二年七月仁願仁軌等率留鎮之兵大破福信余衆于熊津之東拔其支羅城及尹城、大山、沙井等柵殺獲甚衆
龍朔二年(662)、郎将劉仁願、帯方州刺史劉仁軌らは留鎮(とどまる)の兵を率いて、百済旧将福信の余(のこり)の衆を熊津の東で大破した。その支羅城及び尹城を抜(攻め落とす)き、大山、沙井らは柵(さく)をたてて甚だ衆を殺したり獲(とらえる)ったりした。
仍令分兵以鎮守之福信等以真峴城臨江高險又當沖要加兵守之
仍(かさねて)、兵を分けさせて、これを鎮守させるを以てした。百済旧将福信らは真峴城が江に臨み高く険しいのを以て、又、鎮要(要害 沖(チュウ)=鎮(チン)?)に当たるとして、兵を加えてこれを守った。
仁軌引新羅之兵乘夜薄城四面攀堞而上比明而入據其城斬首八百級遂通新羅運糧之路
帯方州刺史劉仁軌は新羅の兵を引いて、夜に乗じて城に迫(せまる 薄(ハク)=迫(ハク)?)り、
四面から葉(は 堞(チョウ)=葉(ショウ)?)を攀(よじる)しながら上(のぼる)がり、未明(夜明け前 比(ビ)=未(ビ)?)にしてその城に入拠し、首を斬ること八百級。遂に新羅の運糧の路(みち)を通じさせた。
仁願乃奏請益兵詔發淄青萊海之兵七千人遣左威衛將軍孫仁師統衆浮海赴熊津以益仁願之衆
郎将劉仁願はそこで奏でて兵を益(ふやす)することを請うた。詔(みことのり)して、淄、青、萊、海の兵七千人を発し、左威衛將軍孫仁師を遣わして、衆を統べらせ、海に浮かんで熊津に赴かせ、郎将劉仁願の衆を益(ふやす)するを以てした。
時福信既專其兵權與撫余豐漸相猜貳福信稱疾臥於窟室將候扶余豐問疾謀襲殺之
時に、百済旧将福信は既にその兵権を専らにしており、百済王余豊に与撫(くみしなでる)しながら、漸(次第に)互いに猜貳(そねみうたがう)した。百済旧将福信は疾(やまい)と称して、窟室(いわやの部屋)に臥(ふ)せた。将(まさ)に扶余豊が問疾(見舞い)するのを候(うかがう)し、これを襲殺することを謀った。
扶余豐覺而率其親信掩殺福信又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍孫仁師中路迎擊破之
扶余豊は覚(気が付く)してその親信(近くて信用のおける人?)を率いて、百済旧将福信を掩殺(不意を襲って殺す)した。又、使者を遣わし、高麗及び倭国に往かせて兵を請わせ、官軍を拒むを以てした。左威衛将軍孫仁師は路(みち)の途中で迎え撃ち、これを破った。
遂與仁願之衆相合兵勢大振於是仁師仁願及新羅王金法敏帥陸軍進劉仁軌及別帥杜爽扶余隆率水軍及糧船自熊津江往白江以會陸軍同趨周留城
遂に郎将劉仁願の衆と相(あい)合わせ、兵の勢いは大いに振(盛んになる)るった。ここに於いて、左威衛将軍孫仁師、郎将劉仁願、及び新羅王金法敏の帥する陸軍は進み、帯方州刺史劉仁軌、及び別帥の太子(杜(ト)=太(タ)? 爽(ソウ)=子(ス)?)扶余隆(義慈王の太子)が水軍及び糧船を率いて、熊津江(錦江?)より白江(万頃江?)に往き、陸軍に会するを以てし、同じく周留城に趨(向かう)した。
仁軌遇扶余豐之衆于白江之口四戰皆捷焚其舟四百艘賊衆大潰扶余豐脫身而走
帯方州刺史劉仁軌は百済王扶余豊の衆に白江(白村江)(万頃江? 通説では白村江は錦江)の河口に遇(あう)し、四度戦い、皆(みな)捷(勝ち戦)した。その船四百艘を焚(やく)し、賊衆は大いに潰えた。百済王扶余豊は甲(よろい 身(ケン)=甲(コウ)?)を脱いで、走(逃走)った。
偽王子扶余忠勝忠志等率士女及倭衆並降百濟諸城皆復歸順孫仁師與劉仁願等振旅而還
其(偽(ギ)=其(キ)?)の王子の扶余忠勝、忠志らは士女及び倭の衆を率いて並(みな)降服した。百済の諸城は皆(みな)復(また)帰順した。左威衛将軍孫仁師と郎将劉仁願らは振旅(戦いに勝ち兵を整えて凱旋すること)して還った。
詔劉仁軌代仁願率兵鎮守乃授扶余隆熊津都督遣還本國共新羅和親以招輯其餘衆
詔(みことのり)して帯方州刺史劉仁軌に郎将劉仁願に代わって兵を率いて鎮守させた。乃(そこで)、扶余隆に熊津都督を授け、本国に遣還させた。新羅と共に和親し、その余(のこった)の衆を招輯(まねき集める)するを以てした。
龍朔二年(662)、郎将劉仁願、帯方州刺史劉仁軌らは留鎮(とどまる)の兵を率いて、百済旧将福信の余(のこり)の衆を熊津の東で大破した。その支羅城及び尹城を抜(攻め落とす)き、大山、沙井らは柵(さく)をたてて甚だ衆を殺したり獲(とらえる)ったりした。
仍令分兵以鎮守之福信等以真峴城臨江高險又當沖要加兵守之
仍(かさねて)、兵を分けさせて、これを鎮守させるを以てした。百済旧将福信らは真峴城が江に臨み高く険しいのを以て、又、鎮要(要害 沖(チュウ)=鎮(チン)?)に当たるとして、兵を加えてこれを守った。
仁軌引新羅之兵乘夜薄城四面攀堞而上比明而入據其城斬首八百級遂通新羅運糧之路
帯方州刺史劉仁軌は新羅の兵を引いて、夜に乗じて城に迫(せまる 薄(ハク)=迫(ハク)?)り、
四面から葉(は 堞(チョウ)=葉(ショウ)?)を攀(よじる)しながら上(のぼる)がり、未明(夜明け前 比(ビ)=未(ビ)?)にしてその城に入拠し、首を斬ること八百級。遂に新羅の運糧の路(みち)を通じさせた。
仁願乃奏請益兵詔發淄青萊海之兵七千人遣左威衛將軍孫仁師統衆浮海赴熊津以益仁願之衆
郎将劉仁願はそこで奏でて兵を益(ふやす)することを請うた。詔(みことのり)して、淄、青、萊、海の兵七千人を発し、左威衛將軍孫仁師を遣わして、衆を統べらせ、海に浮かんで熊津に赴かせ、郎将劉仁願の衆を益(ふやす)するを以てした。
時福信既專其兵權與撫余豐漸相猜貳福信稱疾臥於窟室將候扶余豐問疾謀襲殺之
時に、百済旧将福信は既にその兵権を専らにしており、百済王余豊に与撫(くみしなでる)しながら、漸(次第に)互いに猜貳(そねみうたがう)した。百済旧将福信は疾(やまい)と称して、窟室(いわやの部屋)に臥(ふ)せた。将(まさ)に扶余豊が問疾(見舞い)するのを候(うかがう)し、これを襲殺することを謀った。
扶余豐覺而率其親信掩殺福信又遣使往高麗及倭國請兵以拒官軍孫仁師中路迎擊破之
扶余豊は覚(気が付く)してその親信(近くて信用のおける人?)を率いて、百済旧将福信を掩殺(不意を襲って殺す)した。又、使者を遣わし、高麗及び倭国に往かせて兵を請わせ、官軍を拒むを以てした。左威衛将軍孫仁師は路(みち)の途中で迎え撃ち、これを破った。
遂與仁願之衆相合兵勢大振於是仁師仁願及新羅王金法敏帥陸軍進劉仁軌及別帥杜爽扶余隆率水軍及糧船自熊津江往白江以會陸軍同趨周留城
遂に郎将劉仁願の衆と相(あい)合わせ、兵の勢いは大いに振(盛んになる)るった。ここに於いて、左威衛将軍孫仁師、郎将劉仁願、及び新羅王金法敏の帥する陸軍は進み、帯方州刺史劉仁軌、及び別帥の太子(杜(ト)=太(タ)? 爽(ソウ)=子(ス)?)扶余隆(義慈王の太子)が水軍及び糧船を率いて、熊津江(錦江?)より白江(万頃江?)に往き、陸軍に会するを以てし、同じく周留城に趨(向かう)した。
仁軌遇扶余豐之衆于白江之口四戰皆捷焚其舟四百艘賊衆大潰扶余豐脫身而走
帯方州刺史劉仁軌は百済王扶余豊の衆に白江(白村江)(万頃江? 通説では白村江は錦江)の河口に遇(あう)し、四度戦い、皆(みな)捷(勝ち戦)した。その船四百艘を焚(やく)し、賊衆は大いに潰えた。百済王扶余豊は甲(よろい 身(ケン)=甲(コウ)?)を脱いで、走(逃走)った。
偽王子扶余忠勝忠志等率士女及倭衆並降百濟諸城皆復歸順孫仁師與劉仁願等振旅而還
其(偽(ギ)=其(キ)?)の王子の扶余忠勝、忠志らは士女及び倭の衆を率いて並(みな)降服した。百済の諸城は皆(みな)復(また)帰順した。左威衛将軍孫仁師と郎将劉仁願らは振旅(戦いに勝ち兵を整えて凱旋すること)して還った。
詔劉仁軌代仁願率兵鎮守乃授扶余隆熊津都督遣還本國共新羅和親以招輯其餘衆
詔(みことのり)して帯方州刺史劉仁軌に郎将劉仁願に代わって兵を率いて鎮守させた。乃(そこで)、扶余隆に熊津都督を授け、本国に遣還させた。新羅と共に和親し、その余(のこった)の衆を招輯(まねき集める)するを以てした。