太宗大怒斬伏愛以徇命諸將擊之三日不能克
唐太宗は大いに怒り、伏愛を斬って徇(広く示す)するを以てした。諸将軍に命じてこれを撃たせたが、三日たっても克つことができなかった。
太宗以遼東倉儲無幾士卒寒凍乃詔班師曆其城城中皆屏聲偃幟城主登城拜手奉辭
唐太宗は遼東の倉の儲(たくわえ)が幾らかも無く、士卒は寒く凍えているのを以て、乃(そこで)、詔(みことのり)して師(軍隊)を反(かえる 班(ハン)=反(ハン)?)させた。その城を離(はなれる 暦(リー)=離(リー)?)れるとき、城中は皆(みな)、声を屏(ひそめる)し、幟(のぼりばた)を偃(ふせる)し、城主が登城して拝手し辞を奉った。
太宗嘉其堅守賜絹百匹以勵事君之節
唐太宗はその堅守を嘉し、絹百匹を賜り、君の節に励事(つとめる)するを以てした。
初攻陷遼東城其中抗拒王師應沒爲奴婢者一萬四千人並遣先集幽州將分賞將士
初(以前)、遼東城を攻陥(せめおとす)したとき、その中は王師(帝王のひきいる軍隊)を抗拒(こばむ)し、応没して奴婢と為った者は一万四千人。並びに先集幽州に遣わし、将(まさ)に将士に分賞せんとした。
太宗湣其父母妻子一朝分散令有司准其直以布帛贖之赦爲百姓
唐太宗は、その父母妻子が一朝にして分散するのを憫(あわれむ 湣(ビン)=憫(ビン)?)し、有司に令してその直に准じて、布帛を以てこれに贖い、赦して百姓にした。
其衆歡呼之聲三日不息高延壽自降後常積歎尋以憂死惠真竟至長安
その衆の歓呼の声は三日やまなかった。高延寿は自ら降服した後、常に歎(なげ)きを積んで、尋(まもなく)、憂死するを以てした。高恵真は竟(とうとう)長安に至った。
二十年高麗遣使來謝罪並獻二美女
貞観二十年(646)、高麗は使者を遣わし謝罪に来た。並びに二人の美女を献じた。
太宗謂其使曰歸謂爾主美色者人之所重爾之所獻信爲美麗
唐太宗はその使者に謂った、曰く、「帰って爾(なんじ)の主に謂いなさい、美色とは、人の重んずる所である。爾の献じた所は、信(まこと)に美麗と思う。
憫其離父母兄弟于本國留其身而忘其親愛其色而傷其心我不取也並還之
その父母兄弟と本国において離れることを憫(あわれむ)する。その身を留めれば、その親を忘れさせ、その色を愛すればその心を傷つける。我は取(よいとする)らないのであると。」と。並びにこれを還した。
二十二年又遣右武衛將軍薛萬徹等往青丘道伐之
貞観二十二年(648)、又、右武衛将軍薛万徹らを遣わして、青丘道に往かせこれを伐たせた。
萬徹渡海入鴨水進破其泊灼城俘獲甚衆
万徹は海(渤海)を渡って、鴨緑水(鴨緑江)に入り、進んでその泊灼城を破って、甚だ衆を俘獲(いけどり)した。
太宗又命江南造大船遣陝州刺史孫伏伽召募勇敢之士萊州刺史李道裕運糧及器械
唐太宗は又、江南(河南? 江(コウ)=河(ホー)?)に命じて大船を造らせ、陝州(山東半島のライチョウ?)刺史孫伏伽を遣わし勇敢な士を召募させ、萊州刺史李道裕には食糧及び器械(武器)を運ばせた。
貯于烏胡島將欲大舉以伐高麗未行而帝崩
烏胡島(大阜島?(インチョンの南) 烏=鳥?(テウ)=大(タイ)? 胡(フー)=阜(フー)?)に貯(た)めて、将(まさ)に大挙して高麗を伐つことを欲したが、未だ行かないうちに帝(唐太宗)が崩じた。
高宗嗣位又命兵部尚書任雅相左武衛大將軍蘇定方左驍衛大將軍契苾何力等前後討之皆無大功而還
唐高宗が位を嗣(つぐ)し、又、 兵部尚書任雅相、左武衛大将軍蘇定方、左驍衛大将軍契苾何力らに命じて前後してこれを討たせたが、皆(みな)、大功無くして還った。
唐太宗は大いに怒り、伏愛を斬って徇(広く示す)するを以てした。諸将軍に命じてこれを撃たせたが、三日たっても克つことができなかった。
太宗以遼東倉儲無幾士卒寒凍乃詔班師曆其城城中皆屏聲偃幟城主登城拜手奉辭
唐太宗は遼東の倉の儲(たくわえ)が幾らかも無く、士卒は寒く凍えているのを以て、乃(そこで)、詔(みことのり)して師(軍隊)を反(かえる 班(ハン)=反(ハン)?)させた。その城を離(はなれる 暦(リー)=離(リー)?)れるとき、城中は皆(みな)、声を屏(ひそめる)し、幟(のぼりばた)を偃(ふせる)し、城主が登城して拝手し辞を奉った。
太宗嘉其堅守賜絹百匹以勵事君之節
唐太宗はその堅守を嘉し、絹百匹を賜り、君の節に励事(つとめる)するを以てした。
初攻陷遼東城其中抗拒王師應沒爲奴婢者一萬四千人並遣先集幽州將分賞將士
初(以前)、遼東城を攻陥(せめおとす)したとき、その中は王師(帝王のひきいる軍隊)を抗拒(こばむ)し、応没して奴婢と為った者は一万四千人。並びに先集幽州に遣わし、将(まさ)に将士に分賞せんとした。
太宗湣其父母妻子一朝分散令有司准其直以布帛贖之赦爲百姓
唐太宗は、その父母妻子が一朝にして分散するのを憫(あわれむ 湣(ビン)=憫(ビン)?)し、有司に令してその直に准じて、布帛を以てこれに贖い、赦して百姓にした。
其衆歡呼之聲三日不息高延壽自降後常積歎尋以憂死惠真竟至長安
その衆の歓呼の声は三日やまなかった。高延寿は自ら降服した後、常に歎(なげ)きを積んで、尋(まもなく)、憂死するを以てした。高恵真は竟(とうとう)長安に至った。
二十年高麗遣使來謝罪並獻二美女
貞観二十年(646)、高麗は使者を遣わし謝罪に来た。並びに二人の美女を献じた。
太宗謂其使曰歸謂爾主美色者人之所重爾之所獻信爲美麗
唐太宗はその使者に謂った、曰く、「帰って爾(なんじ)の主に謂いなさい、美色とは、人の重んずる所である。爾の献じた所は、信(まこと)に美麗と思う。
憫其離父母兄弟于本國留其身而忘其親愛其色而傷其心我不取也並還之
その父母兄弟と本国において離れることを憫(あわれむ)する。その身を留めれば、その親を忘れさせ、その色を愛すればその心を傷つける。我は取(よいとする)らないのであると。」と。並びにこれを還した。
二十二年又遣右武衛將軍薛萬徹等往青丘道伐之
貞観二十二年(648)、又、右武衛将軍薛万徹らを遣わして、青丘道に往かせこれを伐たせた。
萬徹渡海入鴨水進破其泊灼城俘獲甚衆
万徹は海(渤海)を渡って、鴨緑水(鴨緑江)に入り、進んでその泊灼城を破って、甚だ衆を俘獲(いけどり)した。
太宗又命江南造大船遣陝州刺史孫伏伽召募勇敢之士萊州刺史李道裕運糧及器械
唐太宗は又、江南(河南? 江(コウ)=河(ホー)?)に命じて大船を造らせ、陝州(山東半島のライチョウ?)刺史孫伏伽を遣わし勇敢な士を召募させ、萊州刺史李道裕には食糧及び器械(武器)を運ばせた。
貯于烏胡島將欲大舉以伐高麗未行而帝崩
烏胡島(大阜島?(インチョンの南) 烏=鳥?(テウ)=大(タイ)? 胡(フー)=阜(フー)?)に貯(た)めて、将(まさ)に大挙して高麗を伐つことを欲したが、未だ行かないうちに帝(唐太宗)が崩じた。
高宗嗣位又命兵部尚書任雅相左武衛大將軍蘇定方左驍衛大將軍契苾何力等前後討之皆無大功而還
唐高宗が位を嗣(つぐ)し、又、 兵部尚書任雅相、左武衛大将軍蘇定方、左驍衛大将軍契苾何力らに命じて前後してこれを討たせたが、皆(みな)、大功無くして還った。