南單于既居西河
南單于既居西河亦列置諸部王助為扞戍 南単于が既に西河に居してから、亦、諸部王を列置して、扞戍の為に助けさせた。 使韓氏骨都侯屯北地右賢王屯朔方當于骨都侯屯五原呼衍骨都侯屯雲中郎氏骨都侯屯定襄左南將軍屯鴈門栗籍骨都侯屯代郡皆領部眾為郡縣偵羅耳目...
View Article二十八年北匈奴
二十八年北匈奴復遣使詣闕貢馬及裘更乞和親并請音樂又求率西域諸國胡客與俱獻見 二十八年(52)、北匈奴は復(また)、使者を遣わして闕に詣でさせた。馬及び裘を貢いだ。更に和親を請うて、併せて音楽を請うた。又、西域諸国の胡客を率いて俱(とも)に献見することを求めた。 帝下三府議酬荅之宜司徒掾班彪奏曰 帝は三府に酬答(うけこたえする)の宜(むべ)を議することを下した。司徒掾班彪が奏でて曰く、...
View Article今南單于攜眾南向
今南單于攜眾南向款塞歸命自以呼韓嫡長次第當立而侵奪失職猜疑相背數請兵將歸埽北庭策謀紛紜無所不至 今、南単于は衆を携えて南に向かい、塞に款(いたる)して帰命した。自ら呼韓の嫡長を以て、次第(順序)は立つに当たり、しこうして、侵奪して職を失ってより、猜疑して相背き、数(たびたび)、兵を請う。将に北庭(北匈奴)を帰掃せんとして、策謀は紛紜(みだれる)し、至(試みる 至(シ)=試(シ)?)さない所は無し。...
View Article帝悉納從之
帝悉納從之 帝は尽くこれに納従した。 二十九年賜南單于羊數萬頭 二十九年(53)、南単于に羊数万頭を賜った。 三十一年北匈奴復遣使如前乃璽書報荅賜以綵不遣使者 三十一年(55)、北匈奴は復(また)、使者を遣わして前の如くした。乃(そこで)、璽書報荅し、賜るに綵を以てし、使者は遣わさず。 單于比立九年薨中郎將段郴將兵赴弔祭以酒米分兵衛護之...
View Article虾僮尸逐侯鞮單于適永平二年立
虾僮尸逐侯鞮單于適永平二年立虾僮尸逐侯鞮單于適が、永平二年(59)に立った。 五年冬北匈奴六七千騎入于五原塞遂寇雲中至原陽南單于擊卻之西河長史馬襄赴救虜乃引去 五年(62)冬、北匈奴の六、七騎が五原塞に入った。遂に雲中を冦し、原陽に至る。南単于がこれを撃却した。西河長史馬襄が救援に赴き、虜(敵)は乃ち引き去った。 單于適立四年薨單于莫子蘇立是為丘除車林鞮單于數月復薨單于適之弟長立...
View Article八年遣越騎司馬鄭眾北使
八年遣越騎司馬鄭眾北使報命而南部須卜骨都侯等知漢與北虜交使懷嫌怨欲畔密因北使令遣兵迎之 八年(65)、越騎司馬鄭衆北使を遣わし命を報告させた。而して南部須卜骨都侯らが漢が北虜(北匈奴)と使いを交えたことを知った。嫌怨を懐き、畔(そむく)を欲した。密(ひそかに)北使に因りて、令して兵を遣わしてこれを迎えさせた。 鄭眾出塞疑有異伺候果得須卜使人乃上言宜更置大將以防二虜交通...
View Article十六年乃大發緣邊兵
十六年乃大發緣邊兵遣諸將四道出塞北征匈奴 十六年(73)、乃(そこで)、大いに縁辺兵を発して、諸将を遣わして四道に塞を出て、北へ匈奴を征させた。 南單于遣左賢王信隨太僕祭肜及吳棠出朔方高闕攻皋林溫禺犢王於涿邪山 南単于は左賢王信を遣わし太僕祭肜及び吳棠に随させ、朔方高闕に出でて、皋林溫禺犢王を涿邪山に於いて攻めさせた。 虜聞漢兵來悉度漠去肜棠坐不至涿邪山免以騎都尉來苗行度遼將軍...
View Article建初元年
建初元年來苗遷濟陰太守以征西大將軍耿秉行度遼將軍 建初元年(76)、来苗は済陰太守に遷り、征西大将軍耿秉を以て度遼将軍を行った。 時皋林溫禺犢王復將眾還居涿邪山南單于聞知遣輕騎與緣邊郡及烏桓兵出塞擊之斬首數百級降者三四千人...
View Article元和元年
元和元年武威太守孟雲上言北單于復願與吏人合市詔書聽雲遣驛使迎呼慰納之 元和元年(84)、武威太守孟雲は上言した、北単于が復(また)、吏人と市を合わせることを願ったと。詔書は孟雲を聴き入れて、訳使を遣わせて迎呼(むかえる)し、之を慰納した。 北單于乃遣大且渠伊莫訾王等驅牛馬萬餘頭來與漢賈客交易諸王大人或前至所在郡縣為設官邸賞賜待遇之...
View Article伊屠於閭鞮單于宣元和二年
伊屠於閭鞮單于宣元和二年立其歲單于遣兵千餘人獵至涿邪山卒與北虜溫禺犢王遇因戰獲其首級而還 伊屠於閭鞮單于宣が元和二年(85)に立った。その歳、単于は兵千余人を遣わし猟して涿邪山に至った。卒と北虜(北匈奴)の溫禺犢王が遇(であう)し、因りて戦い、その首級を獲って還った。 冬孟雲上言北虜以前既和親而南部復往鈔掠北單于謂漢欺之謀欲犯塞謂宜還南所掠生口以慰安其意...
View Article章和元年
章和元年鮮卑入左地擊北匈奴大破之斬優留單于取其匈奴皮而還 章和元年(87)、鮮卑が左地に入って北匈奴を撃ち、之を大破した。優留単于を斬り、その匈奴の皮(毛皮)を取って還った。 北庭大亂屈蘭儲卑胡都須等五十八部口二十萬勝兵八千人詣雲中五原朔方北地降 北庭(北匈奴)は大いに乱れ、屈蘭、儲卑、胡都須ら五十八部、人口二十万、勝兵八千人が雲中、五原、朔方、北地を詣で降伏した。 單于宣立三年薨單于長之弟屯屠何立...
View Article臣與諸王骨都侯
臣與諸王骨都侯及新降渠帥雜議方略皆曰宜及北虜分爭出兵討伐破北成南并為一國令漢家長無北念 臣(わたし)は諸王、骨都侯及び新たに降った渠帥と方略を雑議し、皆、曰く、宜しく北虜(北匈奴)の分争に及んで、兵を出して討伐し、北成南を破って併せて一国を為(つくる)し、漢家の長に北の念(おもい)を無くさせるべきであると。 又今月八日新降右須日逐鮮堂輕從虜庭遠來詣臣言北虜諸部多欲內顧但恥自發遣故未有至者...
View Article秉上言
秉上言昔武帝單極天下欲臣虜匈奴未遇天時事遂無成 耿秉は上言した、「昔、武帝が天下を単極(一つにきわめる)し、匈奴を臣虜(家来)にすることを欲したが、未だ天時に遇(あ)わず、事は遂に成されなかった。 宣帝之世會呼韓來降故邊人獲安中外為一生人休息六十餘年 宣帝(在位前74~前48)の世に、会(ちょうど)、呼韓が来降した。故(ゆえ)に辺人は安寧を獲り、中も外も一つに為った。人に休息を生み六十余年。...
View Article二年春鴻
二年春鴻遷大鴻臚以定襄太守皇甫棱行度遼將軍 二年(90)春、鴻は大鴻臚に遷り、定襄太守皇甫棱を以て度遼将軍を行った。 南單于復上求滅北庭於是遣左谷蠡王師子等將左右部八千騎出雞鹿塞中郎將耿譚遣從事將護之...
View Article三年北單于復
三年北單于復為右校尉耿夔所破逃亡不知所在 三年(91)、北単于が復(また)、右校尉耿夔の破る所と為った。逃亡して在る所は知れず。 其弟右谷蠡王於除鞬自立為單于將右溫禺鞬王骨都侯已下眾數千人止蒲類海遣使款塞 其の弟の右谷蠡王於除鞬が自ら立って単于に為った。右溫禺鞬王、骨都侯以下衆数千人を将(ひきいる)して、蒲類海に止まり、使者を遣わして塞に款(いたる)した。 大將軍竇憲上書立於除鞬為北單于朝廷從之...
View Article單于屯屠何
單于屯屠何立六年薨單于宣弟安國立 単于屯屠何が立って六年で薨し、単于宣の弟の安国が立った。 單于安國永元五年立安國初為左賢王而無稱譽 単于安国は、永元五年(93)に立った。安国は初(以前)、左賢応と為ったが称誉(ほまれをあげる)することは無かった。 左谷蠡王師子素勇黠多知前單于宣及屯屠何皆愛其氣決故數遣將兵出塞掩擊北庭還受賞賜天子亦加殊異...
View Article六年春
六年春皇甫棱免以執金吾朱徽行度遼將軍 六年(94)春、皇甫棱が免ぜられ、執金吾朱徽を以て度遼将軍を行った。 時單于與中郎將杜崇不相平迺上書告崇崇諷西河太守令斷單于章無由自聞 時に単于は中郎将杜崇と不相平(仲たがい)で、迺(そこで)、上書して杜崇を告(うったえる)した。杜崇は西河太守に諷(いさめる)して単于の文章を断(断ち切る)たせ、自ら聞くことに由(関係する)しないようにした。...
View Article安國立一年
安國立一年單于適之子師子立 安国が立って一年で、単于適の子の師子が立った。 亭獨尸逐侯鞮單于師子永元六年立 亭独尸逐侯鞮単于師子が永元六年(94)に立った。 降胡五六百人夜襲師子安集掾王恬將衛護士與戰破之 降胡五、六百人が夜に師子を襲った。安集掾王恬が衛護士を将(ひきいる)してともに戦いこれを破った。...
View Article馮柱將虎牙營
馮柱將虎牙營留屯五原罷遣鮮卑烏桓羌胡兵封蘇拔廆為率眾王又賜金帛 馮柱は虎牙営を将(ひきいる)して五原に留屯した。罷(終わる)して鮮卑兵、烏桓兵、羌胡兵を遣(釈放する)わし、蘇拔廆に封じて率衆王と為し、又、金帛を賜った。 鴻還京師坐逗留失利下獄死後帝知朱徽杜崇失胡和又禁其上書以致反畔皆徵下獄死以鴈門太守龐奮行度遼將軍...
View Article單于師子立四年
單于師子立四年薨單于長之子檀立 単于師子は立って四年で薨して、単于長の子の檀が立った。 萬氏尸逐鞮單于檀永元十年立十二年龐奮遷河南尹以朔方太守王彪行度遼將軍 万氏尸逐鞮単于檀は、永元十年(98)に立った。十二年(100)、龐奮は河南尹に遷り、朔方太守王彪を以て度遼将軍を行った。 南單于比歲遣兵擊逢侯多所虜獲收還生口前後以千數逢侯轉困迫...
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