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乾封元年高藏遣其子入朝

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乾封元年高藏遣其子入朝陪位於太山之下

乾封元年(666)、高麗王高蔵はその子を遣わし入朝させた。太山の下に於いて位を陪(加える)した。

其年蓋蘇文死其子男生代爲莫離支與其弟男建男產不睦各樹朋黨以相攻擊

その年、蓋蘇文が死んだ。その子の男生が代わって莫離支(=兵部尚書兼中書令職)と為った。その弟の男建、男産と睦まじくなく、各(おのおの)は朋党を樹立して、互いに攻撃しあった。

男生爲二弟所逐走據國內城死守其子獻誠詣闕求哀

男生は二人の弟の逐する所と為り、逃げて国内城(三京の一つ)に拠りて死守した。その子は誠を献じて闕に詣でて哀を求めた。

詔令左驍衛大將軍契苾何力率兵應接之男生脫身來奔詔授特進遼東大都督兼平壤道安撫大使封玄菟郡公

詔(みことのり)して、左驍衛大將軍契苾何力に令して兵を率いこれに応接させた。男生は脱身(にげだす)して来奔(走り来る)した。詔(みことのり)して、特進、遼東大都督(京畿湾一帯?)兼平壤道(水原市辺り?)安撫大使を授け、玄菟郡公(海州市辺り?)を封じた。

十一月命司空英國公李勣爲遼東道行軍大總管率裨將郭待封等以征高麗

十一月、司空、英国公李勣に命じて、遼東道行軍大総管と為し、裨将(副将)郭待封らを率いて高麗を征伐させた。

二年二月勣度遼至新城謂諸將曰新城是高麗西境鎮城最爲要害

二年(667)、李勣は遼(遼水?(漢江?))を渡り、新城に至った。諸将に謂った、曰く、「新城は是れ、高麗の西境の鎮城で、最も要害と為す。

若不先圖余城未易可下遂引兵於新城西南據山築柵且攻且守城中窘迫數有降者自此所向克捷

若し、先に図らなければ、余りの城は未だ易(たやすく)に下すことはできない。」と。遂に新城の西南に兵を引いて、山に拠りて柵を築き、且つ攻め、且つ守った。城中は窘迫(追い詰められて苦しむ)し、数(たびたび)降伏者が有って、此れより向かう所は克捷(勝ち戦)になった。

高藏及男建遣太大兄男產將首領九十八人持帛幡出降且請入朝勣以禮延接男建猶閉門固守

高麗王高蔵及び男建は太大兄男産を遣わし首領九十八人をひきいさせた。帛幡を持ち、降伏に出て、且つ入朝を請うた。李勣は礼を以て延接(接見)した。男建は猶(なお)門を閉じて固守した。

總章元年九月勣又移營于平壤城南男建頻遣兵出戰皆大敗

総章元年(668)九月、李勣は又、軍営を平壌城の南に移した。男建は頗る兵を遣わして戦いに出たが、皆(みな)、大敗した。

男建下捉兵總管僧信誠密遣人詣軍中許開城門爲內應

男建下の捉兵総管僧信誠は密かに人を遣わし軍中に詣でさせた。城門を開いて内応することを許(ききいれる)した。

經五日信誠果開門勣從兵入登城鼓噪燒城門樓四面火起

五日がたち、信誠は果たして開門し、李勣は兵を従えて入り、登城して鼓噪(つづみを打ち鳴らして鬨の声をあげる)し、城門の楼閣を焼き、四面に火が起こった。

男建窘急自刺不死十一月拔平壤城虜高藏男建等

男建は窘急(急なことで困る)し自ら刺したが、死ななかった。十一月、平壌城(三京の一つ おそらく水原(スウォン)市?))を抜(攻め落とす)き、高麗王高蔵、男建らを虜(とりこ)にした。

十二月至京師獻俘于含元宮詔以高藏政不由己授司平太常伯

十二月、京師(おそらく大連の北の金州? 音と距離より)に至り、含元宮に俘虜を献じた。詔(みことのり)して、高麗王高蔵の政治は己(おのれ)に由(よ)らないことを以て、司平太常伯を授けた。

男產先降授司宰少卿男建配流黔州男生以鄉導有功授右衛大將軍封汴國公特進如故

男産は先んじて降服したので、司宰少卿を授けた。男建は黔州に配流した。男生は郷を以て導き功が有ったので、右衛大将軍を授け、汴國公を封じ、特進は故(まえ)の如し。

高麗國舊分爲五部有城百七十六戶六十九萬七千乃分其地置都督府九州四十一縣一百又置安東都護府以統之

高麗国は旧(むかし)は分かれて五部を為していた。城は百七十六、戸数六十九万七千有る。乃(そこで)、その地を分けて都督府九つ、州四十一、県一百を置き、又、安東都督府を置いてこれを統べるを以てした。

擢其酋渠有功者授都督刺史及縣令與華人參理百姓

その酋渠の有功者を擢(ひきぬく)して、都督、刺史、及び県令を授け、華人とともに百姓を参理(はからう)した。

乃遣左武衛將軍薛仁貴總兵鎮之其後頗有逃散

乃(そこで)、左武衛将軍薛仁貴を遣わし、兵を総(まとめる)じてこれを鎮(しずめる)したが、その後、頗る逃散が有った。

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