二十四年春八部大人共議立比為呼韓邪單于以其大父嘗依漢得安故欲襲其號於是款五原塞願永為蕃蔽扞禦北虜
二十四年(48)春、八部の大人は共に議して比を立て、呼韓邪單于と為した。その大父(祖父)が嘗て漢に依りて安を得たのを以て、故(ゆえ)にその号を襲(つぐ)することを欲した。ここに於いて、五原塞に款(いたる)し、永く蕃蔽と為って、北虜を扞禦(ふせぐ)することを願った。
帝用五官中郎將耿國議乃許之其冬比自立為呼韓邪單于
帝は五官中郎将耿国を用いて議し、そこでこれを許(ききいれる)した。その冬、比は自ら立って呼韓邪單于と為った。
二十五年春遣弟左賢王莫將兵萬餘人擊北單于弟薁鞬左賢王生獲之又破北單于帳下并得其眾合萬餘人馬七千匹牛羊萬頭
二十五年(49)春、弟の左賢王莫を遣わし、兵万余人をひきいさせて、北單于の弟の薁鞬左賢王を撃ち、これを生獲(いけどり)にした。又、北單于帳下を破り、併せて、その衆を得て、万余人、馬七千匹、牛羊万頭を合わせた。
北單于震怖卻地千里初帝造戰車可駕數牛上作樓櫓置於塞上以拒匈奴
北單于は震怖して、地を一千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂靴拭初(以前)、帝は戦車を造り、数牛を駕(つける)することができ、上に楼櫓(やぐら)を作り、塞の上に置いて、匈奴を拒むを以てした。
時人見者或相謂曰讖言漢九世當卻北狄地千里豈謂此邪及是果拓地焉
時に、人の見た者は、或いは互いに謂った、曰く、「讖(予言)して言う、漢は九世(武帝の後の九世の後漢光武帝)で、当に北狄の地を千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂気擦襪世蹐Α△函l院覆△法法∈,譴魄發Δ里世蹐Δ?」と。是に及んで、果たして地を拓(おしひろげる)したのである。
北部薁鞬骨都侯與右骨都侯率眾三萬餘人來歸南單于南單于復遣使詣闕奉藩稱臣獻國珍寶求使者監護遣侍子修舊約
北部薁鞬骨都侯は右骨都侯と衆三万余人を率いて、南單于に来帰した。南單于は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせ、藩を奉り臣を称した。国の珍宝を献じ、使者の監護を求め、侍子を遣わし、旧約を修めた。
二十四年(48)春、八部の大人は共に議して比を立て、呼韓邪單于と為した。その大父(祖父)が嘗て漢に依りて安を得たのを以て、故(ゆえ)にその号を襲(つぐ)することを欲した。ここに於いて、五原塞に款(いたる)し、永く蕃蔽と為って、北虜を扞禦(ふせぐ)することを願った。
帝用五官中郎將耿國議乃許之其冬比自立為呼韓邪單于
帝は五官中郎将耿国を用いて議し、そこでこれを許(ききいれる)した。その冬、比は自ら立って呼韓邪單于と為った。
二十五年春遣弟左賢王莫將兵萬餘人擊北單于弟薁鞬左賢王生獲之又破北單于帳下并得其眾合萬餘人馬七千匹牛羊萬頭
二十五年(49)春、弟の左賢王莫を遣わし、兵万余人をひきいさせて、北單于の弟の薁鞬左賢王を撃ち、これを生獲(いけどり)にした。又、北單于帳下を破り、併せて、その衆を得て、万余人、馬七千匹、牛羊万頭を合わせた。
北單于震怖卻地千里初帝造戰車可駕數牛上作樓櫓置於塞上以拒匈奴
北單于は震怖して、地を一千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂靴拭初(以前)、帝は戦車を造り、数牛を駕(つける)することができ、上に楼櫓(やぐら)を作り、塞の上に置いて、匈奴を拒むを以てした。
時人見者或相謂曰讖言漢九世當卻北狄地千里豈謂此邪及是果拓地焉
時に、人の見た者は、或いは互いに謂った、曰く、「讖(予言)して言う、漢は九世(武帝の後の九世の後漢光武帝)で、当に北狄の地を千里(一里150m換算で約150辧紡犁僂気擦襪世蹐Α△函l院覆△法法∈,譴魄發Δ里世蹐Δ?」と。是に及んで、果たして地を拓(おしひろげる)したのである。
北部薁鞬骨都侯與右骨都侯率眾三萬餘人來歸南單于南單于復遣使詣闕奉藩稱臣獻國珍寶求使者監護遣侍子修舊約
北部薁鞬骨都侯は右骨都侯と衆三万余人を率いて、南單于に来帰した。南單于は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせ、藩を奉り臣を称した。国の珍宝を献じ、使者の監護を求め、侍子を遣わし、旧約を修めた。