百濟國本亦扶餘之別種嘗爲馬韓故地在京師東六千二百里處大海之北小海之南
百済国は、本は亦、扶餘(平壌(ピョンヤン)? 音より)の別種で、嘗ては馬韓の故地と為す(おそらく全州(チョンジュ辺り?)。京師(大連の側の金州? 音と距離より)の東、六千二百里(一里150m換算で約930辧法大海(東シナ海?)の北、小海(黄海?)の南に処する。
東北至新羅西渡海至越州南渡海至倭國北渡海至高麗
東北は新羅に至り、西に海を渡ると越州に至る。南に海を渡ると倭国に至る。北に海を渡ると高麗に至る。
其王所居有東西兩城所置內官曰內臣佐平掌宣納事內頭佐平掌庫藏事
その王の居する所は東西に両城(ふたつの城)が有る。内官を置く所は曰く、内臣佐平は、宣納事を掌(つかさどる)し、内頭佐平は庫蔵事を掌(つかさどる)し、
內法佐平掌禮儀事衛士佐平掌宿衛兵事朝廷佐平掌刑獄事兵官佐平掌在外兵馬事
内法佐平は礼儀事を掌(つかさどる)し、衛士佐平は宿衛兵事を掌(つかさどる)し、朝廷佐平は刑獄事を掌(つかさどる)し、兵官佐平は在外の兵馬事を掌(つかさどる)する。
又外置六帶方,管十郡其用法叛逆者死籍沒其家殺人者以奴婢三贖罪
又、外に六つの帯方を置き、十郡を管(つかさどる)する。その法を用いるは、叛逆者は死刑、その家を籍没する。殺人者は、奴婢、斬刑(きる 三(サン)=斬(サン)?)を以て贖罪する。
官人受財及盜者三倍追贓仍終身禁錮凡諸賦稅及風土所產多與高麗同
官人の財を受けた者及び盗者は、三倍にして贓(盗んだ品物)に追(求める)し、
仍(なお)終身禁固刑にする。凡そ諸(もろもろ)の賦税及び風土の産する所は多くが高麗と同じである。
其王服大袖紫袍青錦褲烏羅冠金花爲飾素皮帶烏革履
その王の服は大きい袖で紫の袍(うわぎ)、青い錦の褲(ズボン)、烏羅冠(烏帽子?)は金の花で飾りと為し、駒(小さい馬 素(ス)=駒(チュイ)?)の皮(毛皮)の帯、牛(うし 烏(オ)=牛(ゴ)?)の革(かわ)の履(くつ)である。
官人盡緋爲衣銀花飾冠庶人不得衣緋紫歲時伏臘同於中國
官人は尽く緋(あか)で衣をつくり、銀の花で冠を飾る。庶人は緋(あか)紫(むらさき)を衣(きる)することはできない。歳時に伏臘(夏祭りと冬まつり)するのは、中国と同じである。
其書籍有五經子史又表疏並依中華之法
その書籍は五経、諸子、史書が有り、又、文字(もじ 表(ビアオ)=文(ブン)? 疏(ショ)=字(シ)?)は並(みな)、中華の法(手本)に依る。
武四年其王扶餘璋遣使來獻果下馬七年又遣大臣奉表朝貢
武徳四年(621)、その王の扶余璋は使者を遣わして果下馬(ポニー種の馬)を来献した。七年(624)、又、大臣を遣わして、奉表し、朝貢した。
高祖嘉其誠款遣使就冊爲帶方郡王百濟王自是歲遣朝貢高祖撫勞甚厚
唐高祖はその誠款(まこと)を嘉し、使者を遣わして就冊して帯方郡王、百済王と為した。是(これ)より歳に朝貢を遣わし、唐高祖は労を撫(いたわる)でること甚だ厚くした。
因訟高麗閉其道路不許來通中國詔遣硃子奢往和之又相與新羅世爲仇敵數相侵伐
因りて、高麗がその道路を閉ざし、中国に来通できない(許(コ)=可(カ)?)ことを訟(うったえる)した。詔(みことのり)して硃子奢を遣わし往かせこれを和させた。又、互いに新羅と世(代々)仇敵と為り、数(たびたび)互いに侵伐しあった。
貞觀元年太宗賜其王璽書曰王世爲君長撫有東蕃
貞観元年(627)、唐太宗はその王に璽書を賜り、曰く、「王は世(代々)君長として、東蕃を撫有(自分のものにする)した。
海隅遐曠風濤艱阻忠款之至職貢相尋尚想徽猷甚以嘉慰
海の隅に遐曠(はるか遠い)し、風は濤(浪)し、艱阻(道はけわしい)で、忠款(まこと)の至(きわまり)で、職貢は相尋(ひきつづく)し、想徽猷(よいはかりごとを想う?)を尚(とうとぶ)し、甚だ嘉し慰(なぐさ)めるを以てする。
朕自祗承寵命君臨區宇思弘王道愛育黎元舟車所通風雨所及期之遂性咸使乂安
朕は寵命(恩命)を祗承(つつしんでうけたまわる)してより、区宇(宇内)に君臨し、王道を弘めることを思い、黎元(庶人)を愛育する。舟車の通る所、風雨の及ぶ所、期の遂性(時の流れ)は、咸(あまねく)、乂安(治まって安らか)せしむ。
新羅王金真平朕之籓臣王之鄰國每聞遣師征討不息阻兵安忍殊乖所望
新羅王の金真平は、朕の藩臣で、王の隣国である。いつも聞く、師(軍隊)をつかわして、征討すること息(やむ)さずと。兵(戦い)に阻(うれえる)み、忍(しのぶ)に安(あまんじる)ずるは、望む所に殊乖(たがう)する。
朕已對王侄信福及高麗新羅使人具敕通和咸許輯睦
朕は已(すで)に王の侄信福(かたい信福?)に対(こたえる)し、高麗、新羅に及んで人をつかわし、具(つぶさ)に通和を勅(いましめる)し、咸(あまねく)輯睦(やわらぎむつまじくする)を許(約束する)させた。
王必須忘彼前怨識朕本懷共篤鄰情即停兵革
王は彼の前怨を忘れることが必須であり、朕の本懐(本来の願望)を識(知る)し、共に隣情を篤(あつ)くして、即(すぐに)、兵革(戦争)を停止せよ。」と。
璋因遣使奉表陳謝雖外稱順命內實相仇如故
璋は因りて、使者を遣わして奉表して陳謝した。外では命に順するを称(とな)えたが、内では実は互いに仇であるのは故(まえ)の如し。
十一年遣使來朝獻鐵甲雕斧太宗優勞之賜彩帛三千段並錦袍等
十一年(637)、使者を遣わし来朝し、鉄の甲(よろい)、雕斧(彫刻をほどこした斧)を献じた。唐太宗はこれを優労し、彩帛三千段(端)、並びに錦の袍などを賜った。
百済国は、本は亦、扶餘(平壌(ピョンヤン)? 音より)の別種で、嘗ては馬韓の故地と為す(おそらく全州(チョンジュ辺り?)。京師(大連の側の金州? 音と距離より)の東、六千二百里(一里150m換算で約930辧法大海(東シナ海?)の北、小海(黄海?)の南に処する。
東北至新羅西渡海至越州南渡海至倭國北渡海至高麗
東北は新羅に至り、西に海を渡ると越州に至る。南に海を渡ると倭国に至る。北に海を渡ると高麗に至る。
其王所居有東西兩城所置內官曰內臣佐平掌宣納事內頭佐平掌庫藏事
その王の居する所は東西に両城(ふたつの城)が有る。内官を置く所は曰く、内臣佐平は、宣納事を掌(つかさどる)し、内頭佐平は庫蔵事を掌(つかさどる)し、
內法佐平掌禮儀事衛士佐平掌宿衛兵事朝廷佐平掌刑獄事兵官佐平掌在外兵馬事
内法佐平は礼儀事を掌(つかさどる)し、衛士佐平は宿衛兵事を掌(つかさどる)し、朝廷佐平は刑獄事を掌(つかさどる)し、兵官佐平は在外の兵馬事を掌(つかさどる)する。
又外置六帶方,管十郡其用法叛逆者死籍沒其家殺人者以奴婢三贖罪
又、外に六つの帯方を置き、十郡を管(つかさどる)する。その法を用いるは、叛逆者は死刑、その家を籍没する。殺人者は、奴婢、斬刑(きる 三(サン)=斬(サン)?)を以て贖罪する。
官人受財及盜者三倍追贓仍終身禁錮凡諸賦稅及風土所產多與高麗同
官人の財を受けた者及び盗者は、三倍にして贓(盗んだ品物)に追(求める)し、
仍(なお)終身禁固刑にする。凡そ諸(もろもろ)の賦税及び風土の産する所は多くが高麗と同じである。
其王服大袖紫袍青錦褲烏羅冠金花爲飾素皮帶烏革履
その王の服は大きい袖で紫の袍(うわぎ)、青い錦の褲(ズボン)、烏羅冠(烏帽子?)は金の花で飾りと為し、駒(小さい馬 素(ス)=駒(チュイ)?)の皮(毛皮)の帯、牛(うし 烏(オ)=牛(ゴ)?)の革(かわ)の履(くつ)である。
官人盡緋爲衣銀花飾冠庶人不得衣緋紫歲時伏臘同於中國
官人は尽く緋(あか)で衣をつくり、銀の花で冠を飾る。庶人は緋(あか)紫(むらさき)を衣(きる)することはできない。歳時に伏臘(夏祭りと冬まつり)するのは、中国と同じである。
其書籍有五經子史又表疏並依中華之法
その書籍は五経、諸子、史書が有り、又、文字(もじ 表(ビアオ)=文(ブン)? 疏(ショ)=字(シ)?)は並(みな)、中華の法(手本)に依る。
武四年其王扶餘璋遣使來獻果下馬七年又遣大臣奉表朝貢
武徳四年(621)、その王の扶余璋は使者を遣わして果下馬(ポニー種の馬)を来献した。七年(624)、又、大臣を遣わして、奉表し、朝貢した。
高祖嘉其誠款遣使就冊爲帶方郡王百濟王自是歲遣朝貢高祖撫勞甚厚
唐高祖はその誠款(まこと)を嘉し、使者を遣わして就冊して帯方郡王、百済王と為した。是(これ)より歳に朝貢を遣わし、唐高祖は労を撫(いたわる)でること甚だ厚くした。
因訟高麗閉其道路不許來通中國詔遣硃子奢往和之又相與新羅世爲仇敵數相侵伐
因りて、高麗がその道路を閉ざし、中国に来通できない(許(コ)=可(カ)?)ことを訟(うったえる)した。詔(みことのり)して硃子奢を遣わし往かせこれを和させた。又、互いに新羅と世(代々)仇敵と為り、数(たびたび)互いに侵伐しあった。
貞觀元年太宗賜其王璽書曰王世爲君長撫有東蕃
貞観元年(627)、唐太宗はその王に璽書を賜り、曰く、「王は世(代々)君長として、東蕃を撫有(自分のものにする)した。
海隅遐曠風濤艱阻忠款之至職貢相尋尚想徽猷甚以嘉慰
海の隅に遐曠(はるか遠い)し、風は濤(浪)し、艱阻(道はけわしい)で、忠款(まこと)の至(きわまり)で、職貢は相尋(ひきつづく)し、想徽猷(よいはかりごとを想う?)を尚(とうとぶ)し、甚だ嘉し慰(なぐさ)めるを以てする。
朕自祗承寵命君臨區宇思弘王道愛育黎元舟車所通風雨所及期之遂性咸使乂安
朕は寵命(恩命)を祗承(つつしんでうけたまわる)してより、区宇(宇内)に君臨し、王道を弘めることを思い、黎元(庶人)を愛育する。舟車の通る所、風雨の及ぶ所、期の遂性(時の流れ)は、咸(あまねく)、乂安(治まって安らか)せしむ。
新羅王金真平朕之籓臣王之鄰國每聞遣師征討不息阻兵安忍殊乖所望
新羅王の金真平は、朕の藩臣で、王の隣国である。いつも聞く、師(軍隊)をつかわして、征討すること息(やむ)さずと。兵(戦い)に阻(うれえる)み、忍(しのぶ)に安(あまんじる)ずるは、望む所に殊乖(たがう)する。
朕已對王侄信福及高麗新羅使人具敕通和咸許輯睦
朕は已(すで)に王の侄信福(かたい信福?)に対(こたえる)し、高麗、新羅に及んで人をつかわし、具(つぶさ)に通和を勅(いましめる)し、咸(あまねく)輯睦(やわらぎむつまじくする)を許(約束する)させた。
王必須忘彼前怨識朕本懷共篤鄰情即停兵革
王は彼の前怨を忘れることが必須であり、朕の本懐(本来の願望)を識(知る)し、共に隣情を篤(あつ)くして、即(すぐに)、兵革(戦争)を停止せよ。」と。
璋因遣使奉表陳謝雖外稱順命內實相仇如故
璋は因りて、使者を遣わして奉表して陳謝した。外では命に順するを称(とな)えたが、内では実は互いに仇であるのは故(まえ)の如し。
十一年遣使來朝獻鐵甲雕斧太宗優勞之賜彩帛三千段並錦袍等
十一年(637)、使者を遣わし来朝し、鉄の甲(よろい)、雕斧(彫刻をほどこした斧)を献じた。唐太宗はこれを優労し、彩帛三千段(端)、並びに錦の袍などを賜った。