Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

伊屠於閭鞮單于宣元和二年

$
0
0
伊屠於閭鞮單于宣元和二年立其歲單于遣兵千餘人獵至涿邪山卒與北虜溫禺犢王遇因戰獲其首級而還

伊屠於閭鞮單于宣が元和二年(85)に立った。その歳、単于は兵千余人を遣わし猟して涿邪山に至った。卒と北虜(北匈奴)の溫禺犢王が遇(であう)し、因りて戦い、その首級を獲って還った。

冬孟雲上言北虜以前既和親而南部復往鈔掠北單于謂漢欺之謀欲犯塞謂宜還南所掠生口以慰安其意

冬、孟雲が上言した、「北虜(北匈奴)は前に既に和親を以てし、而して、南部が復(また)鈔掠に往った。北単于は漢がこれを欺いたと謂い、謀りて塞を犯すことを欲しています。謂った、宜しく南が掠した所の生口を還し、その意を慰安するを以てするべきです」と。

肅宗從太僕袁安議許之乃下詔曰昔獫狁獯粥之敵中國其所由來尚矣往者雖有和親之名終無絲髮之效

肅宗は太僕袁安の議に従って、これを許(ききいれる)した。乃(そこで)、詔(みことのり)を下して曰く、「昔、獫狁、獯粥の中国に敵するは、その由来する所は尚(久しい)である。往者(むかし)和親の名を有したと雖も、終(とうとう)、糸髮(ほんのわずかなこと)の効も無し。

墝埆之人屢嬰塗炭父戰於前子死於後弱女乘於亭障孤兒號於道路

墝埆(やせ地)の人は屢(しばしば)塗炭(非常な苦しみ)を嬰(こうむる)し、父は前に戦い、子は後ろに死し、弱者、女は亭障に乗(のぼる)り、孤兒は道路に於いて号(大声でなきさけぶ)した。

老母寡妻設虛祭飲泣淚想望歸魂於沙漠之表豈不哀哉

老母、寡妻は虚祭を設け、泣涙を飲んで、沙漠の表に魂を帰すことを想望(ねがう)した。豈(どうして)哀しくないだろう哉(かな)。


傳曰江海所以能長百川者以其下之也少加屈下尚何足病況今與匈奴君臣分定辭順約明貢獻累至豈宜違信自受其曲

伝は曰く、江海が、百川(多くの川)に長ずることが能(できる)する所以(ゆえん)者(とは)、其の之に下(低い)を以てするからである、と。少し屈下(へりくだる)を加えることは、尚(なお)、何(どうして)病むに足るだろうか。況や、今、匈奴と君臣の分が定まり、辞は約明(盟約)に順じ、貢献は累至(たびたび至る)し、豈(どうして)、宜しく信に違えて自らその曲(不正)を受けるべきだろうか。

其敕度遼及領中郎將龐奮倍雇南部所得生口以還北虜其南部斬首獲生計功受賞如常科

其の、度遼及び領中郎将龐奮に勅(みことのり)して、南部が得た所の生口を放許(にがしゆるす 倍(ハイ)=放(ホウ)? 雇(コ)=許(コ)?)し、北虜(北匈奴)に還すを以てせよ。その南部が斬首生け捕りしたところは、功を計り賞を常科の如く授けよ」と。


於是南單于復令薁鞮日逐王師子將輕騎數千出塞掩擊北虜復斬獲千人北虜眾以南部為漢所厚又聞取降者歲數千人

是(ここ)に於いて、南単于は復(また)、薁鞮日逐王に令して、軽騎数千を将(ひきいる)させ、塞を出でて北虜(北匈奴)を掩擊(敵を不意打ちする)させた。復(また)斬獲は千人。北虜(北匈奴)の衆は南部を以て漢の厚くする所と為(おもう)し、復、降伏を取る者は歳に数千人と聞く。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

Trending Articles