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韓信曰漢王遇我甚厚載我以其車

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韓信曰漢王遇我甚厚載我以其車

斉王韓信曰く、「漢王(劉邦)は我(われ)を遇(ぐう)すること甚(はなは)だ厚(あつ)く、我(われ)を載(の)せるにその車を以ってし、

衣我以其衣食我以其食吾聞之

我(われ)を着せるにその衣(ころも)を以ってし、我(われ)に食べさせるにその食事を以ってしました。吾(われ)はこれを聞きます、

乘人之車者載人之患衣人之衣者懷人之憂

人の車に乗る者は人の患(うれ)いを載(の)せ、人の衣(ころも)を着る者は人の憂(うれ)いを
懐(いだ)き、

食人之食者死人之事吾豈可以鄉利倍義乎

人の食事を食べる者は人の事に死すると。吾(われ)がどうして利(り)に向って義(ぎ)にそむくを以ってすることができるでしょうか。

蒯生曰足下自以為善漢王欲建萬世之業

蒯生(蒯通)曰く、「足下(斉王韓信)は自(みずか)ら漢王(劉邦)となかよくするを以って、万世の業を建てようと欲していますが、

臣竊以為誤矣始常山王成安君為布衣時

わたしはひそかに誤りだと思います。以前、常山王(張耳)、成安君(陳余)が庶民であった時、

相與為刎頸之交後爭張黶陳澤之事

相(あい)ともに刎頚(ふんけい)の交(まじ)わりを為したのに、後(のち)に張黶、陳沢(ともに人名)の事で争(あらそ)い、

二人相怨常山王背項王奉項嬰頭而竄

二人は相(あい)怨(うら)みました。常山王張耳は項王(項羽)に背(そむ)いて、項嬰(おそらく人名 項氏の一族?)の頭(あたま)を奉(たてまつ)って、ひそかに、

逃歸於漢王漢王借兵而東下

漢王(劉邦)に逃げて帰属しました。漢王(劉邦)は兵を借(か)りて東に下(くだ)り、

殺成安君泜水之南頭足異處卒為天下笑

成安君(代王陳余)を泜水の南で殺し、頭と足が処(ところ)を異(こと)にし、とうとう天下の笑いものと為りました。

此二人相與天下至驩也然而卒相禽者何也

この二人は相(あい)ともに天下によろこびをきわめたのでありますが、然(しか)しながら、とうとう相(あい)つかまえあったのはどうしてなのでありましょうか。

患生於多欲而人心難測也

患(うれ)いは多欲より生(しょう)じて、人の心は測(はか)りがたいのであります。

今足下欲行忠信以交於漢王必不能固於二君之相與也

今、足下(斉王韓信)が忠信を行い漢王(劉邦)に交(まじ)わるを以ってすることを欲しても、
必ず二君の相(あい)ともにするに於いて固(かた)めることはできないでしょう。

而事多大於張黶陳澤

そして、事は張黶、陳沢の事より多大(ただい)になることでしょう。

故臣以為足下必漢王之不危己亦誤矣

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故臣以為足下必漢王之不危己亦誤矣

故(ゆえ)にわたしは足下(斉王韓信)がけっして漢王(劉邦)が己(おのれ)を危(あや)ぶまないとするのは、また誤(あやま)りだと為すを以ってするのです。

大夫種范蠡存亡越霸句踐

越大夫文種、范蠡の越での存亡(そんぼう)は、越王句踐を諸侯の旗頭(はたがしら)にし、

立功成名而身死亡野獸已盡而獵狗亨

功を立て名を成(な)しながら、身(み)は死したり、逃亡したりしました。野獣(やじゅう)はすでに尽(つ)くされて猟犬(りょうけん)は煮(に)られました。

夫以交友言之則不如張耳之與成安君者也

それ、交友(こうゆう)を以ってこれを言えば、張耳の成安君(陳余)とともにするのに及(およ)ばす、

以忠信言之則不過大夫種范蠡之於句踐也

忠信を以ってこれを言えば、越大夫文種、范蠡の越王句踐に於いてするのに越(こ)えないのであります。

此二人者足以觀矣願足下深慮之

この二つの人々とは、かんがみるを以って足(た)るのです。願わくは足下(斉王韓信)はこれを深く慮(おもんばか)りください。

且臣聞勇略震主者身危而功蓋天下者不賞

且(か)つわたしは聞きます、勇気と知恵が主(あるじ)を震(ふる)わせる者は身(み)が危(あや)うく、しこうして功が天下を蓋(おお)う者は賞(しょう)されないと。

臣請言大王功略足下涉西河虜魏王

わたしは大王(斉王韓信)の攻略(こうりゃく)を言うことを請(こ)う。足下(斉王韓信)は西河を渉(わた)り、魏王魏豹を虜(とりこ)にし、

禽夏說引兵下井陘誅成安君徇趙

代宰相夏説をいけどりにし、兵を引いて井陘を下(くだ)り、成安君(代王陳余)を誅(ちゅう)し、趙をしたがえ、

脅燕定齊南摧楚人之兵二十萬東殺龍且

燕を脅(おびや)かし、斉を平定し、南に楚人の兵二十万をくだいて、(濰水の)東に楚将龍且を殺し、

西鄉以報此所謂功無二於天下

西に向って報告を以ってし、これ、所謂(いわゆる)功は天下に於いて二つと無く、

而略不世出者也今足下戴震主之威

そして、計略は不世出(ふせいしゅつ)の者であります。今、足下(斉王韓信)は主(あるじ)を震(ふる)えさせるほどの威(い)を戴(いただ)き、

挾不賞之功歸楚楚人不信

賞されないほどの功をかかえており、楚に帰属すれば、楚人は信用せず、

歸漢漢人震恐足下欲持是安歸乎

漢に帰属すれば、漢人は震(ふる)え恐れるでしょう。足下(斉王韓信)はこれらを持(も)っていづこに帰属しようと欲するのですか。

夫勢在人臣之位而有震主之威名高天下

それ勢(いきお)いは人臣(じんしん)の地位に在(あ)って、主(あるじ)を震(ふる)えさせる威(い)が有り、名は天下に高く、

竊為足下危之韓信謝曰

ひそかに足下(斉王韓信)のためにこれを危(あや)ぶむのです」と。斉王韓信は謝(しゃ)して曰く、

先生且休矣吾將念之

「先生(蒯通)はとりあえずお休みください。吾(われ)はまさにこれを考えんとす」と。

後數日蒯通復說曰夫聽者事之候也

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後數日蒯通復說曰夫聽者事之候也

数日後、蒯通はふたたび説(と)いた、曰く、「それ、聴き入れるとは、事(こと)のさぐりみることで、

計者事之機也聽過計失而能久安者鮮矣

計(はか)るとは、事(こと)のからくりであり、聴き入れることが過(あやま)って、計(はか)りごとが失敗すれば、久(ひさ)しく安(やす)んずることができることはまれでしょう。

聽不失一二者不可亂以言

聴き入れるに順を失わない者は、言葉を以って乱(みだ)すことはできません。

計不失本末者不可紛以辭

計(はか)りごとが、本末(もととすえ)を失わない者は、意見を以って紛(まぎ)らわしくさせることはできません。

夫隨廝養之役者失萬乘之權

それ、廝養(たきぎを取ったり馬の世話をしたりする召使)の役(やく)をつづける者は万乗の権力を失(うしな)い、

守儋石之祿者闕卿相之位

わずかな俸禄(ほうろく)を大切にもちこたえる者は卿相の地位をうしないます。

故知者決之斷也疑者事之害也

故(ゆえ)にさといのは思い切った決断であり、きめかねるのは事(こと)することの害(がい)であり、

審豪氂之小計遺天下之大數

ちいさなつまらない計(はか)りごとを審(つまび)らかにしては、天下の大勢(たいせい)を逃(のが)します。

智誠知之決弗敢行者百事之禍也

智(ち)者が誠(まこと)にさとくても、敢(あ)えて行わないことを決めるのは、百事の禍(わざわい)であります。

故曰猛虎之猶豫不若蜂蠆之致螫

故(ゆえ)に曰く、猛獣の虎(とら)のためらうは、蜂(はち)や蠍(さそり)の刺(さ)すをまねくに
及(およ)ばない。

騏驥之跼躅不如駑馬之安步

騏驥(きき 一日千里を行くすぐれた馬)の行き悩むさまは、駑馬(どば のろい馬)がゆるゆると歩行するに及(およ)ばない。

孟賁之狐疑不如庸夫之必至也

孟賁(勇者の名)がひどくきめかねるは、凡庸(ぼんよう)な男の必至(ひっし)に及(およ)ばない。

雖有舜禹之智吟而不言

帝舜、帝禹の智(ち)が有ると雖(いえど)も、うそぶいて言わなければ、

不如瘖聾之指麾也

聾唖(ろうあ)者の旗(はた)で指揮(しき)するに及(およ)ばない、と。

此言貴能行之夫功者難成而易敗

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此言貴能行之夫功者難成而易敗

これ、行うことができることを貴(とうと)ぶことを言っています。それ、功とは成(な)り難(がた)く敗(やぶ)れ易(やす)く、

時者難得而易失也時乎時不再來

時(とき)とは得がたくて失い易(やす)いです。時(とき)です、時(とき)は再び来ないのです。

願足下詳察之韓信猶豫不忍倍漢

願わくは足下(斉王韓信)にはこれを詳(くわ)しくお考えください」と。斉王韓信はためらって漢にそむくことが忍(しの)ばれなかった。

又自以為功多漢終不奪我齊

また、自(みずか)らを功が多く、漢は終(しま)いまで我(わ)が斉を奪(うば)わないだろうと思うを以ってした。

遂謝蒯通蒯通說不聽已詳狂為巫

遂(つい)に蒯通に謝(しゃ)した。蒯通の説(せつ)が聴き入れられなかったので、すでに狂人をいつわり、かんなぎに為った。

漢王之困固陵用張良計召齊王信

漢王劉邦の固陵で困窮するは、張良の計を用い、斉王韓信を召し寄せて、

遂將兵會垓下項羽已破高祖襲奪齊王軍

遂(つい)に兵を率(ひき)いて垓下に会した。項羽がすでに破(やぶ)れると、漢高祖劉邦は斉王軍を襲(おそ)って奪(うば)った。

漢五年正月徙齊王信為楚王都下邳

漢五年正月、斉王韓信を移して楚王と為し、下邳を都(みやこ)とした。

信至國召所從食漂母賜千金

楚王韓信が国に至ると、食事をふるまわれたところの、古いわたを水にさらしていた年配の女性を召(め)しよせ、千金を賜(たま)わった。

及下鄉南昌亭長賜百錢曰

下郷南昌亭長に及んでは、百銭を賜(たま)わり、曰く、

公小人也為不卒

「公はつまらない人であって、徳(とく)を為すは終(しま)いまでしなかった」と。

召辱己之少年令出胯下者以為楚中尉

少年の、またの下をくぐらせて、己(おのれ)を辱(はずかし)めた者を召しよせ、楚中尉と為すを以ってした。

告諸將相曰此壯士也方辱我時

諸(もろもろ)の将軍、大臣に告(つ)げて曰く、「これは壮士である。まさに我(われ)を辱(はずかし)めんとした時、

我寧不能殺之邪殺之無名故忍而就於此

我(われ)は寧(むし)ろこれを殺すことができなかっただろうか。これを殺しても名声は無く、
故(ゆえ)に忍(しの)んで、これにつきしたがったのだ」と。

項王亡將鐘離眛家在伊廬素與信善

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項王亡將鐘離眛家在伊廬素與信善

項王(項羽)軍の亡将の鐘離眛の家は伊廬に在(あ)り、素(もと)より楚王韓信と仲が良かった。

項王死後亡歸信漢王怨眛聞其在楚

項王(項羽)の死後、逃げて楚王韓信に帰属した。漢王劉邦は鐘離眛を怨(うら)み、その楚にいることを聞き、

詔楚捕眛信初之國行縣邑陳兵出入

楚に鐘離眛を捕(と)らえるよう詔(みことのり)した。楚王韓信は国(楚)に行ったばかりのときで、
県邑に行き、兵を連(つら)ねて出入りした。

漢六年人有上書告楚王信反高帝以陳平計

漢六年、人(ひと)の上書するものが有り、楚王韓信が叛(そむ)いたと告(つ)げた。漢高帝劉邦は陳平の計(はか)りごとを以って、

天子巡狩會諸侯南方有雲夢

天子(漢高帝劉邦)が巡幸(じゅんこう)して諸侯を会するに、南にまさに雲夢(楚地)が有り、

發使告諸侯會陳吾將游雲夢

使者を発して諸侯に陳(楚の旧都)に会するに、「吾(われ)はまさに雲夢にあそばんとす」と告げさせた。

實欲襲信信弗知高祖且至楚信欲發兵反

実は楚王韓信を襲(おそ)うことを欲し、楚王韓信は知らなかった。漢高祖劉邦がまさに楚に至らんとすると、楚王韓信は兵を発して叛(そむ)くことを欲したが、

自度無罪欲謁上恐見禽人或說信曰

自(みずか)らをはかるに罪が無く、上に謁見(えっけん)することを欲したが、いけどりの目にあうことを恐(おそ)れた。人の或(あ)る者が楚王韓信を説(と)いて曰く、

斬眛謁上上必喜無患信見眛計事

「鐘離眛を斬って上(うえ)に謁見(えっけん)すれば、上(うえ)は必ず喜び、患(うれ)いは無くなるでしょう」と。楚王韓信は鐘離眛に見(まみ)えて事を計(はか)った。

眛曰漢所以不擊取楚以眛在公所

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眛曰漢所以不擊取楚以眛在公所

鐘離眛曰く、「漢の楚を撃(う)ち取らないわけは、わたしが公(楚王韓信)の所に在(あ)るを以ってするからです。

若欲捕我以自媚於漢吾今日死

なんじ(楚王韓信)が我(われ)を捕(と)らえ、自(みずか)らを漢に媚(こ)びるを以ってすることを欲すれば、吾(われ)は今日にも死にますが、

公亦隨手亡矣乃罵信曰公非長者

公(楚王韓信)もまたすぐに亡(ほろ)びるでしょう」と。すなわち、楚王韓信を罵(ののし)って曰く、「公(楚王韓信)は長(た)けた者では非(あら)ず」と。

卒自剄信持其首謁高祖於陳

ついに自ら首をかききった。楚王韓信はその首(くび)を持(も)って、漢高祖劉邦に陳に於いて謁見(えっけん)した。

上令武士縛信載後車信曰

上(うえ)は武士に令(れい)して楚王韓信を縛(しば)らせ、護送車(後=護?)に載(の)せた。楚王韓信曰く、

果若人言狡兔死良狗亨

「果(は)たして人の言のごとく、すばしこい兔(うさぎ)が死ねば、猟犬は煮(に)られ、

高鳥盡良弓藏敵國破謀臣亡

高く飛ぶ鳥が尽(つ)きれば、良い弓(ゆみ)はしまわれ、敵国が破(やぶ)れれば、謀臣は亡(ほろ)ぼされる、と。

天下已定我固當亨上曰人告公反

天下はすでに定(さだ)まり、我(われ)はきっと烹刑の罪に当てられるだろう」と。上(うえ)曰く、「人が公(楚王韓信)が叛(そむ)いたと告(つ)げたのだ」と。

遂械系信至雒陽赦信罪以為淮陰侯

遂(つい)に楚王韓信をかせにはめてつないだ。雒陽に至ると、楚王韓信の罪を赦(ゆる)し、淮陰侯と為すを以ってした。

信知漢王畏惡其能常稱病不朝從

淮陰侯韓信は漢王劉邦がその能力を恐(おそ)れ憎んでいることを知り、常(つね)に病(やまい)を称して朝従(朝廷に行って天子にお目にかかることと、天子のおともをすること)しなかった。

信由此日夜怨望居常鞅鞅

淮陰侯韓信はこれに由(よ)り、日夜(にちや)怨(うら)めしく思い、居(お)ること常(つね)に
鞅鞅(おうおう)と気がふさいでおり、

羞與絳灌等列

絳侯周勃、灌嬰らと並(なら)ぶことを羞(は)じた。

信嘗過樊將軍噲噲跪拜送迎

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信嘗過樊將軍噲噲跪拜送迎

淮陰侯韓信が嘗(かつ)て樊將軍噲に立ち寄ったとき、樊將軍噲は送迎に跪(ひさまず)いて拝礼(はいれい)して、

言稱臣曰大王乃肯臨臣

臣(しん)を称(しょう)して言った、曰く、「大王(淮陰侯韓信)がなんとわたしのところへよくおいでくださいました」と。

信出門笑曰生乃與噲等為伍

淮陰侯韓信は門を出て笑って曰く、「生きてすなわち、なんじらと仲間に為った」と。

上常從容與信言諸將能不各有差

上(うえ 漢高帝劉邦)は常(つね)に従容(しょうよう)としており、淮陰侯韓信とともに諸(もろもろ)の将軍の能、不能を言い、各(おのおの)に差(さ)をつけた。

上問曰如我能將幾何信曰

上(うえ)は問(と)うて曰く、「我(われ)の如(ごと)くはどれぐらいを率(ひき)いることができるだろうか」と。淮陰侯韓信曰く、

陛下不過能將十萬上曰

「陛下は十万人を率(ひき)いることができるに過ぎません」と。上(うえ)曰く、

於君何如曰臣多多而益善耳

「君に於いてはどうか?」と。曰く、「わたしは多ければ多いほどますます善(よ)く率(ひき)いることができて、それのみです」と。

上笑曰多多益善何為為我禽

上(うえ)は笑って曰く、「多ければ多いほど善(よ)いのなら、どうして我(われ)の生け捕りと為(な)るを為(な)したのか?」と。

信曰陛下不能將兵而善將將

淮陰侯韓信曰く、「陛下は兵を率(ひき)いることはできませんが、しかし将軍を率(ひき)いることにすぐれています。

此乃言之所以為陛下禽也

これがすなわち陛下の生け捕りと為った理由の言(げん)であります。

且陛下所謂天授非人力也

まさに陛下は天授(てんじゅ)と謂(い)うところで、人間の能力では非(あら)ざるなり」と。

陳豨拜為鉅鹿守辭於淮陰侯

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陳豨拜為鉅鹿守辭於淮陰侯

陳豨が官をさずけられて鉅鹿守(趙地)と為り、淮陰侯韓信に別れを告(つ)げた。

淮陰侯挈其手辟左右與之步於庭

淮陰侯韓信はその手をとり、左右の者をしりぞけて、これとともに庭を歩(ある)いた。

仰天嘆曰子可與言乎欲與子有言也

天(てん)を仰(あお)いで嘆息(たんそく)して曰く、「なんじは言(げん)にあずかることができるだろうか。なんじに与(あた)えたいと欲する言(げん)が有るのだが」と。

豨曰唯將軍令之淮陰侯曰

鉅鹿守陳豨曰く、「ただ将軍はこれに令(れい)してくださるのみ」と。淮陰侯韓信曰く、

公之所居天下精兵處也而公

「公の居住するところは、天下の精兵がいるところである。しこうして公は、

陛下之信幸臣也人言公之畔

陛下の信頼する寵臣である。人が公の謀反(むほん)を言っても、

陛下必不信再至陛下乃疑矣

陛下は決して信じないだろう。ふたたび至れば、陛下はそこで疑(うたが)い、

三至必怒而自將吾為公從中起

三度至れば、必ず怒(おこ)って自(みずか)ら兵を率(ひき)いることでしょう。吾(われ)が公の為(ため)に中(なか)から兵を起(おこ)せば、

天下可圖也陳豨素知其能也

天下ははかり取ることができるでしょう」と。鉅鹿守陳豨は素(もと)よりその能力を知っており、

信之曰謹奉教漢十年

これを信じて曰く、「謹(つつし)んで教えを奉(たてまつ)ります」と。漢十年、

陳豨果反上自將而往信病不從

鉅鹿守陳豨が果(は)たして謀反(むほん)した。上(うえ)は自(みずか)ら兵を率(ひき)いて往(ゆ)き、淮陰侯韓信は病(やまい)を称して従わなかった。

陰使人至豨所曰弟舉兵吾從此助公

ひそかに人をつかわし鉅鹿守陳豨の所に至らせ、曰く、「さあ、兵を挙(あ)げよう、吾(われ)は
ここより公を助ける」と。

信乃謀與家臣夜詐詔赦諸官徒奴

淮陰侯韓信はそこで家臣とともに謀(はか)り、夜、詔(みことのり)を偽(いつわ)って、諸(もろもろ)の官の労役者、奴隷(どれい)を赦免(しゃめん)して、

欲發以襲呂后太子部署已定

発して漢呂后(劉邦の妻)、漢太子を襲(おそ)うことを欲した。部署(ぶしょ)はすでに定(さだ)まり、

待豨報其舍人得罪於信信囚欲殺之

鉅鹿守陳豨の報告を待(ま)った。その舎人が罪を淮陰侯韓信に於いて得(え)て、淮陰侯韓信は囚(とら)えて、これを殺そうと欲した。

舍人弟上變告信欲反狀於呂后

舎人の弟が変事を申し上げ、淮陰侯韓信が漢呂后に於いて叛(そむ)く状況を欲していると告(つ)げた。

呂后欲召恐其黨不就乃與蕭相國謀

漢呂后は召し寄せることを欲したが、その党(とう 仲間)がつきしたがわないことを恐(おそ)れ、そこで、蕭何相国(漢丞相蕭何 漢十一年に漢相国に任命される)とともに謀(はか)り、

詐令人從上所來言豨已得死

偽(いつわ)って人の上(うえ 劉邦)に従って来たところに令(れい)して、鉅鹿守陳豨はすでにつかまえられ死んだと言わせた。

列侯群臣皆賀相國紿信曰雖疾彊入賀

列侯、群臣は皆(みな)賀(が)した。蕭何相国は淮陰侯韓信をだまして曰く、「病(やまい)と雖(いえど)も、強(し)いて、入賀せよ」と。

信入呂后使武士縛信斬之長樂鐘室

淮陰侯韓信が入ると、漢呂后は武士をつかわして淮陰侯韓信を縛(しば)らせ、これを長樂鐘室で斬らせた。

信方斬曰吾悔不用蒯通之計

淮陰侯韓信がまさに斬られんとしたとき、曰く、「吾(われ)は蒯通の計(はか)りごとを用いなかったことを悔(く)やむ。

乃為兒女子所詐豈非天哉遂夷信三族

すなわち、子供、女子のだまされるところと為(な)ったが、どうして天(てん)をそしるだろうかな」と。遂(つい)に淮陰侯韓信の三族を滅(ほろ)ぼした。

高祖已從豨軍來至

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高祖已從豨軍來至見信死

漢高祖劉邦はすでに陳豨軍を従(したが)えて来て、至り、淮陰侯韓信の死をみとめた。

且喜且憐之問信死亦何言

且(か)つ喜び、且(か)つこれを憐(あわ)れみ、問(と)うた、「韓信が死ぬとき、また何を言ったか?」と。

呂后曰信言恨不用蒯通計

漢呂后曰く、「韓信は蒯通の計(はか)りごとを用いなかったことを恨(うら)めしく思うと言いました」と。

高祖曰是齊辯士也

漢高祖劉邦曰く、「それは斉の弁士である」と。

乃詔齊捕蒯通蒯通至上曰

そこで、斉に蒯通を捕(と)らえるよう詔(みことのり)した。蒯通が至ると、上(劉邦)曰く、

若教淮陰侯反乎對曰

「なんじは淮陰侯(韓信)に謀反(むほん)を教えたのか?」と。応(こた)えて曰く、

然臣固教之豎子不用臣之策

「然(しか)り、わたしは確かにこれに教えましたが、小僧はわたしの策(さく)を用いず、

故令自夷於此如彼豎子用臣之計

故(ゆえ)に自(みずか)らをここに滅(ほろ)ぼさせたのです。もし、彼(か)の小僧がわたしの計(はか)りごとを用いていれば、

陛下安得而夷之乎上怒曰

陛下はどうしてこれをつかまえて滅(ほろ)ぼせたでしょうか」と。上(劉邦)は怒(おこ)って曰く、

亨之通曰嗟乎冤哉亨也

「これをかまゆでにせよ」と。蒯通曰く、「ああ、冤罪(えんざい)かな、烹刑とは」と。

上曰若教韓信反何冤對曰

上(劉邦)曰く、「なんじは韓信に謀反(むほん)を教えたのに、どうして冤罪(えんざい)なのか?」と。応(こた)えて曰く、

秦之綱絕而維弛山東大擾

「秦の綱(つな)が絶(た)たれてささえが弛(ゆる)み、山東は大いにみだれ、

異姓并起英俊烏集秦失其鹿

異姓がならび起(お)こり、英俊(えいしゅん)がからすのように集まりました。秦が鹿(天子など権力のある地位のたとえ)を失(うしな)い、

天下共逐之於是高材疾足者先得焉

天下はともにこれを追い払い、ここに於いてすぐれた才能の足のはやい者が先(さき)に得(え)られたのです。

蹠之狗吠堯堯非不仁狗因吠非其主

盗蹠(盗賊名)の犬が帝堯に吠(ほ)えたのは、帝堯が仁(じん)でなかったからではなく、犬はその主(あるじ)ではない者に吠(ほ)えることに因(よ)るのです。

當是時臣唯獨知韓信非知陛下也

ちょうどこの時、わたしはただ一人韓信を知っていただけで、陛下のことは知りませんでした。

且天下銳精持鋒欲為陛下所為者甚眾

まさに天下の精鋭(せいえい)が鋒(ほこ)を持って、陛下の為したところを為そうと欲した者は甚(はなは)だ多く、

顧力不能耳又可盡亨之邪

顧(かえり)みて力が不能だっただけです。またこれをことごとくみなかまゆでの刑にするべきですか?」と。

高帝曰置之乃釋通之罪

漢高帝曰く、「これを捨て置け」と。すなわち蒯通の罪をゆるした。

太史公曰吾如淮陰淮陰人為余言

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太史公曰吾如淮陰淮陰人為余言

太史公曰く、「吾(われ)は淮陰に行き、淮陰人がわたしの為(ため)に言った、

韓信雖為布衣時其志與眾異

韓信は官位の無かった時と雖(いえど)も、その志(こころざし)は衆人と異(こと)なっていた。

其母死貧無以葬然乃行營高敞地

その母が死んだとき、貧しく葬式を以ってすることが無かったが、然(しか)るに、高くてひろびろとした地に行って(墓を)営(いとな)み、

令其旁可置萬家余視其母冢良然

その傍(かたわ)らに一万戸を置くことができるようにした。わたしがその母の墓を視(み)ると、まことにその通りだった。

假令韓信學道謙讓不伐己功

仮(かり)に韓信に謙譲(けんじょう)の道を学ばせしめ、己(おのれ)の手柄(てがら)を誇(ほこ)らず、

不矜其能則庶幾哉於漢家勳可以比周召太公之徒

その能力におごらなければ、ほとんど近いであろうかな、漢家に於いて勲功(くんこう)は、周公旦(姫旦)、召公奭(姫奭)太公望呂尚の仲間たちと比(ひ)するを以ってすることができ、

後世血食矣不務出此而天下已集

後の世も宗廟(そうびょう)で祭られたであろうことは。(漢朝廷に)出仕(此=仕?)に務(つと)めず、しこうして、天下がすでにととのってから、

乃謀畔逆夷滅宗族不亦宜乎

そこで叛逆(はんぎゃく)を謀(はか)り、宗族(そうぞく)を絶滅されたのもなんともっともなことではないか」と。

今日で史記 淮陰侯列伝は終わりです。明日からは史記 韓信盧綰列伝に入ります。

史記 韓信盧綰列伝 始め

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韓王信者故韓襄王孽孫也長八尺五寸

韓王信という者は、旧韓の襄王韓倉の妾腹(めかけばら)の孫(まご)で、身長が八尺五寸あった。

及項梁之立楚後懷王也燕齊趙魏皆已前王

楚将項梁の楚の子孫の楚懐王熊心を立てるに及び、燕、斉、趙、魏は皆(みな)すでに前(さき)に王を立て、

唯韓無有後故立韓諸公子陽君成為韓王

ただ韓だけが後継を有(ゆう)することが無かったので、故(ゆえ)に韓の諸(もろもろ)の公子の横陽君韓成を立てて韓王と為し、

欲以撫定韓故地項梁敗死定陶成奔懷王

韓の故地(こち)を撫(な)で定(さだ)めるを以ってすることを欲した。楚将項梁は定陶で敗(やぶ)れて死に、韓王韓成は楚懐王熊心に奔走(ほんそう)した。

沛公引兵擊陽城使張良以韓司徒降下韓故地

沛公劉邦が兵を引いて陽城を撃(う)ち、張良をして韓の司徒(教育をつかさどる官)を以って降(くだ)させ、韓の故地(こち)を下(くだ)させた。
 
得信以為韓將將其兵從沛公入武關

韓信を得(え)て、韓将軍と為すを以ってし、その兵を率(ひき)いて沛公劉邦に従って武関に入った。

沛公立為漢王韓信從入漢中乃說漢王曰

沛公劉邦は立って漢王と為り、韓将韓信は従(したが)って漢中に入り、そこで漢王劉邦に説(と)いた、曰く、

項王王諸將近地而王獨遠居此

「項王(項羽)は諸(もろもろ)の将軍を近い土地で王にさせましたが、王(漢王劉邦)は一人遠くここに居住し、

此左遷也士卒皆山東人跂而望歸

これは左遷(させん)であります。士卒は皆(みな)山東人で、つま立ちして帰ることを望(のぞ)み、

及其鋒東鄉可以爭天下漢王還定三秦

その切っ先が東に向(むか)うに及べば、天下を争(あらそ)うを以ってすることができるでしょう」と。漢王劉邦は三秦を平定しに還(かえ)り、

乃許信為韓王先拜信為韓太尉將兵略韓地

そこで、韓信を韓王に為すことを約束して、先(さき)んじて韓信に官をさずけて韓の太尉と為し、兵を率(ひき)いて韓の地を略取させた。

項籍之封諸王皆就國韓王成以不從無功

項籍(項羽)の諸(もろもろ)の王を封ずるは皆(みな)国に就(つ)かせ、韓王韓成は、従わずに手柄が無いのを以って

不遣就國更以為列侯

国(韓)に就(つ)くよう遣(つか)わさず、改(あらた)めるに列侯と為すを以ってした。

及聞漢遣韓信略韓地

漢が韓太尉韓信を遣(つか)わして韓の地を略取させていることを聞くに及んで、

乃令故項籍游吳時吳令鄭昌為韓王以距漢

すなわち、以前項籍(項羽)が呉に遊んだ時の呉令鄭昌に令(れい)して韓王と為さしめ、漢と対峙(たいじ)するを以ってした。

漢二年韓信略定韓十餘城

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漢二年韓信略定韓十餘城

漢二年、韓太尉韓信は韓の十余の城邑を略定した。

漢王至河南韓信急擊韓王昌陽城

漢王劉邦が河南に至り、韓太尉韓信は韓王鄭昌の陽城を急襲(きゅうしゅう)した。

昌降漢王乃立韓信為韓王常將韓兵從

韓王鄭昌は降(くだ)り、漢王劉邦はそこで韓太尉韓信を立てて韓王と為し、常(つね)に韓兵を率(ひき)いさせて従(したが)わせた。

三年漢王出滎陽韓王信周苛等守滎陽

漢三年、漢王劉邦は栄陽を出て、韓王韓信、漢御史大夫周苛らが栄陽を守った。

及楚敗滎陽信降楚已而得亡

楚が栄陽を敗(やぶ)るに及んで韓王韓信は楚に降(くだ)り、しばらくして逃げるを得(え)て、

復歸漢漢復立以為韓王竟從擊破項籍

ふたたび漢に帰属し、漢はふたたび立てて韓王と為すを以ってし、とうとう従って項籍(項羽)を撃(う)ち破(やぶ)り、

天下定五年春遂與剖符為韓王王潁川

天下は平定した。漢五年春、遂(つい)に剖符を与(あた)えて韓王と為し、潁川で王になった。

明年春上以韓信材武所王北近鞏洛

明くる年春、上(劉邦)は韓王韓信の才能が武勇で、統治するところが北に鞏、洛に近く、

南迫宛葉東有淮陽皆天下勁兵處

南に宛、葉に迫(せま)り、東に淮陽が有り、皆(みな)天下の強い兵士のいる処(ところ)を以って、

乃詔徙韓王信王太原以北備御胡都晉陽

すなわち、詔(みことのり)して韓王韓信を移(うつ)して、太原以北を統治させ、胡(匈奴)を防ぐに備(そな)えさせ、晋陽を都(みやこ)にした。

信上書曰國被邊匈奴數入

韓王韓信は上書して曰く、「国は匈奴がたびたび入って辺寇(へんこう)を被(こうむ)り、

晉陽去塞遠請治馬邑上許之

晋陽は国境地帯から遠く離(はな)れているので、馬邑で治(おさ)めることを請(こ)う」と。上(劉邦)はこれを聴き入れ、

信乃徙治馬邑秋匈奴冒頓大圍信

韓王韓信はそこで治(ち)を馬邑に移(うつ)した。秋、匈奴の冒頓が大いに韓王韓信を包囲(ほうい)した。

信數使使胡求和解漢發兵救之疑信數使有二心

韓王韓信はたびたび使者を胡(匈奴)につかわして和解(わかい)を求めた。漢がこれを救(すく)いに兵を発したが、韓王韓信がたびたびひそかに(匈奴に)使(つか)いして、二心が有るのではないかと疑(うたが)い、

使人責讓信信恐誅

人をして韓王韓信をせめとがめさせた。韓王韓信は誅(ちゅう)を恐れ、

因與匈奴約共攻漢反以馬邑降胡擊太原

因(よ)りて匈奴とともに約(やく)し、共(とも)に漢を攻(せ)めて、反(かえ)って、馬邑が胡(匈奴)に降(くだ)ったのを以って、太原を撃(う)った。

七年冬上自往擊破信軍銅鞮

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七年冬上自往擊破信軍銅鞮斬其將王喜

漢七年冬、上(劉邦)は自(みずか)ら撃(う)ちに往(ゆ)き、韓王韓信軍を銅鞮で破(やぶ)り、
その将軍王喜を斬った。

信亡走匈奴(與)其與白土人曼丘臣

韓王韓信は匈奴(きょうど)に逃げ走り、その白土人の曼丘臣、

王黃等立趙苗裔趙利為王復收信敗散兵

王黄らとともに趙氏の遠い子孫の趙利を立てて王と為し(太原以北はもと趙地)、ふたたび韓信の敗(やぶ)れ散った兵を収(おさ)め、

而與信及冒頓謀攻漢

しこうして、韓信とともに冒頓に及(およ)んで、漢を攻(せ)める謀(はか)りごとをした。

匈奴仗左右賢王將萬餘騎與王黃等屯廣武以南

匈奴の護衛の左右の賢王が万騎を率(ひき)いて王黄らとともに広武以南に陣営をしき、

至晉陽與漢兵戰漢大破之追至于離石復破之

晋陽に至り、漢兵とともに戦い、漢はこれを大破(たいは)し、追いかけて離石に至り、ふたたびこれを
破(やぶ)った。

匈奴復聚兵樓煩西北漢令車騎擊破匈奴

匈奴(きょうど)はふたたび兵を樓煩の西北にあつめたので、漢は車騎に令(れい)して匈奴(きょうど)を撃(う)ち破(やぶ)らせた。

匈奴常敗走漢乘勝追北

匈奴(きょうど)は常(つね)に敗走(はいそう)し、漢は勝ちに乗じて北に追いかけた。

聞冒頓居代(上)谷高皇帝居晉陽

冒頓が代の谷に居(い)ると聞き、漢高皇帝劉邦は晋陽に居(お)り、

使人視冒頓還報曰可擊上遂至平城

人をつかわし冒頓を監視させた。還(かえ)って報告して曰く、「撃(う)つべきです」と。上(劉邦)は遂(つい)に平城に至った。

上出白登匈奴騎圍上上乃使人厚遺閼氏

上(劉邦)が白登を出ると、匈奴の騎兵は上(劉邦)を包囲した。上(劉邦)はそこで人をつかわし閼氏(冒頓の正后)に厚(あつ)く贈り物をさせた。

閼氏乃說曰今得漢地猶不能居

閼氏(冒頓の正后)はそこで冒頓に説(と)いた、曰く、「今、漢の地を得(え)ても、猶(なお)住むことはできません。

且兩主不相緱居七日胡騎稍引去

まさに両主(漢帝と匈奴王)は縄(なわ)で巻いた粗末な剣のつかの相(そう)ではないのです」と。居(お)ること七日、胡騎(匈奴の騎兵)が次第に引いて去っていった。

時天大霧漢使人往來胡不覺

この時、天気は大霧で、漢は人をつかわし往来(おうらい)させたが、胡(匈奴)は気がつかなかったのである。

護軍中尉陳平言上曰胡者全兵

漢護軍中尉陳平が上(劉邦)に言った、曰く、「胡(匈奴)の者は兵を保ったままで、

請令彊弩傅兩矢外向徐行出圍

強弩(強い弓)に令して両側の矢を外(そと)に向けてつがえさせ、徐行(じょこう)して包囲を出ることを請(こ)うのです」と。

入平城漢救兵亦到胡騎遂解去

平城に入ると、漢の救援兵もまた到着し、胡騎(匈奴の騎兵)は遂(つい)に解(と)いて去った。

漢亦罷兵歸韓信為匈奴將兵往來擊邊

漢もまた戦いをやめて帰った。韓信は匈奴の為(ため)に兵を率いて辺境を往き来して撃(う)った。

漢十年信令王黃等說誤陳豨

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漢十年信令王黃等說誤陳豨

漢十年、韓信は王黄らに令(れい)し(鉅鹿守(趙地)の)陳豨を誤(あやま)らせようと説(と)かせた。

十一年春故韓王信復與胡騎入居參合距漢

漢十一年春、元韓王韓信はふたたび胡騎とともに参合に入り居(きょ)し、漢と対峙(たいじ)した。

漢使柴將軍擊之遺信書曰

漢は柴將軍をつかわしこれを撃(う)たせ、韓信に書状を送って曰く、

陛下仁諸侯雖有畔亡而復歸

「陛下(劉邦)は心が広く情け深く、諸侯に謀反(むほん)が有(あ)って逃亡し、しこうして、ふたたび帰属したと雖(いえど)も、

輒復故位號不誅也大王所知

そのたびごとにまた前の位号に復位させ、誅(ちゅう)さないのは、大王(韓信)の知るところです。

今王以敗亡走胡非有大罪急自歸

今、王(韓信)は敗(やぶ)れて胡(匈奴)に逃走したのを以って、大罪を有(ゆう)したのでは非(あら)ず、急いで自(みずか)ら(漢に)帰られよ」と。

韓王信報曰陛下擢仆起閭巷

韓王韓信は返報して曰く、「陛下(劉邦)はわたしを民間から起こして引き抜き、

南面稱孤此仆之幸也滎陽之事

南面して孤(王侯の自称)を称(しょう)し、これは、わたしの幸いであります。栄陽の事(こと)では、

仆不能死囚於項籍此一罪也

わたしは死ぬことができず、項籍(項羽)に囚(とら)われました。これが一つめの罪であります。

及寇攻馬邑仆不能堅守以城降之

寇盗が馬邑を攻(せ)めるに及び、わたしは堅(かた)く守ることができず、城を以ってこれに降(くだ)りました。

此二罪也今反為寇將兵

これが二つめの罪であります。今、反対に兵を率(ひき)いて寇盗と為り、

與將軍爭一旦之命此三罪也

将軍(漢柴将軍)とともに一朝の命(いのち)を争(あらそ)っています。これが三つ目の罪であります。

夫種蠡無一罪身死亡

越大夫文種、范蠡は一つの罪も無く、身(み)は死し、逃げましたが、

今仆有三罪於陛下而欲求活於世

今、わたしは三つの罪が陛下に於いて有(あ)り、しこうして漢世に活(かつ)を求めることを欲するは、

此伍子胥所以僨於吳也

これ、伍子胥が呉に於いてたおれるを以ってしたところであります。

今仆亡匿山谷旦暮乞貸蠻夷

今、わたしは、山の谷間(たにま)に逃げ隠(かく)れ、朝も夕も蛮夷にほどこしを乞(こ)い、

仆之思歸,如痿人不忘起盲者不忘視也

わたしの帰ろうという思いは、足萎(あしな)えの人が立ち上がることを忘れず、盲者が視(み)ることを忘れないようなもので、

勢不可耳遂戰

情勢は不可であるだけです」と。遂(つい)に(漢柴将軍と)戦った。

柴將軍屠參合斬韓王信

漢柴将軍は参合をやぶって、韓王韓信を斬った。

信之入匈奴與太子俱

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信之入匈奴與太子俱

韓信の匈奴に入るは太子とともに連れ立って、

及至穨當城生子因名曰穨當

穨当城に至るに及(およ)んで、子を生(う)み、因(よ)りて名は穨当といった。

韓太子亦生子命曰嬰

韓太子もまた子を生み、命名して嬰といった。

至孝文十四年穨當及嬰率其眾降漢

漢孝文帝十四年、韓穨当及び韓嬰はその衆を率(ひき)いて漢に降(くだ)った。

漢封穨當為弓高侯嬰為襄城侯

漢は韓穨当を封じて弓高侯と為し、韓嬰を封じて襄城侯と為した。

吳楚軍時弓高侯功冠諸將

呉楚七国の乱の時、弓高侯韓穨当の功績(こうせき)は諸侯に冠(かん)した。

傳子至孫孫無子失侯

子に伝え孫に至ると、孫には子が無く、侯位を失(うしな)った。

嬰孫以不敬失侯穨當孽孫韓嫣貴幸

襄城侯韓嬰の孫は不敬(ふけい)罪を以って侯位を失(うしな)った。弓高侯韓穨当の妾腹の孫(まご)の韓嫣は貴(とうと)ばれ寵愛され、

名富顯於當世其弟說再封

名声、富(とみ)は当時の世に於いて顕(あきら)かになった。その弟の韓説は二度封ぜられ、

數稱將軍卒為案道侯

たびたび将軍を称(たた)えられて、とうとう案道侯と為った。

子代歲餘坐法死後歲餘

子の韓代は一年余りして法(ほう)にとわれて死んだ。一年余り後(のち)、

說孫曾拜為龍頟侯續說後

案道侯韓説の孫(まご)の韓曾が官をさずけられて龍頟侯と為り、案道侯韓説の後継(こうけい)を続けた。

盧綰者豐人也與高祖同里

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盧綰者豐人也與高祖同里

盧綰という者は豐人であり、漢高祖劉邦と同じ里である。

盧綰親與高祖太上皇相愛

盧綰の親は漢高祖劉邦の太上皇(父)と互いに仲が良く、

及生男高祖盧綰同日生

男の子を生むに及(およ)んで、漢高祖劉邦、盧綰は同じ日に生まれ、

里中持羊酒賀兩家及高祖盧綰壯

里中(さとじゅう)が羊、酒を持って両家を賀(が)した。漢高祖劉邦、盧綰が大きくなるに及(およ)んで、

俱學書又相愛也里中嘉兩家親相愛

ともに書を学び、また互いに仲が良かったのである。里中(さとじゅう)は両家の親(おや)が互いに仲が良く、

生子同日壯又相愛復賀兩家羊酒

子供を同じ日に生み、大きくなってからもまた互いに仲が良いのをよろこび、また両家に羊、酒で賀(が)した。

高祖為布衣時有吏事辟匿

漢高祖劉邦が無位無冠であった時、役人の仕事(泗水の亭長)の避(よ)けさける仕事が有ると、

盧綰常隨出入上下及高祖初起沛

盧綰は常(つね)に附きしたがって上へ下へと出入りした。漢高祖劉邦が沛で立ち上がったばかりの時に及んで、

盧綰以客從入漢中為將軍常侍中

盧綰は客人として従(したが)い、漢中に入って漢将軍に為り、常(つね)に中(なか)に侍(はべ)った。

從東擊項籍以太尉常從出入臥內

東に項籍(項羽)を撃ちに従(したが)うは、漢太尉を以って常(つね)に従(したが)い、(劉邦の)寝室内に出入りした。

衣被飲食賞賜群臣莫敢望雖蕭曹等

着物、飲食、賞賜(しょうし)は、群臣は敢(あえ)て怨(うら)む者は無く、蕭何、曹参らが、

特以事見禮至其親幸莫及盧綰

特に事(こと)を以って敬(うやま)われたと雖(いえど)も、その親(した)しく寵愛されるに至っては、盧綰に及(およ)ぶ者はなかった。

綰封為長安侯長安故咸陽也

漢太尉盧綰が長安侯に封ぜられた。長安とは以前の咸陽である。

漢五年冬以破項籍乃使盧綰別將

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漢五年冬以破項籍乃使盧綰別將

漢五年冬、項籍(項羽)を破(やぶ)るを以って、すなわち漢太尉長安侯盧綰をして率(ひき)いるを別(わ)けさせ、

與劉賈擊臨江王共尉破之

漢将劉賈とともに臨江王共尉(楚義帝熊心の相国共敖の子)を撃(う)ち、これを破(やぶ)った。

七月還從擊燕王臧荼臧荼降

漢五年七月、還(かえ)り、燕王臧荼(もと燕将)を撃(う)ちに従(したが)い、燕王臧荼は降(くだ)った。

高祖已定天下諸侯非劉氏而王者七人

漢高祖劉邦がすでに天下を平定し、諸侯の劉氏でなくして王になった者は七人。

欲王盧綰為群臣觖望及虜臧荼

漢太尉長安侯盧綰を王にしようと欲し、群臣に願い望んだ。燕王臧荼を虜(とりこ)にするに及(およ)んで、

乃下詔諸將相列侯擇群臣有功者以為燕王

すなわち、詔(みことのり)を諸将、大臣、列侯に下(くだ)し、群臣の功(こう)有る者を択(えら)んで、燕王と為すを以ってした。

群臣知上欲王盧綰皆言曰

群臣は上(劉邦)が漢太尉長安侯盧綰を王にしたいと欲しているのを知り、皆(みな)言った、曰く、

太尉長安侯盧綰常從平定天下

「太尉長安侯盧綰は常(つね)に従(したが)って天下を平定し、

功最多可王燕詔許之

功績は最も多く、燕で王となるべきです」と。詔(みことのり)してこれを聴き入れた。

漢五年八月乃立虜綰為燕王

漢五年八月、すなわち漢太尉長安侯盧綰を立てて燕王と為した。

諸侯王得幸莫如燕王

諸侯王で寵愛を得(え)るは燕王盧綰に及ぶ者はなかった。

漢十一年秋陳豨反代地高祖如邯鄲擊豨兵

漢十一年秋、(鉅鹿守(趙地)の)陳豨が代(趙地)の地で叛(そむ)き、漢高祖劉邦)は邯鄲に行って鉅鹿守陳豨兵を撃(う)ち、

燕王綰亦擊其東北當是時陳豨使王黃求救匈奴

燕王盧綰もまたその(代の)東北を撃(う)った。ちょうどこの時、鉅鹿守陳豨は王黄をつかわし匈奴に
救援を求(もと)めさせた。

燕王綰亦使其臣張勝於匈奴言豨等軍破

燕王盧綰もまたその臣下の張勝を匈奴につかわし、鉅鹿守陳豨らの軍は破(やぶ)れたと言わせた。

張勝至胡故燕王臧茶子衍出亡在胡

張勝が胡(匈奴)に至ると、前の燕王臧茶の子の臧衍が国外に出て逃亡し胡(匈奴)に在(あ)り、

見張勝曰公所以重於燕者以習胡事也

燕使者張勝に見(まみ)えて曰く、「公(張勝)が燕に於いて重んぜられている理由とは、胡(匈奴)の事に習熟しているからである。

燕所以久存者以諸侯數反兵連不決也

燕が久しく存(ながら)えている理由とは、諸侯がたびたび叛(そむ)くのを以って戦いがうちつづいて決しないからである。

今公為燕欲急滅豨等豨等已盡次亦至燕

今、公が燕の為(ため)に急いで鉅鹿守陳豨らを滅ぼそうと欲し、鉅鹿守陳豨がすでに尽(つ)くされれば、次(つぎ)もまた燕に至り、

公等亦且為虜矣公何不令燕且緩陳豨而與胡和

公らもまたまさに虜(とりこ)に為らんとするだろう。公(張勝)はどうして燕に、まさに鉅鹿守陳豨に緩(ゆる)めて胡(匈奴)と和さんとすることを令(れい)さないのですか?

事得長王燕即有漢急可以安國

事がゆるやかになれば、長く燕を統治することを得て、すなわち、漢に急(さしせまり)を有(ゆう)させて、国を安(やす)んずるを以ってすることができるのです」と。

張勝以為然豨私令匈奴助豨等擊燕

燕使者張勝はその通りだと思った。鉅鹿守陳豨はひそかに匈奴に鉅鹿守陳豨らを助けて燕を撃(う)つよう令(れい)した。

燕王綰疑張勝與胡反上書請族張勝

燕王盧綰は燕使者張勝が胡(匈奴)とともに謀反(むほん)したと疑(うたが)い、上書して燕使者張勝を族刑にすることを請(こ)うた。

勝還具道所以為者燕王寤乃詐論它人

燕使者張勝が(燕に)還(かえ)って、つぶさに為すを以ってしたところのものを語(かた)った。
燕王盧綰はさとった。そこで、偽(いつわ)って他の人に罪を定めて、

脫勝家屬使得為匈奴

張勝家属を(刑から)まぬかれさせ、匈奴の間者(かんじゃ)と為ることを得(え)さしめた。

而陰使范齊之陳豨所欲令久亡連兵勿決

しこうして、ひそかに范斉をつかわし鉅鹿守陳豨の所に行かせ、久しく逃げて戦いをうちつづけて決することがないように令(れい)しようと欲した。

漢十二年東擊黥布豨常將兵居代漢使樊噲擊斬豨

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漢十二年東擊黥布豨常將兵居代漢使樊噲擊斬豨

漢十二年、黥布(淮南王英布)を撃(う)ちに東へ進み、鉅鹿守陳豨は常(つね)に兵を率(ひき)いて
代に居(お)り、漢は樊噲をつかわし鉅鹿守陳豨を撃(う)ち斬った。

其裨將降言燕王綰使范齊通計謀於豨所

その(鉅鹿守陳豨の)副将が(漢に)降(くだ)り、燕王盧綰が范斉をつかわして鉅鹿守陳豨の所に於いて計謀を通(かよ)わせたと言った。

高祖使使召盧綰綰稱病

漢高祖劉邦は使者をつかわして燕王盧綰を召し寄せさせたが、燕王盧綰は病(やまい)と称した。

上又使辟陽侯審食其御史大夫趙堯往迎燕王

上(劉邦)はまた辟陽侯審食其、漢御史大夫趙堯をつかわし、燕王盧綰を迎(むか)えに往(ゆ)かせた。

因驗問左右綰愈恐閉匿謂其幸臣曰

因(よ)りて取調べて左右の者に問(と)うた。燕王盧綰は愈々(いよいよ)恐(おそ)れ、閉ざして隠(かく)れ、その幸臣に謂(い)った、曰く、

非劉氏而王獨我與長沙耳

「劉氏で非(あら)ずして王になっているのは、ただ我(われ)と長沙だけだ。

往年春漢族淮陰夏誅彭越皆呂后計

往年(漢十一年)春、漢は淮陰侯韓信を族刑にし、夏、梁王彭越を誅し、皆(みな)呂后(劉邦の妻)の計(はか)りごとだ。

今上病屬任呂后呂后婦人

今、上(劉邦)は病(やまい)で、呂后(劉邦の妻)にまかせている。呂后(劉邦の妻)婦人は、

專欲以事誅異姓王者及大功臣

専(もっぱ)ら、異姓の王者及び大功のある臣下を誅(ちゅう)するを事(こと)とするを以って欲している」と。

乃遂稱病不行其左右皆亡匿

そこで、遂(つい)に病(やまい)を称して行かなかった。その左右の者は皆(みな)逃げ隠(かく)れた。

語頗泄辟陽侯聞之歸具報上上益怒

話しは頗(すこぶ)る漏(も)れて、辟陽侯審食其はこれを聞き、帰ってつぶさに上(劉邦)に報告した。上(劉邦)はますます怒(おこ)った。

又得匈奴降者降者言張勝亡在匈奴為燕使

また、匈奴の降(くだ)った者をつかまえ、降(くだ)った者は燕使者張勝が逃げて匈奴に在(あ)り、
燕使者と為っていると言った。

於是上曰盧綰果反矣使樊噲擊燕

ここに於いて上(劉邦)曰く、「燕王盧綰は果(は)たして叛(そむ)いたのか」と。漢将樊噲をつかわし燕を撃(う)たせた。

燕王綰悉將其宮人家屬騎數千居長城下

燕王盧綰はことごとくその宮人、家属、騎兵数千を率(ひき)いて長城下に居(お)り、

侯伺幸上病愈自入謝四月高祖崩

幸いにも上(劉邦)の病(やまい)が癒(い)えたら、自(みずか)ら入って謝(しゃ)することをうかがった。漢十二年四月、漢高祖劉邦が崩(ほう)じた。

盧綰遂將其眾亡入匈奴匈奴以為東胡盧王

燕王盧綰は遂(つい)にその衆を率(ひき)いて逃げ匈奴に入った。匈奴は東胡の盧王と為すを以ってした。

綰為蠻夷所侵奪常思復歸居歲餘死胡中

東胡王盧綰は蛮夷(ばんい)が侵(おか)し奪(うば)う所と為って、常(つね)にふたたび(漢に)帰ることを思った。居(お)ること一年余り、胡(匈奴)の中で死んだ。

高后時盧綰妻子亡降漢會高后病

漢高后(呂后)の時、東胡王盧綰の妻子が逃げて漢に降(くだ)った。この時漢高后(呂后)は病(やまい)で、

不能見舍燕邸為欲置酒見之

見(まみ)えることができず、燕の邸舎(ていしゃ)に泊(と)めて、酒宴をしてこれに見(まみ)えたいと思った。

高祖竟崩不得見盧綰妻亦病死

漢高后(高祖=高后?)がとうとう崩(ほう)じ、見(まみ)えることを得られなかった。東胡王盧綰の妻もまた病死した。

孝景中六年盧綰孫他之

漢孝景帝中の六年、東胡王盧綰の孫(まご)の盧他之(或いは盧他?)は、

以東胡王降封為亞谷侯

東胡王を以って(漢に)降(くだ)り、封ぜられて亞谷侯と為った。

陳豨者宛朐人也不知始所以得從

陳豨という者は宛朐人であり、従(したが)うを得るを以ってした所の始(はじ)めは知らない。

及高祖七年冬韓王信反入匈奴

漢高祖七年冬に及んで、韓王韓信が叛(そむ)き匈奴に入り、

上至平城還乃封豨為列侯以趙相國將監趙代邊兵邊兵皆屬焉

上(劉邦)は平城に至(いた)って還(かえ)り、すなわち、陽夏侯陳豨(漢五年、燕王臧荼を破って陽夏侯に封ぜられる)を封じて列侯(鉅鹿守)と為し、趙の相国を以って趙、代の国境地帯の兵を率(ひき)い監督し、国境地帯の兵は皆(みな)属(ぞく)した。

豨常告歸過趙

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豨常告歸過趙趙相周昌見豨賓客隨之者千餘乘

鉅鹿守陳豨は常(つね)に告帰(官吏が吉事のために休暇を願い出て故郷に帰る)のとき、趙に立ち寄り、趙相周昌(汾陰悼侯、元漢御史大夫)は鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)のこれに附き従った者、千余台の車で、

邯鄲官舍皆滿豨所以待賓客布衣交皆出客下

邯鄲(趙の都)の官舎は皆いっぱいに満たされたのを見た。鉅鹿守陳豨が賓客(ひんきゃく)を侍(はべ)らせるを以ってするは布衣(ふい)の交(まじ)わり(身分や財産をきにかけない交際)をし、(鉅鹿守陳豨は)皆(みな)賓客(ひんきゃく)の下(した)に出(で)た。

豨還之代周昌乃求入見見上

鉅鹿守陳豨は還(かえ)って代に行き、趙相周昌はそこで入見を求(もと)めた。上(劉邦)に見(まみ)え、

具言豨賓客盛甚擅兵於外數歲恐有變

鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)の盛んなること甚(はなは)だしく、外(そと)に於いて数年、兵を思うままにしており、恐(おそ)らく変事が有ることでしょう、とつぶさに言上した。

上乃令人覆案豨客居代者財物諸不法事多連引豨。

上(劉邦)はそこで人に令(れい)して鉅鹿守陳豨の賓客(ひんきゃく)の代に居(お)る者をくりかえし調べさせ、財物、諸(もろもろ)の不法事は多くが鉅鹿守陳豨に関連していた。

豨恐陰令客通使王黃曼丘臣所

鉅鹿守陳豨は恐(おそ)れ、ひそかに客(きゃく)に令(れい)して王黄、曼丘臣の所に使(つか)いしに通(かよ)わせた。

及高祖十年七月太上皇崩使人召豨豨稱病甚

漢高祖十年七月に及んで、漢太上皇(劉邦の父)が崩じ、人をして鉅鹿守陳豨を召し寄せさせたが、鉅鹿守陳豨は病(やまい)が甚(はなは)だしいと称(しょう)した。

九月遂與王黃等反自立為代王劫略趙代

漢高祖十年九月、遂(つい)に王黄らとともに反乱し、自(みずか)ら立って代王と為り、趙、代をおどして略取した。

上聞乃赦趙代吏人為豨所詿誤劫略者皆赦之

上(劉邦)は聞くと、すなわち、趙、代の役人を赦(ゆる)し、鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)がまちがえ誤(あやま)らせた所と為っておどし略取した者は皆(みな)赦(ゆる)された。

上自往至邯鄲喜曰

上(劉邦)は自(みずか)ら往(ゆ)き、邯鄲に至ると、喜んで曰く、

豨不南據漳水北守邯鄲知其無能為也

「鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)は、漳水が北に邯鄲を守ることに拠(よ)って南に進まず、その為すことができないのを知るのである」と。

趙相奏斬常山守尉曰

趙相周昌は常山守、常山尉を斬ることを申し上げて曰く、

常山二十五城豨反亡其二十城

「常山の二十五の城邑は、鉅鹿守陳豨(自称代王陳豨)が反乱してその二十の城邑を亡くしました」と。

上問曰守尉反乎對曰

上(劉邦)は問(と)うて曰く、「常山守、常山尉が叛(そむ)いたのか?」と。応(こた)えて曰く、

不反上曰是力不足也赦之

「叛(そむ)いていません」と。上(劉邦)曰く、「これは力が足(た)らなかったのである」と、これを赦(ゆる)し、

復以為常山守尉上問周昌曰

ふたたび常山守、常山尉と為すを以ってした。上(劉邦)は趙相周昌に問(と)うた、曰く、

趙亦有壯士可令將者乎對曰有四人

「趙もまた兵を率(ひき)いさせることができる壮士の者は有るか?」と。応(こた)えて曰く、
「四人おります」と。

四人謁上謾罵曰豎子能為將乎

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四人謁上謾罵曰豎子能為將乎

四人が謁見(えっけん)すると、上(劉邦)はあなどり罵(ののし)って曰く、「小僧らは将軍に為ることができるのか?」と。

四人慚伏上封之各千戶以為將

四人は恥じ入って伏(ふ)した。上(劉邦)はこれに各(おのおの)一千戸を封じ将軍と為すを以ってした。

左右諫曰從入蜀漢伐楚

左右の者は諌(いさ)めて曰く、「蜀、漢に入ってより、楚を討(う)ち、

功未遍行今此何功而封

功績(こうせき)は未(いま)だ遍(あまね)く行き渡っておらず、今、ここに何の功にして封ずるのですか?」と。

上曰非若所知陳豨反

上(劉邦)曰く、「なんじらの関知する所ではない。陳豨が謀反(むほん)し、

邯鄲以北皆豨有吾以羽檄徵天下兵

邯鄲(趙の都)以北は皆(みな)陳豨が有(ゆう)し、吾(われ)が羽檄(至急の命令文)を以って天下の兵を徴集(ちょうしゅう)するに、

未有至者今唯獨邯鄲中兵耳

未(ま)だ至ったことがないのは、今、ただ一つ邯鄲中の兵のみ。

吾胡愛四千戶封四人不以慰趙子弟

吾(われ)がどうして四人に封ずる四千戸を惜(お)しみ、趙の子弟を慰(なぐさ)めるを以ってしないだろうか」と。

皆曰善於是上曰

皆(みな)曰く、「わかりました」と。ここに於いて上(うえ)曰く、

陳豨將誰曰王黃曼丘臣

「陳豨は誰(だれ)を将軍にしているのか?」と。曰く、「王黄、曼丘臣で、

皆故賈人上曰吾知之矣

皆(みな)以前は商人でした」と。上(劉邦)曰く、「吾(われ)はこれを理解した」と。

乃各以千金購黃臣等

すなわち各(おのおの)千金を以って王黄、曼丘臣らを購(あがな)おうとした。

十一年冬漢兵擊斬陳豨將侯敞王黃於曲逆下

漢十一年冬、漢兵は陳豨將の侯敞、王黄軍を曲逆の下(もと)で撃(う)ち斬り、

破豨將張春於聊城斬首萬餘

陳豨將の張春を聊城に於いて破(やぶ)り、万余の首を斬った。

太尉勃入定太原代地十二月

漢太尉周勃は太原、代の地に入って平定した。漢十一年十二月、

上自擊東垣東垣不下卒罵上東垣降

上(劉邦)は自(みずか)ら東垣を撃(う)ったが、東垣は下(くだ)らず、歩兵が上(劉邦)を罵(ののし)った。東垣が降(くだ)ると、

卒罵者斬之不罵者黥之更命東垣為真定

歩兵の罵(ののし)った者は斬られ、罵(ののし)らなかった者は黥刑にした。東垣を改(あらた)めて命名し真定と為した。

王黃曼丘臣其麾下受購賞之

陳豨將王黄、陳豨將曼丘臣はその旗(はた)の下(もと)でこれを賞する購(あがな)いをさずかり、

皆生得以故陳豨軍遂敗

皆(みな)生きるを得て、故(ゆえ)を以って陳豨軍は遂(つい)に敗(やぶ)れるを以ってした。
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