魏延興二年其王余慶始遣其冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯長史余禮龍驤將軍帶方太守司馬張茂等上表自通
魏延興二年(472)、その王の余慶は、その冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯長史余礼、龍驤将軍帯方太守司馬張茂らを遣わして上表し自ら通じることを始めた。
云臣與高麗源出夫餘先世之時篤崇舊款
云う、「わたしは高麗と源は夫余(ピョンヤン?音より)を出で、先世(はじめの頃の世)の時は、旧款(以前のまごころ)を篤崇(重んじる)していました。
其祖輕廢鄰好陵踐臣境
その祖の(高句麗故国原王)は、隣好を軽廃(軽んじて廃する)し、わたしの国境地帯を陵踐(侵しふみつける)しました。
臣祖須整旅電邁梟斬首
わたしの祖の須(百済近仇首王)が旅(軍隊)を整え、電邁(非常に速く行く)し、(高句麗故国原王)の首を削斬(そぎきる 梟(シアオ)=削(シアオ)?)しました。
自爾以來莫敢南顧
爾(これ)より以来、敢えて南(百済方面)に顧みることはありませんでした。
自馮氏數終餘燼奔竄丑類漸盛遂見陵逼構怨連禍三十餘載
馮氏が(後燕慕容氏を)簒襲(臣下が君主の位を奪い取ってうけつぐ 数(スウ)=簒(サン)? 終(シュウ)=襲(シュウ)?)してより、余燼((慕容氏に征伐された高句麗の)生き残り)が奔竄(走りのがれる)し、醜類(悪人の仲間(高句麗のこと)丑(チョウ)=醜(チョウ)?)は漸(しだいに)に盛んになり、遂に(百済に)陵逼(せまる)を見て、怨みを構え禍(わざわい)を連ねること三十余年。
魏延興二年(472)、その王の余慶は、その冠軍將軍駙馬都尉弗斯侯長史余礼、龍驤将軍帯方太守司馬張茂らを遣わして上表し自ら通じることを始めた。
云臣與高麗源出夫餘先世之時篤崇舊款
云う、「わたしは高麗と源は夫余(ピョンヤン?音より)を出で、先世(はじめの頃の世)の時は、旧款(以前のまごころ)を篤崇(重んじる)していました。
其祖輕廢鄰好陵踐臣境
その祖の(高句麗故国原王)は、隣好を軽廃(軽んじて廃する)し、わたしの国境地帯を陵踐(侵しふみつける)しました。
臣祖須整旅電邁梟斬首
わたしの祖の須(百済近仇首王)が旅(軍隊)を整え、電邁(非常に速く行く)し、(高句麗故国原王)の首を削斬(そぎきる 梟(シアオ)=削(シアオ)?)しました。
自爾以來莫敢南顧
爾(これ)より以来、敢えて南(百済方面)に顧みることはありませんでした。
自馮氏數終餘燼奔竄丑類漸盛遂見陵逼構怨連禍三十餘載
馮氏が(後燕慕容氏を)簒襲(臣下が君主の位を奪い取ってうけつぐ 数(スウ)=簒(サン)? 終(シュウ)=襲(シュウ)?)してより、余燼((慕容氏に征伐された高句麗の)生き残り)が奔竄(走りのがれる)し、醜類(悪人の仲間(高句麗のこと)丑(チョウ)=醜(チョウ)?)は漸(しだいに)に盛んになり、遂に(百済に)陵逼(せまる)を見て、怨みを構え禍(わざわい)を連ねること三十余年。