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新羅使金法敏奏書

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新羅使金法敏奏書高麗百濟脣齒相依競舉兵戈侵逼交至

新羅は金法敏をつかわし書を奏(もうしあげる)でた。『高麗、百済は脣歯(関係が最も深い間柄)で互いに依(たよる)し、競って兵戈(戦い)を挙げ、侵逼(おかす)は交(こもごも)に至ります。

大城重鎮並爲百濟所並疆宇日蹙威力並謝乞詔百濟令歸所侵之城

大城は重鎮ですが、並(みな)、百済の併(併合する 並(ヘイ)=併(ヘイ)?)する所となりました。疆宇(領土)は日に日に蹙(せばまる)し、威力は並びに謝(おとろえる)しました。百済に、侵した所の城を帰させるよう、詔(みことのり)を乞う。

若不奉詔即自興兵打取但得故地即請交和

若し、詔(みことのり)を奉(たてまつる)じなければ、即ち、自ら兵を興して打ち取ります。但(ただ)故地を得れば、即(すぐに)、交和を請います』と。

朕以其言既順不可不許昔齊桓列土諸侯尚存亡國

朕はその言が已(はなはだ 既(キ)=已(イ)?)順(道理にかなう)じているのを以て、不許(ききいれない)することはできなかった。昔、斉桓公が土(地方の)の諸侯を列して、亡国を存(ながら)えさせることを尚(こいねがう)した。

況朕萬國之主豈可不恤危籓王所兼新羅之城並宜還其本國

況(いわん)や、朕は万国の主である。どうして危うい藩を不恤(気にかけない)することができようか。王が兼ねた所の新羅の城は並(みな)、宜しくその本国に還すべきである。

新羅所獲百濟俘虜亦遣還王然後解患釋紛韜戈偃革百姓獲息肩之願三蕃無戰爭之勞

新羅が獲った所の百済の俘虜は、又、遣わして王に還す。然る後、患いは解かれ、紛争は釈(ときほぐす)され、戈を韜(しまう)し、革(よろい)を偃(ふせる)し、百姓は息肩(荷を降ろして休む)の願いを獲て、三蕃(高麗、百済、新羅)は戦争の労が無くなるだろう。

比夫流血邊亭積屍疆場耕織並廢士女無聊豈可同年而語矣

比べて、夫れ、辺亭に流血し、屍を疆場(国ざかい)に積み、耕織(耕すことと織ること)は並びに廃され、士女は無聊(たのしまず)は、どうして同じ念(おもい 年(ネン)=念(ネン)?)で語ることができるだろうか。

王若不從進止朕已依法敏所請任其與王決戰亦令約束高麗不許遠相救恤

王が若し、進止(さしず)に従わなければ、朕は已(すで)に金法敏の請う所に依(よ)り、その王と決戦することに任(あたる)ずる。亦、高麗に、相(あい)救恤(あわれみ救う)しあって援(助ける 遠(エン)=援(エン)?)することを不許(ききいれない)するよう約束させた。

高麗若不承命即令契丹諸蕃渡遼澤入抄掠王可深思朕言自求多福審圖良策無貽後悔

高麗が若し、命を承らなければ、即ち、契丹、諸蕃に令して、遼沢を渡らせて抄掠(かすめ取る)に入らせる。王は朕の言を深く思い、自ら多福を求め、良策を審図(調べはかる)することができれば、後悔を貽(のこす)することは無いだろう」と。

六年新羅王金春秋又表稱百濟與高麗靺鞨侵其北界已沒三十餘城

永徽六年(655)、新羅王の金春秋は又、表して、百済が高麗、靺鞨とともにその北界を侵し、已(すで)に、三十余城を没したと称えた。

顯慶五年命左衛大將軍蘇定方統兵討之大破其國

顯慶五年(660)、左衛大将軍蘇定方に命じて兵を統べてこれを討たせ、その国を大破した。

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