三年真卒爲舉哀詔以春秋嗣立爲新羅王加授開府儀同三司封樂浪郡王
三年(653)、真徳が卒し、挙哀を為した。詔(みことのり)して、春秋を以て嗣(つ)がせ、立てて新羅王と為した。開府儀同三司を加授し、楽浪郡王に封じた。
六年百濟與高麗靺鞨率兵侵其北界攻陷三十餘城春秋遣使上表求救
六年(655)、百済と高麗、靺鞨が兵を率いてその北界を侵し、三十余城を攻陥(攻め落とす)した。春秋は使者を遣わし上表して救いを求めた。
顯慶五年命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管統水陸十萬
顕慶五年(660)、左武衛大將軍蘇定方に命じて、熊津道(公州市周辺?)大総管、水陸十万を統べらせた。
仍令春秋爲嵎夷道行軍總管與定方討平百濟俘其王扶餘義慈獻于闕下
仍(かさねて)、春秋に令して、嵎夷道(ソベク山脈の中央辺り?)行軍総管と為し、蘇定方とともに百済を討平(討ちたいらげる)し、その王の扶余義慈を俘(いけどり)にして、闕下に献じた。
自是新羅漸有高麗百濟之地其界益大西至於海
是れより、新羅は 漸(次第に)、高麗、百済の地を有していった。その界は益々(ますます)大きくなり、西は海(黄海)に至った。
龍朔元年春秋卒詔其子太府卿法敏嗣位爲開府儀同三司上柱國樂浪郡王新羅王
龍朔元年(661)、春秋が卒し、詔(みことのり)してその子の太府卿法敏に位を嗣(つ)がせ、開府儀同三司、上柱国、楽浪郡王、新羅王と為した。
三年詔以其國爲雞林州都督府授法敏爲雞林州都督法敏以開耀元年卒其子政明嗣位
三年(663)、詔(みことのり)して、その国を以て、雞林州都督府と為し、法敏に授けて雞林州都督と為した。法敏は開耀元年(681)を以て卒し、その子の政明に位を嗣(つ)がせた。
垂拱二年政明遣使來朝因上表請唐禮一部並雜文章則天令所司寫吉凶要禮並于文館詞林采其詞涉規誡者勒成五十卷以賜之
垂拱二年(686)、政明は使者を遣わして来朝し、因りて上表して、唐礼一部、並びに雑(いろいろな)文章を請うた。則天武后は所司に令して、吉凶要礼を写(書き写す)させ、並びに文館詞林において、その詞(ことば)の規誡に涉(関係する)するものを采(えらびとる)し、五十巻を勒成(作成)して、これに賜るを以てした。
天授三年政明卒則天爲之舉哀遣使弔祭冊立其子理洪爲新羅王
天授三年(692)、政明が卒し、則天武后はこれの為に挙哀し、使者を遣わせて弔祭させ、その子の理洪を冊立して新羅王と為した。
仍令襲父輔國大將軍行豹韜衛大將軍雞林州都督
仍(かさねて)、父(政明)の輔國大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督を襲(あとをつぐ)させた。
理洪以長安二年卒則天爲之舉哀輟朝二日遣立其弟興光爲新羅王仍襲兄將軍都督之號興光本名與太宗同先天中則天改焉
理洪は長安二年(702)、卒し、則天武后はこれの為に挙哀し、輟朝(死を悲しんで一時的に朝廷の政治を中止すること)すること二日。その弟の興光を遣立して、新羅王と為し、仍(かさねて)、兄の将軍、都督の号を襲(あとをつぐ)させた。興光の本名は唐太宗と同じで、先天中(712~713)に則天武后が改めた。
開元十六年遣使來獻方物又上表請令人就中國學問經教上許之二十一年渤海靺鞨越海入寇登州
開元十六年(728)、使者を遣わして方物を来献した。又、上表して人(新羅使者)に令して中国の学問、経教に就かせることを請うた。上はこれを許した。二十一年(733)、渤海靺鞨(国名 おそらく北朝鮮海州市辺り一帯?)が海を越えて登州に入寇した。
時興光族人金思蘭先因入朝留京師拜爲太僕員外卿至是遣歸國發兵以討靺鞨仍加授興光爲開府儀同三司海軍使
時に興光の族人の金思蘭は先に入朝に因りて京師(大連の金州?)に留まっており、拝して 太僕員外卿と為さしめた。是れに至りて、国に遣帰させ兵を発して靺鞨を討つを以てした。仍(かさねて)、興光に加授して、開府儀同三司、海軍使と為した。
二十五年興光卒詔贈太子太保仍遣左贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿往新羅弔祭並冊立其子承慶襲父開府儀同三司新羅王
二十五年(737)、興光が卒した。詔(みことのり)して新羅太子に太保(廟を祭る官名)を贈った。
仍(かさねて)、左賛善大夫邢璹摂鴻臚少卿を遣わして、新羅に弔祭に往かせた。並びにその子の承慶を冊立して父(興光)の開府儀同三司、新羅王を世襲させた。
璹將進發上制詩序太子以下及百僚鹹賦詩以送之上謂璹曰新羅號爲君子之國頗知書記有類中華以卿學術善與講論故選使充此
璹(左賛善大夫邢璹摂鴻臚少卿)は将(まさ)に進発(出発)せんとするとき、詩序を上制した。(新羅の)太子以下百僚は咸(あまねく 鹹=咸?)、詩を賦(詩を作る)してこれに送るを以てした。上は璹に謂った、曰く、「新羅は号して君子の国と為す。頗る書記を知り、中華に類するに有る。卿の学術を以て、ともに講論することが善(上手い)で、故(ゆえ)に使者を選んで、これに充(あ)て、
到彼宜闡揚經典使知大國儒教之盛又聞其人多善奕棋因令善棋人率府兵曹楊季鷹爲璹之副璹等至彼大爲蕃人所敬
彼(か 新羅)に到ったら、宜しく経典を闡揚(明らかにあらわす)するべきで、大国の儒教の盛を知らせよ」と。又、その人の多くが奕棋(囲碁)が善(上手い)であるのを聞き、因りて、善棋人(囲碁の名人)の率府兵曹楊季鷹に令して、璹の副卿と為さしめた。璹らは彼(か 新羅)に到り、大いに蕃人(新羅人)の敬う所と為った。
其國棋者皆在季鷹之下於是厚賂璹等金寶及藥物等
その国の棋者(の腕前)は皆(みな)季鷹の下に在(あ)り、ここに於いて、璹らに金宝及び薬物などを厚く賂(贈る)した。
三年(653)、真徳が卒し、挙哀を為した。詔(みことのり)して、春秋を以て嗣(つ)がせ、立てて新羅王と為した。開府儀同三司を加授し、楽浪郡王に封じた。
六年百濟與高麗靺鞨率兵侵其北界攻陷三十餘城春秋遣使上表求救
六年(655)、百済と高麗、靺鞨が兵を率いてその北界を侵し、三十余城を攻陥(攻め落とす)した。春秋は使者を遣わし上表して救いを求めた。
顯慶五年命左武衛大將軍蘇定方爲熊津道大總管統水陸十萬
顕慶五年(660)、左武衛大將軍蘇定方に命じて、熊津道(公州市周辺?)大総管、水陸十万を統べらせた。
仍令春秋爲嵎夷道行軍總管與定方討平百濟俘其王扶餘義慈獻于闕下
仍(かさねて)、春秋に令して、嵎夷道(ソベク山脈の中央辺り?)行軍総管と為し、蘇定方とともに百済を討平(討ちたいらげる)し、その王の扶余義慈を俘(いけどり)にして、闕下に献じた。
自是新羅漸有高麗百濟之地其界益大西至於海
是れより、新羅は 漸(次第に)、高麗、百済の地を有していった。その界は益々(ますます)大きくなり、西は海(黄海)に至った。
龍朔元年春秋卒詔其子太府卿法敏嗣位爲開府儀同三司上柱國樂浪郡王新羅王
龍朔元年(661)、春秋が卒し、詔(みことのり)してその子の太府卿法敏に位を嗣(つ)がせ、開府儀同三司、上柱国、楽浪郡王、新羅王と為した。
三年詔以其國爲雞林州都督府授法敏爲雞林州都督法敏以開耀元年卒其子政明嗣位
三年(663)、詔(みことのり)して、その国を以て、雞林州都督府と為し、法敏に授けて雞林州都督と為した。法敏は開耀元年(681)を以て卒し、その子の政明に位を嗣(つ)がせた。
垂拱二年政明遣使來朝因上表請唐禮一部並雜文章則天令所司寫吉凶要禮並于文館詞林采其詞涉規誡者勒成五十卷以賜之
垂拱二年(686)、政明は使者を遣わして来朝し、因りて上表して、唐礼一部、並びに雑(いろいろな)文章を請うた。則天武后は所司に令して、吉凶要礼を写(書き写す)させ、並びに文館詞林において、その詞(ことば)の規誡に涉(関係する)するものを采(えらびとる)し、五十巻を勒成(作成)して、これに賜るを以てした。
天授三年政明卒則天爲之舉哀遣使弔祭冊立其子理洪爲新羅王
天授三年(692)、政明が卒し、則天武后はこれの為に挙哀し、使者を遣わせて弔祭させ、その子の理洪を冊立して新羅王と為した。
仍令襲父輔國大將軍行豹韜衛大將軍雞林州都督
仍(かさねて)、父(政明)の輔國大将軍、行豹韜衛大将軍、雞林州都督を襲(あとをつぐ)させた。
理洪以長安二年卒則天爲之舉哀輟朝二日遣立其弟興光爲新羅王仍襲兄將軍都督之號興光本名與太宗同先天中則天改焉
理洪は長安二年(702)、卒し、則天武后はこれの為に挙哀し、輟朝(死を悲しんで一時的に朝廷の政治を中止すること)すること二日。その弟の興光を遣立して、新羅王と為し、仍(かさねて)、兄の将軍、都督の号を襲(あとをつぐ)させた。興光の本名は唐太宗と同じで、先天中(712~713)に則天武后が改めた。
開元十六年遣使來獻方物又上表請令人就中國學問經教上許之二十一年渤海靺鞨越海入寇登州
開元十六年(728)、使者を遣わして方物を来献した。又、上表して人(新羅使者)に令して中国の学問、経教に就かせることを請うた。上はこれを許した。二十一年(733)、渤海靺鞨(国名 おそらく北朝鮮海州市辺り一帯?)が海を越えて登州に入寇した。
時興光族人金思蘭先因入朝留京師拜爲太僕員外卿至是遣歸國發兵以討靺鞨仍加授興光爲開府儀同三司海軍使
時に興光の族人の金思蘭は先に入朝に因りて京師(大連の金州?)に留まっており、拝して 太僕員外卿と為さしめた。是れに至りて、国に遣帰させ兵を発して靺鞨を討つを以てした。仍(かさねて)、興光に加授して、開府儀同三司、海軍使と為した。
二十五年興光卒詔贈太子太保仍遣左贊善大夫邢璹攝鴻臚少卿往新羅弔祭並冊立其子承慶襲父開府儀同三司新羅王
二十五年(737)、興光が卒した。詔(みことのり)して新羅太子に太保(廟を祭る官名)を贈った。
仍(かさねて)、左賛善大夫邢璹摂鴻臚少卿を遣わして、新羅に弔祭に往かせた。並びにその子の承慶を冊立して父(興光)の開府儀同三司、新羅王を世襲させた。
璹將進發上制詩序太子以下及百僚鹹賦詩以送之上謂璹曰新羅號爲君子之國頗知書記有類中華以卿學術善與講論故選使充此
璹(左賛善大夫邢璹摂鴻臚少卿)は将(まさ)に進発(出発)せんとするとき、詩序を上制した。(新羅の)太子以下百僚は咸(あまねく 鹹=咸?)、詩を賦(詩を作る)してこれに送るを以てした。上は璹に謂った、曰く、「新羅は号して君子の国と為す。頗る書記を知り、中華に類するに有る。卿の学術を以て、ともに講論することが善(上手い)で、故(ゆえ)に使者を選んで、これに充(あ)て、
到彼宜闡揚經典使知大國儒教之盛又聞其人多善奕棋因令善棋人率府兵曹楊季鷹爲璹之副璹等至彼大爲蕃人所敬
彼(か 新羅)に到ったら、宜しく経典を闡揚(明らかにあらわす)するべきで、大国の儒教の盛を知らせよ」と。又、その人の多くが奕棋(囲碁)が善(上手い)であるのを聞き、因りて、善棋人(囲碁の名人)の率府兵曹楊季鷹に令して、璹の副卿と為さしめた。璹らは彼(か 新羅)に到り、大いに蕃人(新羅人)の敬う所と為った。
其國棋者皆在季鷹之下於是厚賂璹等金寶及藥物等
その国の棋者(の腕前)は皆(みな)季鷹の下に在(あ)り、ここに於いて、璹らに金宝及び薬物などを厚く賂(贈る)した。