天寶二年承慶卒詔遣贊善大夫魏曜往弔祭之冊立其弟憲英爲新羅王並襲其兄官爵
天宝二年(743)、承慶が卒した。詔(みことのり)して、賛善大夫魏曜を遣わし、弔祭に往かせた。その弟の憲英を冊立して新羅王と為し、並びにその兄の官爵を襲(うけつぐ)させた。
大曆二年憲英卒國人立其子乾運爲王仍遣其大臣金隱居奉表入朝貢方物請加冊命
大暦二年(767)、憲英が卒し、国人はその子の乾運を立てて王と為した。仍(かさねて)その大臣の金隠居を遣わして奉表して入朝させ、方物を貢ぎ、冊命を加えることを請うた。
三年,上遣倉部郎中兼御史中丞賜紫金魚袋歸崇敬持節齎冊書往吊冊之
三年(768)、上は倉部郎中兼御史中丞を遣わして、紫金魚袋、帰崇敬を賜り、節を持たせ、冊書を齎(持って行く)して、これを吊(とむらう 憲英の弔祭)し、冊(乾運の冊命)しに往かせた。
以乾運爲開府儀同三司新羅王仍冊乾運母爲太妃
乾運を以て、開府儀同三司、新羅王と為し、仍(かさねて)、乾運の母に冊して太后と為した。
七年遣使金標石來賀正授衛尉員外少卿放還八年遣使來朝並獻金銀牛黃魚牙納朝霞紬等
七年(772)、使者の金標石を遣わし賀正(新年を祝う)に来させた。衛尉員外少卿を授けて、放還した。八年(773)、使者を遣わし来朝させた。並びに金、銀、牛黄(薬用として珍重された)、魚牙納、朝霞紬などを献じた。
九年至十二年比歲遣使來朝或一歲再至建中四年乾運卒無子國人立其上相金良相爲王
九年から十二年(774~777)に至るまで、比歳(毎年)に使者をつかわし来朝させた。或いは一年に二度至った。建中四年(783)、乾運が卒した。子が無く、国人はその上相の金良相を立てて王に為した。
貞元元年授良相檢校太尉都督雞林州刺史海軍使新羅王仍令戶部郎中蓋塤持節冊命
貞元元年(785)、良相に検校太尉、都督雞林州刺史、海軍使、新羅王を授けた、仍(かさねて)戶部郎中蓋塤に令して節を持って冊命をさせた。
其年良相卒立上相敬信爲王令襲其官爵敬信即從兄弟也
その年、良相が卒し、上相の敬信を立てて、王と為した。令してその官爵を襲(うけつぐ)させた。敬信は即ち従兄弟(いとこ)である。
十四年敬信卒其子先敬信亡國人立敬信嫡孫俊邕爲王
十四年(798)、敬信が卒し、その子は先敬 より先に亡くなったので、国人は敬信の嫡孫の俊邕を立てて王に為した。
十六年授俊邕開府儀同三司檢校太尉新羅王令司封郎中兼御史中丞韋丹持節冊命
十六年(800)、俊邕に開府儀同三司、検校太尉、新羅王を授けた。司封郎中兼御史中丞韋丹に令して、節を持って冊命させた。
丹至鄆州聞俊邕卒其子重興立詔丹還永貞元年詔遣兵部郎中元季方持節冊重興爲王
司封郎中兼御史中丞韋丹が鄆州に至ると、俊邕が卒し、その子の重興が立ったことを聞いた。司封郎中兼御史中丞韋丹に詔(みことのり)して還した。永貞元年(805)、詔(みことのり)して兵部郎中元季方を遣わし、節を持って、重興を冊して、王に為した。
元和元年十一月放宿衛王子金獻忠歸本國仍加試秘書監三年遣使金力奇來朝
元和元年(806)十一月、宿衛の王子金献忠を放して本国に帰らせた。仍(かさねて)、試秘書監を加授した。三年(808)、使者の金力奇を遣わし来朝した。
其年七月力奇上言貞元十六年奉詔冊臣故主金俊邕爲新羅王母申氏爲太妃妻叔氏爲王妃
その年の七月、力奇は上言した、「貞元十六年(800)、詔(みことのり)を奉り、わたしの故(まえ)の主の金俊邕に冊して新羅王と為し、母の申氏は太妃と為し、妻の叔氏は王妃と為しました。
冊使韋丹至中路知俊邕薨其冊卻回在中書省今臣還國伏請授臣以歸
冊使の韋丹が中路(路の途中)に至ったとき、俊邕の薨を知り、その冊は、卻回(もとの所にもどる)して、中書省に在ります。今、臣(わたし)は国に還りますので、伏して、臣(わたし)に授け、帰るを以てすることを請う」と。
敕金俊邕等冊宜令鴻臚寺於中書省受領至寺宣授與金力奇令奉歸國
勅(みことのり)し、「金俊邕らの冊は、宜しく鴻臚寺に令して、中書省より受領するべし。寺に至ったら、宣(みことのり)して金力奇に授与し、令して国に奉帰させよ。
仍賜其叔彥升門戟令本國准例給四年遣使金陸珍等來朝貢五年王子金憲章來朝貢
仍(かさねて)、その叔(おじ)の彥升に門戟を賜り、本国に令して例に准じて給わせた。四年(809)、使者の金陸珍らを遣わして朝貢に来た。五年(810)、王子の金憲章が朝貢に来た。
七年重興卒立其相金彥升爲王遣使金昌南等來告哀
七年(812)、重興が卒し、その相の金彥升を立てて王に為した。使者の金昌南らを遣わして、哀を告げに来た。
其年七月授彥升開府儀同三司檢校太尉持節大都督雞林州諸軍事兼持節充海軍使上柱國新羅國王
その年の七月、彦升に開府儀同三司、検校太尉、持節大都督雞林州諸軍事,兼持節充海軍使、上柱国、新羅国王を授けた。
彥升妻貞氏冊爲妃仍賜其宰相金崇斌等三人戟亦令本國准例給
彦升の妻の貞氏は冊して妃と為した。仍(かさねて)、その宰相の金崇斌ら三人に戟を賜り、亦、本国に令して例に准じて給わせた。
兼命職方員外郎攝御史中丞崔廷侍節弔祭冊立以其質子金士信副之
兼命職方員外郎、摂御史中丞崔廷に節を侍して弔祭、冊立させ、その質子の金士信を以てこれに副(つきそう)させた。
十一年十一月其入朝王子金士信等遇惡風飄至楚州鹽城縣界淮南節度使李鄘以聞
十一年(816)、十一月、その入朝に、王子金士信らが悪風に遇(あ)い飄(ただよう)し、楚州塩城縣界に至った。淮南節度使李鄘が聞(もうしあげる)くを以てした。
是歲新羅饑其衆一百七十人求食於浙東十五年十一月遣使朝貢
この歳、新羅は饑(穀物がみのらない)で、その衆の一百七十人が浙東に食を求めた。十五年(820)十一月、使者を遣わして朝貢した。
長慶二年十二月,遣使金柱弼朝貢。寶曆元年,其王子金來朝。太和元年四月,皆遣使朝貢。
長慶二年(822)十二月、使者の金柱弼を遣わして朝貢した。宝暦元年(825)、その王子の金が来朝した。太和元年(827)四月、皆(みな)使者を遣わして朝貢した。
五年金彥升卒以嗣子金景徽爲開府儀同三司檢校太尉使侍節大都督雞林州諸軍事兼持節充海軍使新羅王
五年(831)、金彦升が卒し、嗣子の金景徽を以て、開府儀同三司、検校太尉、使侍節大都督雞林州諸軍事,兼持節充海軍使、新羅王と為した。
景徽母樸氏爲太妃妻朴氏爲妃命太子左諭兼御史中丞源寂持節弔祭冊立開成元年王子金義來謝恩兼宿衛
景徽の母の樸氏は太妃と為し、妻の朴氏は后と為した。太子左諭兼御史中丞源寂に命じて節を持って弔祭(金彦升の弔祭)、冊立(金景徽の冊立)をさせた。開成元年(836)、王子の金義が謝恩に来て、宿衛を兼ねた。
二年四月放還籓賜物遣之五年四月鴻臚寺奏新羅國告哀質子及年滿合歸國學生等共一百五人並放還
二年(837)四月、藩に放還させ、物を賜りこれを遣わした。五年(840)四月、鴻臚寺が新羅国が哀(喪)を告げたと奏(上に申し上げる)した。質子及び年が満ちて帰国に合(かなう)する学生ら共に一百五人を並びに放還した。
會昌元年七月敕歸國新羅官前入新羅宣慰副使前充兗州都督府司馬賜緋魚袋金雲卿可淄州長史
会昌元年(841)七月、勅(みことのり)し、新羅官の前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬を帰国させ緋魚袋、金雲卿、可淄州長史を賜った。
今日で、旧唐書 新羅伝は終わりです。明日からは旧唐書 倭国、日本伝に入ります。
天宝二年(743)、承慶が卒した。詔(みことのり)して、賛善大夫魏曜を遣わし、弔祭に往かせた。その弟の憲英を冊立して新羅王と為し、並びにその兄の官爵を襲(うけつぐ)させた。
大曆二年憲英卒國人立其子乾運爲王仍遣其大臣金隱居奉表入朝貢方物請加冊命
大暦二年(767)、憲英が卒し、国人はその子の乾運を立てて王と為した。仍(かさねて)その大臣の金隠居を遣わして奉表して入朝させ、方物を貢ぎ、冊命を加えることを請うた。
三年,上遣倉部郎中兼御史中丞賜紫金魚袋歸崇敬持節齎冊書往吊冊之
三年(768)、上は倉部郎中兼御史中丞を遣わして、紫金魚袋、帰崇敬を賜り、節を持たせ、冊書を齎(持って行く)して、これを吊(とむらう 憲英の弔祭)し、冊(乾運の冊命)しに往かせた。
以乾運爲開府儀同三司新羅王仍冊乾運母爲太妃
乾運を以て、開府儀同三司、新羅王と為し、仍(かさねて)、乾運の母に冊して太后と為した。
七年遣使金標石來賀正授衛尉員外少卿放還八年遣使來朝並獻金銀牛黃魚牙納朝霞紬等
七年(772)、使者の金標石を遣わし賀正(新年を祝う)に来させた。衛尉員外少卿を授けて、放還した。八年(773)、使者を遣わし来朝させた。並びに金、銀、牛黄(薬用として珍重された)、魚牙納、朝霞紬などを献じた。
九年至十二年比歲遣使來朝或一歲再至建中四年乾運卒無子國人立其上相金良相爲王
九年から十二年(774~777)に至るまで、比歳(毎年)に使者をつかわし来朝させた。或いは一年に二度至った。建中四年(783)、乾運が卒した。子が無く、国人はその上相の金良相を立てて王に為した。
貞元元年授良相檢校太尉都督雞林州刺史海軍使新羅王仍令戶部郎中蓋塤持節冊命
貞元元年(785)、良相に検校太尉、都督雞林州刺史、海軍使、新羅王を授けた、仍(かさねて)戶部郎中蓋塤に令して節を持って冊命をさせた。
其年良相卒立上相敬信爲王令襲其官爵敬信即從兄弟也
その年、良相が卒し、上相の敬信を立てて、王と為した。令してその官爵を襲(うけつぐ)させた。敬信は即ち従兄弟(いとこ)である。
十四年敬信卒其子先敬信亡國人立敬信嫡孫俊邕爲王
十四年(798)、敬信が卒し、その子は先敬 より先に亡くなったので、国人は敬信の嫡孫の俊邕を立てて王に為した。
十六年授俊邕開府儀同三司檢校太尉新羅王令司封郎中兼御史中丞韋丹持節冊命
十六年(800)、俊邕に開府儀同三司、検校太尉、新羅王を授けた。司封郎中兼御史中丞韋丹に令して、節を持って冊命させた。
丹至鄆州聞俊邕卒其子重興立詔丹還永貞元年詔遣兵部郎中元季方持節冊重興爲王
司封郎中兼御史中丞韋丹が鄆州に至ると、俊邕が卒し、その子の重興が立ったことを聞いた。司封郎中兼御史中丞韋丹に詔(みことのり)して還した。永貞元年(805)、詔(みことのり)して兵部郎中元季方を遣わし、節を持って、重興を冊して、王に為した。
元和元年十一月放宿衛王子金獻忠歸本國仍加試秘書監三年遣使金力奇來朝
元和元年(806)十一月、宿衛の王子金献忠を放して本国に帰らせた。仍(かさねて)、試秘書監を加授した。三年(808)、使者の金力奇を遣わし来朝した。
其年七月力奇上言貞元十六年奉詔冊臣故主金俊邕爲新羅王母申氏爲太妃妻叔氏爲王妃
その年の七月、力奇は上言した、「貞元十六年(800)、詔(みことのり)を奉り、わたしの故(まえ)の主の金俊邕に冊して新羅王と為し、母の申氏は太妃と為し、妻の叔氏は王妃と為しました。
冊使韋丹至中路知俊邕薨其冊卻回在中書省今臣還國伏請授臣以歸
冊使の韋丹が中路(路の途中)に至ったとき、俊邕の薨を知り、その冊は、卻回(もとの所にもどる)して、中書省に在ります。今、臣(わたし)は国に還りますので、伏して、臣(わたし)に授け、帰るを以てすることを請う」と。
敕金俊邕等冊宜令鴻臚寺於中書省受領至寺宣授與金力奇令奉歸國
勅(みことのり)し、「金俊邕らの冊は、宜しく鴻臚寺に令して、中書省より受領するべし。寺に至ったら、宣(みことのり)して金力奇に授与し、令して国に奉帰させよ。
仍賜其叔彥升門戟令本國准例給四年遣使金陸珍等來朝貢五年王子金憲章來朝貢
仍(かさねて)、その叔(おじ)の彥升に門戟を賜り、本国に令して例に准じて給わせた。四年(809)、使者の金陸珍らを遣わして朝貢に来た。五年(810)、王子の金憲章が朝貢に来た。
七年重興卒立其相金彥升爲王遣使金昌南等來告哀
七年(812)、重興が卒し、その相の金彥升を立てて王に為した。使者の金昌南らを遣わして、哀を告げに来た。
其年七月授彥升開府儀同三司檢校太尉持節大都督雞林州諸軍事兼持節充海軍使上柱國新羅國王
その年の七月、彦升に開府儀同三司、検校太尉、持節大都督雞林州諸軍事,兼持節充海軍使、上柱国、新羅国王を授けた。
彥升妻貞氏冊爲妃仍賜其宰相金崇斌等三人戟亦令本國准例給
彦升の妻の貞氏は冊して妃と為した。仍(かさねて)、その宰相の金崇斌ら三人に戟を賜り、亦、本国に令して例に准じて給わせた。
兼命職方員外郎攝御史中丞崔廷侍節弔祭冊立以其質子金士信副之
兼命職方員外郎、摂御史中丞崔廷に節を侍して弔祭、冊立させ、その質子の金士信を以てこれに副(つきそう)させた。
十一年十一月其入朝王子金士信等遇惡風飄至楚州鹽城縣界淮南節度使李鄘以聞
十一年(816)、十一月、その入朝に、王子金士信らが悪風に遇(あ)い飄(ただよう)し、楚州塩城縣界に至った。淮南節度使李鄘が聞(もうしあげる)くを以てした。
是歲新羅饑其衆一百七十人求食於浙東十五年十一月遣使朝貢
この歳、新羅は饑(穀物がみのらない)で、その衆の一百七十人が浙東に食を求めた。十五年(820)十一月、使者を遣わして朝貢した。
長慶二年十二月,遣使金柱弼朝貢。寶曆元年,其王子金來朝。太和元年四月,皆遣使朝貢。
長慶二年(822)十二月、使者の金柱弼を遣わして朝貢した。宝暦元年(825)、その王子の金が来朝した。太和元年(827)四月、皆(みな)使者を遣わして朝貢した。
五年金彥升卒以嗣子金景徽爲開府儀同三司檢校太尉使侍節大都督雞林州諸軍事兼持節充海軍使新羅王
五年(831)、金彦升が卒し、嗣子の金景徽を以て、開府儀同三司、検校太尉、使侍節大都督雞林州諸軍事,兼持節充海軍使、新羅王と為した。
景徽母樸氏爲太妃妻朴氏爲妃命太子左諭兼御史中丞源寂持節弔祭冊立開成元年王子金義來謝恩兼宿衛
景徽の母の樸氏は太妃と為し、妻の朴氏は后と為した。太子左諭兼御史中丞源寂に命じて節を持って弔祭(金彦升の弔祭)、冊立(金景徽の冊立)をさせた。開成元年(836)、王子の金義が謝恩に来て、宿衛を兼ねた。
二年四月放還籓賜物遣之五年四月鴻臚寺奏新羅國告哀質子及年滿合歸國學生等共一百五人並放還
二年(837)四月、藩に放還させ、物を賜りこれを遣わした。五年(840)四月、鴻臚寺が新羅国が哀(喪)を告げたと奏(上に申し上げる)した。質子及び年が満ちて帰国に合(かなう)する学生ら共に一百五人を並びに放還した。
會昌元年七月敕歸國新羅官前入新羅宣慰副使前充兗州都督府司馬賜緋魚袋金雲卿可淄州長史
会昌元年(841)七月、勅(みことのり)し、新羅官の前入新羅宣慰副使、前充兗州都督府司馬を帰国させ緋魚袋、金雲卿、可淄州長史を賜った。
今日で、旧唐書 新羅伝は終わりです。明日からは旧唐書 倭国、日本伝に入ります。