儀鳳中高宗授高藏開府儀同三司遼東都督封朝鮮王居安東鎮本蕃爲主
儀鳳中(676~679)、唐高宗は高麗王高蔵に開府儀同三司、遼東都督を授け、朝鮮王を封じ、安東に居して、本蕃を鎮(しずめる)して主と為した。
高藏至安東潛與靺鞨相通謀叛事覺召還配流邛州並分徙其人散向河南隴右諸州其貧弱者留在安東城傍
高麗王高蔵は安東に至った。潜(ひそかに)に靺鞨と相(あい)通じ、叛(そむく)を謀(はか)った。事は発覚し、召還し、邛州に配流した。並びにその人を分け徙(うつす)し、河南、隴右の諸州に散りじりに向かわせ、その貧弱者は安東城の傍らに留めた。
高藏以永淳初卒贈衛尉卿詔送至京師於頡利墓左賜以葬地兼爲樹碑
高句麗王高蔵は永淳(682~683)の初め卒(死ぬ)し、衛尉卿を贈った。詔(みことのり)して京師(遼東半島南端部の金州? 音と距離より)に送至し、頡利可汗(東突厥の王)の墓の左(東がわ)に於いて葬地を以て賜り、兼(あわせて)、樹(木を植える)、碑(石碑)を為した。
垂拱二年又封高藏孫寶元爲朝鮮郡王聖曆元年進授左鷹揚衛大將軍封爲忠誠國王委其統攝安東舊戶事竟不行
垂拱二年(686)、又高句麗王高蔵の孫の宝元を封じて朝鮮郡王と為した。聖暦元年(698)、進めて、左鷹揚衛大将軍を授け、封じて忠誠国王と為し、その安東旧戸の統摂(まとめる)を委ねたが、事はとうとう行われなかった。
二年又授高藏男武爲安東都督以領本蕃自是高麗舊戶在安東者漸寡少分投突厥及靺鞨等高氏君長遂絕矣
二年(699)、又、高句麗王高蔵の男(むすこ)の徳武に授けて安東都督と為し、本蕃を領(おさめる)するを以てした。是より、高麗の旧戸の安東に在る者は漸(しだいに)寡少(少ない)になっていった。分かれて突厥及び靺鞨らに投(身をよせる)じて、高氏の君長は遂に絶えたのである。
男生以儀鳳初卒于長安贈并州大都督子獻誠授右衛大將軍兼令羽林衛上下
男生は儀鳳(676~679)初め長安において卒(死ぬ)した。并州大都督を贈った。子の献誠は右衛大将軍、兼、令羽林衛上下を授かった。
天授中則天嘗內出金銀實物令宰相及南北衙文武官內擇善射者五人共賭之
天授中(690~692)、則天武后は内(ひそかに)に金銀宝物を出して嘗(こころみる)した。宰相及び南北衙文武官に令して、内(ひそかに)善射(弓の達人)五人を択(えらぶ)させ、共に賭(勝負をあらそう)した。
內史張光輔先讓獻誠爲第一獻誠復讓右玉衛大將軍薛吐摩支摩支又讓獻誠
內史張光輔は先んじて献誠(男生の子 蓋蘇文の孫)が第一であると奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。献誠は復(また)、右玉衛大将軍薛吐摩支を奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。摩支も又、献誠を奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。
既而獻誠奏曰陛下令簡能射者五人所得者多非漢官臣恐自此已後無漢官工射之名伏望停寢此射則天嘉而從之
既(まもなく)に献誠は奏でて曰く、「陛下は能射者五人を簡(えらぶ)させましたが、得る所の者は、多くが漢人の官ではありません。わたしは此れより以後、漢人の官の工射(弓の達人)の名が無くなることを恐れます。伏して此れのような射を停寝(中止する)することを望みます」と。則天武后は嘉してこれに従った。
時酷吏來俊臣嘗求貨於獻誠獻誠拒而不答遂爲俊臣所構誣其謀反縊殺之
時に酷吏の来俊臣が貨(貨幣)を献誠に求めることを嘗(こころみる)した。献誠は拒みて答えなかった。遂に俊臣の構(みがまえる)する所と為り、その謀反をたくらんでいると誣(ありもしないことを言う)して、これを縊殺(くびしころす)した。
則天后知其冤贈右羽林衛大將軍以禮改葬
則天武后はその冤(無実の罪)を知り、 右羽林衛大将軍を贈り、礼を以て改葬した。
今日で、旧唐書高麗伝は終わりです。明日からは旧唐書百済伝に入ります。
儀鳳中(676~679)、唐高宗は高麗王高蔵に開府儀同三司、遼東都督を授け、朝鮮王を封じ、安東に居して、本蕃を鎮(しずめる)して主と為した。
高藏至安東潛與靺鞨相通謀叛事覺召還配流邛州並分徙其人散向河南隴右諸州其貧弱者留在安東城傍
高麗王高蔵は安東に至った。潜(ひそかに)に靺鞨と相(あい)通じ、叛(そむく)を謀(はか)った。事は発覚し、召還し、邛州に配流した。並びにその人を分け徙(うつす)し、河南、隴右の諸州に散りじりに向かわせ、その貧弱者は安東城の傍らに留めた。
高藏以永淳初卒贈衛尉卿詔送至京師於頡利墓左賜以葬地兼爲樹碑
高句麗王高蔵は永淳(682~683)の初め卒(死ぬ)し、衛尉卿を贈った。詔(みことのり)して京師(遼東半島南端部の金州? 音と距離より)に送至し、頡利可汗(東突厥の王)の墓の左(東がわ)に於いて葬地を以て賜り、兼(あわせて)、樹(木を植える)、碑(石碑)を為した。
垂拱二年又封高藏孫寶元爲朝鮮郡王聖曆元年進授左鷹揚衛大將軍封爲忠誠國王委其統攝安東舊戶事竟不行
垂拱二年(686)、又高句麗王高蔵の孫の宝元を封じて朝鮮郡王と為した。聖暦元年(698)、進めて、左鷹揚衛大将軍を授け、封じて忠誠国王と為し、その安東旧戸の統摂(まとめる)を委ねたが、事はとうとう行われなかった。
二年又授高藏男武爲安東都督以領本蕃自是高麗舊戶在安東者漸寡少分投突厥及靺鞨等高氏君長遂絕矣
二年(699)、又、高句麗王高蔵の男(むすこ)の徳武に授けて安東都督と為し、本蕃を領(おさめる)するを以てした。是より、高麗の旧戸の安東に在る者は漸(しだいに)寡少(少ない)になっていった。分かれて突厥及び靺鞨らに投(身をよせる)じて、高氏の君長は遂に絶えたのである。
男生以儀鳳初卒于長安贈并州大都督子獻誠授右衛大將軍兼令羽林衛上下
男生は儀鳳(676~679)初め長安において卒(死ぬ)した。并州大都督を贈った。子の献誠は右衛大将軍、兼、令羽林衛上下を授かった。
天授中則天嘗內出金銀實物令宰相及南北衙文武官內擇善射者五人共賭之
天授中(690~692)、則天武后は内(ひそかに)に金銀宝物を出して嘗(こころみる)した。宰相及び南北衙文武官に令して、内(ひそかに)善射(弓の達人)五人を択(えらぶ)させ、共に賭(勝負をあらそう)した。
內史張光輔先讓獻誠爲第一獻誠復讓右玉衛大將軍薛吐摩支摩支又讓獻誠
內史張光輔は先んじて献誠(男生の子 蓋蘇文の孫)が第一であると奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。献誠は復(また)、右玉衛大将軍薛吐摩支を奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。摩支も又、献誠を奨(すいせんする 譲(ジョウ)=奨(ショウ)?)した。
既而獻誠奏曰陛下令簡能射者五人所得者多非漢官臣恐自此已後無漢官工射之名伏望停寢此射則天嘉而從之
既(まもなく)に献誠は奏でて曰く、「陛下は能射者五人を簡(えらぶ)させましたが、得る所の者は、多くが漢人の官ではありません。わたしは此れより以後、漢人の官の工射(弓の達人)の名が無くなることを恐れます。伏して此れのような射を停寝(中止する)することを望みます」と。則天武后は嘉してこれに従った。
時酷吏來俊臣嘗求貨於獻誠獻誠拒而不答遂爲俊臣所構誣其謀反縊殺之
時に酷吏の来俊臣が貨(貨幣)を献誠に求めることを嘗(こころみる)した。献誠は拒みて答えなかった。遂に俊臣の構(みがまえる)する所と為り、その謀反をたくらんでいると誣(ありもしないことを言う)して、これを縊殺(くびしころす)した。
則天后知其冤贈右羽林衛大將軍以禮改葬
則天武后はその冤(無実の罪)を知り、 右羽林衛大将軍を贈り、礼を以て改葬した。
今日で、旧唐書高麗伝は終わりです。明日からは旧唐書百済伝に入ります。