東夷舊語以為夫餘別種
東夷舊語以為夫餘別種 東夷の古い話では扶余の別種と為すを以てし、 言語諸事多與夫餘同 言語や諸事は多くが扶余と同じであるが、 其性氣衣服有異 その気性、衣服に異(違い)が有る。 本有五族有涓奴部絕奴部順奴部灌奴部桂婁部 本(もと)は武族(五(ウー)=武(ウー)?)が有って、涓奴部、絕奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部が有った。 本涓奴部為王稍微弱今桂婁部代之...
View Article漢時賜鼓吹伎人
漢時賜鼓吹伎人 漢の時、鼓笙(つづみとしょうの笛 吹(スイ)=笙(セイ)?)の伎人(技人?)を賜った。 常從玄菟郡受朝服衣幘 常に玄菟郡から朝服、衣幘を授かり、 高句麗令主其名籍 高句麗令がその名籍(名簿)を主(管理する)した。 後稍驕恣不復詣郡 後に稍(しだいに)、驕恣(おごりたかぶってほしいままにする)になり、郡に詣でて復(かえす もとにもどす)さず、 於東界築小城置朝服衣幘其中...
View Article其置官有對盧
其置官有對盧則不置沛者有沛者則不置對盧 その官を置くは、対盧が有れば、沛者を置かず、沛者が有れば、対盧を置かない。 王之宗族其大加皆稱古雛加 王の宗族の其の大加(=大家?)は皆(みな)古雛加を称する。 涓奴部本國主今雖不為王 涓奴部は本(もと)国主で、今、王に為らないと雖(いえど)も、 適統大人得稱古雛加 正統の血筋の大人(有徳者)は、古雛加を称することができ、 亦得立宗廟祠靈星社稷...
View Article諸大加亦自置使者皁衣先人
諸大加亦自置使者皁衣先人 諸(もろもろ)の大加(大家?)はまた自ら使者、皁衣先人を置く。 名皆達於王如卿大夫之家臣 名前は皆(みな)王に於いての官と同(おなじ 達(ター)=同(トウ)?)じで、卿大夫の家臣の如(ごと)くである。 會同坐起不得與王家使者皁衣先人同列 会同の席次(起(チー)=次(ツー)?)は王家の使者、皁衣先人と同列にすることはできない。
View Article其國中大家不佃作
其國中大家不佃作坐食者萬餘口 その国中の大家は佃作(農業に従事する)はせず、坐(なにもせずに)して食べる者は一万人余りいるが 下戶遠擔米糧魚鹽供給之 下戸(豪民)が米糧魚塩を遠擔(運送)して、これに供給する。 其民喜歌舞國中邑落 その民は歌舞を喜び、国中の村落は、 暮夜男女群聚相就歌戲...
View Article無大倉庫家家自有小倉
無大倉庫家家自有小倉 大きい笙菅(しょうの笛 倉(ソウ)=笙(ショウ)? 庫(コ)=菅(カン)?)は無く、家々は自ら小さい笙(しょうの笛)を有し、 名之為桴京 之(これ)を鳴(ならす 名(メイ)=鳴(メイ)?)らすには、桴京(リード?)を以ってする(為(イ)=以(イ)?)(篳篥?)。 其人清自喜善藏釀 その人は清潔、麤大(大きい 麤(ツー)=自(ツー)?...
View Article以十月祭天國中大會名曰東盟
以十月祭天國中大會名曰東盟 十月を以て天を祭り、国中が大会し、名は東盟という。 其公會衣服皆錦繡金銀以自飾 その公会の衣服は皆(みな)錦繡金銀で自らを以て飾る。 大加主簿頭著幘如幘而無餘 大加(相加、対盧、沛者、古雛加?)、主簿の頭は幘(かぶりもの))を著(つける)し、幘の如くにして纓(冠の部位 余(ヨ)=纓(ヨウ)?)が無い。 其小加著折風形如弁...
View Article其國東有大穴名隧穴
其國東有大穴名隧穴 その国の東に大きい穴が有って、名は隧穴(墓道の穴)という。 十月國中大會迎隧神還於國東上祭之 十月に国中が大会し、隧神を迎(むか)え、国の東の上を還(めぐる)し、これを祭る。 置木隧於神坐 木隧を神坐に置く。 無牢獄有罪諸加評議 牢獄は無く、罪が有れば諸加が評議して、 便殺之沒入妻子為奴婢 敏(すぐに 便(ビン)=敏(ビン)?)にこれを紲(しばる...
View Article其俗作婚姻言語已定
其俗作婚姻言語已定 その俗(ならわし)は婚姻を作り、姻語(縁組の話 言(イン)=姻(イン)?)がすでに定まると、 女家作小屋於大屋後名壻屋 女の家は小屋を母屋の後ろに作る。名は婿屋という。 壻暮至女家戶外自名跪拜 婿は夕方に女の家の戸外に至り、名前を辞(つげる 自(ジ)=辞(ジ)?)して、跪拜し、 乞得就女宿如是者再三 女の宿に就けることを乞う。この如くすること二、三度、 女父母乃聽使就小屋中宿...
View Article其俗淫男女已嫁娶
其俗淫男女已嫁娶 その俗(ならわし)は、殷(盛大 淫(イン)=殷(イン)?)で、男女が嫁娶(嫁入りと嫁取り)を終えると、 便稍作送終之衣 便(すぐに)稍(少しづつ)送終の遺(おくりもの 衣(イ)=遺(イ)?)を作り、 厚葬金銀財幣盡於送死 厚く葬り、金銀財幣で送死に尽くす。 積石為封列種松栢...
View Article國人有氣力
國人有氣力習戰鬪沃沮東濊皆屬焉 国人(国の政権権力を持つ人)は気力が有り、戦闘を習い、沃沮、東濊は皆(みな)属する。 又有小水貊句麗作國 また小水貊が有る。句麗が国を作るは、 依大水而居西安平縣北有小水 大水(漢江?)に依りて居し、西安平県の北に小水(臨津江?)が有り、 南流入海句麗別種依小水作國 南に流れて海に入る。句麗の別種で小水に依りて国を作り、 因名之為小水貊...
View Article王莽初發高句麗兵
王莽初發高句麗兵以伐胡欲不行彊迫遣之 王莽が初めて高句麗兵を発して胡を伐とうとすると、行かないことを欲したので、強迫してこれを遣わしたが、 皆亡出塞為寇盜 皆(みな)塞(とりで)を逃げ出して、寇盜をした。 遼西大尹田譚追擊之為所殺 遼西大尹田譚がこれを追撃したが、殺されるところと為った。 州郡縣歸咎於句麗侯騊嚴尤奏言 州、郡、県は句麗侯騊に咎を帰したが、厳尤は奏言した。 貊人犯法罪不起於騊且宜安慰...
View Article尤誘期句麗侯騊至而斬之
尤誘期句麗侯騊至而斬之 厳尤は期を誘って、句麗侯騊が至るとこれを斬った。 傳送其首詣長安 その首を伝送して長安に詣でた。 莽大恱布告天下更名高句麗為下句麗 王莽は多いに悦び、天下に布告して、名を改めて高句麗を下句麗と為した。 當此時為侯國 ちょうどこの時に侯國に為った。 漢光武帝八年高句麗王遣使朝貢始見稱王 漢光武帝八年、高句麗王は使者を遣わし朝貢し、見(朝見)を始め王を称した。
View Article至殤安之間句麗王宮數寇遼東更屬玄菟
至殤安之間句麗王宮數寇遼東更屬玄菟 殤、安の間に至り、句麗(ソウル?)王の宮はたびたび遼東(仁川?)を寇し、改めて玄菟(サリウォン?)に属した。 遼東太守蔡風玄菟太守姚光以宮為二郡害興師伐之 遼東太守蔡風、玄菟太守姚光は宮を以て二郡の害と為し、軍を興してこれを伐とうとした。 宮詐降請和二郡不進 宮は降伏をいつわり和を請うたので、二郡は進軍しなかった。 宮密遣軍攻玄菟焚燒候城入遼隧殺吏民...
View Article宮死子伯固立
宮死子伯固立 宮が死に、子の伯固が立った。 順桓之間復犯遼東寇新安居鄉又攻西安平 順、桓の間、また遼東を犯し、新安、居郷を寇し、また西安平を攻め、 於道上殺帶方令略得樂浪太守妻子 道上で帯方令を殺し、楽浪太守の妻子を略得した。 靈帝建寧二年玄菟太守耿臨討之 霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨がこれを討ち、 斬首虜數百級伯固降屬遼東 斬首虜数百級、伯固は降伏して、遼東に属した。 熹平中伯固乞屬玄菟...
View Article伯固死有二子
伯固死有二子長子拔奇小子伊夷模 伯固が死に、二人の子が有り、長子は拔奇、小子は伊夷模という。 拔奇不肖國人便共立伊夷模為王 拔奇は不肖で、国人(政府の人々)はすなわち伊夷模を共立して王にした。 自伯固時數寇遼東 伯固の時代より、たびたび遼東を寇し、 又受亡胡五百餘家 また亡胡の五百余家を受けた。 建安中公孫康出軍擊之破其國焚燒邑落 建安中、公孫康が軍を出してこれを撃ち、その国を破り、邑落を焚焼した。...
View Article伊夷模無子淫灌奴部生子名位宮
伊夷模無子淫灌奴部生子名位宮 伊夷模には子が無く、灌奴部と姻(えんぐみ 淫(イン)=姻(イン)?)し、子を生んだ。名は位宮という。 伊夷模死立以為王今句麗王宮是也 伊夷模が死ぬと、立って王にするを以てした。今の句麗王宮が是である。 其曾祖名宮生能開目視其國人惡之 その曽祖父の名は宮といい、生まれたとき目を開いて視ることができたので、その国人(政府の人)はこれを悪(よくない)とした。...
View Article三国志魏書 東沃沮伝 始め
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東 東沃沮(カンヌン?)は高句麗の蓋馬大山(太白山脈? 蓋(カイ→タイ)=太(タイ)? 馬(バ)=白(バイ)?)の東に在り、 大海而居 大海に浜(せまる)して居する。 其地形東北狹西南長可千里 その地形は東西(後漢書より)が狭く、南北(後漢書より)が長く、一千里(一里150m換算で約150辧砲呂△襦 北與挹婁夫餘南與濊貊接 北に挹婁、夫余と、南に濊貊と席(位置...
View Article戶五千無大君王
戶五千無大君王世世邑落各有長帥 戸は五千、大君王はいない。代々邑落にはおのおの長帥がいる。 其言語與句麗大同時時小異 その言語は句麗とだいたい同じであるが、時々少し異なる。 漢初燕亡人衞滿王朝鮮時沃沮皆屬焉 漢の初め、燕亡人(武人?)の衛満が朝鮮(テジョン?音より)を王(統治する)し、時に沃沮は皆(みな)属した。 漢武帝元封二年伐朝鮮殺滿孫右渠 漢武帝元封二年、朝鮮を伐ち、衛満の孫の右渠を殺した。...
View Article後為夷貊所侵
後為夷貊所侵徙郡句麗西北今所謂玄菟故府是也 後に夷貊の侵すところと為って、郡を句麗の西北に移した。今謂うところの玄菟故府がこれである。 沃沮還屬樂浪漢以土地廣遠在單單大領之東 沃沮は還(また)楽浪に属した。漢は土地が広遠で、単単大領の東に在るのを以って、 分置東部都尉治不耐城 分けて東部都尉を置いた。(東部都尉は)不耐城を治め、 別主領東七縣時沃沮亦皆為縣 領東の七県を拝受(謹んで受ける...
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