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順帝永建元年秋

順帝永建元年秋鮮卑其至鞬寇代郡太守李超戰死 後漢順帝永建元年(126)秋、鮮卑の其至鞬が代郡を寇した。太守李超が戦死した。 明年春中郎將張國遣從事將南單于兵步騎萬餘人出塞擊破之獲其資重二千餘種 明くる年(127)春、中郎将張国が従事を遣わして、南単于の兵を将(ひきいる)して歩騎一万余人が塞を出て、これを撃破した。その資重二千余種を獲った。...

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陽嘉元年冬

陽嘉元年冬耿曄遣烏桓親漢都尉戎朱廆率眾王侯咄歸等出塞抄擊鮮卑大斬獲而還賜咄歸等已下為率眾王侯長賜綵各有差 陽嘉元年(132)冬、耿曄は烏桓親漢都尉戎朱廆率衆王、率衆侯咄帰らを遣わし塞を出て鮮卑を抄擊した。大いに斬獲して還った。咄帰以下に賜り、率衆王、率衆侯、率衆長を賜り、綵を賜ること各(おのおの)差が有り。 鮮卑後寇遼東屬國於是耿曄乃移屯遼東無慮城拒之...

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桓帝時鮮卑檀石槐者

桓帝時鮮卑檀石槐者其父投鹿侯初從匈奴軍三年其妻在家生子 後漢桓帝(在位146~168)時、鮮卑檀石槐という者は、その父は投鹿侯で、初めて匈奴軍に従うこと三年、その妻は家に在り、子を生んだ。 投鹿侯歸怪欲殺之妻言嘗晝行聞雷震仰天視而雹入其口因吞之遂妊身十月而產此子必有奇異且宜長視...

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永壽二年秋

永壽二年秋檀石槐遂將三四千騎寇雲中 永寿二年(156)秋、檀石槐は遂にに三、四千騎をひきいて雲中を寇した。 延熹元年鮮卑寇北邊冬使匈奴中郎將張奐率南單于出塞擊之斬首二百級 延熹元年(158)、鮮卑は北辺を寇した。冬、匈奴中郎将張奐をつかわし、南単于を率いて、塞を出てこれを撃った。斬首二百級。 二年復入鴈門殺數百人大抄掠而去 二年(159)、また鴈門に入り、数百人を殺し、大抄掠して去った。...

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靈帝立幽并涼三州緣邊諸郡

靈帝立幽并涼三州緣邊諸郡無歲不被鮮卑寇抄殺略不可勝數 後漢霊帝(在位168~189)が立ち、幽、并、涼の三州の縁辺諸郡は歳に鮮卑の寇抄を被らずは無かった。殺略はすべて数え上げることができない。 熹平三年冬鮮卑入北地太守夏育率休著屠各追擊破之遷育為護烏桓校尉 熹平三年(174)冬、鮮卑が北地に入った。太守夏育は休著屠各を率いて、これを追って撃破した。夏育を遷して護烏桓校尉と為した。 五年鮮卑寇幽州...

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武帝情存遠略

武帝情存遠略志闢四方南誅百越北討強胡西伐大宛東并朝鮮 漢武帝の情は遠略に存(ある)し、四方を闢(ひろげる)することを志し、南に百越を誅し、北に強胡を討ち、西に大宛を伐し、東に朝鮮を併せた。 因文景之蓄藉天下之饒數十年官民俱匱 文帝、景帝の天下の饒を蓄積(籍(せき)=積(セキ)?)すること数十年間に因り、官民は俱(とも)に匱(とぼしい)した。...

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自匈奴遁逃鮮卑強盛

自匈奴遁逃鮮卑強盛據其故地稱兵十萬才力勁健意智益生 匈奴が遁逃してより、鮮卑は強盛になり、その故地に拠った。勝兵十万(称(ショウ)=勝(ショウ)?)、才力は勁健、意智は益生。 加以關塞不嚴禁網多漏精金良鐵皆為賊有漢人逋逃為之謀主兵利馬疾過於匈奴...

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昔高祖忍平城之恥

昔高祖忍平城之恥呂后棄慢書之詬方之於今何者為甚 昔、高祖は平城の恥を忍び、呂后は慢書の詬(はずかしめ)を棄て、まさにこれ、今より、何が甚だしいと為すか? 天設山河秦築長城漢起塞垣所以別內外異殊俗也苟無䠞國內侮之患則可矣豈與蟲螘校寇計爭往來哉雖或破之豈可殄盡而方今本朝為之旰食乎...

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而欲以齊民易醜虜

而欲以齊民易醜虜皇威辱外夷就如其言猶已危矣況乎得失不可量邪 斉民(庶民)を以て醜虜(鮮卑)を易(あらためさせる)し、皇威が外夷を辱めることを欲して、その言葉の如く就(おもむく)けば、猶(なお)已危(非常に危うい)で、況(ま)してや、得失は量ることができないのだ。 昔珠崖郡反孝元皇帝納賈捐之言而下詔曰珠崖背畔今議者或曰可討或曰棄之...

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帝不從遂遣夏育出高柳

帝不從遂遣夏育出高柳田晏出雲中匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門各將萬騎三道出塞二千餘里 帝は従わず。遂に夏育を遣わして、高柳に出でて、田晏は雲中に出でて、匈奴中郎将臧旻は南単于を率いて鴈門を出で、おのおの万騎をひきいて、三つの道は塞を出ること二千余里(一里150m換算で約300辧法 檀石槐命三部大人各帥眾逆戰育等大敗喪其節傳輜重各將數十騎奔還死者十七八...

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光和中

光和中檀石槐死時年四十五子和連代立 光和(178~184)の中頃、檀石槐が死んだ。時に年四十五、子の和連が代わって立った。 和連才力不及父亦數為寇抄性貪淫斷法不平眾畔者半 和連の才力は父に及ばす、亦、数(たびたび)、寇抄を為した。性質は貪淫で、法を不平に断じ、衆の畔(そむく)する者は半分。 後出攻北地廉人善弩射者射中和連即死其子騫曼年小兄子魁頭立...

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後漢書 南匈奴列伝 始め

南匈奴虾落尸逐鞮單于比者呼韓邪單于之孫烏珠留若鞮單于之子也 南匈奴虾落尸逐鞮單于比とは、呼韓邪單于の孫で、烏珠留若鞮單于の子である。 自呼韓邪後諸子以次立至比季父孝單于輿時以比為右薁鞬日逐王部領南邊及烏桓 呼韓邪の後より、諸子が次々に立つを以てし、比の季父の孝單于輿の時に至り、比を以て右薁鞬日逐王と為し、南辺及び鳥桓を部領した。 建武初彭寵反畔於漁陽單于與共連兵因復權立盧芳使入居五原...

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十三年遂寇河東

十三年遂寇河東州郡不能禁於是漸徙幽并邊人於常山關居庸關已東匈奴左部遂復轉居塞內 十三年(37)、遂に河東を寇したが、州郡は禁ずることができなかった。ここに於いて漸(次第に)幽、并の辺人を常山関、居庸関以東に徙(移る)し、匈奴左部は遂に復、塞内に転居した。 朝廷患之緣邊兵郡數千人大築亭候修烽火匈奴聞漢購求盧芳貪得財帛乃遣芳還降望得其賞...

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初單于弟右谷蠡王伊屠知牙師

初單于弟右谷蠡王伊屠知牙師以次當左賢王左賢王即是單于儲副 初(以前)、單于の弟の右谷蠡王伊屠知牙師は、次に左賢王に当たるを以てした。左賢王は即ち、是れ、單于の儲副(君位の継承者)である。 單于欲傳其子遂殺知牙師知牙師者王昭君之子也昭君字嬙,南郡人 單于はその子に伝することを欲し、遂に知牙師を殺した。知牙師とは、王昭君の子であり、昭君の字は嬙は、南郡人である。...

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比見知牙師被誅

比見知牙師被誅出怨言曰以兄弟言之右谷蠡王次當立以子言之我前單于長子我當立 比は知牙師が誅を被ったことを見て、怨言を出して、曰く、「兄弟を以てこれを言えば、右谷蠡王が次に立つに当たるが、子を以てこれを言えば、我は前の單于の長子で、我が立つに当たる」と。 遂內懷猜懼庭會稀闊單于疑之乃遣兩骨都侯監領比所部兵...

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二十四年春八部大人共議

二十四年春八部大人共議立比為呼韓邪單于以其大父嘗依漢得安故欲襲其號於是款五原塞願永為蕃蔽扞禦北虜 二十四年(48)春、八部の大人は共に議して比を立て、呼韓邪單于と為した。その大父(祖父)が嘗て漢に依りて安を得たのを以て、故(ゆえ)にその号を襲(つぐ)することを欲した。ここに於いて、五原塞に款(いたる)し、永く蕃蔽と為って、北虜を扞禦(ふせぐ)することを願った。...

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二十六年遣中郎將段郴

二十六年遣中郎將段郴副校尉王郁使南單于立其庭去五原西部塞八十里 二十六年(50)、中郎將段郴、副校尉王郁を遣わして南單于に使いさせた。その庭を立てるは、去ること五原西部塞八十里(一里150m換算で約12辧法 單于乃延迎使者使者曰單于當伏拜受詔單于顧望有頃乃伏稱臣...

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詔賜單于冠帶

詔賜單于冠帶衣裳黃金璽盭緺綬安車羽蓋華藻駕駟寶劍弓箭節三駙馬二黃金錦繡布萬匹絮萬斤樂器鼓車棨戟甲兵飲食什器 詔して単于に、冠帯、衣裳、黄金璽、盭緺綬、安車羽蓋、華藻駕駟、宝剣弓箭、黒節三、駙馬二、黄金、錦繡、布万匹、絮万斤、楽器鼓車、棨戟甲兵、飲食什器を賜った。 又轉河東米糒二萬五千斛牛羊三萬六千頭以贍給之...

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匈奴俗

匈奴俗歲有三龍祠常以正月五月九月戊日祭天神 匈奴の俗は、歳に三龍祠が有り、常に正月、五月、九月の戊日を以て天神を祭る。 南單于既內附兼祠漢帝因會諸部議國事走馬及駱锓為樂 南単于が既に内附してから、漢帝を兼祠(かねてまつる)する。諸部を会するに因りて、国事を議し、馬及び駱锓(ラクダ)を走らせて、楽を為す。...

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冬前畔五骨都侯子

冬前畔五骨都侯子復將其眾三千人歸南部北單于使騎追擊悉獲其眾 冬、前に畔(そむく)した、五つの骨都侯の子が復(また)、その衆三千人を将(ひきいる)して南部に帰り、北単于は騎を遣わして追撃した。悉くその衆を獲った。 南單于遣兵拒之逆戰不利於是復詔單于徙居西河美稷因使中郎將段郴及副校尉王郁留西河擁護之為設官府從事掾史...

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