比見知牙師被誅出怨言曰以兄弟言之右谷蠡王次當立以子言之我前單于長子我當立
比は知牙師が誅を被ったことを見て、怨言を出して、曰く、「兄弟を以てこれを言えば、右谷蠡王が次に立つに当たるが、子を以てこれを言えば、我は前の單于の長子で、我が立つに当たる」と。
遂內懷猜懼庭會稀闊單于疑之乃遣兩骨都侯監領比所部兵
遂に内に猜懼を懐き、庭会は稀闊(めったにない)した。單于はこれを疑い、そこで、両骨都侯を遣わし比が部する所の兵を監領させた。
二十二年單于輿死子左賢王烏達鞮侯立為單于復死弟左賢王蒲奴立為單于
二十二年(46)、單于輿が死に、子の左賢王烏達鞮侯が立って單于と為った。復(また)死に、弟の左賢王蒲奴が立って單于と為った。
比不得立既懷憤恨而匈奴中連年旱蝗赤地數千里草木盡枯人畜飢疫死耗太半單于畏漢乘其敝乃遣使詣漁陽求和親
比は立つことを得ず、既に憤恨を懐いた。而して、匈奴中が連年、旱蝗し、赤はだかになった土地が数千里(一里150m換算で約750辧腺坑娃悪辧法∩靆擇録圓枯れ、人畜は飢疫し、死耗は大半であった。單于は漢がその敝に乗じることを畏れた。そこで、使者を遣わして、漁陽に詣でさせ、和親を求めた。
於是遣中郎將李茂報命而比密遣漢人郭衡奉匈奴地圖
ここに於いて、中郎将李茂を遣わして命に報いさせた。而して、比は密かに漢人の郭衡を遣わして、匈奴の地図を奉らせた。
二十三年詣西河太守求內附兩骨都侯頗覺其意會五月龍祠因白單于言薁鞬日遂夙來欲為不善若不誅且亂國
二十三年(47)、西河太守を詣でて、内附を求めた。両骨都侯はその意を頗る覚え、五月の龍祠に会し、因りて單于に白(もうす)した、言う、薁鞬日遂は夙来(むかしから)、不善を為すを欲していた。若し、誅さなければ、且(まさに)国を乱さんとするだろう、と。
時比弟漸將王在單于帳下聞之馳以報比比懼遂斂所主南邊八部眾四五萬人待兩骨都侯還欲殺之
時に比の弟の漸將王は單于の帳の下に在り、これを聞いて、馳せて比に報告するを以てした。比は懼れ、遂に主する所の南辺八部の衆四、五万人を斂(あつめる)し、兩骨都侯が還るのを待って、これを殺すことを欲した。
骨都侯且到知其謀皆輕騎亡去以告單于單于遣萬騎擊之見比眾盛不敢進而還
骨都侯が且(まさに)到らんとすると、その謀を知り、皆、軽騎で亡去し、單于に告げるを以てした。單于は万騎を遣わしこれを撃たせた。比の衆が盛んなのを見て、敢えて進まずして還った。
比は知牙師が誅を被ったことを見て、怨言を出して、曰く、「兄弟を以てこれを言えば、右谷蠡王が次に立つに当たるが、子を以てこれを言えば、我は前の單于の長子で、我が立つに当たる」と。
遂內懷猜懼庭會稀闊單于疑之乃遣兩骨都侯監領比所部兵
遂に内に猜懼を懐き、庭会は稀闊(めったにない)した。單于はこれを疑い、そこで、両骨都侯を遣わし比が部する所の兵を監領させた。
二十二年單于輿死子左賢王烏達鞮侯立為單于復死弟左賢王蒲奴立為單于
二十二年(46)、單于輿が死に、子の左賢王烏達鞮侯が立って單于と為った。復(また)死に、弟の左賢王蒲奴が立って單于と為った。
比不得立既懷憤恨而匈奴中連年旱蝗赤地數千里草木盡枯人畜飢疫死耗太半單于畏漢乘其敝乃遣使詣漁陽求和親
比は立つことを得ず、既に憤恨を懐いた。而して、匈奴中が連年、旱蝗し、赤はだかになった土地が数千里(一里150m換算で約750辧腺坑娃悪辧法∩靆擇録圓枯れ、人畜は飢疫し、死耗は大半であった。單于は漢がその敝に乗じることを畏れた。そこで、使者を遣わして、漁陽に詣でさせ、和親を求めた。
於是遣中郎將李茂報命而比密遣漢人郭衡奉匈奴地圖
ここに於いて、中郎将李茂を遣わして命に報いさせた。而して、比は密かに漢人の郭衡を遣わして、匈奴の地図を奉らせた。
二十三年詣西河太守求內附兩骨都侯頗覺其意會五月龍祠因白單于言薁鞬日遂夙來欲為不善若不誅且亂國
二十三年(47)、西河太守を詣でて、内附を求めた。両骨都侯はその意を頗る覚え、五月の龍祠に会し、因りて單于に白(もうす)した、言う、薁鞬日遂は夙来(むかしから)、不善を為すを欲していた。若し、誅さなければ、且(まさに)国を乱さんとするだろう、と。
時比弟漸將王在單于帳下聞之馳以報比比懼遂斂所主南邊八部眾四五萬人待兩骨都侯還欲殺之
時に比の弟の漸將王は單于の帳の下に在り、これを聞いて、馳せて比に報告するを以てした。比は懼れ、遂に主する所の南辺八部の衆四、五万人を斂(あつめる)し、兩骨都侯が還るのを待って、これを殺すことを欲した。
骨都侯且到知其謀皆輕騎亡去以告單于單于遣萬騎擊之見比眾盛不敢進而還
骨都侯が且(まさに)到らんとすると、その謀を知り、皆、軽騎で亡去し、單于に告げるを以てした。單于は万騎を遣わしこれを撃たせた。比の衆が盛んなのを見て、敢えて進まずして還った。