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Channel: 倭人伝を解く
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元和元年

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元和元年武威太守孟雲上言北單于復願與吏人合市詔書聽雲遣驛使迎呼慰納之

元和元年(84)、武威太守孟雲は上言した、北単于が復(また)、吏人と市を合わせることを願ったと。詔書は孟雲を聴き入れて、訳使を遣わせて迎呼(むかえる)し、之を慰納した。

北單于乃遣大且渠伊莫訾王等驅牛馬萬餘頭來與漢賈客交易諸王大人或前至所在郡縣為設官邸賞賜待遇之

北単于は乃(そこで)、大且渠伊莫訾王らを遣わし、牛馬万余頭を駆して来て漢の賈客と交易した。
諸王、大人は或いは前(さき)に至り、在する所の郡県は官邸を設けるを為し、之に賞賜待遇した。

南單于聞乃遣輕騎出上郡遮略生口鈔掠牛馬驅還入塞

南単于は聞き、乃(そこで)、軽騎を遣わして上郡に出でさせ、生口を遮略し、牛馬を鈔掠し、駆けて還り塞に入った。

二年正月北匈奴大人車利涿兵等亡來入塞凡七十三輩

二年(85)正月、北匈奴の大人の車利、涿兵らは亡来(逃げて来る)して塞に入ること、凡そ七十三輩。

時北虜衰耗黨眾離畔南部攻其前丁零寇其後鮮卑擊其左西域侵其右不復自立乃遠引而去

時に北虜(北匈奴)は衰耗し、党衆は離畔し、南部はその前を攻め、丁零はその後ろを冦し、鮮卑はその左(東方)を撃ち、西域はその右(西方)を侵した。自立を復さず、乃ち、遠く引いて去った。

單于長立二十三年薨單于汗之子宣立

単于長が立って二十三年で薨し、単于汗の子の宣が立った。

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