麟二年八月隆到熊津城與新羅王法敏刑白馬而盟
麟徳二年(665)八月、隆(義慈王の子)は熊津城に到り、新羅王法敏と白馬を刑して盟約した。
先祀神祇及川穀之神而後歃血其盟文曰往者百濟先王迷於逆順不敦鄰好不睦親姻
先に神祇及び川谷(穀(コク)=谷(コク)?)の神を祀(まつ)り、その後に血を歃(すする)した。その盟文は曰く、「往者(むかし)、百済の先王は逆順に迷い、隣好に敦(あつ)くせず、親姻を睦まじくせず。
結托高麗交通倭國共爲殘暴侵削新羅破邑屠城略無寧歲
高麗と結託して、倭国と交通し、共に残虐を為し、新羅を侵削し、邑を破り、城を屠(きる)り、略(ほぼ)、寧歳(安寧した年)は無し。
天子憫一物之失所憐百姓之無辜頻命行人遣其和好負險恃遠侮慢天經
天子が一物の失う所を憫(あわれむ)し、百姓の無辜(罪がないこと)を憐れみ、頻(たびたび)、行人(使者)に命じて、その和好に遣わした。険しさを負(たのみにする)い、遠きに恃(たより)し、天経(天のみち)を侮慢(いばって人をばかにする)した。
皇赫斯怒恭行吊伐旌旗所指一戎大定固可氵豬宮汙宅作誡來裔塞源拔本垂訓後昆
皇は赫(あか)くなって斯怒(非常に怒る 斯(シ)=至(シ)?)し、吊伐を恭行(つつしんでおこなう)し、旌旗(はた)の指す所、一戎(ひとたびのたたかい)で、大定した。 固く、氵豬宮汙宅(城や住まいを整える?)するべきであり、来裔(子孫)に誡(教えの文章)を作り、源(みなもと)を塞(ふさ)ぎ、本(もと)を抜(ぬ)き、後の昆(子孫)に訓を垂れよ。
然懷柔伐叛前王之令典興亡繼絕往哲之通規事必師古傳諸曩冊
然るに戎(兵士)を懐(なつける)し叛(むほん)を伐すること、前王の令典(りっぱな法典)、興亡(興ることと亡ぶこと)、継絶(継続することと絶えること)、往哲(むかしの哲人)の通規の事は必ず古(いにしえ)に師(手本とする)し、諸(もろもろ)の曩冊に伝える。
故立前百濟太子司稼正卿扶余隆爲熊津都督守其祭祀保其桑梓
故(ゆえ)に前の百済太子司稼正卿扶余隆を立てて、熊津都督と為し、その祭祀を守り、その桑梓(故郷)を保たせる。
依倚新羅長爲與國各除宿憾結好和親恭承詔命永爲籓服
新羅に依倚(たよりにする)し、長く与国(同盟国)と為り、各(おのおの)、宿憾(心残り)を除(のぞ)き、和親を結好せよ。詔命を恭承し、永く藩服と為すように。
仍遣使人右威衛將軍魯城縣公劉仁願親臨勸諭具宣成旨約之以婚姻申之以盟誓
仍(そこで)、使人(使者)の右威衛將軍魯城縣公劉仁願を遣わし、親(みずから)、勧諭に臨ませ、具(つぶさ)に成旨を宣(の)べ、これを約すに割印( 婚(コン)=割(コー)? 姻(イン)=印(イン)?)を以てし、これを申するに盟誓(神前でいけにえを殺し、その血をすすりあってお互いの約束をかためる)を以てせよ。
刑牲歃血共敦終始分災恤患恩若弟兄祗奉綸言不敢失墜既盟之後共保歲寒
牲(いけにえ)を刑し、血を歃(すする)し、共に終始を敦(あつ)くし、災いを防(ふせぐ 分(ブン)=防(ボウ)?)し、患いを恤(あわれむ)し、恩(いつくしみ)は兄弟のごとくせよ。綸言(天子のおことば)を祗奉(つつしみたてまつる)し、敢えて失墜せず、既盟の後も共に歳寒(苦しみや困難にくじけないこと)を保てよ。
若有棄信不恆二三其興兵動衆侵犯邊陲明神鑒之百殃是降子孫不昌社稷無守禋祀磨滅罔有遺餘
若し、信を棄て不恒(かわること)、その徳をニ三(いろいろ変えること)すること、兵を興して衆を動かすこと、邊陲(国境)を侵犯することが有れば、明神はこれを鑒(いましめる)し、百殃(多くのわざわい)が是れに降り、子孫は不昌(栄えず)、社稷は守られず、禋祀は磨滅(すり消す)し、遺余(そのほか)も有することはないだろう。
故作金書鐵契藏之宗廟子孫萬代無或敢犯神之聽之是饗是福
故(ゆえ)に金書(金属に彫った書)、鉄契(鉄のわりふ)を作り、これを宗廟に蔵(しまう)し、子孫万代、或(決して)敢えて犯すことなかれ。これを神し、これを聴けば、是響是福(幸いを受ける) するのである」と。
劉仁軌之辭也歃訖埋幣帛於壇下之吉地藏其盟書于新羅之廟
劉仁軌(仁願?)の辞(ことば)は終訖(おわる 歃(ソウ)=終(シュウ)?)し、幣帛を壇下の吉地に埋(う)め、その盟書を新羅の廟に蔵(しまう)した。
仁願仁軌等既還隆懼新羅尋歸京師
仁願、仁軌らが既に還ると、隆は新羅を懼(おそれて、尋(まもなく)、京師(大連の金州? 距離と音と歴史より)に帰った。
儀鳳二年拜光祿大夫太常員外卿兼熊津都督帶方郡王令歸本蕃安輯餘衆
儀鳳二年(677)、光禄大夫、、太常員外卿、兼熊津都督(公州)、帶方郡王(おそらく錦江と万頃江の流れる平野?)を拝し、令して本蕃(本国)に帰らせ、余衆を安輯(やわらげる)させた。
時百濟本地荒毀漸爲新羅據所隆竟不敢還舊國而卒
時に、百済の本地は荒毀し、漸(次第に)新羅の拠る所と為り、隆はとうとう敢えて旧国に還らずして卒(死ぬ)した。
其孫敬則天朝襲封帶方郡王授衛尉卿其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分百濟之種遂絕
その孫の敬は、則天武后朝に帯方郡王を襲封し、衛尉卿を授かった。その地は此れより新羅、及び渤海靺鞨(国名 もと粟末靺鞨。おそらく北朝鮮海州(ヘジュ)あたり?(高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州 (営州は前の玄菟郡であり、音より海州と推測しました。)旧唐書より)の分ける所と為り、百済の種は遂に絶えた。
今日で旧唐書 百済伝は終わりです。明日からは旧唐書 新羅伝に入ります。
麟徳二年(665)八月、隆(義慈王の子)は熊津城に到り、新羅王法敏と白馬を刑して盟約した。
先祀神祇及川穀之神而後歃血其盟文曰往者百濟先王迷於逆順不敦鄰好不睦親姻
先に神祇及び川谷(穀(コク)=谷(コク)?)の神を祀(まつ)り、その後に血を歃(すする)した。その盟文は曰く、「往者(むかし)、百済の先王は逆順に迷い、隣好に敦(あつ)くせず、親姻を睦まじくせず。
結托高麗交通倭國共爲殘暴侵削新羅破邑屠城略無寧歲
高麗と結託して、倭国と交通し、共に残虐を為し、新羅を侵削し、邑を破り、城を屠(きる)り、略(ほぼ)、寧歳(安寧した年)は無し。
天子憫一物之失所憐百姓之無辜頻命行人遣其和好負險恃遠侮慢天經
天子が一物の失う所を憫(あわれむ)し、百姓の無辜(罪がないこと)を憐れみ、頻(たびたび)、行人(使者)に命じて、その和好に遣わした。険しさを負(たのみにする)い、遠きに恃(たより)し、天経(天のみち)を侮慢(いばって人をばかにする)した。
皇赫斯怒恭行吊伐旌旗所指一戎大定固可氵豬宮汙宅作誡來裔塞源拔本垂訓後昆
皇は赫(あか)くなって斯怒(非常に怒る 斯(シ)=至(シ)?)し、吊伐を恭行(つつしんでおこなう)し、旌旗(はた)の指す所、一戎(ひとたびのたたかい)で、大定した。 固く、氵豬宮汙宅(城や住まいを整える?)するべきであり、来裔(子孫)に誡(教えの文章)を作り、源(みなもと)を塞(ふさ)ぎ、本(もと)を抜(ぬ)き、後の昆(子孫)に訓を垂れよ。
然懷柔伐叛前王之令典興亡繼絕往哲之通規事必師古傳諸曩冊
然るに戎(兵士)を懐(なつける)し叛(むほん)を伐すること、前王の令典(りっぱな法典)、興亡(興ることと亡ぶこと)、継絶(継続することと絶えること)、往哲(むかしの哲人)の通規の事は必ず古(いにしえ)に師(手本とする)し、諸(もろもろ)の曩冊に伝える。
故立前百濟太子司稼正卿扶余隆爲熊津都督守其祭祀保其桑梓
故(ゆえ)に前の百済太子司稼正卿扶余隆を立てて、熊津都督と為し、その祭祀を守り、その桑梓(故郷)を保たせる。
依倚新羅長爲與國各除宿憾結好和親恭承詔命永爲籓服
新羅に依倚(たよりにする)し、長く与国(同盟国)と為り、各(おのおの)、宿憾(心残り)を除(のぞ)き、和親を結好せよ。詔命を恭承し、永く藩服と為すように。
仍遣使人右威衛將軍魯城縣公劉仁願親臨勸諭具宣成旨約之以婚姻申之以盟誓
仍(そこで)、使人(使者)の右威衛將軍魯城縣公劉仁願を遣わし、親(みずから)、勧諭に臨ませ、具(つぶさ)に成旨を宣(の)べ、これを約すに割印( 婚(コン)=割(コー)? 姻(イン)=印(イン)?)を以てし、これを申するに盟誓(神前でいけにえを殺し、その血をすすりあってお互いの約束をかためる)を以てせよ。
刑牲歃血共敦終始分災恤患恩若弟兄祗奉綸言不敢失墜既盟之後共保歲寒
牲(いけにえ)を刑し、血を歃(すする)し、共に終始を敦(あつ)くし、災いを防(ふせぐ 分(ブン)=防(ボウ)?)し、患いを恤(あわれむ)し、恩(いつくしみ)は兄弟のごとくせよ。綸言(天子のおことば)を祗奉(つつしみたてまつる)し、敢えて失墜せず、既盟の後も共に歳寒(苦しみや困難にくじけないこと)を保てよ。
若有棄信不恆二三其興兵動衆侵犯邊陲明神鑒之百殃是降子孫不昌社稷無守禋祀磨滅罔有遺餘
若し、信を棄て不恒(かわること)、その徳をニ三(いろいろ変えること)すること、兵を興して衆を動かすこと、邊陲(国境)を侵犯することが有れば、明神はこれを鑒(いましめる)し、百殃(多くのわざわい)が是れに降り、子孫は不昌(栄えず)、社稷は守られず、禋祀は磨滅(すり消す)し、遺余(そのほか)も有することはないだろう。
故作金書鐵契藏之宗廟子孫萬代無或敢犯神之聽之是饗是福
故(ゆえ)に金書(金属に彫った書)、鉄契(鉄のわりふ)を作り、これを宗廟に蔵(しまう)し、子孫万代、或(決して)敢えて犯すことなかれ。これを神し、これを聴けば、是響是福(幸いを受ける) するのである」と。
劉仁軌之辭也歃訖埋幣帛於壇下之吉地藏其盟書于新羅之廟
劉仁軌(仁願?)の辞(ことば)は終訖(おわる 歃(ソウ)=終(シュウ)?)し、幣帛を壇下の吉地に埋(う)め、その盟書を新羅の廟に蔵(しまう)した。
仁願仁軌等既還隆懼新羅尋歸京師
仁願、仁軌らが既に還ると、隆は新羅を懼(おそれて、尋(まもなく)、京師(大連の金州? 距離と音と歴史より)に帰った。
儀鳳二年拜光祿大夫太常員外卿兼熊津都督帶方郡王令歸本蕃安輯餘衆
儀鳳二年(677)、光禄大夫、、太常員外卿、兼熊津都督(公州)、帶方郡王(おそらく錦江と万頃江の流れる平野?)を拝し、令して本蕃(本国)に帰らせ、余衆を安輯(やわらげる)させた。
時百濟本地荒毀漸爲新羅據所隆竟不敢還舊國而卒
時に、百済の本地は荒毀し、漸(次第に)新羅の拠る所と為り、隆はとうとう敢えて旧国に還らずして卒(死ぬ)した。
其孫敬則天朝襲封帶方郡王授衛尉卿其地自此爲新羅及渤海靺鞨所分百濟之種遂絕
その孫の敬は、則天武后朝に帯方郡王を襲封し、衛尉卿を授かった。その地は此れより新羅、及び渤海靺鞨(国名 もと粟末靺鞨。おそらく北朝鮮海州(ヘジュ)あたり?(高麗既滅,祚榮率家屬徙居營州 (営州は前の玄菟郡であり、音より海州と推測しました。)旧唐書より)の分ける所と為り、百済の種は遂に絶えた。
今日で旧唐書 百済伝は終わりです。明日からは旧唐書 新羅伝に入ります。