十六年乃大發緣邊兵遣諸將四道出塞北征匈奴
十六年(73)、乃(そこで)、大いに縁辺兵を発して、諸将を遣わして四道に塞を出て、北へ匈奴を征させた。
南單于遣左賢王信隨太僕祭肜及吳棠出朔方高闕攻皋林溫禺犢王於涿邪山
南単于は左賢王信を遣わし太僕祭肜及び吳棠に随させ、朔方高闕に出でて、皋林溫禺犢王を涿邪山に於いて攻めさせた。
虜聞漢兵來悉度漠去肜棠坐不至涿邪山免以騎都尉來苗行度遼將軍
虜(敵)は漢兵が来たことを聞き、悉く漠を渡って去った。祭肜、呉棠は涿邪山に至らずを坐(罪にとわれる)して免ぜられ、騎都尉来苗を以て度遼将軍を行った。
其年北匈奴入雲中遂至漁陽太守廉范擊卻之詔遣使者高弘發三郡兵追之無所得
その年(73)、北匈奴は雲中に入り、遂に漁陽に至り、太守廉范がこれを撃却した。詔(みことのり)して使者の高弘を遣わして、三郡の兵を発してこれを追ったが、得る所は無かった。
十六年(73)、乃(そこで)、大いに縁辺兵を発して、諸将を遣わして四道に塞を出て、北へ匈奴を征させた。
南單于遣左賢王信隨太僕祭肜及吳棠出朔方高闕攻皋林溫禺犢王於涿邪山
南単于は左賢王信を遣わし太僕祭肜及び吳棠に随させ、朔方高闕に出でて、皋林溫禺犢王を涿邪山に於いて攻めさせた。
虜聞漢兵來悉度漠去肜棠坐不至涿邪山免以騎都尉來苗行度遼將軍
虜(敵)は漢兵が来たことを聞き、悉く漠を渡って去った。祭肜、呉棠は涿邪山に至らずを坐(罪にとわれる)して免ぜられ、騎都尉来苗を以て度遼将軍を行った。
其年北匈奴入雲中遂至漁陽太守廉范擊卻之詔遣使者高弘發三郡兵追之無所得
その年(73)、北匈奴は雲中に入り、遂に漁陽に至り、太守廉范がこれを撃却した。詔(みことのり)して使者の高弘を遣わして、三郡の兵を発してこれを追ったが、得る所は無かった。