建初元年來苗遷濟陰太守以征西大將軍耿秉行度遼將軍
建初元年(76)、来苗は済陰太守に遷り、征西大将軍耿秉を以て度遼将軍を行った。
時皋林溫禺犢王復將眾還居涿邪山南單于聞知遣輕騎與緣邊郡及烏桓兵出塞擊之斬首數百級降者三四千人
時皋林溫禺犢王は復(また)、衆を将(ひきいる)して還り涿邪山に居した。南単于は聞き知り、軽騎と縁辺郡及び烏桓兵を遣わし、塞を出てこれを撃たせた。斬首すること数百級、降者は三、四千人。
其年南部苦蝗大飢肅宗稟給其貧人三萬餘口
その年(76)、南部は蝗(バッタ)に苦しめられ、大飢饉で、肅宗(後漢章帝 在位 75~88)はその貧人三万余口に稟給(役所が与える穀物)した。
七年耿秉遷執金吾以張掖太守鴻行度遼將軍
七年(82)、耿秉が執金吾(武器を獲って宮門を警護し非常事態に備えた役人)に遷り、張掖太守鴻を以て度遼将軍を行った。
八年北匈奴三木樓訾大人稽留斯等率三萬八千人馬二萬匹牛羊十餘萬款五原塞降
八年(83)、北匈奴三木樓訾大人稽留斯らが三万八千人、馬二万匹、牛羊十余万を率いて、五原塞に款(いたる)し降伏した。
建初元年(76)、来苗は済陰太守に遷り、征西大将軍耿秉を以て度遼将軍を行った。
時皋林溫禺犢王復將眾還居涿邪山南單于聞知遣輕騎與緣邊郡及烏桓兵出塞擊之斬首數百級降者三四千人
時皋林溫禺犢王は復(また)、衆を将(ひきいる)して還り涿邪山に居した。南単于は聞き知り、軽騎と縁辺郡及び烏桓兵を遣わし、塞を出てこれを撃たせた。斬首すること数百級、降者は三、四千人。
其年南部苦蝗大飢肅宗稟給其貧人三萬餘口
その年(76)、南部は蝗(バッタ)に苦しめられ、大飢饉で、肅宗(後漢章帝 在位 75~88)はその貧人三万余口に稟給(役所が与える穀物)した。
七年耿秉遷執金吾以張掖太守鴻行度遼將軍
七年(82)、耿秉が執金吾(武器を獲って宮門を警護し非常事態に備えた役人)に遷り、張掖太守鴻を以て度遼将軍を行った。
八年北匈奴三木樓訾大人稽留斯等率三萬八千人馬二萬匹牛羊十餘萬款五原塞降
八年(83)、北匈奴三木樓訾大人稽留斯らが三万八千人、馬二万匹、牛羊十余万を率いて、五原塞に款(いたる)し降伏した。