章和元年鮮卑入左地擊北匈奴大破之斬優留單于取其匈奴皮而還
章和元年(87)、鮮卑が左地に入って北匈奴を撃ち、之を大破した。優留単于を斬り、その匈奴の皮(毛皮)を取って還った。
北庭大亂屈蘭儲卑胡都須等五十八部口二十萬勝兵八千人詣雲中五原朔方北地降
北庭(北匈奴)は大いに乱れ、屈蘭、儲卑、胡都須ら五十八部、人口二十万、勝兵八千人が雲中、五原、朔方、北地を詣で降伏した。
單于宣立三年薨單于長之弟屯屠何立
単于宣が立って三年で薨し、単于長の弟の屯屠何が立った。
休蘭尸逐侯鞮單于屯屠何章和二年立時北虜大亂加以飢蝗降者前後而至
休蘭尸逐侯鞮單于屯屠何が章和二年(88)に立った。時に北虜(北匈奴)は大いに乱れ、加えて飢蝗を以てし、降伏者は前後して至った。
南單于將并北庭會肅宗崩竇太后臨朝
南単于が将(まさ)に北庭(北匈奴)を併せんとしたとき、会(ちょうど)、肅宗が崩じ、竇太后が朝廷に臨んだ。
其年七月單于上言臣累世蒙恩不可勝數孝章皇帝聖思遠慮遂欲見成就故令烏桓鮮卑討北虜斬單于首級破壞其國
其の年(88)七月、単于は上言した、「臣(わたし)は、累世(代々)恩を蒙(こうむ)り、勝(残らず)に数え上げることが不可(できない)である。孝章皇帝の聖は遠慮(とおくおもんばかる)を思い、遂に成就を見ることを欲した。故(ゆえ)に烏桓、鮮卑に令して、北虜(北匈奴)を討たせ、単于の首級を斬り、その国を破壊した。
今所新降虛渠等詣臣自言去歲三月中發虜庭北單于創刈南兵又畏丁令鮮卑遯逃遠去依安侯河西
今、新たに降伏した所の虚渠らが臣(わたし)に詣でて自ら言った、去年三月中、虜庭(北匈奴の都)を発し、北単于は南兵を創刈(傷つけきる)した。又、丁令、鮮卑を畏れ、遯逃(にげる)して遠くへ去り、安侯の河西に依った。
今年正月骨都侯等復共立單于異母兄右賢王為單于其人以兄弟爭立並各離散
今年正月、骨都侯らが復(また)、単于の異母兄の右賢王を共立して単于に為した。その人は兄弟を以て立つを争い、並(みな)各々離散した、と。
章和元年(87)、鮮卑が左地に入って北匈奴を撃ち、之を大破した。優留単于を斬り、その匈奴の皮(毛皮)を取って還った。
北庭大亂屈蘭儲卑胡都須等五十八部口二十萬勝兵八千人詣雲中五原朔方北地降
北庭(北匈奴)は大いに乱れ、屈蘭、儲卑、胡都須ら五十八部、人口二十万、勝兵八千人が雲中、五原、朔方、北地を詣で降伏した。
單于宣立三年薨單于長之弟屯屠何立
単于宣が立って三年で薨し、単于長の弟の屯屠何が立った。
休蘭尸逐侯鞮單于屯屠何章和二年立時北虜大亂加以飢蝗降者前後而至
休蘭尸逐侯鞮單于屯屠何が章和二年(88)に立った。時に北虜(北匈奴)は大いに乱れ、加えて飢蝗を以てし、降伏者は前後して至った。
南單于將并北庭會肅宗崩竇太后臨朝
南単于が将(まさ)に北庭(北匈奴)を併せんとしたとき、会(ちょうど)、肅宗が崩じ、竇太后が朝廷に臨んだ。
其年七月單于上言臣累世蒙恩不可勝數孝章皇帝聖思遠慮遂欲見成就故令烏桓鮮卑討北虜斬單于首級破壞其國
其の年(88)七月、単于は上言した、「臣(わたし)は、累世(代々)恩を蒙(こうむ)り、勝(残らず)に数え上げることが不可(できない)である。孝章皇帝の聖は遠慮(とおくおもんばかる)を思い、遂に成就を見ることを欲した。故(ゆえ)に烏桓、鮮卑に令して、北虜(北匈奴)を討たせ、単于の首級を斬り、その国を破壊した。
今所新降虛渠等詣臣自言去歲三月中發虜庭北單于創刈南兵又畏丁令鮮卑遯逃遠去依安侯河西
今、新たに降伏した所の虚渠らが臣(わたし)に詣でて自ら言った、去年三月中、虜庭(北匈奴の都)を発し、北単于は南兵を創刈(傷つけきる)した。又、丁令、鮮卑を畏れ、遯逃(にげる)して遠くへ去り、安侯の河西に依った。
今年正月骨都侯等復共立單于異母兄右賢王為單于其人以兄弟爭立並各離散
今年正月、骨都侯らが復(また)、単于の異母兄の右賢王を共立して単于に為した。その人は兄弟を以て立つを争い、並(みな)各々離散した、と。