Quantcast
Channel: 倭人伝を解く
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

馮柱將虎牙營

$
0
0
馮柱將虎牙營留屯五原罷遣鮮卑烏桓羌胡兵封蘇拔廆為率眾王又賜金帛

馮柱は虎牙営を将(ひきいる)して五原に留屯した。罷(終わる)して鮮卑兵、烏桓兵、羌胡兵を遣(釈放する)わし、蘇拔廆に封じて率衆王と為し、又、金帛を賜った。

鴻還京師坐逗留失利下獄死後帝知朱徽杜崇失胡和又禁其上書以致反畔皆徵下獄死以鴈門太守龐奮行度遼將軍

鴻は京師に還り、逗留して利を失なったことに坐(罪をとわれる)し、獄に下されて死んだ。後、帝は朱徽、杜崇が胡と和すことに失敗し、又、その上書を禁じて、反畔(そむく)を致すを以てしたことを知り、皆、徴(よびよせる)され獄に下されて死んだ。鴈門太守龐奮を以て度遼将軍を行わせた。

逢侯於塞外分為二部自領右部屯涿邪山下左部屯朔方西北相去數百里

逢侯は塞の外に於いて、分かれて二部を為した。自ら右部を領して涿邪山の下に屯した。左部は朔方の西北に屯した。相(あい)去ること数百里(一里150m換算で約75劼ら90辧法

八年冬左部胡自相疑畔還入朔方塞龐奮迎受慰納之

八年(96)冬、左部胡は自ら相(あい)疑畔し、還って朔方の塞に入った。龐奮は迎受して之を慰納した。

其勝兵四千人弱小萬餘口悉降以分處北邊諸郡南單于以其右溫禺犢王烏居戰始與安國同謀欲考問之

その勝兵は四千人、弱小は万余口で悉く降った。北辺諸郡に分処するを以てした。南単于は、其の右溫禺犢王烏居戦が始め、安国と同謀したのを以て、これを拷問することを欲した。

烏居戰將數千人遂復反畔出塞外山谷為吏民害

烏居戦は数千人を将(ひきいる)して遂に復(また)反畔(むほん)し、塞外の山谷の間に出でて、吏民に害を為した。

秋龐奮馮柱與諸郡兵擊烏居戰其眾降於是徙烏居戰眾及諸還降者二萬餘人於安定北地

秋、龐奮、馮柱は諸郡兵とともに烏居戦いを撃ち、その衆は降った。是(ここ)に於いて、烏居戦の衆、及び諸還降者二万余人を安定、北地に徙(移す)した。

馮柱還遷將作大匠逢侯部眾飢窮又為鮮卑所擊無所歸竄逃入塞者駱驛不絕

馮柱が還って、将作大匠に遷った。逢侯の部衆は飢窮し、又、鮮卑の撃つ所と為って、帰る所無く、竄逃して入塞する者は駱駅(往来がつづいて絶えまないさま)して絶えず。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2176

Trending Articles