虜義慈及太子隆小王孝演偽將五十八人等送于京師上責而宥之
百済王義慈及び太子隆、小王孝演、其(その 偽(ギ)=其(キ)?)の将軍五十八人らを虜にして、京師(大連の金州?)に送り、責を上(もうしあげる)して、これを宥(ゆるす)した。
其國舊分爲五部統郡三十七城二百戶七十六萬
その国は旧(むかし)は分かれて五部を為し、郡三十七、城二百、戸七十六万を統べた。
至是乃以其地分置熊津馬韓東明等五都督府各統州縣立其酋渠爲都督刺史及縣令
是れに至り、乃ち、その地を以て熊津(公州)、馬韓、東明ら五都督府を分置し、各(おのおの)は州、県を統べ、その酋渠(長帥)を立てて、都督、刺史、及び県令に為した。
命右衛郎將王文度爲熊津都督總兵以鎮之義慈事親以孝行聞友于兄弟時人號海東曾閔
右衛郎将王文度に命じて熊津都督(公州市 百済の都(居抜城(おそらく全州市?)の北方 北史より))と為し、兵を総(まとめる)じてこれを鎮するを以てした。百済王義慈は親に事(つかえる)し、孝行を以て聞こえ、兄弟を友とし、時に人は号して、海東の曾、閔と。
及至京數日而卒贈金紫光祿大夫衛尉卿特許其舊臣赴哭送就孫皓陳叔寶墓側葬之並爲豎碑
京(京師?)に至るに及んで、数日にして卒(死ぬ)した。金紫光禄大夫、衛尉卿を贈った。
特に許(ゆるす)して、その旧臣が哭礼に赴(おもむ)いた。送って、孫皓、陳叔宝の墓の側(そば)に就(おもむく)かせ、これを葬り、並びに樹碑(樹を植え、碑を立てる 豎(ジュ)=樹(ジュ)?)を為した。
文度濟海而卒百濟僧道琛舊將福信率衆據周留城以叛遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王
熊津都督文度は海を済(わたる)して卒(死ぬ)した。百済僧の道琛、旧将の福信は衆を率いて、周留城に拠(よ)りて、叛(むほん)を以てした。使者を遣わして倭国に往かせ、故(まえ)王(余璋(武王)?)の子の扶余豊を迎えて、立てて王と為した。
其西部北部並翻城應之時郎將劉仁願留鎮於百濟府城道琛等引兵圍之
その西部、北部は並びに城を翻(ひるがえ)して、これに応じた。時に、郎将劉仁願は百済府城に於いて留鎮(とどまる)しており、百済僧道琛らは兵を引いてこれを包囲した。
帶方州刺史劉仁軌代文度統衆便道發新羅兵合契以救仁願轉鬥而前所向皆下
帯方州刺史の劉仁軌は熊津都督文度に代わって衆を統べ、便道(近道)して新羅兵を発し、合契(あわせる)して郎将劉仁願を救うを以てした。転闘(転戦?)して前(すすむ)し、向かう所は皆(みな)下(くだ)った。
道琛等於熊津江口立兩柵以拒官軍仁軌與新羅兵四面夾擊之賊衆退走入柵阻水橋狹墮水及戰死萬餘人
百済僧道琛らは熊津江口(錦江口(クム川口)?)に於いて梁(橋 両(リョウ)=梁(リョウ)?)の柵(さく)を立てて官軍を拒むを以てした。帯方州刺史劉仁軌は新羅兵とともに四面からこれを夾擊(はさみうち)し、賊衆は退走して柵(さく)に入り、水橋の狭(せまい)に阻(はば)まれて、水(川)に堕(お)ちて戦死したのは一万余人に及んだ。
道琛等乃釋仁願之圍退保任存城新羅兵士以糧盡引還時龍朔元年三月也
百済僧道琛らは乃(そこで)、郎将劉仁願の包囲を釈(とく)し、退いて任存城に保(たてこもる)した。新羅兵士は軍糧が尽きるを以て引き還した。時に龍朔元年(661)三月なり。
於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍招誘叛亡其勢益張
ここに於いて、百済僧道琛は自ら領軍将軍を称え、百済旧将の福信は自ら霜岑将軍を称え、叛亡を招誘して、その勢いは益々張(つよくなる)した。
使告仁軌曰聞大唐與新羅約誓百濟無問老少一切殺之然後以國府新羅
使者が帯方州刺史の劉仁軌に告げて曰く、「大唐と新羅が約誓し、百済は老いも少(若い)も問わず、一切これを殺し、然る後、新羅を国府に以てすると聞く。
與其受死豈若戰亡所以聚結自固守耳仁軌作書具陳禍福遣使諭之
ともにその死を受けて、どうして戦亡におよぶのか。聚結を以てする所は自ら固めて守るのみ」と。帯方州刺史の劉仁軌は書を作り、具(つぶさ)に禍福を陳述し、使者を遣わしてこれを諭(さと)した。
道琛等恃衆驕倨置仁軌之使於外館傳語謂曰使人官職小我是一國大將不合自參
百済僧道琛らは衆を恃(たよる)して驕倨(おごる)し、仁軌の使者を外館に置(とどめる)いた。語(ことば)を伝えて謂う、曰く、「使人の官職は小さく、我は是れ、一国の大将である。自ら参(まいる)ずるには合わない」と。
不答書遣之尋而福信殺道琛並其兵衆扶余豐但主祭而已
書に答えず、これを遣わした。尋(まもなく)して百済旧将の福信が百済僧道琛、並びにその兵衆を殺した。扶余豊は但(たん)に主祭にしてそれのみ。
百済王義慈及び太子隆、小王孝演、其(その 偽(ギ)=其(キ)?)の将軍五十八人らを虜にして、京師(大連の金州?)に送り、責を上(もうしあげる)して、これを宥(ゆるす)した。
其國舊分爲五部統郡三十七城二百戶七十六萬
その国は旧(むかし)は分かれて五部を為し、郡三十七、城二百、戸七十六万を統べた。
至是乃以其地分置熊津馬韓東明等五都督府各統州縣立其酋渠爲都督刺史及縣令
是れに至り、乃ち、その地を以て熊津(公州)、馬韓、東明ら五都督府を分置し、各(おのおの)は州、県を統べ、その酋渠(長帥)を立てて、都督、刺史、及び県令に為した。
命右衛郎將王文度爲熊津都督總兵以鎮之義慈事親以孝行聞友于兄弟時人號海東曾閔
右衛郎将王文度に命じて熊津都督(公州市 百済の都(居抜城(おそらく全州市?)の北方 北史より))と為し、兵を総(まとめる)じてこれを鎮するを以てした。百済王義慈は親に事(つかえる)し、孝行を以て聞こえ、兄弟を友とし、時に人は号して、海東の曾、閔と。
及至京數日而卒贈金紫光祿大夫衛尉卿特許其舊臣赴哭送就孫皓陳叔寶墓側葬之並爲豎碑
京(京師?)に至るに及んで、数日にして卒(死ぬ)した。金紫光禄大夫、衛尉卿を贈った。
特に許(ゆるす)して、その旧臣が哭礼に赴(おもむ)いた。送って、孫皓、陳叔宝の墓の側(そば)に就(おもむく)かせ、これを葬り、並びに樹碑(樹を植え、碑を立てる 豎(ジュ)=樹(ジュ)?)を為した。
文度濟海而卒百濟僧道琛舊將福信率衆據周留城以叛遣使往倭國迎故王子扶余豐立爲王
熊津都督文度は海を済(わたる)して卒(死ぬ)した。百済僧の道琛、旧将の福信は衆を率いて、周留城に拠(よ)りて、叛(むほん)を以てした。使者を遣わして倭国に往かせ、故(まえ)王(余璋(武王)?)の子の扶余豊を迎えて、立てて王と為した。
其西部北部並翻城應之時郎將劉仁願留鎮於百濟府城道琛等引兵圍之
その西部、北部は並びに城を翻(ひるがえ)して、これに応じた。時に、郎将劉仁願は百済府城に於いて留鎮(とどまる)しており、百済僧道琛らは兵を引いてこれを包囲した。
帶方州刺史劉仁軌代文度統衆便道發新羅兵合契以救仁願轉鬥而前所向皆下
帯方州刺史の劉仁軌は熊津都督文度に代わって衆を統べ、便道(近道)して新羅兵を発し、合契(あわせる)して郎将劉仁願を救うを以てした。転闘(転戦?)して前(すすむ)し、向かう所は皆(みな)下(くだ)った。
道琛等於熊津江口立兩柵以拒官軍仁軌與新羅兵四面夾擊之賊衆退走入柵阻水橋狹墮水及戰死萬餘人
百済僧道琛らは熊津江口(錦江口(クム川口)?)に於いて梁(橋 両(リョウ)=梁(リョウ)?)の柵(さく)を立てて官軍を拒むを以てした。帯方州刺史劉仁軌は新羅兵とともに四面からこれを夾擊(はさみうち)し、賊衆は退走して柵(さく)に入り、水橋の狭(せまい)に阻(はば)まれて、水(川)に堕(お)ちて戦死したのは一万余人に及んだ。
道琛等乃釋仁願之圍退保任存城新羅兵士以糧盡引還時龍朔元年三月也
百済僧道琛らは乃(そこで)、郎将劉仁願の包囲を釈(とく)し、退いて任存城に保(たてこもる)した。新羅兵士は軍糧が尽きるを以て引き還した。時に龍朔元年(661)三月なり。
於是道琛自稱領軍將軍福信自稱霜岑將軍招誘叛亡其勢益張
ここに於いて、百済僧道琛は自ら領軍将軍を称え、百済旧将の福信は自ら霜岑将軍を称え、叛亡を招誘して、その勢いは益々張(つよくなる)した。
使告仁軌曰聞大唐與新羅約誓百濟無問老少一切殺之然後以國府新羅
使者が帯方州刺史の劉仁軌に告げて曰く、「大唐と新羅が約誓し、百済は老いも少(若い)も問わず、一切これを殺し、然る後、新羅を国府に以てすると聞く。
與其受死豈若戰亡所以聚結自固守耳仁軌作書具陳禍福遣使諭之
ともにその死を受けて、どうして戦亡におよぶのか。聚結を以てする所は自ら固めて守るのみ」と。帯方州刺史の劉仁軌は書を作り、具(つぶさ)に禍福を陳述し、使者を遣わしてこれを諭(さと)した。
道琛等恃衆驕倨置仁軌之使於外館傳語謂曰使人官職小我是一國大將不合自參
百済僧道琛らは衆を恃(たよる)して驕倨(おごる)し、仁軌の使者を外館に置(とどめる)いた。語(ことば)を伝えて謂う、曰く、「使人の官職は小さく、我は是れ、一国の大将である。自ら参(まいる)ずるには合わない」と。
不答書遣之尋而福信殺道琛並其兵衆扶余豐但主祭而已
書に答えず、これを遣わした。尋(まもなく)して百済旧将の福信が百済僧道琛、並びにその兵衆を殺した。扶余豊は但(たん)に主祭にしてそれのみ。