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二十一年善卒贈光祿大夫

二十一年善卒贈光祿大夫余官封並如故因立其妹真爲王加授柱國封樂浪郡王

二十一年(647)、善徳が卒し、光祿大夫を贈り、余(ほか)の官は、並(みな)故(まえ)の如くを封じた。因りて、その妹を立てて王に為し、柱国を加授し、楽浪郡王に封じた。

二十二年真遣其弟國相伊贊子金春秋及其子文正來朝

二十二年(648)、真徳はその弟国相伊贊子金春秋(後の武烈王)及びその子の文正を遣わして来朝させた。

詔授春秋爲特進文正爲左武衛將軍春秋請詣國學觀釋奠及講論太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑並新撰晉書

詔(みことのり)して、春秋に授け特進と為し、文正は左武衛将軍と為した。春秋は国学に詣でて釈奠及び講論を観ることを請うた。唐太宗は因りて、制する所の温湯、及び晋祠碑、並びに新撰晋書を賜った。

將歸國令三品以上宴餞之優禮甚稱永徽元年真大破百濟之衆遣其弟法敏以聞

将に帰国せんとしたとき、三品以上に令してこれを宴餞(送別会)させた。優礼(厚く礼すること)し甚だ称(たた)えた。永徽元年(650)、真徳は百済の衆を大破し、その弟法敏(後の文武王)を遣わし、聞(もうしあげる)くを以てした。

真乃織錦作五言太平頌以獻之其詞曰大唐開洪業巍巍皇猷昌

晋徳は乃ち錦を織り、五言(一句が五字からなる漢詩)の太平頌を作り、これを献ずるを以てした。その詞(ことば)は曰く、「大唐は洪業(帝王の業)を開き、巍巍(高大なさま)と皇猷(皇の道)は昌(さかえる)する。

止戈戎衣定修文繼百王統天崇雨施理物體含章深仁偕日月撫運邁陶唐

戈戎(たたかい)を止(や)め、夷定(平定する 衣(イ)=夷(イ)?))し、文(文芸)を修め、百王(多くの王)を継ぐ。天を統(す)べ、雨施(雨がものをうるおす)を崇(あが)め、物体を理(ととのえる)し、憲章(法制を守る 含(カン)=憲(ケン)?)する。仁(人道の根本)を深くして、日(太陽)月を階(みちすじだてる 偕(カイ)=階(カイ)?)し、運(運行)を撫(おさえる)し 陶唐(堯帝)に邁(まさる)した。

幡旗既赫赫鉦鼓何鍠鍠外夷違命者翦覆被天殃淳風凝幽顯遐邇競呈祥

幡旗は既に赫赫(盛んなさま)とたなびき、鐘(かね 鉦(ショウ)=鐘(ショウ)?)、鼓(つづみ)は鍠鍠と拍(うつ 何(ホー)=拍(ボー)?)する。外夷の命に違う者は、翦覆(ほろぼす)して天の殃(わざわい)を被(こうむ)り、淳風(純朴な風俗)が幽宮(奥深い宮殿  顕(ケン)=宮(コン)?)に凝(集まる)し、遐邇(遠いところも近いところも)は競って祥(さいわい)を呈(しめす)する。

四時和玉燭七曜巡萬方維嶽降宰輔維帝任忠良五三成一昭我唐家光帝嘉之拜法敏爲太府卿

四時(四季)は玉(宝石)の燭(あかり)を和し、七曜(一週間)は万(よろず)の方(大地)に巡る。維(これ)、獄(ごく 嶽(ゴク)=獄(ゴク)?)は罪科(宰(サイ)=罪(ザイ)? 輔(フー)=科(クヮ)?)を降(くだ)し、維(これ)、帝は忠良を任じる。五三(三皇五帝?)は一徳を成し、
我が唐家の光を昭(あきら)かにした。」と。帝はこれを嘉(よみ)し、法敏を拝して、太府卿と為した。

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