後為夷貊所侵徙郡句麗西北今所謂玄菟故府是也
後に夷貊の侵すところと為って、郡を句麗の西北に移した。今謂うところの玄菟故府がこれである。
沃沮還屬樂浪漢以土地廣遠在單單大領之東
沃沮は還(また)楽浪に属した。漢は土地が広遠で、単単大領の東に在るのを以って、
分置東部都尉治不耐城
分けて東部都尉を置いた。(東部都尉は)不耐城を治め、
別主領東七縣時沃沮亦皆為縣
領東の七県を拝受(謹んで受ける 別(ヘツ)=拝(ハイ)? 主(シュ)=受(ジュ)?)した。この時、沃沮もまた皆(みな)県に為った。
漢光武六年省邊郡都尉由此罷
漢光武六年、辺境の郡を省き、都尉は此れに由り、罷(中止)した。
其後皆以其縣中渠帥為縣侯
その後、皆(みな)その県中の渠帥を以って県侯にした。
不耐華麗沃沮諸縣皆為侯國
不耐、華麗、沃沮、もろもろの県は皆(みな)侯国に為った。
後に夷貊の侵すところと為って、郡を句麗の西北に移した。今謂うところの玄菟故府がこれである。
沃沮還屬樂浪漢以土地廣遠在單單大領之東
沃沮は還(また)楽浪に属した。漢は土地が広遠で、単単大領の東に在るのを以って、
分置東部都尉治不耐城
分けて東部都尉を置いた。(東部都尉は)不耐城を治め、
別主領東七縣時沃沮亦皆為縣
領東の七県を拝受(謹んで受ける 別(ヘツ)=拝(ハイ)? 主(シュ)=受(ジュ)?)した。この時、沃沮もまた皆(みな)県に為った。
漢光武六年省邊郡都尉由此罷
漢光武六年、辺境の郡を省き、都尉は此れに由り、罷(中止)した。
其後皆以其縣中渠帥為縣侯
その後、皆(みな)その県中の渠帥を以って県侯にした。
不耐華麗沃沮諸縣皆為侯國
不耐、華麗、沃沮、もろもろの県は皆(みな)侯国に為った。