六年春皇甫棱免以執金吾朱徽行度遼將軍
六年(94)春、皇甫棱が免ぜられ、執金吾朱徽を以て度遼将軍を行った。
時單于與中郎將杜崇不相平迺上書告崇崇諷西河太守令斷單于章無由自聞
時に単于は中郎将杜崇と不相平(仲たがい)で、迺(そこで)、上書して杜崇を告(うったえる)した。杜崇は西河太守に諷(いさめる)して単于の文章を断(断ち切る)たせ、自ら聞くことに由(関係する)しないようにした。
而崇因與朱徽上言南單于安國疏遠故胡親近新降欲殺左賢王師子及左臺且渠劉利等
而して、杜崇は因りて、朱徽と上言した、「南単于安国は故胡と疏遠で、新降に親近で、左賢王師子及び左臺且渠劉利らを殺そうと欲している。
又右部降者謀共迫脅安國起兵背畔請西河上郡安定為之儆備
又、右部降者は謀共して安国を迫脅(せきたてる)し、兵を起こして背畔(むほん)しようとしている。西河、上郡、安定に之の為に警備することを請う」と。
和帝下公卿議皆以為蠻夷反覆雖難測知然大兵聚會必未敢動搖
和帝(在位88~106)は公卿に下して議した。皆、為すを以て「蛮夷(南蛮、東夷?)の反覆は測知し難いと雖も、然るに大兵して聚会しても、必ず未だ敢えて動揺しないだろう。
今宜遣有方略使者之單于庭與杜崇朱徽及西河太守并力觀其動靜
今、宜しく方略の有る使者を単于の庭(陣幕)に遣わし、杜崇、朱徽及び西河太守と力を併せて、その動静を観るべきである。
如無它變可令崇等就安國會其左右大臣責其部眾暴為邊害者共平罪誅
如(もし)它(ほか)の変が無ければ、杜崇らに令して安国を就かせ、その左右大臣を会させ、その部衆の横暴で辺害を為す者を責し、共に罰誅を平らげるべし。
若不從命令為權時方略事畢之後裁行客賜亦足以威示百蠻帝從之
若し、命令に従わなければ、令して、権時(暫時)方略を為させ、事が畢(終わる)の後、行いを裁いて賂賜(贈り物を送る 客=賂?)すれば、亦、威を以て百蛮(多くの南蛮)に示すを以てするに足る」と。帝はこれに従った。
於是徽崇遂發兵造其庭安國夜聞漢軍至大驚棄帳而去因舉兵及將新降者欲誅師子
是(ここ)に於いて、朱徽、杜崇は遂に兵を発してその庭に造(いたる)した。安国は夜に漢軍が至ることを聞き、大いに驚き、帳(陣幕)を棄てて去り、因りて兵を挙げ、及び、新降者を将(ひきいる)して、師子を誅することを欲した。
師子先知乃悉將廬落入曼柏城安國追到城下門閉不得入
師子は先んじて知り、乃(そこで)、悉く廬落(穹廬(匈奴の家)の部落)を将(ひきいる)して、曼柏城に入った。安国は城下に追到したが、門は閉まって入ることを得られず。
朱徽遣吏曉譬和之安國不聽城既不下乃引兵屯五原
朱徽は吏を遣わして曉譬(さとす)してこれを和させた。安国は聴き入れず。城は既に下らず、乃ち兵を引いて五原に屯した。
崇徽因發諸郡騎追赴之急眾皆大恐安國舅骨都侯喜為等慮并被誅乃格殺安國
杜崇、朱徽は因りて諸郡の騎兵を発して急に追赴させた。衆は皆、大いに恐れ、安国の舅の都侯喜為らは併せて誅を被ることを慮(おもんばか)り、乃ち、安国を格殺した。
六年(94)春、皇甫棱が免ぜられ、執金吾朱徽を以て度遼将軍を行った。
時單于與中郎將杜崇不相平迺上書告崇崇諷西河太守令斷單于章無由自聞
時に単于は中郎将杜崇と不相平(仲たがい)で、迺(そこで)、上書して杜崇を告(うったえる)した。杜崇は西河太守に諷(いさめる)して単于の文章を断(断ち切る)たせ、自ら聞くことに由(関係する)しないようにした。
而崇因與朱徽上言南單于安國疏遠故胡親近新降欲殺左賢王師子及左臺且渠劉利等
而して、杜崇は因りて、朱徽と上言した、「南単于安国は故胡と疏遠で、新降に親近で、左賢王師子及び左臺且渠劉利らを殺そうと欲している。
又右部降者謀共迫脅安國起兵背畔請西河上郡安定為之儆備
又、右部降者は謀共して安国を迫脅(せきたてる)し、兵を起こして背畔(むほん)しようとしている。西河、上郡、安定に之の為に警備することを請う」と。
和帝下公卿議皆以為蠻夷反覆雖難測知然大兵聚會必未敢動搖
和帝(在位88~106)は公卿に下して議した。皆、為すを以て「蛮夷(南蛮、東夷?)の反覆は測知し難いと雖も、然るに大兵して聚会しても、必ず未だ敢えて動揺しないだろう。
今宜遣有方略使者之單于庭與杜崇朱徽及西河太守并力觀其動靜
今、宜しく方略の有る使者を単于の庭(陣幕)に遣わし、杜崇、朱徽及び西河太守と力を併せて、その動静を観るべきである。
如無它變可令崇等就安國會其左右大臣責其部眾暴為邊害者共平罪誅
如(もし)它(ほか)の変が無ければ、杜崇らに令して安国を就かせ、その左右大臣を会させ、その部衆の横暴で辺害を為す者を責し、共に罰誅を平らげるべし。
若不從命令為權時方略事畢之後裁行客賜亦足以威示百蠻帝從之
若し、命令に従わなければ、令して、権時(暫時)方略を為させ、事が畢(終わる)の後、行いを裁いて賂賜(贈り物を送る 客=賂?)すれば、亦、威を以て百蛮(多くの南蛮)に示すを以てするに足る」と。帝はこれに従った。
於是徽崇遂發兵造其庭安國夜聞漢軍至大驚棄帳而去因舉兵及將新降者欲誅師子
是(ここ)に於いて、朱徽、杜崇は遂に兵を発してその庭に造(いたる)した。安国は夜に漢軍が至ることを聞き、大いに驚き、帳(陣幕)を棄てて去り、因りて兵を挙げ、及び、新降者を将(ひきいる)して、師子を誅することを欲した。
師子先知乃悉將廬落入曼柏城安國追到城下門閉不得入
師子は先んじて知り、乃(そこで)、悉く廬落(穹廬(匈奴の家)の部落)を将(ひきいる)して、曼柏城に入った。安国は城下に追到したが、門は閉まって入ることを得られず。
朱徽遣吏曉譬和之安國不聽城既不下乃引兵屯五原
朱徽は吏を遣わして曉譬(さとす)してこれを和させた。安国は聴き入れず。城は既に下らず、乃ち兵を引いて五原に屯した。
崇徽因發諸郡騎追赴之急眾皆大恐安國舅骨都侯喜為等慮并被誅乃格殺安國
杜崇、朱徽は因りて諸郡の騎兵を発して急に追赴させた。衆は皆、大いに恐れ、安国の舅の都侯喜為らは併せて誅を被ることを慮(おもんばか)り、乃ち、安国を格殺した。