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安國立一年

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安國立一年單于適之子師子立

安国が立って一年で、単于適の子の師子が立った。

亭獨尸逐侯鞮單于師子永元六年立

亭独尸逐侯鞮単于師子が永元六年(94)に立った。

降胡五六百人夜襲師子安集掾王恬將衛護士與戰破之

降胡五、六百人が夜に師子を襲った。安集掾王恬が衛護士を将(ひきいる)してともに戦いこれを破った。

於是新降胡遂相驚動十五部二十餘萬人皆反畔脅立前單于屯屠何子薁逊日逐王逢侯為單于遂殺略吏人燔燒郵亭廬帳將車重向朔方欲度漠北

是(ここ)に於いて、新降胡は遂に相(互いに)、驚動し、十五部の二十余万人が皆、反畔(むほん)して、前単于屯屠何の子の薁逊日逐王逢侯を共立(脅(キョウ)=共(キョウ)?)して単于と為し、遂に吏人を殺略して、郵亭廬帳を燔焼し、車重を将(ひきいる)して朔方に向かい、漠北を渡ることを欲した。

於是遣行車騎將軍鴻越騎校尉馮柱行度遼將軍朱徽將左右羽林北軍五校士及郡國積射緣邊兵烏桓校尉任尚將烏桓鮮卑合四萬人討之

是(ここ)に於いて車騎将軍鴻、越騎校尉馮柱を遣わし行かせ、度遼将軍朱徽を行かせて、左右羽林、
北軍五校士及び郡国積射、縁辺兵を将(ひきいる)させ、烏桓校尉任尚に烏桓、鮮卑を将(ひきいる)させ、合わせて四万人がこれを討った。

時南單于及中郎將杜崇屯牧師城逢侯將萬餘騎攻圍之未下

時に南単于及び中郎将杜崇は牧師城に屯しており、逢侯(北匈奴単于)は万余騎を将(ひきいる)して攻めこれを包囲したが未だ下らず。

冬鴻等至美稷逢侯乃乘冰度隘向滿夷谷

冬、鴻らが美稷に至ると、逢侯は乃ち、冰(こおり)に乗って隘を渡り、満夷谷に向かった。

南單于遣子將萬騎及杜崇所領四千騎與鴻等追擊逢侯於大城塞斬首三千餘級得生口及降者萬餘人

南単于は子を遣わして万騎を将(ひきいる)させ、及び、杜崇が領した所の四千騎、鴻らと、逢侯(北単于)を大城塞に於いて追撃させ、斬首すること三千余級、生口及び降者を得ること万余人。

馮柱復分兵追擊其別部斬首四千餘級任尚率鮮卑大都護蘇拔廆烏桓大人勿柯八千騎要擊逢侯於滿夷谷復大破之

馮柱は復(また)、兵を分けてその別部を追撃した。斬首すること四千余級。任尚は鮮卑大都護蘇拔廆、烏桓大人勿柯八千騎を率いて、逢侯を満夷谷に於いて要撃した。

前後凡斬萬七千餘級逢侯遂率眾出塞漢兵不能追

前後して凡そ斬ること万七千余級。逢侯は遂に衆を率いて塞を出た。漢兵は追うことができなかった。

七年正月軍還

七年(95)正月、軍は還った。

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