髪を洗い清めるべきだ」と、止まり留(とど)まった。
謂其客曰始與漢王俱南面稱孤
その(田横の)食客(賓客)に謂(い)った、曰く、「わたしは以前漢王劉邦とともに南面して孤(王侯の自称)を称(しょう)していたが、
今漢王為天子而乃為亡虜而北面事之其恥固已甚矣
今、漢王劉邦は天子(てんし)と為り、しこうしてわたしはすなわち亡国の虜(とりこ)と為って、北面してこれ(漢王)に仕(つか)える。その恥(はじ)はまことに、あまりにも甚(はなは)だしい。
且吾亨人之兄與其弟并肩而事其主
且(か)つ、吾(われ)は人(ひと)の兄(あに)を烹刑にし、その弟(おとうと)と肩(かた)を並(なら)べて、その主(あるじ)に仕(つか)えるは、
縱彼畏天子之詔不敢動我我獨不愧於心乎
たとえ、彼(かれ)が天子(てんし)の詔(みことのり)を畏(おそ)れて、敢(あ)えて我(われ)を動揺させなくとも、我(われ)は独(ひと)り心(こころ)にはじないだろうか?
且陛下所以欲見我者不過欲一見吾面貌耳
且(か)つ陛下の我(われ)に見(まみ)えようと欲する理由とは、吾(われ)の顔、容貌を一度見たいと欲するに過ぎないだけだ。
今陛下在洛陽今斬吾頭馳三十里
今、陛下は洛陽に在(あ)り、今、吾(われ)の頭を斬って、三十里(一里150m換算で約4.5km)の間を馳(は)せても、
形容尚未能敗猶可觀也
形容(けいよう)は尚(なお)未(ま)だくずれることはなく、猶(なお)観(み)ることができるだろう」と。
遂自剄令客奉其頭從使者馳奏之高帝
遂(つい)に自ら首を掻き切り、食客(賓客)に令(れい)してその(田横の)頭を奉(たてまつ)らせ、漢使者に従って馳(は)せてこれを漢高帝劉邦に奏上した。
高帝曰嗟乎有以也夫起自布衣
漢高帝劉邦曰く、「ああ、ゆえ有るなりかな。無位無冠より起(お)こし、
兄弟三人更王豈不賢乎哉
兄弟三人はかわるがわる王となり、どうして賢者ではないだろうかな(賢者である)」と、
為之流涕而拜其二客為都尉
この為(ため)に涙を流した。しこうしてその(田横の)二人の食客(賓客)に官をさずけて漢都尉と為し、
發卒二千人以王者禮葬田
歩兵二千人を発して、王者の礼(れい)を以って田横を葬(ほうむ)った。
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September 10, 2013, 4:57 pm
既葬二客穿其冢旁孔皆自剄下從之
既(すで)に葬(ほうむ)りおわり、二人の賓客はその墓塚の傍(かたわ)らに孔(あな)を穿(うが)ち、皆(みな)自ら首をかき斬って、これに従(したが)って下泉(かせん)した。
高帝聞之乃大驚大田之客皆賢
漢高帝劉邦はこれを聞き、すなわち、大田横の賓客は皆(みな)賢人だと大いに驚(おどろ)いた。
吾聞其餘尚五百人在海中使使召之
吾(われ)はその残りが尚(なお)五百人、海の中にいると聞く、と。使者をつかわしこれを召(め)し寄せさせた。
至則聞田死亦皆自殺
至ってすぐに田横の死を聞き、また皆(みな)自殺した。
於是乃知田兄弟能得士也
ここに於いて、すなわち、田横の兄弟は士(し)を得ることがりっぱにできていたのだと知ったのである。
太史公曰甚矣蒯通之謀
太史公曰く、「甚(はなは)だしいことだ、蒯通の謀(はか)りごとは。
亂齊驕淮陰其卒亡此兩人
斉を乱(みだ)し淮陰侯韓信を驕(おご)らせ、そのとうとうこの両人(韓信、田横)を亡(ほろ)ぼした。
蒯通者善為長短說論戰國之權變
蒯通という者は優劣(ゆうれつ)を為して説(と)くのにすぐれ、戦国の権勢の変化を論(ろん)じ、
為八十一首通善齊人安期生
八十一首(しゅ 詩歌を数える言葉)をつくった。斉人の安期生と仲良く行き来した。
安期生嘗干項羽項羽不能用其筴
安期生は項羽にあずかることを試(ため)したが、項羽はその謀(はかりごと)を用(もち)いることができなかった。
已而項羽欲封此兩人
しばらくして、項羽はこの二人(安期生、蒯通)を封じようと欲したが、
兩人終不肯受亡去
二人はとうとうさずかることをよしとせず、逃げて去(さ)った。
田之高節賓客慕義而從死
田横の身の振り方の気高さに、賓客は義(ぎ)を慕(した)いて田横の死に従(したが)った。
豈非至賢余因而列焉
なんと賢の極(きわ)みではないか。わたしは因(よ)りて(伝に)列(つら)ねたのである。
不無善畫者莫能圖何哉
善(よ)い画策(かくさく)者がいなかったのではないが、図(はか)ることができなかったのは、
なぜなのだろうかな」と。
今日で史記 田儋列伝は終わりです。明日からは史記 樊酈滕灌列伝に入ります。
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September 11, 2013, 5:32 pm
舞陽侯樊噲者沛人也
舞陽侯樊噲という者は沛の人である。
以屠狗為事與高祖俱隱
犬の屠殺(とさつ)を以って事(こと)と為し、漢高祖劉邦とともに隠(かく)れた。
初從高祖起豐攻下沛
漢高祖劉邦に従って豐に立ち上がったばかりのとき、沛を攻(せ)め下(くだ)した。
高祖為沛公以噲為舍人
漢高祖劉邦は沛公と為り、樊噲を以って舎人と為した。
從攻胡陵方與還守豐擊泗水監豐下破之
胡陵、方与を攻(せ)めに従い、還(かえ)って豐を守り、泗水監(官名)を豐の下(もと)で撃(う)ちこれを破(やぶ)った。
復東定沛破泗水守薛西
ふたたび東に進んで沛を平定し、泗水守(官名)を薛の西で破(やぶ)った。
與司馬夷戰碭東卻敵斬首十五級賜爵國大夫
秦将司馬夷と碭の東で戦い、敵をしりぞけ、首を斬ること十五級、国大夫の爵位を賜(たま)わった。
常從沛公擊章邯軍濮陽攻城先登斬首二十三級賜爵列大夫
常(つね)に沛公(劉邦)に従い秦将章邯軍を濮陽で撃(う)ち、城を攻めるはいちばんのりで首を斬ること二十三級で、列大夫の爵位を賜(たま)わった。
復常從從攻城陽先登
また常(つね)に従い、城陽を攻(せ)めに従って、いちばんのりした。
下戶牖破李由軍斬首十六級賜上爵
戶牖を下(くだ)し、李由(秦丞相李斯の子 三川守)軍を破(やぶ)り首を斬ること十六級、上間爵を賜(たま)わった。
從攻圍東郡守尉於成武卻敵
東郡守、東郡尉を成武に於いて包囲し攻(せ)めるに従い、敵をしりぞけ、
斬首十四級捕虜十一人賜爵五大夫
首を斬ること十四級、虜(とりこ)を捕(と)らえること十一人で、爵位の五大夫を賜(たま)わった。
從擊秦軍出亳南河守軍於杠里破之
秦軍を撃(う)ちに従い、亳の南に出た。河間守は杠里に於いて軍営をしいており、これを破(やぶ)った。
擊破趙賁軍開封北,以卻敵先登
秦将趙賁軍を開封の北で撃(う)ち破(やぶ)るに、敵をしりぞけるを以っていちばんのりし、
斬候一人首六十八級捕虜二十七人賜爵卿
見張り一人を斬り、首を斬ること六十八級、虜(とりこ)を捕(と)らえること二十七人で、爵位の卿を賜(たま)わった。
從攻破楊熊軍於曲遇攻宛陵先登
秦将楊熊軍を曲遇に於いて攻(せ)め破るに従った。宛陵を攻(せ)め、いちばんのりして、
斬首八級捕虜四十四人賜爵封號賢成君
首を斬ること八級、虜(とりこ)を捕(と)らえること四十四人で、爵封を賜(たま)わり賢成君と号(ごう)した。
從攻長社轘轅絕河津
長社、轘轅を攻(せ)めに従い、河の船着場を絶(た)ち、
東攻秦軍於尸南攻秦軍於犨
東に進んで秦軍を尸に於いて攻(せ)め、南に進んで秦軍を犨に於いて攻(せ)めた。
破南陽守齮於陽城東攻宛城先登
南陽守の齮を陽城に於いて破った。東に進んで宛城を攻(せ)めいちばんのりした。
西至酈以卻敵斬首二十四級捕虜四十人賜重封
西に進み酈に至り、敵をしりぞけるを以ってし、首を斬ること二十四級、虜(とりこ)を捕(と)らえること四十人で、封を重(かさ)ねて賜(たま)わった。
攻武關至霸上斬都尉一人
武関を攻(せ)め、覇上に至り、秦都尉一人を斬り、
首十級捕虜百四十六人降卒二千九百人
首を斬ること十級、虜(とりこ)を捕(と)らえること四十六人、歩兵を降(くだ)すこと二千九百人であった。
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September 12, 2013, 6:49 pm
項羽在戲下欲攻沛公
楚上将軍項羽は戲(地名)の下(しも)に在(あ)り、沛公劉邦を攻(せ)めることを欲した。
沛公從百餘騎因項伯面見項羽謝無有閉關事
沛公劉邦は百余騎を従(したが)え、項伯に因(よ)りて楚上将軍項羽に向かいあって見(まみ)え、
関を閉(と)じたことは無かった事を謝(しゃ)した。
項羽既饗軍士中酒亞父謀欲殺沛公
楚上将軍項羽はすでに軍士をもてなし、酒宴のなかごろ、亞父(范増)は謀(はか)り沛公劉邦を殺そうと欲し、
令項莊拔劍舞坐中欲擊沛公項伯常(肩)[屏]蔽之
項莊に令(れい)して舞(ま)いを踊る座中で剣(つるぎ)を抜(ぬ)かせ、沛公劉邦を撃(う)つことを欲したが、項伯が常(つね)にこれをおおいさえぎった。
時獨沛公與張良得入坐樊噌在營外
この時、ただ沛公劉邦と張良(韓人で祖父と父は韓宰相をつとめた)だけが坐(ざ)に入ることを得(え)られ、賢成君樊噌は楚陣営の外に在(あ)った。
聞事急乃持鐵盾入到營
事のさしせまりを聞き、すなわち鉄の盾(たて)を以って楚陣営に到(いた)り入った。
營衛止噲噲直撞入立帳下
楚陣営の衛士が賢成君樊噌を止(と)めたが、賢成君樊噌はまっすぐ突き進んで帳(とばり)の下に立った。
項羽目之問為誰張良曰
楚上将軍項羽はこれを見つめ、誰なのか問(と)うた。張良曰く、
沛公參乘樊噲項羽曰壯士
「沛公(劉邦)の参乗(さんじょう)の樊噌です」と。楚上将軍項羽曰く、「壮士(そうし)である」と。
賜之卮酒彘肩
これに大杯(たいはい)の酒、ぶたの肩肉を賜(たま)わった。
噲既飲酒拔劍切肉食盡之
賢成君樊噌がすでに酒をのみほすと、剣(つるぎ)を抜(ぬ)いて肉を切って食べこれを食べ尽(つ)くした。
項羽曰能復飲乎噲曰
楚上将軍項羽曰く、「また飲むことができるか?」と。賢成君樊噌曰く、
臣死且不辭豈特卮酒乎
「わたしは死でさえまさに辞(じ)さんとしないのに、どうして大杯の酒などを。
且沛公先入定咸陽暴師霸上以待大王
まさに沛公(劉邦)は先(さき)に咸陽に入って定め、軍隊を霸上(地名)に曝(さら)し、
大王(項羽)を待(ま)つを以ってしたのです。
大王今日至聽小人之言
大王(項羽)は今日至(いた)り、取るに足らない者の言(げん)を聴き入れて、
與沛公有隙臣恐天下解心疑大王也
沛公(劉邦)と仲たがいを有(ゆう)しました。わたしは天下がばらばらになって、心は大王(項羽)を疑うことを恐れるのであります」と。
項羽默然沛公如廁麾樊噲去
楚上将軍項羽は黙然(もくぜん)とだまりこんだ。沛公劉邦は厠(かわや)に行き、賢成君樊噌をさしまねいて去(さ)った。
既出沛公留車騎獨騎一馬
すでに楚軍営を出ると、沛公劉邦は車騎を留(とど)めたまま、独(ひと)り一頭の馬に騎乗し、
與樊噲等四人步從從道山下歸走霸上軍
賢成君樊噌らとともに歩かせて従わせた。山のふもとの間道(かんどう 抜け道、近道)より帰り霸上の漢軍に走(はし)った。
而使張良謝項羽
しこうして、張良をして楚大将軍項羽に謝(あやま)らせた。
項羽亦因遂已無誅沛公之心矣
楚大将軍項羽もまた因(よ)りて遂(つい)にやめ、沛公劉邦を誅(ちゅう)そうとする心が無くなった。
是日微樊噲奔入營譙讓項羽沛公事幾殆
この日、賢成君樊噌が楚陣営に勢いよく入って楚上将軍項羽をとがめることがなければ、沛公劉邦の事(こと)のなりゆきはもう少しであぶないところだった。
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September 13, 2013, 7:46 pm
明日項羽入屠咸陽立沛公為漢王
明くる日、楚上将軍魯公項羽は咸陽(秦の都)に入って陥落(かんらく)させた。沛公劉邦を立てて漢王と為した。
漢王賜噲爵為列侯號臨武侯
漢王劉邦は賢成君樊噲に爵を賜(たま)わり列侯と為し、臨武侯と号(ごう)した。
遷為郎中從入漢中
遷(うつ)って漢郎中と為り、漢中に入るに従(したが)った。
還定三秦別擊西丞白水北雍輕車騎於雍南破之
三秦(雍王章邯、塞王司馬欣、翟王董翳)を平定しに還(かえ)り、別(わか)れて西丞白水の北を撃(う)ち、雍の軽車騎を雍南に於いて撃(う)ち、これを破った。
從攻雍斄城先登擊章平軍好畤
雍、斄城を攻(せ)めに従(したが)いいちばんのりした。(雍の)章平(章邯の弟)軍を好畤で撃(う)ち、
攻城先登陷陣斬縣令令丞各一人首十一級
城を攻(せ)めて、いちばんのりして陣(じん)を攻め落とし、県の令(官名)、丞(官名)を各(おのおの)一人斬り、首を斬ること十一級、
虜二十人遷郎中騎將
虜(とりこ)二十人で、漢郎中騎将に遷(うつ)した。
從擊秦車騎壤東卻敵遷為將軍
秦の車騎を壤東に撃(う)ちに従(したが)い、敵をしりぞけたので、遷(うつ)して漢将軍と為した。
攻趙賁下郿槐裏柳中咸陽
秦将趙賁を攻(せ)めて、郿、槐裏、柳中、咸陽を下(くだ)した。
灌廢丘最至櫟陽賜食邑杜之樊鄉
廃丘(雍王章邯の都)を水攻めにして取った。櫟陽(塞王司馬欣の都)に至り、食邑(領地)の杜の樊鄉を賜(たま)わった。
從攻項籍屠煮棗擊破王武程處軍於外黃
項籍(西楚覇王項羽)を攻(せ)めに従い、煮棗を陥落(かんらく)させた。王武軍、程処軍を外黄に於いて撃(う)ち破(やぶ)った。
攻鄒魯瑕丘薛項羽敗漢王於彭城
鄒、魯、瑕丘、薛を攻(せ)めた。西楚覇王項羽は漢王劉邦を彭城(項羽の都)に於いて敗(やぶ)り、
盡復取魯梁地噲還至滎陽益食平陰二千戶
ことごとくみな、魯、梁(魏)の地を取り返した。漢将臨武侯樊噲は還(かえ)り栄陽に至り、平陰二千戸を食邑として益封した。
以將軍守廣武一歲項羽引而東從高祖擊項籍
将軍を以って広武を守った。一年して、西楚覇王項羽は引いて東へ進んだ。漢高祖劉邦に従って項籍(西楚覇王項羽)を撃(う)ち、
下陽夏虜楚周將軍卒四千人
陽夏を下(くだ)し、楚の周將軍の歩兵四千人を虜(とりこ)にした。
圍項籍於陳大破之屠胡陵
項籍( 西楚覇王項羽)を陳に於いて包囲し、これを大破した。胡陵を陥落(かんらく)させた。
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September 14, 2013, 6:55 pm
項籍既死漢王為帝以噲堅守戰有功益食八百戶
西楚覇王項籍(項羽)がすでに死に、漢王劉邦は皇帝と為り、漢将臨武侯樊噲が堅(かた)く守り、戦いに功績が有るを以って、食邑八百戸を益封した。
從高帝攻反燕王臧荼虜荼定燕地
漢高帝劉邦の、そむいた燕王臧荼を攻(せ)めるに従(したが)い、燕王臧荼を虜(とりこ)にして、燕の地を平定した。
楚王韓信反噲從至陳取信定楚
楚王韓信がそむき、漢将臨武侯樊噲は従(したが)って陳に至り、楚王韓信を取り、楚を平定した。
更賜爵列侯與諸侯剖符世世勿絕
改(あらた)めて爵の列侯を賜(たま)わり、諸侯の剖符を与(あた)えられ、代々絶やすことなく、
食舞陽號為舞陽侯除前所食
舞陽を食邑(領土)にして、号して舞陽侯と為り、以前の食邑とした所は除(のぞ)かれた。
以將軍從高祖攻反韓王信於代
漢将軍を以って漢高祖劉邦に従ってそむいた韓王韓信を代に於いて攻(せ)めた。
自霍人以往至雲中與絳侯等共定之益食千五百戶
霍人より往(ゆ)きて雲中に至るを以って、漢太尉絳侯周勃らと共(とも)にこれを平定したので、食邑千五百戸を益封された。
因擊陳豨與曼丘臣軍戰襄國破柏人
因(よ)りて代王陳豨(前の趙相鉅鹿守陳豨)と陳豨の将曼丘臣の軍を撃(う)ち、襄國(旧名信都 趙の常山の地)で戦い、柏人を破(やぶ)り、
先登降定清河常山凡二十七縣殘東垣遷為左丞相
いちばんのりして、清河、常山の凡(およ)そ二十七県を降(くだ)し平定し、残すは東垣で、遷(うつ)して漢左丞相と為した。
破得綦毋卹尹潘軍於無終廣昌
綦毋卹軍、尹潘軍を無終(地名)、広昌(地名)に於いて破(やぶ)り得た。
破豨別將胡人王黃軍於代南因擊韓信軍於參合
代王陳豨の別将の胡人(匈奴人)王黄軍を代の南に於いて破(やぶ)り、因(よ)りて韓信軍を参合に於いて撃(う)った。
軍所將卒斬韓信破豨胡騎谷斬將軍趙既
軍の率(ひき)いるところの歩兵が韓信(もと韓王)を斬り、代王陳豨の胡騎を横谷で破(やぶ)り、陳豨の将軍趙既を斬った。
虜代丞相馮梁守孫奮大將王黃將軍(太卜)太仆解福等十人
代丞相馮梁、代丞相守の孫奮、代大将軍王黄、将軍、代太僕解福ら十人を虜(とりこ)にした。
與諸將共定代鄉邑七十三
諸将と共(とも)に代の郷邑七十三村を平定した。
其後燕王盧綰反噲以相國擊盧綰
その後、燕王盧綰がそむき、漢左丞相舞陽侯樊噲は漢相国を以って燕王盧綰を撃(う)ち、
破其丞相抵薊南定燕地凡縣十八鄉邑五十一
その(燕の)丞相の抵を薊南に破(やぶ)り、燕の地の凡(およ)そ十八県、郷邑五十一村を平定した。
益食邑千三百戶定食舞陽五千四百戶
食邑千三百戸を益封され、舞陽の五千四百戸を食邑として定めた。
從斬首百七十六級虜二百八十八人
(劉邦に)従軍して、首を斬ること百七十六級、虜(とりこ)二百八十八人。
別破軍七下城五定郡六縣五十二
別(わか)れて、七つの軍を破(やぶ)り、城邑五つを下(くだ)し、六つの郡、五十二の県を平定し、
得丞相一人將軍十二人二千石已下至三百石十一人
丞相一人、将軍十二人、俸禄二千石以下三百国に至るまでの十一人をつかまえた。
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September 15, 2013, 8:22 pm
噲以呂后女弟呂須為婦生子伉故其比諸將最親
漢相国舞陽侯樊噲は呂后(劉邦の正妻)の妹の呂須を以って嫁(よめ)と為し、子の樊伉を生み、故(ゆえ)にその諸侯に比べて最も親しかった。
先黥布反時高祖嘗病甚惡見人
先(さき)の黥布(淮南王英布)が叛(そむ)いた時、漢高祖劉邦)はいつも病(やまい)が甚(はなは)だしく、人に見(まみ)えることをいやがり、
臥禁中詔戶者無得入群臣
禁中(天子の居所)に横になって、戸番者に詔(みことのり)して群臣を入らせないようにした。
群臣絳灌等莫敢入
群臣の漢太尉絳侯周勃、漢車騎将軍潁陰侯灌嬰らは敢(あ)えて入ることはしなかった。
十餘日噲乃排闥直入大臣隨之
十余日して、漢相国舞陽侯樊噲はそこで闥(ねや)の戸をおしひろげ真っ直ぐに入り、大臣がこれに附きしたがった。
上獨枕一宦者臥噲等見上流涕曰
上(漢高祖劉邦)は独(ひと)り、一人の宦官を枕(まくら)にして横たわっていた。漢相国舞陽侯樊噲らが上(漢高祖劉邦)に見(まみ)え、涙を流して曰く、
始陛下與臣等起豐沛定天下何其壯也
「以前、陛下とわたしたちは沛の豐邑で立ち上がり、天下を定めたときは、なんとその気力盛んであったことか。
今天下已定又何憊也
今、天下がすでに定まり、またなんと弱ってしまわれたことか。
且陛下病甚大臣震恐不見臣等計事
まさに陛下は病(やまい)が甚(はなは)だしく、大臣たちは震(ふる)え恐れていますが、わたしたちに見(まみ)えず事(こと)を計(はか)り、
顧獨與一宦者絕乎
かえってただ一人の宦官(かんがん)とともに謝絶されるのですか?
且陛下獨不見趙高之事乎高帝笑而起
まさに陛下はただ趙高(秦皇帝の寵臣で宦官)の事をお考えにならないのですか?」と。漢高帝劉邦は笑って起き上がった。
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September 16, 2013, 5:22 pm
其後盧綰反高帝使噲以相國擊燕
その後、燕王盧綰が叛(そむ)き、漢高帝劉邦は舞陽侯樊噲をつかわし漢相国を以って燕を撃(う)たせた。
是時高帝病甚人有惡噲黨於呂氏
この時、漢高帝劉邦は病(やまい)が甚(はなは)だしく、人に漢相国舞陽侯樊噲が呂氏に於いて仲間となっているとそしる者が有(あ)り、
即上一日宮車晏駕則噲欲以兵盡誅滅戚氏趙王如意之屬
すなわち、上(劉邦)がある日崩御(ほうぎょ)すれば、漢相国舞陽侯樊噲は兵を以ってことごとく戚氏(劉邦の側室戚夫人の一族)、趙王劉如意(戚夫人の子)の属を誅(ちゅう)し滅ぼすことを欲するでしょう、と。
高帝聞之大怒乃使陳平載絳侯代將而即軍中斬噲
漢高帝劉邦はこれを聞いて大いに怒り、そこで曲逆侯陳平をつかわし漢太尉絳侯周勃を載(の)せて将軍に代(か)えて、すぐに軍中で漢相国舞陽侯樊噲を斬らせようとした。
陳平畏呂后執噲詣長安
曲逆侯陳平は漢呂后(劉邦の正妻)を畏(おそ)れ、漢相国舞陽侯樊噲を召し執(と)って長安に詣(もう)でさせた。
至則高祖已崩呂后釋噲使復爵邑
至ると、すなわち漢高祖劉邦はすでに崩御(ほうぎょ)し、漢呂后(劉邦の正妻)は漢相国舞陽侯樊噲を釈放(しゃくほう)し、爵位食邑を復(ふく)させた。
孝惠六年樊噲卒謚為武侯
漢孝恵帝劉盈六年、漢相国舞陽侯樊噲が亡くなり、おくり名は武侯と為した。
子伉代侯而伉母呂須亦為臨光侯
子の樊伉が侯(舞陽侯)に代(か)わった。しこうして、樊伉の母の呂須もまた臨光侯と為り、
高后時用事專權大臣盡畏之
漢高后(呂后)時に、事に用(もち)いられて権力を専(もっぱ)らにし、大臣たちはことごとくみなこれを畏(おそ)れた。
伉代侯九歲高后崩
樊伉が侯(舞陽侯)に代(か)わって九年、漢高后(呂后)が崩(ほう)じた。
大臣誅諸呂呂須婘屬因誅伉
大臣たちは諸(もろもろ)の呂氏を誅(ちゅう)し、臨光侯呂須は親属で、因(よ)りて舞陽侯樊伉を誅(ちゅう)した。
舞陽侯中絕數月孝文帝既立
舞陽侯は途中数ヶ月(後継を)絶(た)やした。漢孝文帝劉恒が既(すで)に立ち、
乃復封噲他庶子市人為舞陽侯復故爵邑
そこで、ふたたび舞陽武侯樊噲の他(ほか)の庶子の樊市人に封じて舞陽侯と為し、もとの爵位食邑を復(ふく)させた。
市人立二十九歲卒謚為荒侯子他廣代侯
舞陽侯樊市人が立って二十九年で亡くなり、おくり名は荒侯と為した。子の樊他広が侯に代(か)わった。
六歲侯家舍人得罪他廣怨之乃上書曰
六年して、舞陽侯樊他広の舎人(しゃじん)が他広に罪(つみ)を得て、これを怨(うら)み、そこで上書して曰く、
荒侯市人病不能為人令其夫人與其弟亂而生他廣
「舞陽荒侯樊市人は病(やまい)で人に為すことができず、その夫人とその弟に令(れい)して乱れさせて舞陽侯樊他広を生ませたのであり、
他廣實非荒侯子不當代後
舞陽侯樊他広は実(じつ)は舞陽荒侯樊市人の子ではなく、後継ぎに代(か)えるには当たりません」と。
詔下吏孝景中六年他廣奪侯為庶人國除
詔(みことのり)は役人に下(くだ)された。漢孝景帝劉啓中(ちゅう)の六年、 舞陽侯樊他広は侯を奪(うばわ)れ、庶人と為り、国(舞陽)は除(のぞ)かれた。
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September 17, 2013, 5:06 pm
曲周侯酈商者高陽人
曲周侯酈商という者は高陽の人である。
陳勝起時商聚少年東西略人得數千
陳勝が立ち上がった時、酈商は東西に人を略取して少年を集め、数千人を得た。
沛公略地至陳留六月餘商以將卒四千人屬沛公於岐
沛公劉邦が地を略取して陳留に至り、六ヶ月余り、酈商は歩兵四千人を率(ひき)いるを以って岐に於いて沛公劉邦に属(ぞく)した。
從攻長社先登賜爵封信成君
長社に攻(せ)めに従(したが)い、先鋒(せんぽう)したので、爵封の信成君を賜(たま)わった。
從沛公攻緱氏絕河津破秦軍洛陽東
沛公劉邦の緱氏攻(ぜ)めに従(したが)い、河の船着場を絶(た)って、秦軍を洛陽の東で破(やぶ)った。
從攻下宛穰定十七縣別將攻旬關定漢中
下宛、穰攻めに従(したが)い、十七県を平定した。別(わか)れて率(ひき)い旬関を攻(せ)め、漢中を平定した。
項羽滅秦立沛公為漢王
楚上将軍魯公項羽が秦を滅ぼし、沛公劉邦を立てて漢王と為した。
漢王賜商爵信成君以將軍為隴西都尉
漢王劉邦は酈商に信成君の爵を賜(たま)わり、漢将軍を以って隴西都尉と為した。
別將定北地上郡
別(わか)れて率(ひき)い、北地、上郡を平定した。
破雍將軍焉氏周類軍栒邑蘇駔軍於泥陽
雍の將軍焉氏、周類軍を栒邑で破(やぶ)り、雍の蘇駔軍を泥陽に於いて破(やぶ)った。
賜食邑武成六千戶
食邑(領土)武成の六千戸を賜(たま)わった。
以隴西都尉從擊項籍軍五月出鉅野
漢隴西都尉を以って西楚覇王項籍(項羽)軍を撃(う)ちに従うこと五ヶ月、鉅野に出(い)でて、
與鐘離眛戰疾鬬受梁相國印益食邑四千戶
楚将鐘離眛と戦い、はげしく闘(たたか)ったので、梁相国の印をさずかり、食邑四千戸を益封された。
以梁相國將從擊項羽二歲三月攻胡陵
梁相国を以って率(ひき)い項羽(西楚覇王項羽)を撃(う)ちに従(したが)うこと二年三ヶ月、胡陵を攻(せ)めた。
項羽既已死漢王為帝
西楚覇王項羽がすでに死に、漢王劉邦が皇帝に為った。
其秋燕王臧荼反商以將軍從擊荼
その秋、燕王臧荼が叛(そむ)き、梁相国信成君酈商は将軍を以って燕王臧荼を撃(う)ちに従(したが)い、
戰龍脫先登陷陣破荼軍易下卻敵
龍脱に戦い、先鋒して陣を陥(おとしい)れ、燕王臧荼を易の下(もと)で破(やぶ)り、敵をしりぞけた。
遷為右丞相賜爵列侯與諸侯剖符世世勿絕
遷(うつ)して漢右丞相と成し、列侯の爵を賜(たまわ)り、諸侯の剖符を与(あた)え、代々絶えることないようにし、
食邑涿五千戶號曰涿侯
食邑の涿の五千戸を与(あた)えられ、号(ごう)して涿侯といった。
以右丞相別定上谷因攻代受趙相國印
漢右丞相を以って別(わか)れて上谷を平定し、因(よ)りて代を攻(せ)めたので、趙相国の印をさずかった。
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September 18, 2013, 7:08 pm
以右丞相趙相國別與絳侯等定代鴈門
(涿侯酈商は)漢右丞相趙相國を以って別(わか)れて漢太尉絳侯周勃らと代、鴈門を平定し、
得代丞相程縱守相郭同將軍已下至六百石十九人
代の丞相程縱、代守相郭同、代将軍以下(俸禄)六百石に至るまでの十九人をつかまえた。
還以將軍為太上皇衛一歲七月
還(かえ)ると、将軍を以って太上皇(漢高祖劉邦の父)の護衛(ごえい)と為ること一年七ヶ月。(高祖本紀より太上皇の崩は漢十一年七月 高祖本紀に一年のずれが有れば或いは漢十年?)。
以右丞相擊陳豨殘東垣
(涿侯酈商は)漢右丞相を以って趙相国陳豨を撃(う)ち(漢高祖本紀より十一年八月陳豨が代地で反乱 高祖本紀に一年のずれが有れば或いは漢十年?)、東垣を傷(いた)めつけて降(くだ)した。
又以右丞相從高帝擊黥布攻其前拒陷兩陳
また(漢十一(或いは十二年?)年秋七月 史記 高祖本紀より十二年十月では劉邦は存命 呂太后本紀では漢高祖劉邦は漢十二年四月に崩じたとする)漢右丞相を以って漢高帝劉邦の淮南王黥布(英布)を撃(う)ちに従(したが)い、その前衛を攻(せ)めて、両側の陣(じん)を陥(おとしい)れ、
得以破布軍更食曲周五千一百戶除前所食
淮南王黥布軍を破るを以ってするを得た。改(あらた)めて、曲周の五千一百戸を食邑とし、以前の食邑とした所を除(のぞ)いた。
凡別破軍三降定郡六縣七十三得丞相守相
凡(およ)そ別(わか)れて軍を破ること三、郡六、県七十三を降(くだ)し平定し、丞相、守相、
大將各一人小將二人二千石已下至六百石十九人
大将各(おのおの)一人、少将二人、二千石以下六百石に至るまでの十九人をつかまえた。
↧
November 8, 2013, 4:11 am
於是叔孫通使徵魯諸生三十餘人
ここに於いて漢博士稷嗣君叔孫通は魯の儒学者三十余人を取り立てさせた。
魯有兩生不肯行曰公所事者且十主
魯の二人の儒学者が有って(漢に)行くことをよしとせず、曰く、「公が仕(つか)えたところの者は、まさに十人の主(あるじ)で、
皆面諛以得親貴今天下初定死者未葬
皆(みな)おべっかをつかって、親(した)しみ貴(とうと)ばれるを得(え)るを以ってした。今、天下は定(さだ)まったばかりで、死者は未(ま)だ葬(ほうむ)られず、
傷者未起又欲起禮樂
負傷者は未(ま)だ起き上がれないうちに、また礼楽を起こそうと欲している。
禮樂所由起積百年而後可興也
礼楽の起(お)こる根拠(こんきょ)は、徳を百年積(つ)んで後(のち)興(おこ)すべきなのです。
吾不忍為公所為公所為不合古吾不行
吾(われ)われは公の行為(こうい)を思って忍(しの)ばれず。公の行為(こうい)は古(いにしえ)に合(あ)わないので、吾(われ)われは(漢に)行かない。
公往矣無汙我
公は往(ゆ)け、我(われ)われを汚(けが)すことなかれ」と。
叔孫通笑曰若真鄙儒也不知時變
漢博士稷嗣君叔孫通は笑って曰く、「なんじらは真(まこと)に田舎者の儒者であり、時の移り変わりを知らない」と。
遂與所徵三十人西及上左右為學者與其弟子百餘人為綿蕞野外
遂(つい)に取り立てたところに三十人とともに西へ進み、上(漢高帝劉邦)の左右の学問をした者とその弟子百余人に及(およ)んで、野外で綿密(めんみつ)につくった。
習之月餘叔孫通曰上可試觀
これを習(なら)うこと一ヶ月余り、漢博士稷嗣君叔孫通曰く、「上(漢高帝劉邦)は試(ため)しに眺(なが)めることができます」と。
上既觀使行禮曰吾能為此
上(漢高帝劉邦)はすでに礼を行わせしめるを観(み)て、曰く、「吾(われ)はこれをすることができる」と。
乃令群臣習肄會十月
そこで、群臣に習わせ、ちょうどこの時十月。
漢七年長樂宮成諸侯群臣皆朝十月
漢七年、長楽宮ができあがり、諸侯、群臣は皆(みな)、十月に朝した。
儀先平明謁者治禮引以次入殿門
儀式は明け方に先(さき)んじて、謁者(官名)が礼を治(おさ)めて、みちびくに順序を以って殿門に入れ、
廷中陳車騎步卒衛宮設兵張旗志
宮廷の中には兵車、騎兵、歩兵を並べて宮殿を護衛(ごえい)させ、武器をならべ、のぼり旗を張(は)った。
傳言趨殿下郎中俠陛陛數百人
言を伝(つた)えて、すみやかにせよ、と。宮殿の下(もと)では、郎中(官名)がきざはし(宮殿の階段)をはさみ、きざはしには数百人。
功臣列侯諸將軍軍吏以次陳西方東鄉
功臣、列侯、諸(もろもろ)の将軍、軍吏は順次を以って西方に東向きに並べた。
文官丞相以下陳東方西鄉
文官、丞相以下は東方に西向きに並べた。
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November 8, 2013, 5:34 pm
大行設九賓臚傳於是皇帝輦出房
大行(大鴻臚(官名))が九賓礼を設(しつら)え、伝言を伝えた。ここに於いて皇帝の手車(てぐるま)が部屋から出て、
百官執職傳警引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀
百官がのぼり旗を執(と)ってさきばらいを伝え、諸侯王以下六百石の役人までを導(みちび)いて、順次を以って賀(が)を奉(たてまつ)らせた。
自諸侯王以下莫不振恐肅敬至禮畢
諸侯王より以下恐(おそ)れ振(ふ)るえない者はなく、つつしみうやまった。礼が終わるに至ると、
復置法酒諸侍坐殿上皆伏抑首以尊卑次起上壽
また酒の儀(ぎ)を置いた。諸(もろもろ)の殿上(でんじょう)に侍(じ)して座(すわ)る者は皆(みな)伏(ふ)して頭を下(さ)げ、尊卑(そんぴ)の順次を以って立ち上がって寿(ことほ)ぎを申し上げた。
觴九行謁者言罷酒御史執法舉不如儀者輒引去
杯(さかずき)がなんどもふるまわれると、謁者(官名)が言った、酒の儀を終えます、と。
御史(官名)が手法(しゅほう)を執(と)り儀(ぎ)のごとくしない者を挙(あ)げてそのたびごとに引いて去(さ)らせた。
竟朝置酒無敢讙譁失禮者於是高帝曰
午前中、酒宴を置き、敢(あ)えてさわがしくして礼を失(うしな)う者はなかった。ここに於いて漢高帝劉邦曰く、
吾乃今日知為皇帝之貴也
「吾(われ)はすなわち、今日、皇帝としての貴(とうと)さを知った」と。
乃拜叔孫通為太常賜金五百斤
そこで、漢博士稷嗣君叔孫通に官をさずけて太常と為し、金五百斤を賜(たま)わった。
叔孫通因進曰諸弟子儒生隨臣久矣
漢太常稷嗣君叔孫通は因(よ)りて進み出て曰く、「諸(もろもろ)の弟子の儒学者はわたしに従うこと久(ひさ)しく、
與臣共為儀願陛下官之高帝悉以為郎
わたしと共(とも)に儀をつくりました。願わくは、陛下にはこれを官にしてください」と。
漢高帝劉邦はことごとくみな郎(官名)と為すを以ってした。
叔孫通出皆以五百斤金賜諸生
漢太常稷嗣君叔孫通が退出すると、皆(みな)五百斤の黄金を以って諸(もろもろ)の儒学者に賜(たま)わった。
諸生乃皆喜曰叔孫生誠聖人也知當世之要務
諸(もろもろ)の儒学者はすなわち皆(みな)喜んで曰く、「叔孫先生は誠(まこと)に聖人である。当世(とうせい)の要務(ようむ)を知っている」と。
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November 9, 2013, 4:27 am
漢九年高帝徙叔孫通為太子太傅
漢九年、漢高帝劉邦は漢太常稷嗣君叔孫通を移(うつ)して漢太子(劉盈)の太傅と為した。
漢十二年高祖欲以趙王如意易太子叔孫通諫上曰
漢十二年、漢高祖劉邦は趙王劉如意を以って太子にかえようと欲し、漢太子太傅稷嗣君叔孫通は上(漢高祖劉邦)を諌(いさ)めて曰く、
昔者晉獻公以驪姬之故廢太子
「むかし、晋献公(姫詭諸)が驪姬の故(ゆえ)を以って晋太子(姫申生)を廃(はい)し、
立奚齊晉國亂者數十年為天下笑
姫奚齊を立て、晋国の乱(みだ)れるは数十年、天下の笑いものと為りました。
秦以不蚤定扶蘇令趙高得以詐立胡亥
秦は嬴扶蘇をはやく定(さだ)めずを以ってして、秦中車府令趙高に偽(いつわ)って嬴胡亥を立てるを以って得(え)さしめ
自使滅祀此陛下所親見
自(みずか)ら祭祀(さいし)を滅ぼさしめ、これは陛下がみずから見たところです。
今太子仁孝天下皆聞之
今、漢太子(劉盈)は仁孝で、天下は皆(みな)これを聞いています、
呂后與陛下攻苦食啖其可背哉
漢呂后(呂雉)は陛下とともにひどい苦労をし、そのそむくべきでしょうかな。
陛下必欲廢適而立少臣願先伏誅以頸血汙地
陛下は必ず適子(あとつぎの息子)を廃(はい)して年少者を(太子に)立てると欲すれば、わたしは先(さき)んじて誅(ちゅう)に伏(ふ)すことを願い、頸(くび)の血を以って地をけがすことでしょう」と。
高帝曰公罷矣吾直戲耳
漢高帝劉邦曰く、「公はやめよ。吾(われ)はただ戯(たわむ)れただけだ」と。
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November 10, 2013, 3:56 am
叔孫通曰太子天下本
漢太子太傅稷嗣君叔孫通曰く、「太子は天下の本(もと)で、
本一搖天下振動柰何以天下為戲
本(もと)が一度揺(ゆ)れれば天下は振動(しんどう)し、どうして天下を以って戯(たわむ)れを為すのですか」と。
高帝曰吾聽公言
漢高帝劉邦曰く、「吾(われ)は公の言(げん)を聴(き)きいれよう」と。
及上置酒見留侯所招客從太子入見
上(漢高帝劉邦)が酒宴を置くに及(およ)んで、留侯張良が招(まね)いたところの太子に従(したが)って入見した客に見(まみ)え、
上乃遂無易太子志矣
上(漢高帝劉邦)はそこで遂(つい)に太子をかえる志(こころざし)を無くした。
高帝崩孝惠即位乃謂叔孫生曰
漢高帝劉邦が崩(ほう)じ、漢孝恵帝劉盈が即位(そくい)し、そこで叔孫先生(漢太子太傅稷嗣君叔孫通)に曰く、
先帝園陵寢廟群臣莫(能)習
「先帝の園陵(えんりょう)の寢廟(おたまや)は、群臣は(儀式の作法を)習わなかった」と。
徙為太常定宗廟儀法
移(うつ)して漢太常と為し、宗廟(そうびょう)の儀法(ぎほう)を定(さだ)めさせた。
及稍定漢諸儀法皆叔孫生為太常所論箸也
次第(しだい)に漢の諸(もろもろ)の儀法(ぎほう)を定(さだ)めていくに及んで、皆(みな)叔孫先生(漢太子太傅稷嗣君叔孫通)が漢太常と為って論(ろん)じたところはあきらかになったのである。
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November 11, 2013, 5:46 am
孝惠帝為東朝長樂宮及往數蹕煩人
漢孝恵帝劉盈は長楽宮に東朝(東は主人がわ)し、ひそかに往(ゆ)くに及(およ)んで、たびたびさきばらいして人を煩(わずら)わせ、
乃作複道方筑武庫南
そこで、複道(ふくどう)を作り、まさに武庫の南に築(きず)いた。
叔孫生奏事因請曰
叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)が、事(こと)を奏上したとき、因(よ)りてころおいを請(こ)うて曰く、
陛下何自筑複道高寢衣冠月出游高廟
「陛下はどうして複道を高祖寝廟に築(きず)き、衣冠(いかん)をつけて毎月高祖廟にお出かけになるのですか?
高廟漢太祖柰何令後世子孫乘宗廟道上行哉
高祖廟は漢太祖で、どうして後世(こうせい)の子孫(しそん)に宗廟の道の上を車に乗って行かせしめるのですかな?
孝惠帝大懼曰急壞之叔孫生曰
漢孝恵帝劉盈は大いに懼(おそ)れて曰く、「急いでこれを壊(こわ)しましょう」と。叔孫先生(漢太常稷嗣君叔孫通)曰く、
人主無過舉今已作百姓皆知之今壞此
「人の主(あるじ)は企(くわだ)てに過(あやま)ちはありません。今すでに作り、百姓は皆(みな)これを知っておりますがら、今これを壊(こわ)せば、
則示有過舉願陛下原廟渭北衣冠月出游之
すなわち企(くわだ)てに過(あやま)ちが有ったことを示(しめ)してしまいます。願わくは陛下には渭(川名)の北に廟(びょう)をおたずねください。衣冠(いかん)をつけて毎月ここにお出かけになれば、
益廣多宗廟大孝之本也
ますます宗廟を広く多くして、大いなる孝行(こうこう)の本(もと)であります」と。
上乃詔有司立原廟原廟起以複道故
上(漢孝恵帝劉盈)はそこで、役人に詔(みことのり)をして原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)を立てた。原廟(原は恐らく源で 廟のみなもと)が起こったのは複道故(ゆえ)を以ってしたのである。
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