十五年璋卒其子義慈遣使奉表告哀
貞観十五年(641)、璋が卒(死ぬ)し、その子の義慈が使者を遣わし奉表して、哀を告げた。
太宗素服哭之贈光祿大夫賻物二百段遣使冊命義慈爲柱國封帶方郡王百濟王
唐太宗は素服(白服)でこれに哭礼し、光禄大夫、帛布(絹布 賻(フー)=帛(ハク)? 物(ブツ)=布(ブー)?)二百段(端)を贈った。使者を遣わして、義慈に冊命し柱国と為し、帯方郡王、百済王を封じた。
十六年義慈興兵伐新羅四十餘城又發兵以守之與高麗和親通好謀欲取党項城以絕新羅入朝之路
十六年(642)、義慈は兵を興して新羅の四十余城を伐し、又、兵を発してこれを守るを以てした。高麗と和親通好し、謀りて、党項城を取って新羅の入朝の路(みち)を絶つことを欲した。
新羅遣使告急請救太宗遣司農丞相里玄獎齎書告諭兩蕃示以禍福
新羅は使者を遣わして急を告げ救いを請うた。唐太宗は司農丞相里玄獎を遣わして、書を齎(送る)し両蕃(百済と高麗)に告諭し、示すに禍福を以てした。
及太宗親征高麗百濟懷二乘虛襲破新羅十城二十二年又破其十餘城數年之中朝貢遂絕
唐太宗の高麗の親征に及び、百済は二心を懐き、虚(から)に乗じて新羅十城を襲破した。二十二年(648)、又、その十余城を破った。数年の中(うち)に、朝貢は遂に絶えた。
高宗嗣位永徽二年始又遣使朝貢使還降璽書與義慈曰
唐高宗が位を嗣(つぐ)ぎ、 永徽二年(651)、又、使者を遣わして朝貢を始めた。使者が還り、璽書を降(授ける)して義慈に与え、曰く、
至如海東三國開基自久並列疆界地實犬牙近代已來遂構嫌隙
「海東の三国に至如(およぶ)し、開基(物事をはじめること)は自ら久しく、並(みな)疆界(境界)を列して、地は実に犬の牙のようである。近代以来、遂に嫌隙(疑って仲が悪い)を構えた。
戰爭交起略無寧歲遂令三韓之氓命懸刀俎尋戈肆憤朝夕相仍
戦争は交(こもごもに)起こり、略(ほぼ)、寧歳(安寧した年)は無し。遂に三韓の氓(たみ)に令して、刀俎(危険な場所)に遣(行かせる 懸(ケン)=遣(ケン)?)じ、尋(まもなく)、戈(戦争)は肆憤(大きくなる)し、朝夕(いつも)相仍(続く)した。
朕代天理物載深矜湣去歲王及高麗新羅等使並來入朝朕命釋茲讎怨更敦款穆
朕は天に代わって物を理(おさめる)し、深く矜湣(あわれみ)を載(いただく)する。
去年、王及び高麗、新羅らの使者が並びに来て入朝した。朕は讎怨(あだやうらみ)を釈肆(ときほぐす 茲(ジ)=肆(シ)?)し、更(あらためて)に款穆(よろこび)に敦(つとめる)くすることを命じた。
貞観十五年(641)、璋が卒(死ぬ)し、その子の義慈が使者を遣わし奉表して、哀を告げた。
太宗素服哭之贈光祿大夫賻物二百段遣使冊命義慈爲柱國封帶方郡王百濟王
唐太宗は素服(白服)でこれに哭礼し、光禄大夫、帛布(絹布 賻(フー)=帛(ハク)? 物(ブツ)=布(ブー)?)二百段(端)を贈った。使者を遣わして、義慈に冊命し柱国と為し、帯方郡王、百済王を封じた。
十六年義慈興兵伐新羅四十餘城又發兵以守之與高麗和親通好謀欲取党項城以絕新羅入朝之路
十六年(642)、義慈は兵を興して新羅の四十余城を伐し、又、兵を発してこれを守るを以てした。高麗と和親通好し、謀りて、党項城を取って新羅の入朝の路(みち)を絶つことを欲した。
新羅遣使告急請救太宗遣司農丞相里玄獎齎書告諭兩蕃示以禍福
新羅は使者を遣わして急を告げ救いを請うた。唐太宗は司農丞相里玄獎を遣わして、書を齎(送る)し両蕃(百済と高麗)に告諭し、示すに禍福を以てした。
及太宗親征高麗百濟懷二乘虛襲破新羅十城二十二年又破其十餘城數年之中朝貢遂絕
唐太宗の高麗の親征に及び、百済は二心を懐き、虚(から)に乗じて新羅十城を襲破した。二十二年(648)、又、その十余城を破った。数年の中(うち)に、朝貢は遂に絶えた。
高宗嗣位永徽二年始又遣使朝貢使還降璽書與義慈曰
唐高宗が位を嗣(つぐ)ぎ、 永徽二年(651)、又、使者を遣わして朝貢を始めた。使者が還り、璽書を降(授ける)して義慈に与え、曰く、
至如海東三國開基自久並列疆界地實犬牙近代已來遂構嫌隙
「海東の三国に至如(およぶ)し、開基(物事をはじめること)は自ら久しく、並(みな)疆界(境界)を列して、地は実に犬の牙のようである。近代以来、遂に嫌隙(疑って仲が悪い)を構えた。
戰爭交起略無寧歲遂令三韓之氓命懸刀俎尋戈肆憤朝夕相仍
戦争は交(こもごもに)起こり、略(ほぼ)、寧歳(安寧した年)は無し。遂に三韓の氓(たみ)に令して、刀俎(危険な場所)に遣(行かせる 懸(ケン)=遣(ケン)?)じ、尋(まもなく)、戈(戦争)は肆憤(大きくなる)し、朝夕(いつも)相仍(続く)した。
朕代天理物載深矜湣去歲王及高麗新羅等使並來入朝朕命釋茲讎怨更敦款穆
朕は天に代わって物を理(おさめる)し、深く矜湣(あわれみ)を載(いただく)する。
去年、王及び高麗、新羅らの使者が並びに来て入朝した。朕は讎怨(あだやうらみ)を釈肆(ときほぐす 茲(ジ)=肆(シ)?)し、更(あらためて)に款穆(よろこび)に敦(つとめる)くすることを命じた。